浜美枝のいつかあなたと – 野村万作さん

私の出演している 「文化放送・浜美枝のいつかあなたと」日曜10時30分~11時に先日、和泉流狂言師で人間国宝の野村万作さんをお客さまにお迎えいたしました。
野村万作さんは、1931年、六世の野村万蔵さんの次男として東京にお生まれになりました。
三才のとき「靭猿」の子役で初舞台。以来、これまでに、三番叟、釣狐、花子(はなご)など流儀にあるほとんどの作品を上演されてきました。
当代の人気狂言師、野村萬斎さんのお父様でもいらっしゃいます。大変興味深く、示唆にとんだお話でしたので当日伺ったお話を。
そして、1月17日には宝生能楽堂で「野村狂言座・歌争」を拝見いたしました。
春ののどかな風景を背景に、とぼけた味わいのある作品を見事に演じられ、野村万作さんの鍛錬され尽くした芸を堪能いたしました。
狂言の稽古は、親から子へ・・代々受け継がれてゆくもので、万作さんは子供の頃、お祖父さま(先代萬斎)から稽古を受けられたそうです。狂言の稽古は親子の間柄だと、どうしても厳しくなってしまい、お父様の稽古は厳しく、お祖父さまは優しい記憶があるそうです。今は孫の裕基君(小学生)の稽古もつけるそうです。
万作さんは今も年間200回ほどの舞台を勤められ、健康法はまさに舞台の本番とそれにそなえての稽古が健康の源かもしれません。
野村家では、1950年代から、さまざまな海外公演を行ってきました。フランス・イタリア・ソ連・ギリシャ・ドイツ・中国・・・1963年にはシアトルでアメリカ人に狂言を教えたとのこと。狂言には型があるが、「父の舞台は自在だった。そこに自由を感じた。共演して、酒盛りのシーンを演じる。父親は、飲むふりをしているのに、顔が赤くなって、酒のにおいがするようだった」古典なのだが、自在に演じていらしたそうです。
野村万作さんは、いまから10年ほど前・・・60代の半ばの頃、稽古場に飾ってあった表彰状や記念品をすべてしまったそうです。
それは過去の栄光にすがるのではなく、つねにゼロからはじめるという決意。
「父、六世万蔵も「肩書き」や「権威」を嫌い、つねに庶民の立場で狂言を演じた。決して偉くならない人だった」・・・と。
その姿を思い出し、自分もゼロから狂言に取り組みたいと・・・。
このお話に、万作さんの本質が見えました。
人間国宝、まさに国の宝でありながら、「偉く」ならずに、狂言の道を研鑽する・・・。
厳しく、そして優しい人柄を感じさせてくださる野村万作さんでした。

ラジオな日々 (文化放送4月15日放送分)

今回ご紹介させていただくのは、脚本家で作家の藤井青銅さんの最新刊「ラジオな日々」です。会社員時代に「星新一ショートショートコンテスト」に入選したことをきっかけにラジオの放送作家として大活躍することとなる藤井さんの自伝的な小説であり、大変素敵なゲストをお迎えすることができました。
-80’s RADIO DAYS-
サブタイトルにもあるように80年代はラジオ全盛の時代でした。放送作家出身の作家や文化人が綺羅星の如く顔を揃えており、ラジオは多くの人にとって憧れであり、青春そのものでした。そんなラジオの世界の真っ只中にいらしたのが藤井さんです。
「夜のドラマハウス」「オールナイトニッポン」あの時代を共有する世代にはドキドキするほど懐かしい響きです。当時のラジオは、手作りでした。喫茶店を転々としながら手書きで原稿を仕上げ、それをラジオ局に持ち込んで番組が作られていく様子が生き生きと描かれています。IT化が進んだ現在では考えられないような暖かい空気感がそこにはありました。IT化により双方向型のコミュニケーション手段が発達したと言われますが、電波の先には、たくさんのリスナーがいて、その声がハガキや電話で帰って来ます。ハガキや電話の声には豊かな表情がぎっしり詰まっているのです。
私もそれを日々感じながら、長年ラジオの仕事を続けさせていただいています。そして、それを支えてくださっている、放送作家をはじめ、スタッフの方々の奮闘を見ると、その精神はあの頃と変わらない。そう嬉しく感じるのです。これからも、それを忘れずにいようと思うのです。

ラジオな日々 ラジオな日々
藤井 青銅

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食べる落語

脚本家であり、伝統芸能のジャンルで多くの作品を発表されている稲田和浩さんをお迎えしました。
最新刊「食べる落語 いろはうまいもんづくし」をご紹介させていただきます。
落語に登場する食べ物に焦点をあて、それぞれを落語の面白さとともに解説していらっしゃいます。食べ物に興味のある方はもちろんのこと、落語にまだ馴染みのない方にも是非読んでいただいて落語への入門書としていただきたいと思います。また、江戸の文化風習を知る本としてもおすすめです。
落語に出てくる食べ物、有名なところでは、やはり蕎麦、鰻、秋刀魚、メザシといったこころですよね。それ以外にも、鍋焼きうどん、羊羹、焼き芋、そして、「はんぺん、はす、芋を甘辛く煮たものを丼に二杯」。。お腹がすいてきそうです。
江戸には、精米屋がいて、白米を食べていたこと。それ以外のおかずは味噌汁や漬物ぐらいで質素だったこと。住宅事情により、意外にも外食産業が発達していたことも知りました。ベトナムやタイ、インドネシアなどの国々を訪れると、今でも同じような路地の風景に出会います。
「早朝は、あさり・しじみ、豆腐、納豆。朝になると八百屋、昼間は飴屋、ゆであずき屋、それから屑屋なんかも来て、夕方にはまた旬の食材を売りにくる。夜中は、夜鷹そば、鍋焼きうどん、深夜には稲荷寿司。こうして長屋の一日が過ぎていったのである。」
現代より質素な食事でも、そこに豊かさを感じます。旬の食べ物と地産地消。今私たちが必死に取り戻そうとしていることが、当たり前のようにそこにあったことを思い知らされます。

食べる落語―いろはうまいもんづくし 食べる落語―いろはうまいもんづくし
稲田 和浩

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京須偕充さんをお迎えして

お父様は東京で二代目、お母様は四代目の江戸っ子。というわけで、京須さんは足して二で割っても、四代目の、つまり生粋の江戸っ子です。
本職はCDの録音制作のプロデューサー。特に落語には造詣が深く、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」をはじめ、古今亭志ん朝、柳家小三治などの録音も担当なさり、本職以外でもTBSの「落語研究会」の解説もつとめ、「古典落語CDの名盤」などの著書もしるされていらっしゃいます。
そんな京須さんがこのたびお書きになったのが「とっておきの東京ことば」。この本の中には、懐かしい東京ことばがぎっしり入っています。
「自分の家で炬燵に入ったまま、相撲の本場所を見られるなんて夢にも思わなかったよ。いい世の中になったもんだ」
「遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道って言うけど全くだね。五分ぐらいで着くっていうからそのつもりで歩いたんだがね、どうしてどうして、たっぷり十五分もかかるんだ。一杯食っちまったよ」
  
「このごろは、どういうものか挨拶が変わってきたね。玄関開けて、『こんちは』だの『おはようござい』っていうのはまァ悪かァないんだが、『ごめんくださいまし』ってのを、ついぞ聞かなくなったねぇ」
「そう言えばそうだねえ。大威張りで入って来るってわけでもないんだろうが、ごめんくださいぐらい言えなくちゃ、ま、お里が知れるってもんさ」
「儲かるそうだよ、やってみるかい」
「ごめん蒙りましょう。うまい話は危ないから」
目で読むだけでなく、声に出してみてください。耳に心地よく、いいまわしが本当に洒落ているでしょう。
話し手がどんな暮らしをしている人なのか、どんな考え方をしている人なのか、どんな心意気を持っているのか、などなど、これらの会話から、伝わってくるような気がしませんか。
昭和三〇年代、東京オリンピックくらいまでの東京では、こういう豊かな言葉を生き生きと人々がやりとりしていたのですね。
今、東京で話されている言葉は東京ことばではなく共通語。やはり、比較すると、暮らしの肌触りがするりと抜けてしまっているような感じがします。暮らしから自然に生まれてきたことばと、そうでないものとの違いでしょうか。
東京ことばは「べらんめぇ」口調だと思っている人が多いことを、京須さんはとても残念がってもいらっしゃいました。
江戸東京の本来のことばは、相手を気遣い、尊重し、まずは柔らかく繊細丁寧にやりとりするもの。ことをあらわにせず、お互いのことを察しあい、譲り合い、必要があれば相手を傷つけることなく断り、きれいにことをおさめる……それが洒落や粋に通じていくのだとか。それでも通じなかったときには、辛らつな皮肉やちょっとした悪態をつき、それでも通じなければ、はじめて「べらんめぇ」に至るのだそうです。京須さんいわく、「朝から晩までべらんめェじゃ、「江戸文化」が聞いて呆れらァね」
東京ことばが失われていくのは、東京がかつてもっていた人と人とのおつきあいのあり方が消えていくというのと同意義だとも感じさせられました。なんとかして、東京ことばを残し、復活させられないものかしら。下町育ちの私としては、いてもたってもいられないような気持ちになってしまいました。

とっておきの東京ことば
とっておきの東京ことば 京須 偕充

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小松政夫さんをお迎えして

「どうして! どうして! おせーて!」「もう、イヤ、こんな生活!」といったギャグや「しらけどり音頭」、淀川長治さんのものまねなどで人気のコメディアンであり、同時に最近では本格的な演技力が求められる芝居でなくてはならない個性ある俳優としても活躍なさっている小松政夫さん。
その小松さんが「のぼせもんやけん」(竹書房)という本を出版されました。
小松さんはお父様を早くになくされ、俳優をめざして上京したものの、生活のために働くことがまず必要だったため、魚河岸の若い衆を振り出しに、さまざまな職業を転歴、自動車のセールスマンとなりました。そして植木等さんの付き人兼運転手として芸能界に入られました。
この本には、小松さんが植木さんの付き人になられるまでのことがまとめられているのですが、そのおもしろいことったら、ありません。おもしろいばかりでなく、私はぺージをめくるごとに、懐かしさでいっぱいになりました。ああ、こういう人がいた。こういう町の風景があった……。昭和30年代の活力ある日本がどのページからも濃厚に香ってくるのです。
「ブル部長はモーレツな人でした。自分にも他人にも厳しく、仕事一筋に生きた人です。こういうとんでもないバイタリティとこだわりを持った人たちに、日本は支えられていたんだと思います。日本はぎらぎらと燃えていました。明日という明るい未来を信じて猪突猛進しておりました」(小松政夫著「のぼせもんやけん」より)
私も、中学を出てすぐにバス会社に就職。バスの車掌となりました。毎朝5時前に起きて、炭火を入れたコテをおこし、制服の白襟をピンとさせて、6時前には出社。バスの掃除をしました。私の担当するバス路線は、工場との往復で、朝早くから工場勤務の人がのってきました。終バスは遅くまで工場で働いていた人でいっぱいでした。汗と油でどろどろになった作業服を着て、座席に座るなり、窓ガラスに頭をつけて腕を組んで、こっくりこっくり、寝てしまうんです。でも、みんな、同じ時代に働く仲間というような気持ちがあったような気がします。そして、みんな、まっとうに働けて幸せだと思っていたようにも感じます。
私は、クレージーキャッツの映画にたくさん出演させていただいたので、当時植木さんの付き人であった小松さんとも顔なじみでした。いちがいに昔がいいなんていう気持ちはありませんが、シンプルで素朴で、誰もが希望を持ちうる時代が昭和30年代だったような気がします。今、昭和30年代がブームというのも、時代が持っていたあの活力とあたたかさに惹かれるからなのではないでしょうか。
ラジオの収録では、本を書いた思いなどを語っていただきました。お互い、同じ時代を生きてきたものですから、話が弾んで……。枠内におさめるために、泣く泣く切ってしまった話もたくさん。もっともっとみなさまにお聞かせしたかった……。
とにかく元気が出る本なので、ぜひ、本屋さんで見かけられたらお手にとってみてください。ラジオの収録後、「小松政夫とイッセー尾形びーめん生活2006in東京」を拝見しました。これは、現代に生きる人間たちの姿を描くオムニバススタイルの二人芝居。小松さんはその中で、初老になってキャバレーの呼び込みに雇われた男、どこか陰のあるバイオリニスト、妻に養ってもらっている自称小説家、そして、何十年間もロシア演劇だけを上演している劇団のベテラン女優を演じていました。思い描いていたような生活から、どこかで道を外れ、人生の旅路に迷っているような人たち。それは、現代人が心のどこかにその存在を感じている「自分の姿」でもあるかのように思えました。人生の味は苦い、しかし、捨てたもんじゃないというメッセージをいただいたように思います。

のぼせもんやけん―昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。
のぼせもんやけん―昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。 小松 政夫

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高田宏さんをお迎えして

1990年に読売文学賞を受賞した高田さんの名著「木に会う」を読んだときから、高田さんは、気になる存在でした。前世は木ではなかっただろうかと思うほど、私は木に深く引かれていて、大きな木に出会ったりすると、幹に手をあて、木肌に耳をつけて木の鼓動を感じずにはいられないようなところがあるのです。
人間の歴史に向き合い、生命ある樹木に直接触れ合いながら、木とともにある文化、木とともにある生活、木とともにある生命への思いを綴った高田さんの「木に会う」は、以来、私にとってかけがえのない1冊となりました。
このたび高田さんが「木のことば 森のことば」と知り、早速拝読し、ゲストとしてお迎えすることができました。この本も、読み進むうちに、今、自分が森の中にいるような、木と対峙しているような、そんな気持ちにさせてくれる1冊です。美しさと荒々しさをあわせ持つ森。木や生き物が発する生命の息吹が満ちた森。森という自然のドラマについても、あますことなく教えてくれます。
高田さんは、低く静かに話される方でした。こちらが一心に耳を澄まさずにはいられなくなるような、そんな魅力がありました。高田さんは、森にあっても、木を前にしても、こうして語りかけ、たぶん、私がそうしたように、耳を澄まして、森や木の声を聞いていらしたのではないでしょうか。木や森と共鳴する高田さんの言葉は強く優しく、私の胸に、しみわったっていくかのようでした。きっと、リスナーのひとりひとりの胸にもしっかり届いたのでは。
この本は、人間の生き方をも考えさせてくれる1冊です。本屋さんで見つけたら、ぜひお手にとってみてください。
「わたくしたち木は 
争うことなく生きているのでございます。
嵐の日 強い風に枝を吹き折られることもございます
雪の日 雪の重さで枝を折られることもございます
それでも わたくしたち木は
優しい大地に根を張って
静かに生きているのでございます
(中略)
あなたがた人間は忙しく動きすぎるのではありませんか
ときどきはわたくしたち木のそばにおいでになって
静かに休んでみたらいかがでしょうか
わたくしたちのように争わないで静かに生きてみたらどうでしょうか
あなたがたがわたくしたちの幹に手をあててくださるのを
わたくしたちはいつも待っているのでございます」
(「木のことば森のことば」1章「木のことば」より)

木のことば・森のことば 木のことば・森のことば
高田 宏

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『浜美枝のいつかあなたと』-文化放送

2001年に始まった「浜美枝のいつかあなたと」
文化放送・日曜日朝10:30~11:00)が5年目を迎えようとしています。
その前の番組「浜美枝のあなたに逢いたい」(文化放送)から数えると、
私がラジオの番組のパーソナリティをつとめてから、はや、8年がたちました。毎回、ゲストをお迎えして、さまざまなお話をお聞きしています。
番組をはじめた当初は、こんなに長く続くとは思わなかったのに、今ではすっかり、ラジオのおもしろさに目覚めてしまい、収録が毎回、楽しみです。
ラジオは、リスナーとパーソナリティがある種、とても近いんですね。
ラジオはリスナーとパーソナリティが、ごくごく密な関係になれるメディアなのでしょう。ゲストとパーソナリティの関係もそう。ゲストもナチュラルに、お話しくださいますし、私も構えず、力まず、いつもの自分と同じ感覚で、
質問したり、感心したり。リスナーからいただくお手紙からも、私と同じ気持ちでいてくださることがわかって、嬉しくなることもたびたびです。
これまでに、多くの素敵なゲストとお目にかかってきました。1回きりの放送ではもったいないような素晴らしいお話もたくさん。そこで、このコラムでは折にふれ、とっておきの放送秘話をご紹介したいと思います。