映画「FOUJITA」

10年ぶりに小栗康平監督の最新作 「FOUJITA」が上映されます。
今から100年ほど前にフランスで活躍した画家・藤田嗣治、フジタが主人公です。
パリが愛した日本人、フジタ
エコール・ド・パリの寵児にして社交界の人気者だったフジタ
戦後の日本で”戦争協力画”を描いて日本美術界の重鎮にのぼりつめて行く
このように書かれています。
タイトルの『FOJITA』は、フジタのフランス語表記。
小栗康平監督は1945年生まれ。
1981年「泥の河」で監督デビュー。1984年の「伽倻子のために」、1990年の「死の棘」はいずれも海外で高い評価を受け、小栗監督の戦後3部作と位置づけられています。1996年には「眠る男」でモントリオール映画祭・審査員特別大賞を受賞。
その小栗監督の最新作は、画家・藤田嗣治の物語です。日本とフランスの合作です。大変興味があり封切は11月14日なのですが、事前の試写会で拝見いたしました。
私は一昨年、フジタが人に会うことを避け、パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルで亡くなるまで過ごしたという家を訪ねました。小さな村の一瞬「これがフジタの家?」と思わせる質素でありながらも実にフジタらしい家。夫人と二人きりの隠遁生活で病に冒されたフジタはなぜかとても気になる画家でした。
梁の落書き、ミシン(このミシンが映画では象徴的に描かれています)、筆を洗うシンク、髭剃り用の鏡。すべてがフジタの手づくりなのです。
その画家・藤田嗣治を小栗監督はどのように描くのか・・・と大変興味がありました。
1920年にフジタがパリで「乳白色の裸婦」を日本画的な手法で描いて絶賛された一方、戦時下の日本でフジタは陰影の濃い西洋の歴史画のような絵を描きます。
フジタは”フーフー”というお調子者を意味する愛称で呼ばれ、夜毎にカフェ・ロトンドに繰り出しパリ時代だけでも三人の女性と結婚し、華やかな日々を過ごした画家です。
第二次世界大戦。1940年、フジタはパリがドイツ軍の手に落ちる寸前に帰国し、戦時の日本ではそれまでの裸婦とは異なる”戦争協力画”を描いていくのです。
そこにどのようなフジタの心の葛藤が内包されているのか・・・。
小栗監督はどのように描写するのか。
映画はある意味、そのような先入観念を裏切ります。
これまでの藤田嗣治のイメージとは異なる人物像が描かれ、従来の映像美をしのぐ美しさが全体に広がっています。隅々まで厳しく計算されつくされたワンショット、ワンショット。
『静謐で圧倒的に美しい。絵画と映画とが融合してフジタの知られざる世界が現出した。これはフジタのいわゆる伝記映画ではない』と書かれています。
正直最初は戸惑いました。
『これはやはり監督から直接お話を伺いたい!』そんな思いでラジオのゲストにお越しいただきました。
監督はおっしゃいます。
『フジタが生きた二つの時代、二つの文化の差異。パリの裸婦は日本画的といってよく、反対に日本での”戦争協力画”はベラスケス、ドラクロワなどを手本としてきた西洋クラシックの歴史画に近いものだ。これを、ねじれととるか、したたかさととるか。ともあれ、一人の人間が一心に生きようとした、その一つのものだったのか、を問いたい』と。
主演はオダギリジョー。
資料はざっと読み、早く事実から離れた。映画は独自の時間の中で成立するもの。物語は歴史に縛られがちだが、感情は歴史的事実からは自由であるもの。

そして合作ならではのご苦労や、逆に映画を国民的に文化と捉える風土。映画論。など等、大変興味深いお話が伺えました。
戦後70年という節目に上映されることについても伺いました。
封切は11月14日(土)から、角川シネマ有楽町や新宿武蔵野館はじめ、全国各地で上映されます。
ラジオ放送は
文化放送 11月8日 日曜日
「浜 美枝のいつかあなたと」
10時半~11時
ぜひお聴きください。
私は封切られたらもう一度、大きなスクリーンで愉しみます。
映画の公式サイト http://foujita.info/

秘島図鑑

皆さまは「ひとう」というと温泉かな、という響きがございますでしょ。
今日のお話は「秘島」です。
私は青春時代、”島”にかぎりない興味と愛着をもって、旅を続けた時代がございます。遠い島は、鹿児島県のトカラ列島。何しろ50年ほど前にはたしか10日に1回、運行されている村営船のフェリーのみでした。今は週2回運行されている「フェリーとしま」があるそうですが。鹿児島を出港したフェリーは、口乃島、中ノ島、諏訪乃瀬、小宝島と向かいます。その小宝島では最後の小学生の卒業式があると聞き、「小宝島・子宝島」とのイメージで12時間ちかくかかって行くのです。
まったく、よくそのようなエネルギーがあったものです。デッキから見る島々には何かロマンを感じ、うっすらとした島には興味がわきます。
沖縄の島々はもちろんのこと、海外の島まで足を延ばしました。
今年の四月、天皇皇后両陛下が、元日本の植民地で太平洋戦争の激戦地だったパラオ共和国を訪問し、元日本兵や遺族も見守る中、日本の慰霊碑だけではなく、アメリカ軍の慰霊碑にも献花されました。そのときの「このパラオの地において、私どもは、先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた困難の道をしのびたいと思います」というお言葉を聞き、思わず胸が熱くなりました。
私がパラオへの旅をしたのはまだ10代のころです。美しい海、砂浜、夜は星が輝き、ホテルもない島での滞在はアメリカ軍の官舎のような建物に宿泊ができました。女性はまだ腰に布を巻くだけ。外国人は私とアメリカからの20代の女性だけ。グアムから週2便ある飛行機で行きました。その前にはサイパンにも何度か訪ね、チャモロ人、カナカ人の友人もできました。深い戦争の爪痕も残っていました。
パラオの周りには美しい島々があります。マップ・ヤップ島。小船で連れて行っていただきました。夜になると村の長老が焚き火をおこし、かつて自分たちの先祖が星明かりをたよりにカヌーで島に渡ってきたこと・・・などを語り聞かせてくれるのです。涙がでるほどの美しさです。そして、朝、澄んだ向こうに見える無人島を眺めていると『あ~この先の島にも行きたいな!』と思ったものです。
そんな思い出の島々。今回『秘島図鑑』(河出書房新社)をお書きになった清水浩史さんは、それを実現なさっておられるのです。帯には「本邦初の”行けない島”ガイドブック」遠く離れた小さな島々から、今の日本が見えてくる!!と書かれています。
清水さんは、1971年生まれ。早稲田大学在学中は、早大水中クラブに所属。ダイビングインストラクター免許を取得し、今も国内外の海と島の旅を続けています。テレビ局勤務を経て、東京大学院(環境学)博士課程中退。現在は編集者、ライターとして活躍しておられます。
「私の行けない秘島」のお話を伺いたい!とラジオのゲストにお招きいたしました。数々の文献を読み込み、美しい部分だけではない、南亜黄島など漂流して生き抜いた人や、アホウドリ捕獲のため撲殺があり環境破壊してしまって無人島になってしまった島。沖大東島(ラサ島)は、60年近く米軍の射爆撃場になっていたこと。その歴史や生活、かつて営まれていた人々のドラマ。清水さんが「秘島図鑑」で掘りおこしてくれました。
西乃島は、噴火で今なお成長中。見守りたくなります。 『地球』という星に生きている私たち。地球という星が生き物であり、今も変化し続けています。 そのことをふまえて「秘島」を見ると、旅の愉しみもさらに深くなるのでしょうね。
『この先にはもう行けない!でも行きたい!』そんな55年近く前の思いを叶えてくれた一冊でした。
放送日10月18日(日曜)10時半~11時文化放送「浜美枝のいつかあなたと」

朝が来る

辻村深月さんの「朝が来る」(文藝春秋)を拝読し、ぜひ、お会いしお話を直接伺いたいと、ラジオのゲストにお招きいたしました。
家族のあり方、子どもを持つこと、また子を産みたくとも産めない女性、子供を手放した女性。異なる立場の2人を軸に物語は展開されていきます。
日本ではまだ養子縁組がさほどポピュラーにはなっていません。そして、不妊治療も夫婦にとっては大変です。まして女性の場合、仕事をしながらの通院は負担が大きく大変です。
家族3人で穏やかに暮らしていたものの、ある日、自宅マンションに若い女性が訪ねてきます。ここから先は是非、実際に読んでいただきたいです。
直木賞作家、辻村深月さんは1980年、山梨県生まれです。
2004年、「冷たい校舎の時は止まる」で文学新人賞を受賞し、作家デビュー。
2011年、「ツナグ」で吉川英治文学新人賞受賞。
2012年、「鍵のない夢を見る」で直木賞を受賞なさいました。
作家デビューしてからも6年間はふる里、山梨でOL生活をしていました。
「その間の経験はとても大切な時間でした」とおっしゃいます。
私は辻村さんのミステリー、ファンタジー、青春もの・・・などコンスタントに、いろいろなジャンルの小説を発表する原点と書き続けられる理由を知りたいと思っていました。幼い頃から、読書が好きで、絵本、漫画・・・なんと小学3年生で小説(ホラー)を発表しているのです。
スタジオにいらした辻村さんは妊娠8ヶ月目。第2子を妊娠中でした。「子どもは育てている、というより”育てさせてもらっている”という感じです」と笑顔で語られる姿がとても清々しいです。きっと大変なことも沢山おありでしょう。
女性として、働き方や生き方が問われる時代。
30代の辻村さんの生き方、考え方を知りたく思いました。
そして、今なぜ今回のようなテーマを選ばれたのか。
息切れせずに、いい作品を書き続けることが出来る源は何なのでしょう。
小説のラストシーンがとても素晴らしいのです。
考えさせられる素晴らしい小説でした。
お話はぜひラジオをお聴きください。
2週にわたり放送いたします。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで。
9月27日と10月4日放送です。


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『いい人みつけた』

先週の水曜日、TBSラジオの「大沢悠里のゆうゆうワイド」に生出演させていただきました。
もう30年続いている番組です。そんな 「ゆうゆうワイド」にゆかりの人がその週は交代でゲスト出演致しました。私は20年前まで13年間、その中で10分の帯番組を月曜~金曜日に出演いたしました。
浜美枝の「いい人みつけた」というタイトルで、ゲストをお招きしお話を伺いました。最初の1年間だけでも、そうそうたる方をお招きしているのですね。文園社から『ただいまラジオで放送中 浜 美枝の「いい人みつけた」』という本を昭和59年12月1日に初版で出しております。
淡谷のり子・安野光雅・内海桂子・大塚末子・大貫栄子・佐藤直子・篠田正浩・妹尾河童・高石ともや・中山あい子・姫田忠義・柳家小三治・村松友視・・・さんなど、素晴らしいゲストの方々です。
亡くなられた方もおられます。
走馬灯のように、当時のことが蘇えります。
ブルースの女王とよばれる淡谷のり子さんがスタジオにお越しくださったのは”花曇”の日でした。(ノートにその日の天候と印象に残る言葉を綴っておりました)薄曇で生暖かいその日、もうすぐ桜の花の咲く季節。
“クラッシックをもう一ぺん勉強したい。それが私の夢なの・・・”とおっしゃるスタジオには、すごくいい香りがしたのです。黒水仙」とか。フランスにたった一軒あるんですって売っているお店が。淡谷さんらしい素敵な香りでした。
「音大出て、世の中に出ました。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたのでまず買ったのが香水なの。」
19歳と17歳のご両親の結婚。すぐに生まれたのが淡谷さん。ご苦労されたお母さまについて「あんなできた母っていないですね。こどものときから勉強しろって一度も言わないの、でも読んでいた本は、新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本をかくして読んでいましたよ。」
「あの母があったから私がいるんだと思いましたね。今でもそう思っています。」
歌に燃えて、歌いつづけて54年。
「戦時中には警官と軍隊に、ずいぶん始末書書いたり・・・慰問にいくのに、モンペはいてクラッシックとか、そんなみっともない姿でステー出られませんから。ちゃんとイブニングドレスで。最後まで何を言われても。非国民だとかいわれてね。」
若輩の私は先輩の仕事をもつ女性としての男性観、結婚観にも興味がありました。一度淡谷さんは結婚したことがあります。
「私ああいうこと嫌い、結婚は。自分が一番大切なの、私は。歌が大切なの。私には主婦の才能がないのよ、あれは才能がいるのよ、みそ汁つくったり、ご飯炊いたり・・・なんてできない。それでね、私はちょっと自分だけが大切・・・それではいけないかと思うんですけどね、自分だけを大事にしたみたいで。ところがね、私は歌い手になったんだから、やっていかなきゃいけないでしょ。私は大体男を追い回すほうなの。追い回している間が楽しいの。今になってみれば、アラ探しをするのがイヤだったのね、きっと。」
・・・・・女性として今まで生きてこられて幸せでしたか・・・・・と伺ってしまいました。
「女であってよかったと思います。男でなくてよかったと思いますね。女だからこうやって歌を歌って生きていかれるのですもの。女性はきれいに生きていける、美しく年をとりたいの、私は。」
39歳だった私には淡谷さんが出された「生きること」を読んでもほんとうのところ、奥深くまでは理解できていなかったでしょう。「生きることは愛すること。全てを愛せるということは、幸せだと思うんですよ。」
肌は白く、艶があって、シワがないのです。天性の美しさに加えて、毎日のお手入れ。女性としての先輩、淡谷さんに大敬服するとともに、その美しさへのひたむきな努力と歌にかける情熱のかけらを、私なりに頂戴したいなと思いました。
淡谷さんの歌 『恋人』。いまだに耳の底に残っています。
歳月を超え、世代を越え、男も女も超えて、一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに、ようやく私自身が意味を理解できるようになってきたのかも知れません。
  ゆで玉子むけばかがやく花曇    中村汀女
こうして、先週はたまたま昔の自分自身を知るきっかけをいただきました。
この秋には72歳になる私。
淡谷さんのように背筋を伸ばして、ひたむきに生きていきたいものです。

東京の台所

台所という響きに、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。
料理や笑顔が生まれる場所、あるいは見られたくないという人もいるかもしれませんね。
東京の台所
台所の数だけ、人生がある。
お勝手から見えてきた、50人の食と日常をめぐる物語。
朝日新聞ウエヴマガジン「&W」で大人気連載が書籍化されました。
収納の工夫・料理道具・便利食材・・・などどれも魅力的です。
著者の大平一枝さんにラジオのゲストとしてお越しいただきました。
どこか昭和の香りのする台所。
作家でエッセイストの大平さんは長野のお生まれ。編集プロダクションを経て、1995年、ライターとして独立なさいました。女性誌などを中心に、大量生産・大量消費社会とは対極に生きる人々のライフスタイルや人物ルポを執筆。
著書も多く、「もうビニール傘は買わない」「日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ」など多数。
若いカップルから高齢者の暮らし。東京暮らしは楽しさだけではなく、孤独もつきまとうとか。ある75歳の女性から言われたそうです。
「豊かな孤独は大事。でも孤立はだめ。とくに年寄りにはね。」
私も我が家の台所を思い出しました。
下町の亀戸でダンボールの箱を作るささやかな工場を営んでいた我が家。父は出征し、空襲の続く下町で、乳飲み子の私と兄、祖母。戦火がはげしくなり、人々がどんどん疎開を始め、私たち親子も神奈川の長屋へと疎開し、工場も全て失いました。
母は仕立ての仕事が忙しく、家事の多くを5~6歳の私が担いました。お米のとぎ方、かまどの火のこと、おかずの心配・・・貧乏のつらさにうちのめされそうになると、母は私に聞かせたものです。
「亡くなった女工さんたちの尊いいのちとひきかえに得たいのち、それが、あなたのいなちなのよ。大切にしなければ・・・・」
6畳一間と板の間。かまど、水道は外の共同水道。みんなの台所を預かることは誇らしく、一日30円の生活費。それを上手にやりくりし、家族で囲むちゃぶ台での食事は幸せでした。
でも、今でも記憶に残る不思議な思いでがあります。夕暮れどきに、かまどに薪をくべて、火加減みていたのです。薪の炎の加減でごはんの炊き上がりが違うのですから、私はかたときもかまどを離れず火をみつめていました。オレンジ色の炎をみつめていたとき、唐突に泣けてきたのです。炎のゆらめきと涙が重なり、私は一人、おいおいとないたのです。なぜかそのときの底知れない哀しみを、よく覚えているのです。その時は自覚はなかったけれど深い深い寂しさのようなもの。
夕方になって日が暮れて、お母さんはまだ帰らない。このこと自体、子どもには切ないものだけど、私はこのことより、炎の奥のほうにみたものに心が突き動かされたのです。後になって知る孤独感。かまどの火をみて泣いたという女性の話しを私はずいぶん聞いています。
ごはん焚き、湯わかし、風呂焚き。女の人はいつも火の前にすわりこんで、火に思いの丈を打ち明けているかのように丸く炎と対しています。火に語りかけています。
そんな時代の我が家の台所。お勝手。
現代はシステムキッチン。
明るくて美しくて・・・
この「東京の台所」を読み、お話を伺っていると何だか時代は変わっても、そこに「人間の匂い、営み」がみえてきて幼い頃の自分に出逢い、胸がキュンとしてきました。
放送日:7月5日
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時


浜美枝のいつかあなたと~具志堅用高さん

誰からも愛されるキャラクターの具志堅さん。
若い世代は、具志堅さんの現役時代を知らない人も多いそうです。昨年、ボクシング界に多大な功績を残した人物を称える「国際ボクシング殿堂」入りを果たされました。6月にアメリカで表彰式がおこなわれ出席なさるそうです。
この度ラジオのゲストにお招きいたしました。
沖縄が日本に復帰してから4年後に、沖縄初の世界王者になり沖縄の期待を一身に背負ったのです。沖縄本島の甲南高校入学後ボクシングをはじめ、3年の時にインターハイ・モスキート級で優勝。
本当は野球少年で夢はプロ野球選手だったそうですが、小柄なためにあきらめ高校卒業後、拓殖大学に入学するために羽田空港に向かったら、協栄ジムに連れていかれそのまま入門。1976年、当時の日本記録、プロ9戦目でWBAジュニアーフライ級王座を獲得。以後、13回連続防衛に成功。現在も日本記録です。
実は私は以前のプロボクシングの大ファンでした。具志堅さんは1955年のお生まれですが、私と同じ年にファイティング原田さん、輪島功一さんがいらっしゃいます。力道山のプロレス。そしてプロボクシングをテレビ観戦するのが楽しみでしたし、直接リングサイドでも応援いたしました。
今回、具志堅さんをお招きしお話を伺いたかったことには、そのお人柄にあります。
石垣島出身ですが、ボクシングのために本島に移り、お風呂屋に下宿し、仕事が終わってから風呂屋での練習。東京に出てきてプロになってもカツ丼屋でアルバイトをしながらの練習。始めての挑戦で大金を手にしたものの知り合いに貸してしまい全額戻ってこなかった時も「相手が困っていたからしょうがないです!」とけろっと言う。
具志堅家は400年以上続く琉球士族の家系。代々、琉球王国の役人だったそうです。お父さまは石垣島でカツオ漁を始め、お母さまは、幼い頃にご両親を亡くし大変な苦労人。本島近くの久高島(神さまのお住まいの島)出身。具志堅さんには大変厳しいしつけをされたそうです。
そんなお母さまが大好きで『母には感謝しています』と。
試合前は神さまに祈り続けてくれたそうです。
「苦しいときに頑張れたのは父母のお陰、感謝しています」と感謝という言葉を繰り返します。
「テレビでバラエティー番組に出させてもらい、友達作りを学んでいます。ボクシングの孤独な世界から、新たな世界へ今一生懸命です」
そして、現在は後進の指導にあたっておられます。
いくつになっても、向学心と感謝の気持ち、明るく前向きな具志堅用高さん。ほんとうに素敵な方でした。たくさんお話をうかがいました。
今回は2週にわたり放送いたします。ぜひお聴きください。
放送日 文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで。
4月26日と5月3日です。

『食と農でつなぐ』

東日本大震災から、もうすぐ4年。心豊かな生活があった福島。そこでの生活を長年支えてきた女性農業者「かーちゃん」たち。その、かーちゃんたちがスタートした「かーちゃんの力・プロジェクト」。会長の渡邊とみ子さんはおっしゃいます。(彼女は飯館村から福島市に移りましたが思いは飯館村にあります)
「原発災害で全てを失ったかーちゃんたちが立ち上がりました。悔しくって沢山泣いたけれど、かーちゃんの味と技を埋もれさせたくないという強い思い!人間としての生きがいづくりのために頑張るかーちゃんの姿は地域を元気にします」と。
原発事故で避難を余儀なくされた町や村には「かーちゃんたち(女性農業者)」が地域の特産品や加工食品を作り販売する場所がありました。農家民宿で手料理でもてなし都会の人々との交流もはかってきました。厳しい自然環境のなかで生きていくための仕事の場、しかしそうした環境を奪われ、その知恵や技をどう生かしていったら良いのか・・・。
そこで福島大学小規模自治体研究所とともに「かーちゃんの力プロジェクト協議会」を立ち上げ、かーちゃんたちの力・知恵を活かす場をつくりました。その中心的役割を担っていらっしゃる福島大学教授・岩崎由美子さんをラジオのゲストにお迎えし、お話を伺いました。
早稲田大学大学院・法学研究科卒業後、1991年、社団法人「地域社会計画センター」研究員となり、 福島大学助教授に。現在は行政政策学類教授。この度、同じく福島大学の塩谷弘康教授と「食と農でつなぐ 福島から」をお書きになりました。
「福島の今を考えることが、日本の未来を考えることにつながってほしい」そんな思いで書かれた本です。
故郷はいま・・・・・・阿武隈地域は、26市町村にまたがる標高200~700mの丘陵地帯です。しかし、原発災害により、住居が制限されたり、県内外に避難している人もいらっしゃいます。飯館村には私は25年ほど前に何度かお訪ねしました。官民一体となって首都圏の人々の「田舎暮らし」をサポートし、素晴らしい町づくりをしてきました。
「かーちゃんの力・プロジェクト協議会」では、世界のなかでも厳しいといわれているウクライナ基準(野菜1キロあたり40ベクレル未満)よりさらに厳しい基準を設け、1キロあたり20ベクレル未満の食品のみロゴ入りシールを貼って販売しています。
これまでつちかってきた、かーちゃんたちの技を活かし、「こころざし」とビジネスのバランスをとり、営利事業だけではなく、食文化の継承・発信や、仮設住宅支援など「経済的自立」のための仕組み作りもしている、と岩崎さんはおっしゃいます。
森の恵み、豊かな大地、澄んだ水・・・・・
自然と共にあった暮らしを突然奪われ辛く苦しい日々だけど、仲間とつながればなんとかなる!かーちゃんたち(女性農業者)は、手を取り立ち上がりました。あぶくま地域の味、かーちゃんの味をみんなに食べてもらって福島を元気にしたい。故郷の仲間たち、そして、とーちゃん、じーちゃん、ばーちゃん、こどもたち・・・みんなの笑顔のために今日も元気に腕をふるいます。(プロジェクトの活動より)
全国からも多くの応援があるそうです。
ラジオは2週にわたり放送いたします。
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時 3月8日と15日
岩崎さんの本「食と農でつなぐ 福島から」は岩波新書から好評発売中です。
サポーター会員の募集について
年会費1万円で、かーちゃんたちが作った故郷の味を、夏と冬の年2回(1回につき3千円相当・送料込み)でお届けします。4千円分はプロジェクト活動費として商品開発や研究費。活動内容はHP内のブログなどに掲載されています。
TEL 024-567-7273
FAX 024-567-7283


『裏が、幸せ。』

来月14日に北陸新幹線が開通し、注目が集まる日本海側。
金沢~東京間は2時間28分で結ばれます。
素敵な本に出会いました。『裏が、幸せ。』(酒井順子著)
エッセイストとして活躍しておられる酒井さん。常に時代を先取りする鋭い視点で、話題作を刊行してきました。今回の「裏が、幸せ。」なぜ、「裏」なのか・・・。酒井さんはおっしゃいます。「日本の大切なものは日本海側にこそ存在する!」と。
私が旅をはじめたころ、50年ほど前は”裏日本”と言っていましたし、その方が私はしっくりします。だって「裏が表」と思っておりますから。本来言葉としての表と裏に優劣はないのですが、ただ裏日本という表現が不愉快な人もいたため、メディアで自粛したのです。
「深く優しくしっとりとした、日本の中の「裏」が抱く「陰」。それは日本に住む全ての人達にとっての貴重な財産なのであり、私達がこれから必要とするものは、そんな陰の中にこそ、あるような気がするのですから。」(本文より)
文学、工芸、鉄道、原発、観光など日本海側の魅力が伝わるエッセーです。私は随分前ですが、毎日放送「手づくり旅情」という番組に出演し、全国の伝統工芸名人の職人さんを訪ねて旅を続けておりました。お訪ねした家々、何軒になるでしょう。みつめさせていただいた手元、一体幾人になるでしょう。”日本の日本的なるもの”と取材で気づかされ、私達が住むこの小さな島国、日本に限りない愛着を持ち始めました。北海道から沖縄まで、どこも愛おしいのですが、日本海側は特別です。だって若狭に農家を移築してしまったぐらいですから。東京生まれ、太平洋沿岸で育った私。自分の体に合った水、空気、風、土・・・とても合うのです。
酒井さんのご本にも出てきますが、金沢の金箔。能登の漆。浄土真宗の信仰が盛んな北陸。仏壇は大きく金箔が施されています。黄金の輝きを放つ仏壇。それには意味があると酒井さんはおっしゃいます。「仏壇がまるで極楽のような存在感を放っているには理由がある」とのこと。東京だったら浮いてしまいますが、広い部屋、広い家にある黄金の輝きを放つ仏壇の背景には”闇・うす暗さ”というものも必要です。金を生かすためための黒、そして黒を生かすための金。私も何度も経験しました、その闇の暗さを。
能登半島、輪島に行った時、輪島はまさに海の文化の拠点。北前船や遠い大陸から客人がもってくるものが寄って寄って文化を伝えて、そういう歳月が、輪島塗の合鹿椀につながるのですね。日本海・城崎に行った時は小雨が降っていました。山陰の城崎を私は志賀直哉「城の崎にて」の文章でしかしりませんでした。電車にはねられ、その後、養生に出た志賀直哉の生と死に対する清冽な視点が、私の城崎旅情の第一印象になりました。かつてこのひなびた温泉町に、日本でただひとつの麦わら細工が、また気の遠くなるような手仕事で作られていました。
今でも大切に持っている麦わら細工の箱。今の私達の暮らしは明るい光のなかにあります。その明かりが眩しすぎ、人の心を落ち着かなくさせている・・・ということもあると思うのです。
北陸新幹線の開業について一抹の不安もあると、酒井さんはおっしゃいます。日本海「裏が、幸せ。」を残してほしい・・・ともおっしゃいます。
ぜひ、ラジオをお聴きください。そして、ご本をお読みください。
裏が、幸せ。」2月25日発売予定 (小学館)
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜日 2月22日 10時半~11時

『ボケてたまるか!』

この度、「ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ」をお書きになった週刊朝日編集委員・山本朋史さんをラジオのゲストにお招きしお話をうかがいました。
山本さんは1952年、福岡県のお生まれ。リクルート事件、オウム事件、KSD事件など取材に携わってきた敏腕記者です。その山本さんの認知症早期治療の実体験・300日間の記録です。
今、日本で認知症の方は462万人いて、その予備軍を含めると860万人を超えるそうです。長年、山本さんは活字の世界にいるため、記憶力には自信があったそうですが物忘れがひどくなる。仕事でダブルブッキングをした時にはショックを受けたそうです。きっかけはご自分の責任でペットを死なせてしまい、ペットロスからくる喪失感や無気力感、自己嫌悪。そこから軽い鬱になられたとのこと。そんな山本さんが医療関係者に相談し、大学病院の精神科「物忘れ外来」へと行くのです。
表紙の帯にはこのようなチェックポイントが書かれています。
○ 俳優の名前が出てこない
○ 漢字を忘れてメモが出来なくなる
○ 予定をダブルブッキングした
○ 買ったはずの勝ち馬券を買い間違えていた
○ 認知症かと不安で夜も眠れなくなった
・・・・・こうしてぼくは、「物忘れ外来」に飛び込んだ。と。
う~~ん。
私だって漢字は出てこない、人の名前が出てこない、スケジュールは間違えないようにダブルでメモをする。列車のチケットを勘違いで購入する・・・など等。
「これって年を重ねていけば当然よね」なんてのん気に思っていました。しかし、お話を伺っておりますといかに初期にトレーニングをすれば回復するかがわかりました。本人が自覚する。身近にいる人が感じる。友人達が感じる。様々ですが、本人が自覚し早く治療を受けることの大切さを実感いたしました。そもそも「物忘れ外来」があるなんて知りませんでした。
ラジオでは具体的なデイケアでのトレーニングや生活習慣などの見直し、ご家族の理解を得ることなど大変参考になるお話でしたし、御著書は分かりやすく、美術療法や筋肉訓練、日常生活の中からのトレーニングなどが書かれています。
「ボケ記者といわれてもいいと告白」しそれを支えた同僚。なんと、週間朝日でルポを連載。同じ悩みを抱えている人も多いと思っての連載、出版だそうです。
症状はまだ軽いが認知障害の疑いがあると言われた。まだ認知症まで進んでいない。しかし、このまま放っておくと数年後には症状が進んで認知症になる可能性がある。恐ろしかった。危機一髪だった。
(はじめより)
去年、大きな国際会議でオープニングスピーチをなさったとのこと。そう、他人事ではありませんよね。ご興味があったらご本を読んでください(朝日新聞出版)。そしてラジオをお聴きください。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
2月8日(日曜)10時半~11時までの放送です。


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食生活

新潟の三条市が学校給食の牛乳を一時やめた、と報道がありました。
皆さまはどのようにお感じになられましたか?
牛乳には鉄分、食物繊維、ビタミンC以外の栄養も含まれています。私は朝起きて一番に口にするのが牛乳です。この時季ですと温めて飲むのがいいのでしょうが、冷たい牛乳を飲むと腸の働きがよくなり気持ちがすっきりするので毎朝かかすことができません。
正しくは分からないのですが、給食のごはんに合わないから・・・と父兄の考えがあったとのこと。私は食生活が変わり、今の子供たちは牛乳を飲み、米飯でも問題はないと思うし、そのままが無理なら牛乳を料理に入れてでも食したほうがよいのでは・・・と思います。
そこで専門家のご意見を伺いたいとラジオのゲストに中村丁次さんをお招きしお話を伺いました。
中村さんは、1948年生まれ。神奈川県立保険福祉大学の学長で現在、日本栄養士会・名誉会長、日本栄養学教育学界・理事長などを務めておられます。今までおよそ5万人の栄養指導を経験なさってきました。中村さんはおっしゃいます。
「戦前戦後にわたり、日本人は食料不足や主食偏重の食生活のために、各種の栄養失調に悩まされていた。しかし、経済状態や食料事情の好転、さらに栄養教育の普及により栄養状態はよくなった。古典的な日本食に、高エネルギー・高脂肪・高ビタミン・高ミネラルの欧米化が導入され、多くの栄養失調は解決した。ところが、近年、肥満、高脂血症、高血圧、糖尿病、動脈硬化等の生活習慣病がでてきた。」
今、50代以上の男女で、男性の3人に1人、女性の4人から5人に1人が肥満とのこと。何が原因かというと運動不足、高カロリー、食べすぎ、だそうです。逆に女性で20~30代の5人に1人が痩せすぎというデータがあるそうです。これはダイエットが原因の一つなのでしょう、とおっしゃられます。そして体型を気にし過ぎて痩せたまま妊娠すると栄養失調の子どもが産まれ、痩せた赤ちゃんは将来肥満になる確立が高いそうです。
そうですよね・・・体内で飢餓状態にあるとリパウンドしてしまう、ということです。また最近では、女性だけでなく、中高年の男性の間でも炭水化物の糖質を制限するダイエットが流行っていますが、それは違います・・・と。私たちが日々取り入れたい、健康的な食生活は、ごはんを主食とし、卵、肉、魚、豆腐、野菜を意識し、1日1杯の牛乳、そして果物を加えれば栄養は偏らないとおっしゃいます。
日本人は戦後様々な文化を取り入れてきたが「左手のお茶碗を忘れなかった」と。たしかにそうですよね。最初の話しに戻りますが、「学校給食での牛乳」では私も納得いくお話が伺えました。「食の楽しみ方」など、有意義なお話を聞かせていただきました。
ぜひラジオをお聴きください。
放送は来年になりますが1月18日放送
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜10時半~11時です。