「日めくり万葉集」

NHKで「日めくり万葉集」が放送されています。
NHK教育テレビ
月~金曜日  午前5:00~5:05
   日曜日  午前6:00~6:25(再放送)
BSハイビジョン
月~金曜日  午前6:55~7:00
私は春にも出演いたしましたが、10月22日(木)に撰者として箱根のいにしえの世界をご紹介いたします。
  足柄の
  箱根の山に
  粟蒔きて
  実とはなれるを
  あはなくも怪し
巻十四・三三六四  東歌・相模国歌
粟を蒔いて無事に実ったというのに逢わないなんておかしいわと、そんな思いで詠んだ女性の住まいが、我が家と同じ箱根の山というところに惹かれました。
番組では実際に竈で万葉時代の農民が主食とした粟を炊いてみました。粟が八で玄米が二の割合です。これが想像よりフワーとしていて美味しいのです。
粟は5月に種を蒔き10月から11月に収穫します。ということは、逢いたい人が半年近く逢いに来てくれない想いを詠んでいるのですね。この女性の突き抜けた大人の魅力、心のゆとりを感じます。そして、もう男が逢いに来なくても気にしないわっていう逞しい女性を想像してしまいます。
恋の歌にして詠む・・・素敵ですね。
どうぞ番組をぜひご覧ください。

広島への旅

台風の前日、紅葉にはまだひと足早いのですが、広島の厳島神社に行ってまいりました。
海に浮かぶ姿が幻想的で、1400年の歴史を持つこの神様に思わず手を合わせました。背後に山をひかえ、前面が海の社殿は神々しく感じ、自然を崇拝して、山などをご神体として祀られている姿はまさに日本の宝、いえ世界の宝・・・だと実感いたしました。

厳島神社は平成8年12月にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
厳島神社の主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫の三女神です。
自然に神をみる日本古来の信仰をそのまま形にした美しい神社です。宮島は昔から神の島として崇められていたので御社殿を海水のさしひきする所に建てたといわれています。まもなく山々が紅葉し、さぞ美しいことでしょう。

船乗り場までの裏道を散策していたら美味しい「もみじ饅頭屋」を見つけました。小豆の皮をむき、餡子にしているのです。甘さも程よく、店先では饅頭とお茶、またはコーヒーがいただけるのです。外国人2組が美味しそうにお饅頭を食べていたので私も仲間入り。
ふと、今は亡き宮島の「しゃもじ作り」の名人、三宅さんを思いだしました。
あれは23、4年前のことです。テレビの取材でお訪ねしました。そのとき三宅さんは私に向ってこう仰いました。
「浜さん、僕の作るしゃもじは、お母さんのおっぱいと同じですよ、原木から乾燥させ、おしゃもじのカタチを作ります。でも本当のおしゃもじにするのは、お母さんなのです。」
私も4人の乳児は母乳で育てましたが、意味が分かりません。
「何故ですか?」と伺うと
「よそみをしながらお乳をあげていませんか?心こめていますか?私のしゃもじも心を込めて、ご飯をついでほしいのです。」・・・と。
旅って出逢い・・・と、しみじみ思ったものです。

近畿大学でのオープンキャンパス

私は来年、2010年から東大阪にある近畿大学に新たに開設される「総合社会学部」で、客員教授を拝命することになりました。
そこで、私は「自分らしさの発見~暮らし・旅・食がもたらすもの」というテーマのもと、授業を担当いたします。
先日オープンキャンパスにお集まりのご父兄、高校生の前で話す機会を得ました。私が講義を担当することになる学生さんたちとのやり取りを通して、私もまたもう一度学び直したいと、今からわくわく胸をときめかせております。
私自身、男の子二人、女の子二人、計四人の子供を育てました。
四人子供がいると、まさに四人四様で、反抗期が激しい子もいれば、黙っていうことをきかない子もいるし、勉強をコツコツやる子もいれば、自分の好きなことしかやりたがらない子だっています。
同じように育てていると思っているのに、それぞれの個性が育っていて、人は実に多彩な大人への道をたどるものなのだと感じさせられることもたびたびでした。
子育てを通して自分の長所にも短所にも気づかされました。
子育ては一筋縄ではいきません。
大学生になる子供に対して何ができるのでしょうか・・・。
私は思うのです。
「親は子供の成長を認める必要があるのではないか」と。
大学に入って卒業するまでの4年間は、子供たちにとっては激動の時代です。息子、娘から小さな大人になるためのステップを歩むときです。
大学時代は、モラトリアムの時期ともいわれます。心理学者エリクソンによって導入された概念「大人になるために必要な猶予期間」。大学時代は、まさにそのモラトリアムを体験することで、自分の輪郭を把握し、これから飛び込む、きびしく、喜びに満ちた社会を生き抜く覚悟と基本的なスキルの芽を育てるときだと感じています。
もし考えにつまった時には、現場に赴きましょう。
現場を歩いて学ぶことも大事だと思います。
自分の足で歩き、目で見、肌で感じ、たくさんの人々と出会うことでの発見。
大切なのはコミュニケーション。
失敗しても試行錯誤を繰り返しても、またいつからでも人は立ち上がることができます。どんなことがあっても、いつも心に希望を抱き、前に進んでいける、しなやかな心と知性を、大学で身につけていただきたいと願っています。
と、こんなことを1時間お話しし、その後に高校生と語り合いました。
来年の4月、キャンパスでお目にかかれることを楽しみにしております。
 

「日経新聞-あすへの話題」

第10回・9月5日掲載 「孤独死という言葉」
先日、”孤独死”という言葉が話題になった。
「ひとり暮らしの私が死んだら、”孤独死”と報じられると思うとゾッとするわ」
「結婚していても、夫に残される女性がほとんど。ひとごとじゃないわよ」
みな、第一線で働く40代の女性たちである。
孤独死は、ひとり暮らしの人が誰にも看取られることなく、死亡することを意味する。核家族化の進んだ1970年代から使われはじめ、阪神大震災発生後、仮設住宅や復興住宅で相次いでから一般的に使われるようになった。今も、ひとりで亡くなり、死後、長期間放置されるケースは少なくない。また団塊の世代が高齢化と共に、この問題が深刻さを増すことも考えられる。こうした状況を考え、孤独死という強烈な言葉を使うことで、社会の関心を喚起し、警鐘を鳴らそうというマスコミの意図もわからないわけではない。けれど、友人たちがいうように、この言葉には確かに、ややもすれば人の尊厳に触れかねない危うさがある。
女性たちの結論はまちまちだった。
「近隣との交流が大事だというから、ボランティアに参加して、近隣の知り合いを少しずつ増やそうかしら」
「ケアが充実したシルバーマンション、もしくは高齢者に厚い市町村に引越しをするのも選択のひとつね」
秀逸だったのは「近所との付き合いは必要最小限にとどめたい私のような人のために、定年後、老人の見回りを行う会社を興そうかな。見回りも自分でやればこちらの安否も確認してもらえるし」というもの。
それぞれの生き生きした表情を眺めながら、語られるべきは、いかに生きるかであると、改めて感じた。
第11回 9月12日掲載 「井川メンパ」
大井川鉄道井川線に乗り、南アルプスに抱かれた静岡県・井川を訪ねた。井川線は、日本一の急勾配を有する山岳鉄道である。道中、窓から吹き込む風を感じながら、日本一高い関の「沢鉄橋」から見る絶景をはじめ、豊かな自然を堪能させてもらった。
井川では、天然ヒノキを曲げて輪を作り、サクラの皮で縫い合わせ、漆を塗って仕上げるお弁当箱「井川メンパ」の五代目・海野周一さんにお会いした。海野さんは男メンパ、女メンパ、菜メンパ(山仕事に出かける夫婦用で、帰りには入れこのようにひとつに重ねられる)をひとりで作り続けている。私は25年前に4代目にお会いして、井川メンパに魅せられたひとり。今回もまた実用に優れ、温かい木の温もりを伝える日本の工藝の素晴らしさを改めて感じた。
そしてもうひとつ、感じたことがある。井川でも過疎化・高齢化が進んでいるのだが、ご年輩の方々の表情がとても生き生きしていることに驚かされたのだ。「サルに食べられる前に収穫するので、甘くないかもしれないけれど」と茹でたトウモロコシをくださった海野さんのお母さん、畑で汗をぬぐう男性…老後はお金で買う時代になるといった趣旨の広告を数日前に目にし、わだかまっていたものが少しだけ軽くなった。
帰りの汽車の中で、いただいたトウモロコシを味わうと、口の中に広がった優しい甘さに、胸がきゅんとなった。と同時に、都会で老いる不安とは何か、厳しい自然の中、老いてもなお朗らかに暮らし続けるのは何があるからなのかと、考えずにはいられなかった。地域共同体、自然、課せられる役割…そうしたものを蘇らせることが求められている。

第12回 9月19日掲載 「今、落語がおもしろい」

5年前に柳家小三治師匠の落語に出会って以来、すっかり落語に魅せられている。類は友を呼ぶというが、私の周りでも、寄席に通う人が増えている。実際、名人と呼ばれる噺家の独演会はチケット入手が難しいほど、今、落語に人気が集まっている。
落語は会話劇であり、登場人物たちは、顔をつきあわせ、冗談に笑ったり、夫婦の会話を交わしたり、恋人に思いを伝えたり、喧嘩をしたりする。IT(情報技術)の発達によって、直接顔を合わせないコミュニケーションが増えてきた今、対極にあるともいえる、濃厚な生のコミュニケーションで演じられる落語が見直されているのである。
その理由はどこにあるのか、私なりに考えてみた。本来、人間の意思疎通は対面での会話である。非対面の情報伝達が増えてきても、人間の根本まではなかなか変えることができない。深層で人々は生の会話を求めていて、それが落語に向かっているのではないだろうか。
そしてもうひとつ。今は映画もテレビも、CGなども含め、見せる演出ばかりが目に付く時代だ。一方、言葉や表情などから何かを想像することが極端に少なくなっている。言葉を通して、十人十色、それぞれの春の花見の様子や隅田川の風情、夜の町や恋人同士の駆け落ちシーンを思い浮かべる落語に、人々は想像を刺激する新鮮なおもしろさを発見しているのではないだろうか。何でも見えてしまう・見せてしまう時代だからこそ、言葉による想像がいま復権しているのではないかと感じる。
落語は貧乏も失敗も笑いに代えてしまう江戸庶民の生きる力を見せてくれる。と同時に、私たちが生身の人間であることも思い出させてくれる。

リッチモンドへの旅

1週間の休暇を終え帰国いたしました。
今年の夏は「ギャルリー田澤展」と「片岡鶴太郎展」の二つの展覧会が開催され、おかげさまで多くの皆さまに、ここ箱根までお越し頂き感謝いたします。
HPにもありますように、箱根の我が家を大人の方に楽しんで頂きたい・・・
そんな思いで春から本格的に始めた”展覧会”、”コンサート”、”旅”など。
思いのほか若い方々にもお越し頂き、喫茶でのおしゃべりも楽しみになりました。
「正直な作り手たちの味」も立ち上げました。
30年近く全国の農山漁村を訪ね歩き、作り手と語り合い、自分の舌で味わった美味しいもの取り寄せ便です。
四季折々、この国の豊な食材に出合ったときの喜び。
お腹だけでなく心まで満たされる・・・
そして、めぐり合った時の作り手から感じる誇りとこだわり、誠実なお人柄、生きる姿勢、世界観や哲学まで垣間みることができることに深い感動を覚えます。
「間菜舎のコーヒー」に続き、今回は「安曇野の純正アカシア蜂蜜」をご紹介いたします。次回は「新米・浜美枝のひとめぼれ」です。ご期待ください。
詳しくはこちらをご覧下さい。

さて、今回の旅は友人の天沼寿子さんと、リッチモンドの彼女の友人宅に宿泊させて頂きました。リッチモンドは1779年にヴァージニア州の州都に制定された、歴史ある街です。日本からはシカゴ経由で行きましたが、飛行場の大きさにドギマギ。モノレールに乗っての第5ターミナルから第1ターミナルへの移動はちょっとした冒険でした。
滞在させていただいた郊外の「ミドロシアン」周辺は、コロニアルスタイルの大きな家が木立の中に建ち美しいエリアです。
自然を愛するご家族、庭は1エーカー(1,226坪)はあるでしょうか。
どの家も手入れの行き届いた美しい庭です。
早朝散歩をしていると、ゴミ出しをしている家のご主人たちが気軽に挨拶を交わしてくれます。
なにより幸せだったのは、寝起きのままベランダに出てロッキングチェアーに揺られながら女同士のコーヒータイム。小鳥の囀りを聞きながら、植物の話、人生について、大笑いをしながらのひととき。
心から力が抜け開放感が味わえるのです。
観光地めぐりもせず、女主人の美味しい料理を頂きながらの至福の時間。
厳しい世界情勢、海外で日本のことを考えるのも意義があります。
そういえばオールドリッチモンドにも行きました。古い地域で、赤レンガの家が並びイギリスからの入植者が作った街には風情があり、違ったアメリカが味わえました。
自分自身を開放させる旅も時には素敵です。

友情について

皆さんは友情についてどんなお考えをお持ちですか?
私はわりあい慎重な性格なので、人と親しくなるまでには時間がかかることもあるのですが、いったん心を許し合うと、本当に長いご縁になります。長いお付き合いの間には、子育てに没頭したり、仕事がいそがしかったり、いろいろあります。相手だってそうです。ですから、環境が変われば、関係が疎遠になることもありました。子育ても一段落した50代になり、自分の時間が持てるようになってからは、友人とお茶を飲んだり、夕暮れどき軽くカクテルなどを飲みおしゃべりをしたり・・・。
1~2年会わない時期があっても、会えば変わらぬ友情がそこにはあります。
   ”友情は積み重ねていくもの”     だと思います。
長年、私とお付き合いが続いている人を思い浮かべると、みんな「お互いさま」という感覚を持っているような気がします。お誘いをお断りすることがあっても「お忙しいのね。そっち、頑張って。でもまた声をかけるわね」と、笑顔で言ってくれる人が多いのです。同じように私も、相手の状況は「ああ、介護で大変なんだわ」とか、何となくわかりますから「体に気をつけて。またご連絡するわ」と言って、心の中でエールを送ったりします。
「お互いに相手の世界に土足で入っていかない」
「相手の状態を尊重する」
何か他人行儀じゃない?といわれることもありますが、お互いを縛りあって、それが破綻の大きな原因になってしまっては哀しいですもの。
私にとって友人は、いつも一緒に行動する関係ではなく、心の仲間なのです。このごろ、親子関係だけではなく、友情もまた積み重ねていくものだとしみじみ感じます。
そんな長年の友人であり、「カントリーアンティーク」を日本に広めた天沼寿子さんとご一緒に1週間ほどリッチモンドの彼女の友人のお宅に滞在させていただきます。自然豊かな美しい庭、素敵なアーリーアメリカンのインテリア。
とても楽しみです。
私のちょっと遅い夏休みです。
心が満たされるような友人は、心の財産だと思います。
友情に感謝!です。
次回旅のご報告をいたしますね。  

「日経新聞-あすへの話題」

第6回・8月8日掲載 「この汗をみてごらん」
          
人との出会いやすぐれた芸術がきっかけとなり、人生が変わることがある。私にとってマルチェロ・マストロヤンニ氏とゴッホの「馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人びと」の出会いがまさにそうだった。
16歳で女優デビューしたものの、私はずっと居心地の悪さを感じていた。基礎もなく演技することに、不安を感じた。人気という不確かなものにも、怖さを覚えた。私がしたいのは汗をかき、人の役に立つ仕事だという思いを拭いさることができなかった。
女優を辞めようと思い、その区切りにと、18歳で私はひとり旅に出た。イタリアへ。そして大好きだったマストロヤンニ氏の舞台を女優時代の思い出にしようと連日、劇場に通いはじめた。ある日、舞台を終えたばかりの彼にお会いする機会をえた。私が日本で女優をしていると知ると、汗びっしょりの自分の顔を指差してこういった。「この汗を見てごらん。この汗は、お客様が喜んでくれた汗だよ」 このひとことで私の目からウロコが落ちたのだ。十分な努力もせずに女優に見切りをつけようとした自分の傲慢さにも気づかされた。
旅の帰りに立ち寄ったオランダの美術館でゴッホの「馬鈴薯を食べる人びと」に出会った。自らが作った作物を、家族とともに食す喜びが静かに伝わる絵を見つめているうちに、もう少し、がんばってみようという気持ちが確信に変わった。40数年が過ぎても思い出が鮮やかさを失わないのは、それが私の原点だからだろう。
そして思う。マストロヤンニ氏のように若い人たちに何気なく、しかし力強い言葉で真摯に働くことの大切さと喜びを伝えられる大人に私はなれただろうか、と。
第7回・8月15日掲載 「大人の街・銀座」
灼熱の太陽に照らされ白く抜けていた町に色が戻りはじめる夏の夕暮れ。けれど、黄みを帯びた光に包まれはじめた建物からは、日中、蓄えられた熱がゆらゆら放出されているようで、やはり普段の町とはどこか表情が異なっている。時計の針の動きが遅くなり、人の声がことさら遠くに聞こえるような……。
仕事が思ったよりも早く終わったそんな黄昏時、銀座の「テンダー」に立ち寄った。テンダーは名バーテンダー・上田和男さんのバーで、彼のスピリットが隅々まで感じられる。清潔で、嫌味のない重厚さがあり、女性ひとりでも居心地がいい。
以前の私の誕生日に上田さんが創作してくださったオリジナルカクテル「マダム浜」をいただきながら、ふと銀座で始めてお酒をいただいた若き日を思い出した。絵のモデルをしたご縁で、画家・岩田専太郎先生が、文化人が集まるバーに連れて行ってくださったのだった。
静かにジャズが流れる店内。大人の男たちがウイスキーを傾けながら、くつろいだ表情で談笑していた。集う人への敬意とそれぞれの美意識が感じられるダンディな空間だった。「この娘に合うものを何か作ってあげてください」と先生はいい、黒服のバーテンダーは私に甘くて薄いカクテルを作ってくれたのだった。そして先生は9時になると「僕はもう少しいるけれど、君はもう帰りなさい」とタクシーを呼んでくださった。20歳のときのことだ。
スイカのリキュールをベースにした柔らかな香りと美しいピンク色が特徴のマダム浜をゆっくり味わいながら、銀座の洗練と豊かさを思った。あの店は今も、あるのだろうか。
第8回・8月22日掲載 「ラジオの可能性」
ラジオのパーソナリティを務めるようになって、かれこれ30年ほどになる。文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)もスタートしてから約15年になった。先日は、仲代達矢さんに著書「老化も進化 」を中心に、妻であり同士でもあった宮崎恭子さんの思い出や人生の真っ赤な秋を真っ赤に生きようとしていることなど伺った。若い人を育てることに情熱を燃やし、俳優として人間としてひたむきに歩み続ける仲代達矢さん。その生き方に励まされるのは私だけではないはずだ(23日、30日放送予定)。
このごろ、私の周りでラジオ・ファンが少しずつ増えている。メディアが多様化、多極化する中にあって、ラジオは送り手と受け手との距離がとびきり近いからだろう。私はNHKラジオ深夜便で「大人の旅ガイド」コーナーも担当させていただいているのだが、お話しながら、ラジオに耳を傾けてくださっているリスナーの姿が不思議なくらいくっきりと目にうかぶ。
ネット社会になり、上司と部下がメールですべてのやりとりをし、人の声が消えた会社もあるという。メールは便利だが、生のコミュニケーションには存在する温もりは抜けてしまいがちだ。ラジオへの回帰は、その人肌のコミュニケーションが再評価されてのことなのかもしれない。
今、若者のコミュニケーション・スキルの不足が問題になっている。ラジオの一ファンとして、ラジオというメディアは聞き手のコミュニケーション・スキルを磨いてくれるものではないかと、思ったりもする。声と言葉から聞き手が自由に想像力を羽ばたかせる……こんなに風通しがよく、自由なメディアは他にはない。
第9回・8月29日掲載 「米作りと食の問題」
       
農に関わる者として、米作りの実際を知りたいという一心から、10年間に渡り、福井県の若狭に田んぼをお借りして、無農薬の米作りを体験したことがある。
過疎化、老齢化、後継者不足……日本の農業は多くの深刻な問題を抱えている。このたびの選挙で、減反による生産調整に対するいろいろな考え方をはじめ、土地の集約や経営の大規模化を促し農業の合理化を進めようとするもの、あるいは日本の農家の過半を占める兼業農家や小規模経営の零細農家に配慮したものなど、各政党はさまざまなマニフェストを表明した。
けれど忘れていけないことがある。米作りとは米を作る、ただそれだけではないということだ。私は米作りを通して、田んぼが環境を保全すること、集落の共同体が米を中心に作り上げられてきたことなど、多くのことを肌で学ばせていただいた。わが国は瑞穂の国であり、米作りがすべての文化の基本となっているのである。米作りを数字だけで考えては、取り返しのつかないことになる。ましてや政争の道具になどしてはならない。
一方、世界に目をはせれば、すでに世界の穀物消費が生産量を超え、穀物輸出の制限や禁止をする国もでてきている。食料の争奪戦も始まっている。そしてわが国は依然として食料自給率がカロリーベースで約4割という危うい状況にある。
「21世紀は食糧を自給できない国から滅びる」という作家・住井すゑさんの言葉が重く感じられるのは私だけではないだろう。生産者・消費者が共に、50年先の日本の農業、そして食料を、文化まで含めて考えなくてはならないのではないだろうか。傍観はもはや許されないと思う。

片岡鶴太郎さんの展覧会

片岡鶴太郎さんの展覧会「こころ色」が、我が家の広間の空間に見事に表現されています。
生活周りの作品をお迎えしたい・・・との思いがありました。鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふくと息づいています。暮らしを美しく彩り、爽やかな風を空間にふきこむような素晴らしい作品ばかりです。
「作品は人なり」と思わずにはいられません。
今回の展覧会の展示は毎年、この空間を美しく彩ってくださる京都「ギャルリー田澤」のオーナー、田澤ご夫妻がプロデユースしてくださいました。
美しい花器にふさわしい花を生けこみ、「千年の恋」を床の間に飾り、それぞれのコーナーに一番ふさわしい絵を飾り、毎日見ていても新たな美の発見があります。
23日のレセプションには鶴太郎さんもお越しになられ始めて、ご自分の作品をご覧になられ、「僕の絵というより、私の手からもう一人歩きしています、作品が」と仰っておられました。
これからも私は箱根の我が家のこの空間を皆さまと共に楽しんでまいりたいと思います。
「日常の中にこそ美が存在する」・・・と民藝運動の創始者、柳宗悦は説いています。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~静岡県・井川地区」

今回ご紹介するところは、時速300kmの新幹線が走っている現代に、どう頑張っても最高時速25km、平均15kmという、のどかな汽車で行く、静岡県静岡市葵区「井川地区」です。
総面積の8割近くを山地が占める静岡市には、多くの山里があります。
井川の集落は、南アルプスに抱かれた大井川の最上流部に位置しています。市街地から井川までは、峠越えをして車で2時間ほど。
でも、私は素敵な列車の旅をお奨めします。東海道本線・金谷で下車し、ここから大井川鉄道で終点の千頭(せんず)駅まで1時間。時間によっては、懐かしい汽笛に誘われ、SLも走っています。千頭駅に着くと、鮮やかな赤色のミニ列車が迎えてくれます。南アルプス・アプトラインに乗り換えて、雄大な奥大井の山懐へと出発です。車窓に広がる茶畑。大井川流域は古くからお茶の栽培が盛んなところです。1番茶が終わり、2番茶の緑の茶畑が美しいのです。
大井川に沿って上流へ進むと、緑が一層美しくなります。井川線ミニ列車に
1時間40分乗って終点が井川ですが、その道中がまさに「小さな旅」です。

皆さん「アプト式鉄道」ってご存知ですか?
アプト式鉄道とは、ラックレールという歯型レールを使って急な坂を登り降りするように考案されたものです。アプトいちしろ駅~長島ダム駅までの間は1,000分の90という日本一急勾配を運行するために、車両は勿論のこと、ディビダーグ式橋梁や、枕木など新しい手法を取り入れています。いちしろ駅でアプト連結が見学できます。急勾配を力強く上って行きます。私はこの辺りで持参した「おにぎり」を食べ旅情気分を味わいました。
日本一高い鉄道橋、関の沢鉄橋から見る高さ100mの絶景とスリル、思わず身を乗り出し写真撮影。何しろ窓が開いている・・・。この渓谷の紅葉した景色はさぞ美しいことでしょう。

沿線はモミの木やモミジに囲まれ、清流にはヤマメも生息するなど、豊かな自然の中をゆっくりと進む山岳鉄道は開放感いっぱいです。
終点の井川に着きます。
駅の階段を降りていくと小さな食堂があります。
私は帰りにおでんを食べました。
さて、この山奥の町、井川では、ここにしかないといわれる貴重な「メンパ(お弁当箱)」が作られています。
私が25年前にお訪ねした時、このメンパを作っていらした海野想次さんは残念ながら一昨年他界され、今は5代目周一さんが継がれておられます。周一さんとは久しぶりの対面です。
井川のメンパとは、天然のヒノキを曲げて輪を作り、サクラの皮で縫い合わせて漆を塗って仕上げるお弁当箱なんです。ヒノキを薄く薄く、3ミリの薄さまで削って、このヒノキを水につけてやわらかくして、曲げていきます。丸めて仮止めし、穴をあけ、細く切った桜の皮を通して縫い合わせます。この状態で陰干ししておきます。底板をはめこみ、上塗りし、陰干ししてから漆をかけます。
メンパの形は丸型、小判型、角形の三種類があります。さらに、男メンパ、女メンパ、おかず入れである、菜(さい)メンパがあります。これは昔から山仕事に出かけた夫婦が食事を終えて、男・女・菜の順序でメンパをひとつに重ねて持ち帰るように作られたそうで、ほほえましいお話ですね。実用品としても、冬、ごはんが冷めにくく、夏は腐りにくい。また、身と蓋、男用、女用それぞれで、米をぴったり計量出来るようになっているというのも大変に優れていますね。
山の暮らしの中で生み出された生活の知恵の結晶です。
この海野さんのメンパはご自宅での販売のみ。手作りですから量産できません。「幻のメンパ」とも言われ遠路はるばるメンパを求めて井川を訪れる人々が絶えないそうです。若い世代の人々にも広く受け入れられているそうです。実用に秀でており、温かい木のぬくもりを普段使いの中で味わいたい・・・そんな日本の工藝は素晴らしいですね。

駅から井川の町までは歩いて1時間ほど。
バスは井川地区自主運行バスが日に3本運行されています。
駅近く、井川ダムから井川大橋を経由し、井川の中心地「木村」とを結ぶ片道40分の渡船もあり、バスや鉄道で来た観光客も自由に乗船でき、四季折々に見せる新緑、紅葉など楽しめます。
井川の町には旅館、民宿もあります。(観光協会にお問い合わせください)
井川の奥には自噴している「赤石温泉」。
南アルプスの登山。(聖平登山口まで、町からバスが運行されています。)
美しい景色に爽やかな風。
素朴で優しい心のふるさと、井川をご紹介いたしました。

日経新聞-あすへの話題(8月1日掲載分)

花織に教えられること
長年旅をしてきた私には第二の故郷と思える場所がいくつかある。そのひとつが沖縄だ。民芸の柳宗悦氏の本で知った沖縄の道具を実際に見てみたいと、はじめて伺ったのは返還前のこと。以来、何度、かの地をお訪ねしただろう。
多くの人との出会いもあった。中でも忘れられないのは、故・与那嶺貞さんだ。与那嶺さんは戦争で夫をなくし、女手ひとつで3人の子どもを育て、55歳になったときに、沖縄伝統の織物・花織(はなうい)の復活を志した。何本もの糸を用い、花が浮いたように織る美しい花織を再び蘇らせたのである。与那嶺さんが織った花織の着物は驚くほど軽く、肌触りは限りなく優しい。
「女の人生、ザリガナね」与那嶺さんはそうおっしゃっていた。ザリガナとは沖縄の言葉で、もつれた糸をほぐすことを意味する。そして「今日、ほぐせなかったら、10日、1年、いやもっとかかっても根気よくほぐしてこそ、美しい花織を織ることができるのよ」と続けられた。
先日、沖縄を訪ねた。青い空と海、穏やかで明るい人々。またここに帰ってきたとほっと気持ちが弛むと同時に、国道の脇に大きな長いフェンスが渡され、町が基地で分断されている状況が今も続いていることに胸が痛くなった。
ここにも、もつれた糸がある。60年以上がたち、先の戦争のことは風化しつつあるようにみえる。けれど沖縄は今もザリガナすべきものを抱えている。与那嶺さんのように志をもち、根気よく問題をほぐし、花織のように美しい社会を再構築する人が必要だ。このたびの選挙では、そうした人がぜひ選ばれてほしいと願っている。