浜美枝のいつかあなたと ~仲代達矢さん

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
今回はお客様に俳優の仲代達矢さんをスタジオにお招きいたしました。
日本映画の黄金期を彩った名優、黒澤明監督作品「七人の侍」、「用心棒」など数々の作品に出演されました。
仲代達矢さんは1932年、東京のお生まれ。1952年、俳優座養成所に入所され、舞台劇「幽霊」でデビューされました。
これまで「どん底」、「リチャード三世」、「ソルネス」など舞台で芸術選奨文部大臣賞などを受賞。映画やテレビでの分野でも様々な活躍をされています。1975年より、舞台俳優養成のための私塾「無名塾」を主宰。この秋には石川県・七尾の「能登演劇堂」でシェイクスピアの大作「マクベス」が上演されます。
今回はお芝居のお話はもちろん、現在、講談社+α新書から発売中のご著書「老化も進化 」を中心にお話を伺いました。この本には、70代半ばを迎えられた仲代さんの演劇哲学 、人生哲学、そして65歳の若さでお亡くなりになられた奥様、宮崎恭子さんの思い出が率直に語られています。
8月23日と30日の2回分の収録でしたから、寺島アナウンサーと私はこの名俳優の”ひとり舞台”を独占させていただいた気分、至福の時を頂きました。
「妻が逝って、早いもので13年になります。若い時にずいぶん苦労したつもりですが、 今までの長い人生の中でも一番の試練でした。生きるための苦しさと、愛する者を失う哀しさとはまったく別のもので、後者は遥かに大きいようです。」
奥様を失った喪失感は予想以上に大きく、なかなか立ち直ることができなかったようです。病床にあっても常に明るく「人生どのように生きるのが美しいか」「さあ、人生のグランドフィナーレの幕をあけるぞ」・・・と、彼女は最後まで誇り高く、勇気を持って生きようとしたのです・・・と。妻であり、同士、仲間であったご夫妻のお話には崇高さを感じました。
奥様は「男に惚れるようじゃあ、女優はできないわ」と結婚を機にスパッと女優業を辞められました。 後には脚本家・演出家としても仲代さんを支えられてきました。
仲代さんは「今の自分は赤秋(せきしゅう)の時を迎えている」と仰います。一人で老いてゆくことへの不安は確かにあっても、力を抜き、敢えて大きな挑戦に「真っ赤な秋を真っ赤に生きる」と低い良く通る声でこちらをしっかり見据え語ってくださいました。
ラジオでは素晴らしいお話をたくさん伺いました。ぜひ、日曜10時半~11時まで文化放送「浜美枝のいつかあなたと」でお聞きください。(8月23日、30日放送)
かつて東宝撮影所で10代の私は、遠くの仲代達矢さんを仰ぎ見ておりましたが、目の前にいらっしゃる仲代達矢さんは俳優としての仲代さんではあるのですが、76歳とは到底思えない「人間・仲代達矢」が静かに語りかけておられるのでした。

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日経新聞-あすへの話題

日本経済新聞(毎週土曜・夕刊)「あすへの話題」の掲載が始まり明日(8月1日)で5回目を迎えます。
身辺雑記、来し方の思い出、仕事のエピソード等々、「身近なことを自由に書いてください」とのご依頼を頂きました。
四人の子供達はたくましく私の手元から飛び立ち、自分の人生の建て直しを始めたのが50代でした。原稿を書くにあたりこれまでの自分に向き合ってみました。
やはり”人に逢う”ことが、仕事であろうがなかろうが私はとても好きです。
出会った方から多くの心をいただきもしました。
日本のいたるところに師がいる。
「このままでは日本が壊れてしまう!」と思ったことも度々ありました。
そんな気持ちを支えてくれたのが、無名の師たちとの出会いです。
勇気が湧いてくるのです。
嘆いていても始まらない・・・
一歩、半歩前に進みたい・・・
そんなことを考えながら 毎週原稿を書いております。
あと20回!今回は第2回から第4回分をご紹介します。
 
第2回・7月11日掲載「民芸の美に支えられて」

100年に1度の未曾有の不況だそうだ。大変な時代になったと感じる一方で、娘時代を過ごした戦後のことをふと思ってしまう私がいる。
我が家は戦前ダンボール工場を営んでいたが、戦災ですべてを失った。
「命は助かったから、よしとしなきゃ」
それが、出兵した父が戻り、再び笑顔を取り戻した母の口癖だった。
それから長屋住まいし、リンゴ箱に藍の布をかけて、ちゃぶ台代わりにするような暮らしが続いた。担任の先生に強く高校進学を勧められたが、早く働き手になり、家計を助けたくて、中学を卒業するとバス会社に就職、バスの車掌になった。
あの時代と比べようもないほど、今は豊かだ。モノはあふれ、飢える人は少ない。けれど「働けば豊かになれる」という希望が今は見えないと誰もが口を揃える。確かにそうかもしれない。が、ここでまた、私は思ってしまう。ではその豊かさとは何なのか、と。戦後、豊かさを求め、辿り着いたのはバブルだった。そして今、また同じ豊かさを目指すのか。
中学2年の秋、私は民芸運動の創始者・柳宗悦氏の本を読み、感動し夢中になった。子ども時代の終焉を意識しつつあったあのときの私は、自分がよって立ちうるものを必死に求めていて、何かに導かれるように民芸に出会ったのではないかと今になって思う。以来、幸せなことに、65歳になる今までその民芸と共に生きてきた。
民芸が提唱する用の美、無名の人が作る美しい道具…それは知れば知るほど豊かに広がる美しい世界である。これからの社会に必要なのは、そうした身の丈の豊かさではないだろうか。そんな社会を目指してほしいと、私はひそかに祈っている。 

第3回・7月18日掲載「農村の女性たちとの絆」

私の机の引き出しの中に、何枚かの写真が入っている。原稿に詰まったときなど眺めるだけで、励まされる気持ちになれる写真だ。そこにまた素敵な1枚が加わった。それは今年6月に集った「食アメニティ・ネットワークの会」の女性たちの写真だ。
平成6年、ヨーロッパの農業視察に行った私は、グリーンツーリズムが日本の農村を活性化するひとつの選択だと確信した。そこで、地域の食文化の保存と開発・普及につとめる農山漁村地域の女性たちを表彰する「食アメニティ・コンテスト」(農村開発企画委員会・農林水産省との共催)で「ヨーロッパのグリーンツーリズム研修旅行」を呼びかけたのである。
おかげさまで研修旅行は実りの多いものとなった。すると、旅行が終わってしばらくして「もう一度みんなで会いたい」という声が参加者からあがり、箱根の我が家に参加者のほぼ全員が集合。その中で、「せっかく集まるなら、ひとつの問題にみんなで取り組み、勉強したい」という話になり、平成12年「参加する人、この指、止まれ!」方式の、食アメニティ・ネットワークの会が誕生した。
ヨーロッパ研修旅行は12年間続けた。今も韓国の有機農業の視察などに多くの女性が参加してくれる。毎年1回、大会とシンポジウムなどの研修会も全国各地で開催している。今年6月には120名の女性たちが全国から東京に集まり、大会を盛大に盛り上げ、会終了後、その多くが我が家を訪ねてくださった。自然発生的に生まれた会だが、10年を経て、全国で活動する農村の女性たちを繋ぐ役割を果たすまでになったのではないかと思う。その女性たちひとりひとりが私の大事な宝物である。

第4回・7月25日掲載「美しい山里に想う」

先日、富山県の南西端にある南砺市、越中五箇山をお訪ねした。菅沼合掌造り集落「五箇山」は世界遺産にも登録されている。集落全体が一面の銀世界になる冬など、数回伺ったことがあるが、今回は集落の人々が田や山で働く姿が強く心に残った。
民宿の、77歳になる笠原さつ子さんの料理も素晴らしかった。岩魚の塩焼き、五箇山豆腐と山菜の煮しめ、うどと身欠きニシンを炊いたもの、こごみのピーナッツ和え、かっちりいも、山菜ごはん、岩魚の骨酒。最後には手打ち蕎麦まで。今、伝統料理や郷土料理が見直されつつあるが、それはまさに五箇山の歴史と人々の暮らしが凝縮した品々だった。
各地で失われつつある郷土料理がこの地に生き続けているのには理由がある。古くから浄土真宗が共同体の結束を強めてきた五箇山では、今も僧侶の講和をお聞きする報恩講後に、みんなで郷土料理を囲む習慣が根づいている。「結(ユイ)」という相互扶助の慣習も残っている。だからこそ合掌造りの萱の葺き替えなども協力して行うことができるのだろう。
けれどここ五箇山でも高齢化と過疎の問題は進行している。農や食の問題に消費者と生産者が垣根を越えて取り組む必要があるように、美しい村里や郷土食に関しても、いまや住民だけではなく、それらを心の故郷と感じる都会の人たちが共に手を携え、行動する必要があるのではないだろうか。
都会の人はその活動を通して、もうひとつの故郷を見つけることだろう。そして美しい村里は都会のサポーターにも支えられ、美しいまま次世代に継がれていく。そんな関係をもっと築けたら、素敵だと想う。

LA BELLE TABLE&大皿展

初夏の心地よい季節、今年もまた箱根の我が家で京都「ギャルリー田澤」の展覧会が開催されています。第4回目のこの夏は ”LA BELLE TABLE&大皿展”と題し「和蘭陀食卓」をメインに、夏から秋にかけてのエキドチックなテーブルが広がります。
古伊万里の大皿、鉢、オランダ・デルフト、ブリストル、バカラ、ルネ・ラリック、デルボー、クロス等 「ギャルリー田澤」の放つ輝きは特別なものです。
そして、素晴らしいコンセプトのひとつに、”日常に使えるもの”を扱っていることです。ですから、全てのものが綺麗に洗われ、磨かれ、家に帰ってすぐ使えるのです。
「最も大切なことは、普段、日常のなかで、季節感と取り合わせを考慮して、好きなもの、とっておきのものを使うことだと思います。その上で客さまに喜んでいただけるものはなにかと考えるのです」と田澤ご夫妻はおっしゃいます。
“遊び” ”発見” ”感動” のようなものが感じられる素敵な展覧会です。
8月1日(土)まで開催しております。

そして、来月の展覧会のお知らせ。
岡鶴太郎展「こころ色」が開催されます(09年8月22日~30日)
鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふく息づいていて見る者を自然の中にいざなう豊かさと優しさがあります。鶴太郎さんの作品に触れるたび、私は「作品は人なり」と思わずにはいられません。
毎日、見ていたくなる・・・。
暮らしの美を再発見する・・・。
共にこれからの時間を過ごしたくなる・・・。
どうぞ古民家を再生した箱根の我が家で出逢ってください。
詳しくはホームページにアクセスしてください。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~富山県・五箇山」

今回ご紹介するところは世界遺産に登録されている合掌の里「五箇山」です。
越中五箇山とは、富山県の南西端にある南砺市(なんとし)の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指します。ここは、まさに「日本のふるさと」です。遥か縄文の時代から人々の営みがあったところ。平家の落人が住み着いたと伝えられています。
初夏の緑豊な中を旅すると身も心も緑に染まりそうです。今回私は、利賀村の民宿・笠原さんのお宅に泊めていただき、菅沼合掌造り集落へと足を延ばしました。

世界遺産は世界中に五百十数ヶ所あるそうです。日本には最古の木造建築・法隆寺をはじめとして、屋久島など文化遺産や自然遺産が登録されています。これらの遺産は、私たちが暮らす日本という国を通して、身近な自然や文化財をグローバルな視点から見直し、人類が次世代にどう継承していくべきかを、改めて私たちに問いかけます。
私と合掌造りの家とは、切っても切れない関係にあります。合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインに立った、といっても過言ではありません。家の骨格ともいうべき柱と梁は、何か私の心の中の骨組みでもあるのです。自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。
もう何十年にもなるでしょうか。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。白川郷や五箇山は冬なら二、三メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。雪を深々とかぶった集落は神々しく、よそ者は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は静謐な祈りのカタチです。
そして、今回、初夏に訪ねた合掌造りの家は穏やか瞑想のカタチです。
ここに来ると、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。日本の歴史の嵐に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
バイパスが通り便利になり、訪れる人も多くなりました。
「おじゃまします・・・」とつぶやいて一歩一歩集落へと踏み出すのです。
見下ろすと、茅葺き屋根が青々とした田園の中に佇んでいます。戸数8戸の小さな世界遺産・菅沼合掌造り集落。集落の中を、庄川が蛇行しながら流れ、背後には急峻な山地が迫り、緑豊な懐に抱かれています。
かつて五箇山では農作物以外の換金産物が必要でした。塩硝づくりと養蚕、紙すきは合掌造りと深いつながりをもっています。耕作地の狭い土地柄、火薬の原料となる塩硝が、加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業となったといいます。平野部の農村の米作りに匹敵するほど重要だったのです。
合掌造り家屋は、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空け囲炉裏の熱が届くようにして養蚕が行われていました。囲炉裏から上がったスス(煤)が柱や綱に染込んで強度を増す効果もありました。私は合掌造りの家にはいるとこの匂いが何とも好きで、つい囲炉裏の端に座ってしまいます。
今回泊めていただいた利賀村の民宿、笠原さつ子さん手づくりの料理の美味しかったこと。「イワナの骨酒」を飲み、イワナの塩焼き、五箇山豆腐と山菜の煮しめ、うどと身欠にしん、こごみのピーナッツ和え、かっちりいも、山菜ごはんには、すす竹・舞たけ・人参・よしな・椎茸などが入っていました。最後は手打ちそば。美味しかった!!さつ子さんは77歳。お顔はつやつや。笑顔の美しい方です。
「ごちそうさまでした」

五箇山でこんなに美味しい料理が食べられるのは、かつて村人が報恩講や祭り、正月、そば会などで持ち寄った自慢の味や、郷土料理の数々が伝承されているからなのです。「報恩講」とは門徒が僧侶の講話を聞く法会。その後に必ずみんなで飲み食いするのが楽しみとか。
我が家の囲炉裏も昔々のものです。灰をかき、炭を真っ赤に熾して、家族や友人とそれを囲むひとときは、他のどんな空間にもない時間が流れます。囲炉裏はタイムマシーンのようです。時間を忘れさせる装置であり、時を飛ばすマジシャンでもあります。太い梁や囲炉裏でワインやシャンパンを飲むのも新鮮です。
古くから伝わる郷土の知恵と工夫がぎっしり詰った「五箇山・合掌の里」をご紹介しました。
【旅の足】
~電車~
東京駅(上越新幹線1時間15分)→ 越後湯沢駅(北陸本線2時間20分)→ 高岡駅(JR城端線50分)→ 城端駅(加越能バス40分)→ 五箇山
大阪駅(北陸本線3時間)→ 高岡駅 → 城端駅 → 五箇山
~車~
練馬IC(関越自動車道3時間)→ 長岡JCT(北陸自動車道2時間)→ 小矢部・砺波JCT(東海北陸自動車道25分)→ 五箇山IC
吹田IC(名神高速道路1時間30分)→ 米原JCT(北陸自動車道2時間30分)→ 小矢部・砺波JCT → 五箇山IC

「日経新聞-あすへの話題」

日本経済新聞夕刊1面コラム「あすへの話題」の執筆がスタートいたしました。
2009年7~12月まで。毎週土曜日、計26回の予定です。
身辺雑記、来し方の思い出、仕事のエピソード、社会的な事象など、身近なことを記してまいりたいと思います。
今回は4日に掲載された分をご紹介致します。次回以降の話題はおいおいブログでご紹介してまいりたいと思います。
日本経済新聞7月4日掲載
「あすへの話題~箱根に暮らして」
箱根に家を構えてから30年の月日が流れた。30年前といえば日本列島改造のスローガンのもと何百年も人々の暮らしを見守ってきた古民家が次々に壊され、新建材の家に建て替えられた時代だった。
当時、民芸に魅せられて、日本各地を旅していた私は、そうした古民家がなぎ倒される、心痛む場面に、何度も遭遇した。そしてついにたまらなくなり、ある家の解体現場で「この家を私に譲ってください」といってしまったのだ。
そうして12軒の古民家の廃材をすべて買い取ったのだが、当時は、古民家再生の技術はおろか、その言葉さえなかった。正直、廃材を前に途方にくれたこともある。けれど縁あって箱根に土地を見つけることができ、大工さん、鳶職さんと手探りで、試行錯誤を繰り返しつつ何年もかけて建てたのが、今の箱根の我が家である。
40歳で女優の仕事を卒業し、以来、食と農の現場を訪ね続け、日本の農業のサポーターを自認している私の仕事は、旅も多い。「箱根が拠点だと不便ではないですか」とご心配いただくこともあるのだが、どんなに早く家を出なくてはならなくとも、遅くたどり着こうと、私にとって我が家は、心身を開放してくれる特別な場所である。
磨き上げた床、柱、好きで集めた西洋骨董、民芸の道具、子どもたちを育てた記憶…。すべてが渾然一体となって、家は私を包み、支えてくれる。窓に目をやれば、美しい箱根の自然が優しく心を慰めてくれる。自分でこの土地を見つけ、家を作ったように思っていたが、そうではなくむしろ私がこの土地やこの家に呼ばれ、導かれたのではないか。今は、そんな風に感じている。

浜美枝のいつかあなたと ~ 片岡鶴太郎さん

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
今回はお客さまに俳優・画家の片岡鶴太郎さんをスタジオにお招きいたしました。早くからテレビの世界で活躍され、やがて俳優としても数多くのテレビドラマ、映画に出演されてきた鶴太郎さん。
その一方、30代の後半からは絵の創作をはじめられ、95年には初の個展を開催。鶴太郎さんが創作された絵や書は多くの支持を集め、98年には草津に「片岡鶴太郎美術館」もオープンしました。
実は8月22日から30日まで箱根の我が家で、展覧会を催すことになりました。
「こころ色」と銘うって。
詳しくはホームページでご覧ください。
初めて鶴太郎さんと親しくお話をさせていただいたのは、新幹線の中でのことでした。全く偶然の出会いでしたが、我が家に飾っていた絵の話になり、それがご縁で後日、画集対談でお越しになられました。
鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふくと息づいています。
花、魚、果物・・・暮らしを美しく彩り、爽やかな風を空間に吹き込むような素晴らしい作品ばかりです。
「作品は人なり」と思わずにはいられません。
生きることにひたむきで、思いやりが深く、優しく、けれど決してやわではない。そんなお人柄が、どの作品からも感じられるのです。
ラジオの中で興味深いお話を伺いました。
全く絵にはふれたことのない鶴太郎さんが30代の終わりのある日・・・、2月の寒い朝5時頃のこと、ロケがあり家を出るときに、何か視線を感じたそうです。その視線の方を振り返ると、隣の庭に朱赤の椿が咲いていて(その頃は花の名前も知らなかったとのこと)
「うわぁ素敵だな、君はひとりで、誰も見てなくてもきちんと咲いているのか」
と思われたそうです。
当時、これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きたらいいのか・・・、人生の中にポツンと置かれた孤独感、焦り・・・、そんな日々が続いていたそうです。その時「この花を描ける人になりたいなぁ」と、心底思われたのだそうです。
ものまねでも、役者でも、ボクシングでも、この椿を見たこの感動は表現できない。それで、絵で表現できるようになりたい。美術学校に行って基礎を勉強していたら、もしかしたら感動がないまま絵の世界に入っていたかもしれないと。
私にはとてもよく分かるのです。そのお気持ちが。
私も40歳で演じる女優は卒業しました。あの時の孤独感は私に生きる力を与えてくれました。
お互いに「日本人の美」の本質を感じることができる自分になりたいですね。
話はつきることがありませんでした。
7月5日が放送です。ぜひお聴きください。
今回の展覧会はデパートでの展覧会と違い狭い我が家が会場です。普通に暮らす空間に鶴太郎さんの絵を飾ってみたい・・・との思いでからです。ぜひホームページへとアクセスしてみてください。
片岡鶴太郎展「こころ色」 8月22日~30日 箱根・浜美枝邸にて

CCS15周年アニバーサリーパーティー

先日、日曜日の夕暮れ帝国ホテルで素敵なパーティーに出席してまいりました。
NPO法人カクテル・コミニュンケーション・ソサイティー(C・C・S)
「15周年アニバーサリーパーティー」
会場ではジャズがながれ、全国からカクテルファンが集いました。そして銀座テンダーの上田和夫さん、モーリ・バーの毛利隆雄さん、福岡からは長友修一さん、大森のバー・テンダリーの宮崎優子さん他、全国から「カクテル・アーティスト」が勢揃いし、それぞれが得意のカクテルにシェーカーをふってくださいました。
サイドカー、マティーニ、モヒート、ジャックローズ、ダイキリ、ギムレット、マンハッタン、バンブー、同じバンブーでも上田さんのバンブーと女性の宮崎さんのバンブーでは微妙にニュアンスが違い両方とも楽しませていただきました。
カクテルについては昨年のブログに載せておりますのでお読みください。
カクテルは幸せなときには、そっと寄り添ってくれます。ちょっぴり寂しいとき、辛いとき、心がいたんでいる時は背中をほんの少しおしてくれます。
「大丈夫、そのままで」・・・と。
バーテンダーはアーティストです。31名のアーティストのカクテルをほんの少しずつ、梅雨の合間のひととき夕暮れ時を楽しんでまいりました。ほろ酔いかげんで箱根の山を上って家路につきました。
皆さん、ありがとうございました。
これからも大人のカクテルを期待しております。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~長野県・信州松本」

今回ご紹介するのは長野県信州松本です。
倉敷とともに、信州松本も私にとっては民芸の故郷です。
松本は安曇平の向こうに北アルプスが屏風のようにそびえ、昔ながらの城下町の面影が色濃く残る町です。松本市は平成17年に合併し、県下で最も広い面積の自治体となりました。
西に日本の屋根といわれる「北アルプス」、東に日本一高いとして名高い「美ヶ原高原」を望む大自然に囲まれた盆地です。安曇地区・奈川地区・梓川地区・四賀地区・旧松本市、豊な緑、澄んだ空気に恵まれた大変美しいところです。
今回は国宝松本城を中心に市内をご案内いたします。
国宝松本城は現存最古の天守閣・戦国時代の姿を残します。1593年頃に石川数正親子により造られました。五重六階の天守・渡櫓・乾小天守は現存する天守の中ではわが国最古のものです。天守閣からは美ヶ原高原・北アルプスなどが一望できます。
今回、松本をお訪ねしたのは「池田三四郎生誕100年~特別展示」を見るためです。
もともと松本は木工で栄えた町でした。特に家具製作は松本藩の商工業政策の一つとして奨励されました。日本有数の豊かな森林、伐採された木を運ぶことができる河川、材木を貯蔵したり自然乾燥するのに適した湿度など、自然条件も揃っていました。江戸末期には、家具に使用される鉄、金具類の飾り職や錠前職も増え、明治初期には町にそうした仕事場が数十軒も店を構えていたそうです。
しかし悲しいことに松本の家具作りは第二次世界大戦後に衰退します。そんな中で、かつての松本の家具作りの栄光を復活させようと力を注がれたのが、池田三四郎さんでした。その池田さんが生み出したのが松本民芸家具です。
池田さんは、欧米の家庭で使われていた家具のデザインを踏襲し、高度な和家具の技術を持つ松本の職人に、洋家具を作らせたのです。松本民芸家具は、美しく完成されたデザイン、確かな作り、年を経るごとに増す味わいで、長く愛されている家具です。
私は松本駅に降りると、いつも女鳥羽川沿いにある喫茶店「珈琲まるも」に伺います。私はこの喫茶店の落ち着いた雰囲気と家具が大好きです。珈琲が薫り高く美味しいことは言うまでもありませんが、この店の椅子に座ると、ほっと力が抜けるような気がします。

英国ウィンザー調のテーブルや椅子、美しい音楽と上等なコーヒー。その喫茶店はかつては松本深志高校(旧制松本高校)の青年たちが文学やロマンを熱っぽく語り合った場所とのこと。今でも店内の雰囲気に、そこはかとないインテリジェンスが漂っていて、ただ座っているだけで心が落ち着きます。以前、池田さんに「珈琲まるも」の椅子についてお聞きしたことがありました。
「あの椅子はね、私がウィンザー朝の椅子にのめりこんだ最初のころに作ったものです。五十数年のあいだに、浜さんも含めて十万人以上が座ったんじゃないかな。たくさん人に座ってもらって、自然に磨かれて、なかなかの味が出ているんですよ」
池田さんはにっこり笑って、そうおっしゃいました。
中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本でした。中学卒業後、女優としての実力も下地もないままに、ただ人形のように大人たちに言われるままに振舞うしかなかった時、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、柳宗悦の「民藝紀行」や「手仕事の日本」をくり返し読みました。
柳さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。柳さんも松本には何度も足を運ばれています。柳さんを師と仰ぎ民芸家具に打ち込んだ池田三四郎さん。池田さんとは30年あまりのお付き合いでした。お会いするだけで心が安らぐ、そんな懐の広い人でした。
心にふと迷いが出たとき、自分の生き方を見失いそうになったとき、私は列車に飛び乗り、松本に向かいます。
「よう、浜さん、来たかい」と笑顔で迎えてくださいました。
池田さんは、柳宗悦氏との出会いによって民芸の道にはいられた柳先生のお弟子さんでもあります。
「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず努めていれば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたのですよ」・・・と。
池田先生はよく柳宗悦のお伴をして松本の町を歩かれたといいます。時々周辺の山々を見渡せる丘に登っては、ただじっと一点をみつめたまま長い間考え事にひたっている宗悦の横顔を思いだされると話してくださいました。
「あの頃の柳先生はいつも『自然というものは、仏か、仏でないか』と同じ言葉を呟いていらした」
そのエピソードに、いつも神の宿る自然というものに敬虔な気持ちを抱きながら、深い思索を繰り返していたであろう、ありし日の柳宗悦の姿がしのばれます。また同じく宗悦に心酔していた版画家の棟方志功は同じ丘にのぼりながら「自然以上の自然が描けたら、それがまさに芸術と呼ぶに値するものなのだろうなあ」と繰り返していたといいます。
私の目の前で、ストーブに薪をくべながら池田先生は、「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得しているかどうかなんだ」と淡々と語られました。何も問わずとも私の心の内を見抜かれているようでした。
平成11年12月15日。池田三四郎先生はその生涯の幕を閉じました。
松本の町にはそんな精神・文化が今なおしっかり受け継がれています。朝、喫茶店に入ると初老の方々が珈琲を飲んでいるお姿に「いい町!」と思わず呟いてしまいます。
松本市内は時間があれば、のんびり散策ができる広さです。国宝松本城へは松本駅から徒歩20分余り。その松本城二の丸跡にある博物館。途中昔の城下町の風情を残す縄手通りの商店街は千歳橋の左手女鳥羽川沿いに広がる古風な感じの商店街。お店は江戸時代風の建物で懐かしくそして楽しいお店が約40軒。白と黒のなまこ壁が美しい蔵造りの中町通り。ここは、かつて善光寺街道として大勢の人びとが往来した歴史ある道です。土蔵造りのノスタルジックな町並みが広がっていますが、モダンなカフェやクラフトのお店などもあり楽しいエリアです。

さすが、工藝の町です。そして故丸山太郎氏が、日常の生活用品にある逞しい美に魅せられて収集した民芸品が展示されている松本民芸館。駅からも近いアートミュージアム。城下町松本はこんこんと湧き出る名水の街。いたるところに名水が今も湧き出ています。
“われらの青春ここにありき”旧制高等学校記念館はあがたの森公園にあり懐かしい気分に浸れます。(国の重要文化財に指定されています)
明治9年に建てられた旧開智学校(昭和38年まで小学校として使われていた)。そして深志神社は暦応2年(1339年)の創建で古くからの由緒正しき神社。私が訪れた時は境内に真っ白なやまぼうしの花が満開でした。信州手打ちそばのお店もいろいろあります。
8月8日(土)には国宝松本城で薪能が開催。さぞかし幽玄な世界のことでしょう。また8 月22日(土)にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「武満徹メモリアルコンサート」が開催されます。
近くには「日本書紀」に登場する名湯・美ヶ原温泉、松本の奥座敷・浅間温泉、市内を巡るバスが松本駅バスターミナルを拠点に色々なコースがありとても便利です。(1乗車大人190円/1日券大人500円・小児半額)
街を歩いていると住民の方々が気軽に声をかけてくれます。そんな触れあいとやすらぎの街・・・松本をご紹介いたしました。
【旅の足】
《電車・JR松本駅》
東京(新宿)から中央東線(特急2時間30分)
名古屋から中央西線(特急2時間)
大阪から新幹線・中央西線(特急3時間10分)
《車》
中央自動車道経由→長野自動車松本IC
《飛行機》
大阪から55分
福岡から1時間35分
札幌から1時間35分

やねだん~人口300人、ボーナスが出る集落~

先日、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科主催の「やねだん学事始」のシンポジュームを聴講してまいりました。
鹿児島県鹿屋市の柳谷(やねだん)が今注目を浴びています。この柳谷を取材したドキュメンタリィー番組は南日本放送で放映され、数々の賞を受賞しました。韓・中・英語にも訳されています。私も選考委員をしております「農業ジャーナリスト賞」でも受賞されました。
日本中で問題になっている過疎集落。この集落は人口減に歯止めをかけ、独創的な地域再生を目指しました。行政の補助金に頼らず自立した集落再生を見事に描いています。
この日のパネリストは
リーダーの豊重哲郎氏 (鹿児島県鹿屋市柳谷自治公民館館長)
山縣由美子氏 (南日本放送キャスター、デレクター)
佐野眞一氏 (ノンフィクション作家)
椎川忍氏 (総務省地域力創造担当審議官)
コーディネーター
高橋紘士氏 (立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授)
製作者である山縣さんとは授賞式でもお話することができました。12年近く現場に足を運び、住民に寄り添うようにカメラを回し、痛快に!なによりも明るく、小さな取り組みを丹念にとらえています。
人口300人、うち65歳以上が4割。耕作放棄地も空き家・廃屋も目につく農村集落をボーナスが出るほどの集落へと導いたキッカケ、人々の思い。番組を上映し、それぞれのお立場からの発言は大変興味あるものでした。
これからの私たちが暮らす、この日本のあり方を再確認し、地域づくりの在りようを考えさせてくれるシンポジュームでした。
MBCからDVDが出ています。  《やねだん》3,000円

田植えとなんじゃもんじゃの花

先日久しぶりに若狭の我が家へ帰ってきました。
福井県大飯町三森に私の家があります。この家も箱根の家同様、壊される寸前に出くわし譲っていただいたものです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川が広がります。

この20年余り、都会に生きる消費者の一人として日本の農業というテーマに深い関心を抱き、あちこちの農村を訪ね歩くうち、私の中で少しずつ、生産に対する限りない憧れが募っていったのです。
私自身は生産者と呼ばれる者にはなれなくても、自分のこの手で無農薬米を作るという行為に挑戦してみたら、実際の米作りの苦労や喜びがもっと理解できるのではないか、農民の方々のお心に、もう少し近づけるのではないか・・・そんな思いが膨らんで、若狭の私のお米の先生・松井栄治さんの手ほどきで素人の私も田植えから収穫までの経験をさせていただきました。
10年間・10回の経験でした。
日本のふるさとの原風景そのものの若狭三森。松井さんの田んぼの田植えもほぼ終わりました。そして、まもなく、この田んぼや木々に蛍が見事な乱舞を披露してくれます。
帰り道、近くの集落で生まれた作家・水上勉さんの”若州一滴文庫”に寄ってまいりました。
「家には電灯もなかったので、本も読めなかった。ところが諸所を転々として、好きな文学の道に入って、本をよむことが出来、人生や夢を拾った。どうやら作家になれたのも、本のおかげだった。」と水上先生語っておられます。
この文庫には所蔵本・水上文学にゆかりの深い作家の絵画作品、水上作品に登場する人物の竹人形などが展示されています。
何度も通った場所です。今回は、新緑に映える「ヒトツバタゴ」別名「なんじゃもんじゃ」が満開です。まるで雪化粧のような美しい花。20年ほど前に植樹したそうです。「ヒトツバタゴ」はモクセイ科の落葉樹。中部地方や対馬地方に自生し、4つの花びらをつけます。
なぜ「なんじゃもんじゃ」なんて名前がついているのでしょうか。岐阜県瑞浪在住の方がわざわざ自動車に積んで、この花の苗木5本を一滴文庫に運んでくださったそうです。水上さんのエッセイにこのように書かれています。
「天然記念物の学名は、『ひとつ葉』となっているようですが、瑞浪市はみななんじゃもんじゃといっています。ある学者の説によりますと、冬が去って、春が逝き、ようやく青葉の頃がきたというのに、急にこの木にだけ雪がつもるようなので、これはなんじゃもんじゃ、と岐阜なまりでたまげることから生まれた名だときいています」と。
美濃の国では、おっ魂消(たまげ)た時に”なんじゃもんじゃ”というとか。