沖縄の美

東京駒場の日本民藝館で「復帰50年記念 沖縄の美」展が8月21日(日)まで開催されています。

琉球王国として独自の文化を形成してきた沖縄。このブログにも何度か沖縄の工藝については書いてまいりました。今回の展覧会では館蔵する紅型や織物、陶器など、特に沖縄離島の織物など、八重山上布や宮古島の紺絣、久米島の鮮やかな黄色地の絹織物など、勿論私の好きな花織など島々の織物を一堂に見られます。

柳宗悦が初めて沖縄を訪問したのは1938年。以来、4回にわたり工芸調査や蒐集を重ね「沖縄の美」を紹介してきました。そして「美の宝庫」であることを世に紹介してきました。

私自身、この民芸館には何十回訪れたことでしょうか。何度見ても感動する「てぃさあじ」。漢字で書くと「手」。女性が兄弟や想い人のために、旅の安全や健康を祈りながら心を込めて作り贈った布です。いろいろありますが、日本民藝館に所蔵されているてぃさあじは芭蕉布が多く、命をかけて漁に出る男達に贈った手拭いのような布。華やかさのなかに温もりがあり、女心がよく現れています。大好きな織物です。

民芸館の正面の階段を上り、シックな長椅子に腰掛、私はしばし、「なぜ、こんなにも日本の手仕事が好きなのかしら?」と思いました。

昭和18年11月。私は東京・亀戸で段ボール工場を営む父と母のもとに生まれました。父は九州八代の出身、母は三重県伊勢の出身です。父は出征し、空襲の続く下町で母ひとりで奮闘することが、どんなに大変だったか、想像にかたくありません。乳呑み児の私を背中に背負い、小さかった兄の手をひきながら、工場を見回り、女工さんたちと働くという日々でした。

いよいよ戦火がはげしくなり、下町の人々がどんどん疎開を始め、私たち母娘もとにかく疎開することに決めたのです。女工さんたちにも早く帰るよう言い残し、母は二人の幼子の手をひいて親戚のいる神奈川へ疎開しました。あの東京大空襲の前夜のことでした。工場の留守を守った女工さんたちは、工場もろともその夜、亡くなりました。たった一日の違いが、女工さんと私たち家族の運命をこうもひきさいたのでした。

東京の空が赤く燃えるのを、母は身をもがれるような思いでみつめたと後に語っていました。私たち家族は女工さんにいのちを分けていただいたのでした。戦後、父は復員してきましたが、戦後の混乱のさなか、なかなか立ち直れず、母が仕立て仕事をしながら私たちを育ててくれました。

手先の器用な母は、仕立て仕事の腕もよく、大変忙しくしていましたから家事の多くを5~6歳の私にやらせました。お米のとぎ方、かまどの火のこと、おかずの心配…貧乏のつらさにうちのめされそうになると、母は私に聞かせたものです。「あの女工さんたちの尊いいのちとひきかえに得たいのち、それがあなたのいのちなのよ。大切にしなければ……」貧乏のつらさにうちのめされそうになると母は、私にこの言葉を聞かせ、そうして自分にムチ打って生きてきたのでしょう。

甘えたい思いも強くありました。でも、口には出すべきではないという私なりの意地がありました。子どもらしくない子どもだったのです。私はしっかりした、よく手伝えるお姉さん。しっかりお手伝いしなければいけない…。あれはたしか6歳だったと思います。

七・五・三を前にして母は、赤いキモノを私に着せたくて、それこそ夜なべして赤いキモノを仕立ててくれました。ところが私は、そのキモノが好きになれませんでした。なぜなら、女の子は赤、ときめつけ、私の意志でなく母の意志のもと勝手につくられてしまったそのキモノは、私を無視しているというふうに受け止めてしまったのです。

私は母に着せられた赤いキモノ姿で外へ飛び出し、ペンキ塗りたてと書いた青い塀の前へ、ペタンと全身ではりついたのです。今思い出しても、なんて可愛くない子だと呆れてしまいます。なんとも勝気な六歳の私が、遠景の平野にぽつんと立って頑張っている図が浮かびます。  

民芸館の椅子に座りながら幼かった頃の私に出会います。 沖縄の女性には特別な霊力があるといわれます。「オナリ神」信仰があり、女性は家族や恋人への無事を祈り思いを込めて織った「てぃさあじ」はまさに沖縄の美であり、温もりであり、手仕事ならではの美しさです。心豊かな午後のひとときでした。

日本民藝館
https://mingeikan.or.jp/exhibition/special/?lang=ja

映画「エルヴィス」

遥か昔の思い出を、つい最近の出来事と思い込んでいた。暫くぶりに、そんな体験をしました。『エルヴィス』。引き寄せられるように、日比谷の映画館に足を運びました。  

エルヴィス・プレスリーに歓声をあげて興奮したわけではありませんが、彼こそがアメリカなのだ!あの国の若者の象徴なのだ!と納得していた時代が、私にもありました。1960年代でした。それから半世紀以上、私の”エルヴィス像”はその頃のまま、ほとんど変わりませんでした。  

エルヴィスはアメリカ南部のミシシッピ州で生まれました。日本の年号で言えば、昭和10年でした。今以上に人種差別の激しい時代、そして地域でありました。しかし、エルヴィスには、それを包み込もうとする音楽的感性や、精神的な柔軟さが備わっていたようです。

10歳の頃から地元の”のど自慢大会”に出演したり20才を前にレコードデビューも果たしました。下半身を振り絶叫する。黒人文化を思わせるようなエルヴィスの仕草と存在そのものが、当時のアメリカ南部の保守層には許せないことだったのです。「逮捕する!」と警察に脅されたエルヴィスが、こうした社会の空気や圧力にどのように抵抗していったのか。この作品には、その様子がドラマチックに再現されています。  

エルヴィスを演じたのはオースティン・バトラー、31才。彼は出演が決まってから2年間、家族や友人との接触を断ち、役作りに専念したそうです。その大変な決意がスクリーンでは、見事に花を咲かせました。

そして共演は、アカデミー主演男優賞を2年連続で受賞したトム・ハンクス。エルヴィスのマネージャーの役を演じました。しかし、この役は共演というよりも、もう一人の主役という意味合いが強かったです。エルヴィスという素材を大切にしながら、いかにビジネスとして成功させるのか。エルヴィスとの衝突を覚悟して、プロの役割を貫きました。  

この映画の監督は、『華麗なるギャッツビー』のバズ・ラーマンでした。綿密に計算されたドラマ仕立てとドキュメンタリーの匂いが同居していて、不思議な魅力に溢れた世界が広がっていました。  

この作品の最後は、エルヴィスが歌い上げる『アンチェインド・メロディー』のコンサート・シーンが流れます。アンチェインドとは、鎖につながれていない!自由に羽ばたく!という意味が込められているようです。人生の最後まで求め続けたエルヴィスの理想を、ラーマン監督は何としてでも強く訴えかけたかったのでしょう。

多少むくみの目立つエルヴィスの表情が、心震えるほど迫ってきました。  

客席は中高年の方々で、ほぼ満員でした。しかし、20代の若者たちの姿も目につきました。自分たちが生まれる前の大スターの生き方や時代精神を、今の彼らはどう受け止めたのでしょうか。   エルヴィスが僅か42才で亡くなってから、もう45年が経ちました。8月16日の命日が間もなくやってきます。

映画公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/elvis-movie/

ガブリエル・シャネル展 MANIFESTE DE MODE

ガブリエル・シャネル(1883-1970)の回顧展が丸の内の三菱一号館美術館で開催中です。この展覧会では、創業者(通称ココ・シャネル)のファッションだけではなく、その哲学を知ることができます。

あまりにも有名なシャネル。天涯孤独の創業者ココ・シャネルの世界は貴族に愛された高級ブランドとはひと味違います。彼女の波乱万丈な人生はこれまで映画、書籍などで多く語られてきました。

1883年フランスのソミュール地方で生まれ、母親が死去し、父親は行商として出稼ぎに行っていたため姉妹とともに修道院で育ちました。孤児院にいた6年間裁縫を習い18歳で施設を出て、お針子として働きはじめます。孤児という恵まれない環境から一代で”シャネル”を世界的なブランドに育て上げました。

今回の展覧会は2020年にパリで開催された回顧展を再構成したもの。日本でシャネル展の本格的な展覧会の開催は32年ぶりだそうです。  

なぜこれほどに人を魅了するのでしょうか?
ただ”ブランド”だから…ではありません。
彼女の生き方、ポリシーに人々は惹きつけられるのだと思います。

『女性の自立と自由』を体現したのです。会場でその服やアクセサリー、香水瓶など138点と記録映像で「20世紀で最も影響力の大きい女性デザイナー」といわれることに納得します。

コルセットは日常着としてしめつけ不自由な時代に、女性らしいのにシックで実用的で動きやすく、ウエストもしめつけない女性の自立を揚げた「シャネル・ルック」。

米大統領ジョン・F・ケネディーの妻、ジャックリーンが着用したピンク色のスーツに帽子姿が記憶に残ります。 むしろフランスより最初はアメリカで人気が高まったのではないでしょうか。  

「私のつけているのは”シャネルNo5よ”」と微笑んだのはマリリン・モンロー。あまりにも有名な話です。シャネルのNo5は1921年に誕生し世界的ベストセラーになります。

「黒のドレス」もかつては「喪服の色」という常識をひっくり返し、ゆとりのある軽やかなドレスに、でも女性らしい曲線美が美しいイブニングドレス。

「マトラッセ」(キルティングされた)のショルダーバックはチェーンがあしらわれ、高い金や宝石ではなくカジュアルなアクセサリーなど新しい価値観が生まれました。  

しかし、第2次世界大戦後、第一線から退いていたココ・シャネルが71歳でファッション界に復帰し、このときに生まれたのがシャネルスーツであったのです。

私は個人的には”シャネルスーツ”が一番似合う女性は「ジャンヌ・モロー」だと思います。それは2013年に封切られた映画「クロワッサンで朝食を」を観たときです。

「なんて素敵にシャネルを着こなしているの!」

当時彼女は83歳くらいだったと思います。ジャンヌ・モローはエストニアからパリへと移住してきて、パリジェンヌそしてマダムへ。誇り高く生き、背筋を伸ばした生き方はココ・シャネルと共通しているように思います。

「クロワッサンで朝食を」はプライドが高く気むずかしい老女を主演。孤独な女性を演じ素晴らしい映画でした。映画の中で着る”シャネル”の洋服は普段着もスーツも全て自前だったそうです。「主人公が長年着慣れた洋服は自前でないと雰囲気がでないのよ」と。

家の中での赤いブラウスや家政婦と一緒に腕をかりてパリの街を歩く黒のスーツに白のブラウス、アクセサリーなど、長年大切に着こなしてきたことがよく分かり、映画そのものを引き立たせていました。

私の憧れの女優さんです。「私もいつの日か、”シャネルのスーツ”を着てみたい」と思いましたが、でも3、40代では無理、似合わない…と思い、いつの日か、と想い続けてきました。ようやくスーツを着たのは50代始めの頃に一着だけもとめました。”大人になった気分”大切な思い出です。  

モードをリードしてきたガブリエル・シャネルは晩年は「仕事をしないと退屈なの」と住まいのホテル・リッツで数々のデザインの仕事をし、心ゆるせる友人達と散歩をしたり食事をしたりと穏やかに過ごしたそうです。

71年1月10日、リッツの自室で息を引き取りました。87歳で、新しいコレクションの制作中だったとのこと。  

最期にココ・シャネルが残した名言を。  

「私の人生は楽しくなかった。だから私は人生を創造したの」  
「シンプルさは、すべてのエレガンスの鍵」  
「人生がわかるのは逆境のときよ」  
「かけがいのない人間になるには、常に他人と違っていなくちゃ」  

三菱一号館美術館 「ガブリエル・シャネル展」は9月25日まで。  
https://mimt.jp/gc2022/

映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」

世界で最も有名といわれている女性をご存知ですか。エリザベス・アレキサンドラ・メアリー・ウィンザー。そうです、イギリスのエリザベス女王です。

女王は今年4月に96歳の誕生日を迎えました。25歳で女王に即位してから70年が経ちました。その女王の日々の姿を追い続けたドキュメンタリー映画に先日、出会いました。

『エリザベス 女王陛下の微笑み』

これまでに撮影された膨大な量の記録映像をまとめたものです。しかし、これは単なる”公式記録集”ではありませんでした。厳かで、お洒落で、そしてユーモアたっぷりの物語りでした。  

各国首脳との会談に臨んだり、英国議会に姿を見せるのは通常の業務で、アメリカの歴代大統領は当然のように、就任の挨拶にやってきます。そして、海外の要人の訃報などに接すると、いち早く哀悼の意を表し、その国の人々と悲しみを共にします。それらは勿論、側近とのきめ細かな意思疎通の結果でしょうが、女王の日々の心配りが想像できます。

実に多忙な日常なのですね。  

そんな中で、女王が大好きな競馬観戦のシーンが出てきます。当たり馬券を握りしめて、「16ポンドよ!」と飛び跳ねる女王。現在のレートに換算すれば、2000円ほどでしょうか?あまりに人間的で魅力的な女王の姿です。  

こうした映像に花を添えているのが、ビートルズやナット・キング・コールの歌声です。数々の名曲がスクリーンに流れていきます。また、女王について語る市民の声も耳から離れません。5、6才の女の子は、「女王はどんな人?」と聞かれて「私たちが困ったら、助けてくれるの」と無邪気に答えていました。

尊敬、崇拝に加え、更なる世界が広がっているのを感じました。

心温まるこの映画の監督は、イギリスのロジャー・ミッシェル。20年以上前に世界的なヒットとなった「ノッテイングヒルの恋人」を作りました。

ミッシェル監督は今回のエリザベス女王の作品に全身全霊を捧げたのです。最後の音響作業を終えた去年9月、彼は急逝しました。文字通りの遺作となりました。  

4年後の4月21日、エリザベス女王は100才の誕生日を迎えます。今年6月、在位70年の記念式典で女王が身につけた目を見張るようなドレスとアクセサリー、そして帽子。その姿をまた拝見したいのです。

そこには今年6月の式典で同席した曾孫のルイ王子もいるでしょう。ジェット機の騒音に驚き、「うるさいよ!」と耳をふさいだ4才の王子。

彼も100才の女王を囲む王室の一員として、立派な8才の少年になっているはずです。   女王の末永いご健康を、お祈り申し上げます。

映画公式サイト
https://elizabethmovie70.com/#modal

若狭 初夏の蛍

夜明けどき、深い穏やかな眠りのなかにいた私は、家の遠く近くでする鳥のさえずりに目を覚まします。あのいそがしげな鳴き声は、ホトトギスかしら?そう、ホトトギスは「時鳥」と書いて夏の到来を告げる鳥。

福井県若狭の地。私が30年ほど前に古い茅葺の農家を移築して、”田んぼを持ちたい、お米を作りたい!”との思いで、自分へのプレゼントとして設けた「故郷の家」です。「農・食」をテーマに学んでいた時代。けっして生易しいことではないと承知で、専業農家の方、村の方々に教えていただき「10年・10回」は経験したかったのです。  

私はパジャマのままで縁側に座って、いつまでも、時を忘れてその美しさに見入ります。  

植田水 なみなみと日の 上りたり   石原舟月
文机に 座れば植田 深く見ゆ     山口青邨

若い日々、農家の人々の暮らしのなかの道具やモノに寄せていた私の関心は、それが深まるごとに、農業そのものへと少しずつひろがっていきました。 スーパーマーケットに行けば、一年中季節にとらわれることなく食べものがあふれかえっているこの時代。でも、どうでしょうか?このような世界事情で食べものが海外から入ってこなくなる!なんて予測したでしょか?

自給率の低い日本。田んぼで言えば休耕田がますます増えてきました。飢餓状況にある国々の人たち。私はずいぶん前から、日本の農政のあり方に疑問を持っていました。フランスもドイツも、他の国々はそれぞれ「農業国」でもあるのです。

その季節にとれたものを、その日の食卓にのせる。その食卓にのった食材によって季節の移ろいを感じ、また、旬の食材を尊いと思う。時を選ばず何でも手に入る環境にいる子どもたちこそハンデが大きい、と思います。  

ある夏の日。午後から降り出した雨のせいもあり、一日じゅうゆっくりと読書三昧の日をすごしました。雨上がりの夜八時過ぎ、「そろそろ蛍が舞うよ」と近所の方が教えてくださいました。

家を出ると水田のあぜ道に行ってみました。その時、私はその水田のなかに、ほんとうにこの世のものとは思えないような光景をみたのでした。月を背負ってそこに立っている私自身のシルエットが、水田の水面にくっきりと映っています。

ノースリーブにギャザースカートの黒い影が、水の中でゆらゆらと揺れていました。そしてしばらくすると、そのスカートの形のなかに何十匹もの蛍が、美しい光を放ちながら舞っているではありませんか。蛍たちがスカートのシルエットなかで踊っているさまをいつまでも眺めていました。

先日の新聞(7月2日、日本経済新聞「くらし探検隊」)に興味深い記事が掲載されていました。「日本固有種であるゲンジボタルの発光の周期は東日本と西日本で違う」そうです。

光って飛び回るのはオスで、葉に止まったメスに求愛しているのですが、この求愛の発光回数が日本列島を東西に分けると東は4秒に1回の「長周期形」、西は2秒に1回の「短周期形」に分かれるそうです。

九州の西端の五島列島は、1秒間に1回光る「超短期型」だそうです。「どうやら西に行くほど求愛はせっかちになるようだ。」と書かれており、わぁ~知らなかった!ということばかりでした。

でも、私は紫式部の「源氏物語」に由来する…お話しのほうが夢があっていいな~と思いました。(これにも諸説あるそうです)   今年は猛暑に雨、生産者の方々は全国でご苦労されております。頑張ってください!

若狭はお陰さまで早生には少しづつ穂が見え始めたそうです。早くコロナが落ち着いてまた縁側から見える山々の稜線を見に行きたいです。

映画『歩いて見た世界~ブルース・チャトウィンの足跡』

ノマド(放浪の民)という言葉に、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。人類の長い歴史と未知の世界、そして、知らないことへの好奇心。

先日、心温まる映画を見ました。

アフリカ大陸の東側と言われる人類発祥の地。そこからアジアやアラスカなどを経て、南米のパタゴニアに辿り着いた古代人。また、オーストラリアで独自の文化を築いた先住民のアボリジニ。そんな移動の歴史や文化の形成に強い関心を持ち続けたイギリスの作家がいました。

そして、彼の行動に深く共鳴したドイツの映画監督がいたのです。2人の”共同作品”に出会いました。

英語の原題には、「Nomad」というタイトルが付いていました。 
『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

作家のチャトウィンは30年ほど前に病気で亡くなりました。この映画はチャトウィンという人物をじっくり掘り下げたドキュメンタリー映画で、関係者への膨大なインタビューを軸に構成されています。

この作品の最大の特徴は、チャトウィンが歩いた行程をヴェルナー・ヘルツォーク監督が自分の足で体験したことです。2人は40年近く前にオーストラリアで知り合いました。そして、ヘルツォーク監督の「世界は徒歩で旅する者にその姿を見せる」という言葉に感銘を受けたチャトウィンは、共に歩み続けることにしたのです。

この映画には2人の思想が色濃く投影されています。自分の足で歩き、旅を続け、人との触れ合いの中で温もりを感じる。スクリーンからは心地よいパワーが溢れでてくる、素晴らしいドキュメンタリー映画でした。

この作品は3年前、チャトウィンの没後30年を機に作られました。ヘルツォーク監督はチャトウィンに向けて、友情に満ちた送別の辞を、改めて捧げたのでしょう。この映画のエンディングにはチャトウィンが自らの作品を朗読する音声が流れます。

映像は緑溢れる木々の出迎えでした。チャトウィンはユーカリの木陰で命を終えたということです。この最後のシーンには、遥か先に木漏れ日が見えていました。決して終わりではない、新たなスタート。

これからもエンドレスのバトンタッチを繰り返していくのだという、凛としたメッセージを感じることができました。  

この映画は岩波ホールで拝見しました。今月29日に最終日を迎える岩波ホールでの最後の上映作品でした。そして、それにふさわしい映画でした。

人生の旅の光を見つめることのできる、とてもいい映画に出会えました。   コアラが食べることで知られるユーカリ、花言葉は「再生」とのことです。

『沖縄 慰霊の日』  

6月23日、沖縄戦が終わってから77年の「慰霊の日」です。

多くの命が奪われた沖縄戦から77年。
日本復帰50年。
その日23日は梅雨が明け、雲ひとつない青空。夏の強い日ざしが射している沖縄の飛行場に私は降り立ちました。

この日は、県民の方々の祈りの日。
私は静かに心の中で祈りを捧げました。

県内各地でも慰霊祭が行われ、最後の激戦地となった糸満市摩文仁では沖縄全戦没者追悼式が執り行われ、犠牲者の冥福を願い、平和の誓いを新たにしました。

正午の時報に合わせ、1分間の黙とう。追悼式では山内小学校2年の徳元穂菜さんが、「平和の詩」を朗読しました。タイトルは「こわいをしって、へいわがわかった」。真っ直ぐに見つめ、素直な言葉が心に響きます。

美術館で戦争の絵を見て怖く悲しい気持になり、隣にいた母親にくっつくと暖かく感じて安心した経験を詩につづっていました。

岸田文雄首相は「沖縄が歩んだ苦難の歴史の上にある」と言及しました。県遺族連合会の宮城篤正会長は、今も遺骨や不発弾が見つかっていることを挙げ「沖縄の戦後は終わっていない」と説きました。

私は日曜日に糸満市摩文仁の平和祈念公園へと向かいました。式典当日には行けなかった多くの方々が訪れ、手を合わせていました。「平和の礎(いしじ)」に刻み込まれている名前には「国籍を問わず」の考えのもと、1万4千人余りの米軍兵士たちの名前もありました。

今年新たに55名が追加され総数24万1686人の名前が刻まれています。指でなぞりながら祈る人々の姿を遠くから見ながら「真の平和」はいつ実現するのだろう……と思いました。

外国人の若い方々も訪れていました。

青空をごう音とともに横切る灰色の米軍機。ロシア、ウクライナ侵攻が続く中での慰霊の日。今、この時、尊い命が奪われ、人々は傷つき、同じことを繰り返しています。

親やきょうだいの生前の姿をしのび石版を指でなぞり、喉の渇きや空腹を癒してもらおうと食事や水、そして花や線香を手向ける方々の姿が目に焼きついた日でした。

そして、戦争の犠牲になった多くの御霊に手を合わせ祈りました。  

帰りに同じ敷地内にある「沖縄県平和祈念資料館」に寄り、「沖縄戦への道」沖縄戦に至るまでの歴史や戦争がなぜ起こったのか。また住民の視点から描く状況。戦後の27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄。

そして「未来を展望するゾーン」では「いま、せかいで何が」を子供たちに分かりやすく平和について語りあえる場がもうけられています。  

徳元穂菜さんの「へいわをつかみたい ずっとポケットにいれてもっておく」という詩には「世界中の人が仲良くなって協力してほしい」という願いが込められていたそうです。  

沖縄の夏は美しい花々が咲き誇っております。どうぞご覧ください。  

環境教育は自然を感じることから

あなたの学生時代、学校にはいくつ、ゴミ箱がありましたか?
もう昔のこと、覚えていないわ!ですよね。

では、お子さん、お孫さんの学校・幼稚園ではどうでしょうか。この頃、特に”フードロス”の問題がニュースで取り上げられるようになりましたね。つまり”ゴミ問題”です。

私はかつてグリーンツーリズムを学ぶために、農村女性の方々と15年近くドイツに毎年行きました。そこで聞いた話しです。

ドイツのフライブルグ市にあるメルディンガー小学校には、たった一つのゴミ箱があるだけだそうです。メルディンガー小学校は、ミミズによる環境教育で世界的にとても有名な小学校でもあります。

教室に置かれた木枠とガラス板でできた箱の中には、土と枯葉が入れられており、ミミズがそこに棲んでいます。子どもたちは、ときどき水をかけて土が乾かないようにしています。餌は食べ残しなどを与えます。

ミミズの名前が「カーロ」。カーロが姿を見せることはほとんどありませんが、カーロが生息しているので、食べ残しや枯葉が分解されます。そこで、カーロが生きて活動していることを、子どもたちは知るそうです。

カーロの箱にはアルミやプラスチックなどは土に変えることができないことを子どもたちは、ごく自然に理解します。自分の体験として、環境型社会の仕組みと、ゴミを減らす大切さを感じるわけです。

昼食はお弁当箱に、飲み物はペットボトルではなく水筒に入れて学校に来るようになりました。そして、出すゴミが少しづつ減り続け、一つのゴミ箱ですむようになったそうです。

また、小学校のミミズによる環境教育をきっかけに、子どもたちの親によって、やがて地域全体へとゴミを減らす運動に広がっていったそうです。  

開発や土地利用計画において、ドイツの環境規制は世界一厳しいといわれます。私も何どもお邪魔していますが、ドイツのその徹底ぶりにはいつも舌をまいていました。土地開発と自然保護とは相反することのように思われますが、ドイツでは自然を復元・創造し、都市生活と両立できる方向で土地開発も進められてきました。

現地でお話を伺うと、これが一朝一夕に成し遂げられたものではないことがわかります。   ドイツも、日本同様、戦後、環境破壊が進みました。けれど1980年代に入って、国をあげて自然環境保護に取り組むようになったのです。

今、ドイツに広がる緑豊かな森の多くは、破壊から再生への道をたどったのだそうです。こうした、自然環境保護を支えるのが、”環境教育”です。  

私が訪ねたある幼稚園では、園地の池にプラスチックをはじめとするさまざまなゴミを投げ込んで、それを見せるのだそうです。日にちがたつうちに、有機質のゴミは朽ち果ててやがて分解されていきます。けれどプラスチックはいつまでもその形のまま。やはりこちらも体験として、環境型社会に必要とされる基礎知識を学んでいくわけです。

こうした教育を受けた子どもたちが大人になれば、土に還るものを、あるいはリュースできるものを当たり前のこととして選び、環境型社会を築く一役を担うはずです。  

オピニオン・リーダーたちが「環境破壊反対!」と述べることも大切です。けれど、ひとりひとりが環境を守るための知識を持ち、行動していくほうが力になるのではないでしょうか。

ドイツに住む長年の友人が語ってくださいました。

「環境教育は短時間ではできないんですよ。促成栽培ではダメ、じっくり時間をかけて、段階的に連続して行うことが大切。そのなかで重要なのは、自然体験だといわれています。自然を身近に感じると、子供たちの環境感がポジティブなものに変わると、親も教師も、まわりの人たちもみんな認識します。」  

頭だけじゃなく、肌で、匂いで、音で、目で、舌で、と五感をフルに働かせた経験は、楔のように、人の心にがっちりと食い込んでいくように思うのです。  

日本経済新聞(5月31日)に『ごみ363万トン大移動』とありました。産業廃棄物が処理場を求めて日本列島を移動している。首都圏は6年で満杯になるそうです。

またこちらも日本経済新聞(6月4日)に『使った食器捨てずに返そ!』プラごみ削減へシェア事業。とありました。 コロナ禍でテイクアウトが生活に定着しました。ドイツではカップやトレーを含め使い捨て容器の使用が禁じられているそうです。海外では取り組みが進んでいる。とありました。

日本でもさまざまな取り組みが行われ始めました。昔、子供のころお鍋を持ってお豆腐屋さんに買いに行きました。卵は新聞紙に包んでもらいました。買い物籠をさげての買い物。昔に戻ることは出来ないけど、工夫はできますよね。

コロナが落ち着いたら、”マスク”をはずじ、思いっきり子どもたちに自然のなかで遊んでほしいな、と思うこのごろです。

特別展 琉球

待ち焦がれた展覧会に行ってまいりました。「特別展 琉球」。
上野の山には初夏を思わせる日差しが降り注いでいました。

沖縄は先月15日、復帰50年を迎えました。

私が沖縄に、そして沖縄の工藝に魅せられたのは中学時代。図書館で出会った柳宗悦の本がきっかけでした。「民藝紀行」「手仕事の日本」などに引き寄せられたのです。

柳は大正末期に始まった民芸運動の推進者で、”旅の人”でもありました。彼は「民藝の故郷は沖縄にある」と述べています。中国や朝鮮半島の影響を強く受けた沖縄文化に、柔軟で開かれた姿勢を高く評価したのです。

多様性に満ちた文化に触れながら、柳は「すべてのものを琉球の血と肉に変えた工藝」とも表現して、琉球工藝に注目しました。

そうした彼の著作に触れ、私の関心は一気に琉球の工藝へと向かいました。私の”沖縄通い”は復帰の前年からスタートし、既に半世紀を越えました。

今回の展覧会には琉球の芸術・文化、中でも首里城を舞台にした琉球王家代々の宝物などが数多く展示されています。漆器や染織など、それらの高い技術や美意識は、どのように生まれたのか?まるで、歴史絵巻を眺めるような雰囲気の会場でした。  

私が特に楽しみにしていたのは、「国宝・紅型綾袷衣装」でした。胸や肩に鳳凰が舞う、鮮やかな黄色地。腰から裾には、中国の官服に見られる文様の入った紅型です。これは、若い王族が儀式などで用いた衣装でした。

琉球王朝は15世紀から19世紀まで450年続きました。そして、先の大戦も含めて混乱と破壊。琉球の多くの”宝”は散逸し、消滅しました。その中で、明治以降、県外に運び出された文化財も多かったといわれています。

生き残った”宝”を、これからどう守り、伝えていくのか?会場に設けられた最後のコーナーには、”未来へ”というタイトルが付けられていました。

将来を見つめる国宝級の”御玉貫”は、王家で使われた祭祀の道具です。県が音頭を取り、王朝時代からの歴史を紐解きながら復元させた逸品です。新たな文化を育てていく役割がある。そこにも、未来を展望する復帰50年の展覧会にしたいと願う、多くの関係者の熱意が感じられました。

今回の展覧会では、私の出逢いたかった国宝など、撮影可の場所などがあり、ぜひ皆さまにもご覧いただきたいです。

感嘆のため息をつきながら会場を巡っていると、女性客の中で何人もの方が和服を召されていることに気がつきました。この季節にふさわしい一重の琉球紬や久米島絣などが目に入ったのです。 文化、融合、そして伝統。琉球の豊かな風は、上野の山にも確かに届いていました。

特別展公式サイト
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2131

岩波ホール

岩波ホールは来月7月29日(金)をもって54年の歴史に幕を閉じます。
親しかった友人。
いいえ、永年お世話になった心優しい先生とお別れするような気分です。

スタート以来、半世紀以上のお付き合いをさせていただいたことになります。岩波ホールは私を含め、多くの映画ファンにとって”世界とつながる架け橋”でした。

夢のような日々は、あっという間に過ぎ去りました。世間知らずで生意気盛りだった若い頃、仕事を続けて行く上でも生きていく上でも、私にとって岩波ホールは極めて大きな存在でした。

世界中の質の高い映画、欧米の作品だけではない、アジアに中東に、そして中南米に、大草原の広がるモンゴル。「大地と白い雲」のあの美しい白い雲…。一度は行きたかったブータンの山奥深い村。素晴らしい作品は限りなくあるし、作り出されているのだ、ということを具体例をもって教えられました。

それらを発掘し、紹介したのが岩波ホールでした。

1月22日の朝日新聞には「岩波ホールに行けば必ず心に残る映画に出会うことができた。思い出をありがとう」という読者の投稿がありました。そうですね、私も一緒です。

これまでも、このブログに2回書かせていただきました。そして、4年前の2月に、開館50周年ということで私の担当するラジオ番組に、ホール支配人の岩波律子さんをお招きし、お話しを伺ったことがありました。

その中で岩波さんは映画にたいする情熱を、静かな熱気で話されました。入り口に立ち、「見に来てくださった方々の声を、どれだけ聞くことができるか。そのためには、様々な機会を作り、生の声を知りたい。」

このような映画館を私は他に知りません。  

今回は映画ファンの方々を代表して『54年にわたって、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。』と永年の感謝の気持を伝えたいと思い、番組をご一緒している寺島尚正アナウンサーと神保町のホールへと足を運びました。

神保町の地下鉄の駅から直結でエレベーターに乗り10階まで。胸をワクワクさせながら、この半世紀何十回通ったことでしょうか。先日ラジオ番組でやはり生でお話し伺いたいと岩波ホールをお訪ねしたのです。  

岩波律子さんのお話しはラジオでじっくりお聴きください。さまざまな作品のお話しも伺い、私は胸が熱くなりました。だって、『私の青春』だったのですから。 ただ、岩波さんは『いったん閉じるけれど、また新しい動きが出てきてくれれば、と若い子に期待しています。』(2月27日の朝日新聞)と語っておられます。  

現在上映中の作品は、「歩いて見た世界 ブルース・チャトウインの足跡」です。英国の紀行作家だったチャトウインの生涯を描いたドキュメンタリー映画。

美術品の収集家だった彼は、考古学の研究者でもあり、パタゴニアやオーストラリアを歩き回ったノマディズム(放浪)の信望者でもありました。その彼の思想と行動を自らの足で辿ったのがドイツのベルナー・ヘルツオーク監督でナレーションも担当しました。

30年前にわずか48歳で亡くなったチャトウイン。岩波ホールの幕を静かに下ろすのにはふさわしい映画かもしれません。近々私も見にまいります。  

さよならではなく、いつかまたどこかで同じ時間と空間を持ち、同じ匂いをかいでみたいと夢みるのです。  

文化放送 「浜美枝のいつかあなたと」
6月12日 放送 日曜日 午前9時半から10時まで