日本酒で乾杯推進会議・フォーラム

“乾杯三態・日本のかたち 日本の心”が10月2日に開催され全国から多くの方が参集されました。
この会は平成16年に発足し、代表に国立民族学博物館名誉教授・石毛直道氏、歌舞伎俳優・市川団十郎氏はじめ各界からのメンバーで構成され、「100人委員会」が中心となり、「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていこうというものです。
私も今年から100人会のメンバーに入れて頂き、先日のフォーラムになりました。今回のフォーラムはホストに民族学者の神埼宣武氏、銀山温泉藤屋女将・藤ジニーさん。
ゲストは歌舞伎俳優 中村富十郎氏、塩川正十朗氏、そして私、浜美枝でした。
中村富十郎氏からは、歌舞伎のなかでの飲酒の演じ方などをご紹介して頂き、塩川さんからは、酒宴の席に出られる機会の多い中で、どのような乾杯、献杯の形があるのか・・・・又神埼さんからは乾杯の歴史などの興味深いお話がありました。
私には全国を旅する中でどのような日本酒とのかかわりがあるのか・・・好きな酒器は?というようなご質問がございました。
そこで、こんな話をさせて頂きました。
日本酒は、私にとってほかのお酒とは一線を画す、特別なものという気がいたします。成人式に初めて飲む日本酒。結婚式の三三九度。家を新築するときに建て前の儀式の前に飲み交わすお酒。日本人の慶事になくてはならないのが、日本酒だと感じます。
と同時に、お神酒とよばれるように、日本酒は聖なるものという意識が私には強くあるんですね。
私は、古民家12軒を譲り受け、その材料を使って作った箱根の家に住んで30年になります。今でこそ、古民家作りは静かなブームになっていますが、当時はそんなノウハウはなく、設計から施工にいたるまで、すべて手探りの家なのです。
私も工事前から箱根の家の近くにアパートを借りて、そこに寝泊りし、とにかくできる限りのことをしました。施工に入る前に、古い柱や梁の一本一本を、自分の手で磨きました。そして、土地の神様である箱根神社のお神酒で一本一本、清めました。
日本酒で清める事で、土地の神様に守っていただけるような気がいたしました。
私は、今朝も箱根の山を約1時間歩いてきたのですが、その道筋にある箱根神社九頭龍神社の分院には、いつもお神酒が置かれています。日本酒が聖なるものであり、聖なる者にささげるものだという思いが、今も脈々と受け継がれているのを感じずにはいられません。
また、私は40年にわたって、日本全国を旅してきたのですが、旅をすると、いつもいろいろな方がお迎えくださって、地元のお酒で乾杯となります。
一期一会の出会いに、そしてその地を訪ねることができたことに感謝して、私も「乾杯」させていただきますが、そのときのお酒はまるで賜りもののような気がいたします。
美味しく場を楽しいものにしてくれるだけでなく、人生の句読点にもなる場に必ず登場し、杯を合わせる日本酒は、私にとっても非常に重要な意味を持つものであると、改めて感じます。
「日本酒で乾杯推進会議趣意書」の中にこのように書かれております。
===============================================================
“最近のニッポン人には日本が足りない”と多くの心ある日本人は、今日の日本、明日の日本に危惧の念を抱いているのではないでしょうか。
日本が誇りとすべき伝統的な食文化や伝統芸能、伝承していく作法や風習もグローバルスタンダードとか高度情報化社会というものの表面的な形にとらわれて次第に失われていこうとしています。
私たち日本人は集まって食事をするとき乾杯します。「みなさまのご発展とご健勝を祈念して」何に向かって祈るのでしょうか。
神様、仏様を対象とする特別の宗教心ではありません。
我々の人知や人間の力を超えたものすべてに対して謙虚に祈るのではないでしょうか。
「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていくことが今程必要な時はありません。
===============================================================
私自身、和服をさりげなく着て箱根の我が家で囲炉裏を囲み日本酒で”乾杯!”と言いながら仲間たちと酌み交わす時間は至福のひとときです。

韓国 食アメの旅

昨年同様、9月初旬に、コスモスの花が美しく咲く韓国に行ってまいりました。
“食アメニティーを考える会14回・韓国で農村女性グループと交流する会”
総勢40名です。毎年一度、ヨーロッパでグリーンツーリズムを学ぶ会を12回行い、昨年から韓国のパルタン地域、華川郡トゴミ村の自然学校、龍湖里(ヨンホリ)村では農家民泊・・と4泊5日の旅です。
私は、これまで40年にわたり、日本の農山漁村を歩いてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
日本の民藝運動の創始者である柳宗悦先生が書かれた本に、中学時代に出会いました。無名の人が作った道具に美を感じる・・・用の美の世界に惹かれ、感動し、以来、人々の暮らし、そして道具というものに、ずっと興味を持ち、その思いを育んできました。
「あちらに古い美しい道具があるよ」
「あそこのお蔵を見せてくださるそうだよ」と誘われれば、仕事の合間を縫って駆けつけました。
日本の古く美しい道具を見たいと始めた旅の行き先は、もっぱら日本の農山漁村でした。やがて私は、そこでごく自然に、農や食の現実に触れることになりました。
「今、農業は大変でね」とか、「国の政策がこうだから」とか、「跡継ぎがいなくて」 等々。おしんこをご馳走になりながら、サツマイモをいただきながら、農家のおばあちゃんや おかあさん、おじいちゃんや、おとうさんから、胸の内をお聞きするにつけ農の厳しさ、又楽しさ、ときには政治に左右される農のありようなどを、実感するようになったのです。
縁あって農政ジャーナリストの会の会員となり、政府の各種審議会の委員も務めさせて頂きました。
現場を歩くうちに農山漁村の女性たちとたくさんの出会いを重ねてきました。それは、私にとって、女性たちの強さ、優しさ、未来へとつなげていくしなやかな力を、改めて再認識する日々でもありました。
そこで生まれたのが「食アメニティーコンテスト」であり、研修旅行で知り合った人たちとの「ネットワークの会」です。
私は会の会長をさせていただいておりますが、横の連帯を大切に、 ”農業をもっと元気にしたい” “食を正面から取り組みたい”など思いを同じにする全国の女性達の交流の場となっています。
「浜さん、私、この会で一生つきあえる友人と出会えたのよ」
「ひとりでは淋しいときもあるけれど、同じ思いの友がいる。自分の味方になって励ましてくれる友がいる」などという声を聞くことが出来ます。
自然発生的に生まれた会も今や全国で活動する女性たちをつなぐ線の役割を果たしているのではないかと自負しております。
前置きが長くなりましたが、そんな仲間との韓国の旅でした。
台風9号が上陸する朝、羽田からの出発となりました。秋風が立ち、美しい韓国の農村地帯が私達を迎えてくれました。大好きなコスモスが一面に咲き、韓国の美しい季節です。
今日は韓国の「親(しん)環境農業」についてお話いたします。
パルタン地域は、ソウル市民の飲み水となる川、ハンガンの上流にあたります。ハンガンの水はソウル市、周辺都市に住む2000万人の飲み水となります。この地域では、ハンガンの水質を守るために、環境を守るための農業が1994年から行われてきました。
農薬や化学肥料の使用抑制、糞尿の排出禁止などの規制強化をきっかけに、最初は12軒の農家が「環境を保護し、水質を保全しながら自分たちも生計を立てられる方法」をめざし、パルタン上水源有機運動本部を設立、今では生産者会員が100軒という組織になりました。
日本ではまだあまり知られていないのですが、韓国では有機農産物をはじめとする親環境農業による農産物の生産、そして有機農産物の消費拡大のため活動など、実に積極的に行われているんですね。
日本では、2001年4月から有機認証制度が始まりました。しかし、販売価格に反映されにくいため、マーケットの広がりは思ったほど進んではいません。
韓国では、国家主導の下、生産者へのバックアップが充実しています。その追い風をうけ、消費者の認識も近年、目をみはるほど向上してきました。特に、パルタン地域の親環境農業は、ソウルに住む都市の消費者を巻き込む
形で推進していて、特に市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり一戸あたり月約360円負担します。
町で出会った若者に、この負担金、パルタンのことを聞いてみました。「もちろん知っていますよ」。「ソウルに住む主婦でパルタンのこと、知らない女性はいませんよ」との事。市民の信頼を得ての農業、環境保全が行われているのですね。
長年、日本の農業に携わってきた私にとっては、羨ましいような思いがございました。
安全な農産物を食べるためには、農村の環境を守ることが不可欠だということ、その底流に流れているのは、消費者の理解なしの農業の未来はない・・・ということ。それをあらためて認識した旅でした。
自然学校内の食堂で韓国のオモニにキムチ作りも体験させて頂きました。本場の冷麺の美味しかったこと。
最後の日の夕ご飯はサムゲタンとチジミで、韓国の食も満喫。南大門市場で粉唐辛子などどっさりおみやげを買って家路につきました。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く」

今回ご紹介するのは、福島県舘岩村(たていわむら)です。
この村は2006年3月に合併し現在は南会津町 旧舘岩地域となっております。人口2200名。
「ヘルシーランドたていわ」ほんとうの自然と、いろり端の暖かさを残した、素朴でやすらぎのある村をめざし高山植物の宝庫であり、田代山湿原や湯ノ岐川、西根川、鱒沢渓谷の季節の移ろいの美しさは素晴らしいです。
舘岩村は、福島県の西南端の栃木県境に位置し、四方を1.500m級の山々に囲まれ、面積の95%が豊かな森林に覆われた、まさに「山紫水明」の美しい山村です。会津若松から車で、おおよそ2時間。現在は「会津鬼怒川線」が開通しているので東京からは電車・バスで4時間の地点となりました。
冬季は気温が低く雪に閉ざされますが、様々状況を克服するために行政・住民が一体となって、美しい山々、いわなが住む清らかな川、そしてひなびた湯の花・木賊温泉といった豊かな自然を大事にしながら、スキー場もあり若者にも魅力ある雇用の場も確保しています。
交通手段は
電車の場合・・・浅草から東武鉄道鬼怒川温泉を経由して会津高原尾瀬口下車。そこから会津バスで40分。舘岩村下車
車の場合・・・東京から宇都宮・・東北自動車道で西那須野・塩原ICから400号で上三依。そこから121・352号線を経て舘岩村へ。
新幹線の場合・・・東北新幹線郡山。磐越西線で1時間、会津鉄道で会津若松・会津田島経由、会津高原尾瀬口下車。会津バスに乗り換え舘岩村へ。会津高原からのバスの車窓から見える風景は素晴しいです。
村は、4つの地区に大きく分かれますが、どこも自然と調和のある村づくりを目指しています。
① 上郷地区は、スキー場を中心としたヨーロピアンスタイルのホテル、ペンションなどリゾート地環境が形成されています。
② 湯の花地区は温泉地で田代山も近いため自然を生かした滞在型。木賊温泉の共同浴場・露天風呂は700年前からあるとされ、地域住民の井戸端会議の場でもあり観光客・釣り客のふれあいの場になっています。(ちなみに、私はまだ入っておりません。次回はぜひ!)
③ 下郷地区は公共施設が集まっていますが、貴重な「曲家」が数多く残って いる前沢曲家集落もこの地区にあり、景観にあった保存がされています。
曲家とはエル字型の平面をもつ民家で、かつては農耕馬とともに生活をしていました。
囲炉裏のある、うわえん・したえんにある「ユルリッパタ:囲炉裏辺」では家人ないし客の座る場所が決まっていました。
③宮里地区は「さいたま市立舘岩 少年自然の家」があり都市との交流も盛んです。貴重な露天風呂もあり、地域は、2,059mの帝釈山を最高峰とし緑の山と清流に恵まれ、新緑・紅葉と四季折々の景観が美しいです。
伝統文化の保存にも住民の皆さまは積極的に取り組んでおられます。”湯の花神楽”いつ頃から始まったかは定かではありませんが、「舘岩 民俗芸能保存会」によって継承されています。
17歳の私はヨーロッパに一人旅に出たのですが、その農地の広大さに感動し、食料の自給できる国は滅びないと聞いたのも、この旅のときでした。
イタリアもフランスもドイツも、都市からほんのちょっと離れただけで、農村の風景は変わります。地平線まで真緑の麦が青々と揺れて広がって、まるで麦の海原のように見えたこと。忘れられません。
地方は高齢化、過疎化も進んでいますが、舘岩の方々の「村への想い」には頭が下がります。
今は亡き東京大学名誉教授でいらした木村尚三郎先生は、あるシンポジウムで次のようにおっしゃいました。
「その土地ごとに、暮らしの在り方や知恵があります。全世界どこでも共通する技術、文明を追求する時代から、その土地にしかない生きき方、そこに安心の根拠を生み出す時代に、今、全世界が大きな転換期を迎えています。技術文明の時代から、土地ごとの地方文化の時代です。土の匂いのするものが再び大事となり、ふるさと志向が生まれています・・・・」
この言葉を聞いたときに、私は身体が震えるような感動を覚えました。
「土の匂いのするものを大切にする」
「その土地に生きることを自分の中心に据える」人が少しづつ増えていったら日本は変わる・・・・そう信じております。
舘岩の赤かぶの栽培の歴史は古く、この種類のかぶは舘岩村でしか赤く育たないとか・・・。 伝統的な食べ方として、かぶ飯・かぶ練りなど数多く伝承されています。
集落内の水路や水場は今でもお野菜や洗濯物の洗い場として女性達の交流の場として使われています。
昔、木地師たちが、山仕事を始める前に山の神へ供え、作業の安全を祈願して食べていた「ばんでい餅」も美味。味は、うるち米のあっさりとした食感でじゅうねん味噌の香ばしさが食欲を誘います。
紅葉の季節、露天風呂にでも入り村の方々とおしゃべり・・・なんていいですね。

敬老の日に思うこと

私には全国、いえ外国にも20人から30人のおばあちゃんがいます。
あちらこちらのおばあちゃんを訪ねるのが楽しいし、旅の途中で、さまざまな温もりもいただいた、忘れられないおばあちゃんがたくさんいらっしゃいます。
もう、だいぶ前、私は「日本人再発見の旅」という企画で全国各地のおばあちゃんをお訪ねしました。その企画は「おばあちゃんの宝もの」といいまして、おばあちゃんの人生で大切にしてきたコトやモノ、思い出でを聞かせていただくというものでした。
その中から、忘れられないひとりのおばあちゃんのお話をさせて頂きます。
今は亡き松崎せいさんは、島根県の松江にお住まいでした。
松崎さんの宝物は姉様人形。
松崎さんが嫁いだ家が傾いたとき、この家のおばあさまが内職として紙人形作りに取り組みました。
松崎さんが嫁いだ家には、松平家の奥女中として高い教養と行儀作法を身につけたおばあさまがいて、その方が姉様人形の作り方を教えてくださったのでした。
子供、娘、女の紙人形がひとつの箱におさめられています。女の一生がお下げと桃割れと島田、三つの髪型で表現されていていました。古裂れと綿を和紙にくるんで頭を作り、これに鼻をつけて上張りし、その上に胡粉を塗って顔ができます。
髪は半紙に墨を塗り、かつらを作ります。使うノリはご飯を練ったもの。それは可愛い紙人形でした。お会いしたとき、松崎さんは84歳でしたが、肩凝りしらず、目もよく見えて、細かい手仕事を器用にこなしていらっしゃいました。
「人形作りで、自分も作られたかもしれません」と語ってくださいました。
私がお年寄りにひかれるのには、ある原体験というか、原風景があります。
幼児期を過ごした川崎の下町で私は近所のおばあちゃんに育てられたのではないかと思います。母は仕立て仕事で忙しかったのです。ワタナベのおばあちゃんは、いつも私の長い髪を手のひらですいてくれ、キレイにお下げに結ってくれました。志村のおばあちゃんは、夜に宿題を見てくれました。
母が忙しかった分、私は町内のおばあちゃんに育てられたも同然です。55年の歳月が過ぎても、私の後頭部から両サイドの髪の毛にキレイにキュキュとお下げに結ってくれたおばあちゃんの手のあとを感じることができるのです。
感触の記憶は確かです。
おばあちゃんになるのも、悪くはないなと思う、この頃です。

広島のこと

夏の照りつける太陽の中、8月末広島を訪ねました。
“広島市民文化大学”のお招きを頂きました。
昭和18年生まれの私にとって、広島、長崎は特別な場所です。
当日は広島記念公園内の広島国際会議場フェニックスホールで1500名の方々が待っていてくださいました。
思わずこんな言葉からお話をさせて頂きました。
本日、こちらに着きまして、気がついたら、空を見上げておりました。私は、この地、広島に、夏にお伺いすると、夏空を見上げずにはいられないんです。
まぁるく広がる青い空、もくもくと浮かんだ入道雲。そしてその下に広がる家並み、ビル。人々の活気あふれる表情。
そうした風景を目に焼きつけ、安堵すると同時に、62年前のことを思わずにいられません。時を経ても、決して風化することのない痛みを、この土地は経験してきたからです。
私は今、63歳です。終戦のときは1歳。戦争の記憶をたどるには幼すぎる年齢です。でも、なぜか強烈に覚えているというか、私の心に戦争の悲惨さが深く刻まれているのは、おそらく次のような体験を経ているからでしょう。
終戦の年の3月、東京は東京大空襲にあいました。我が家は、その空襲に襲われたまさに、下町にありました。私の家では、ダンボール工場を営んでいたのですが、すべてを失いました。家も、道具も、わずかな写真も、一つ残らず灰になってしまったのです。
 
でも、空襲の前日に、我が家は親戚の家に疎開して、家族の命が助かりました。下町では大勢の人がなくなったというのに、我が家は全員、無事だったんです。
物心ついたころから、母や祖母から、その話を何度も何度も繰り返し聞かされました。また、「私たちの命は、もらった命よ」と、母はことあるごとに、私たち子供にいってきかせてくれました。
祖母も「なくなった人たちに申し訳ない」と繰り返していました。
 
そのためでしょうか。私が実際に経験したわけではないのに、下町の空襲や近所の人々との永遠の別れのことまで、まるで見てきたことのように記憶されてしまったのです。
 
そしてここ、広島の土地に立つと、私も母や祖母と同じことを思わずにはいられません。自分の命がもらった命である、と。そして、自分の胸に問わずにはいられません。亡くなった多くの人たちに申し訳ないと思うような生き方をしてはいないか、と。

続きを読む 広島のこと

ラジオ深夜便-「箱根」

今回ご紹介致しましたのは、私が住んでいる箱根です。
箱根は、夏がハイシーズン。
箱根のあちこちでたくさんの観光客に出逢います。
そして、山の花や植物を見にいらっしゃる方々も多く、殆ど、女性です。
40代、50代、60代の仲良しグループが、楽しそうに花と一緒に写真を撮ったり、俳句を詠んだり、スケッチをしたり皆さん女学生のように楽しく山や草原を歩いていらっしゃいます。
私の家族が箱根に引っ越したのは、昭和54年、1978年の事でした。
まだ家が6~7分できた頃。
「なんで山の中に住むの?」と、良く言われましたが、これは私の夢でもありました。
箱根に住んで30年がたとうとしております。
小学校を箱根で過ごした子供たちは、お陰さまで、皆な、植物好きな子供に育ちました。
箱根の植物は、私の子供たちの、もう一人のお母さんだったかも知れません
もう皆社会人になっておりますが、小学生の頃、長男は学校帰りに山ほどのつくしを帽子にいっぱい摘んで帰り、
「ママ、つくし、煮てちょうだ~い」って、帰ってきたのも昨日のことみたいです。
箱根の自然は、私自身にも多くの恩恵がありました。
木々や花々、雲や富士の山々はどんな時もやすらぎをくれます。
箱根で暮らしながら、子供たちとしょっちゅ行っていましたのが、
今回ご紹介する「箱根湿生花園」です。
小田原駅又は湯本駅よりバス{湖尻桃源台行き}仙石案内所前下車、徒歩8分くらい。
新宿駅よりバス(小田急高速バス)仙石案内所前下車・徒歩8分
車の場合は東名御殿場ICより20分
強羅からもバスがでています。
施設めぐりバスでのんびり・・・もよいかもしれません。
開園期間  3月20日~11月30日(上記期間無休)
開園時間  午前9時から午後5時まで
標準見学時間  約40分
駐車場    無料
この季節は夏の日差しを浴び、コオニユリが一層色鮮やかです。
園内には、低地から高地まで日本各地に点在している湿地帯の植物1,100種が集められているそうです。
その他、珍しい外国の山草も含めると1,700種の植物が四季折々に花を咲かせます。
園内は
 ○ 落葉広葉樹林区
 ○ ススキ草原区
 ○ 低層湿原区
 ○ ヌマガヤ区
 ○ 高山の花畑区
 ○ 高層湿原区
 ○ 仙石原湿原区 に分かれています。
この仙石原は、江戸時代「千石原」とか「千穀原」と呼ばれていました。
古文書によると、慶長十六年(1611年)には五名の村人が二町歩余りの土地を耕していて、
「耕せば千石はとれる」ということが、ここの地名の由来だそうです。
この地に立つと、昔の人びとの苦難がどんなものだったか、千石の米を収穫することの困難さが、偲ばれます。
山に囲まれた仙石原は、二万年前は湖の底だったそうです。
今は干上がった状態ですが、一部残った湿原が湿生花園として私達を楽しませてくれます。
この時期は、コオニユリ、ヤマユリ、レンゲショウマ、ミソハギ、フシグロセンノウ、シシウド、コバギボウシ、ハス・・・等が咲いています。
そして、夏の企画展「世界の食虫植物展」が8月31日まで開催されています。
今、ガーデニングが盛んです。
湿生花園は巨大な寄せ植えガーデニングです。
初期の湿原から発達した湿原まで、順に見て回れるように設計されています。
いつ行っても、植物の多様な生命に感動してしまいます。
花や植物のにぎわいに鳥や虫、それからきっと、イタチやタヌキやカヤネズミなども棲み、夜になればにぎやかに鳴き合うのでしょう。
箱根に住んでよかったなあ、と、しみじみ思うひとときでした。
植物とふれあって帰る道すがら、もう気持ちが癒されているのを感じました。

そして、もう一ヶ所
私のお気に入りの場所をご案内いたします。「箱根ラリック美術館」です。
私は、ルネ・ラリックの作品には目がありません。
中でもグラスはどれも造形的に美しく、思わず手にとってしまいたくなります。

ルネ・ラリックは、当初、アールヌヴォーを代表する宝飾品の作家として名声を博していました。
豪華なダイヤやルビーではなく、エナメル(七宝)細工や金といった身近な素材をモチーフに、軽やかで繊細なアクセサリィーをつぎつぎに発表しました。
それまでの宝飾界の常識を破る斬新さに魅了されます。
きっと当時のパリジェンヌたちは、さぞ熱狂したことでしょう。
1500点に及ぶコレクションから230点が常設展示されています。
ラリックの生涯の業績を見ることができます。

今、ラリック美術館では特別展として「しあわせの髪飾り・ラリックの櫛、日本の櫛」展が開催されています。
ヨーロッパの伝統と日本的要素、独創性が結集したラリックの髪飾りと
江戸から昭和初期にかけて製作された日本の櫛。
蒔絵や螺鈿、象嵌といった工芸から、ラリックはどのような影響をうけたのでしょうか。
女性の夢やロマンチックな気分をかきたてる、
「しあわせの髪飾り」
11月25日までの開催です。
場所は先ほど申し上げた「仙石案内所前」すぐです。
開館時間 午前9時~午後5時
営業日    年中無休
(展示替えのため臨時休館あり}
私は美術館をひとまわりした後はCAFEで、窓に広がる風景を見つめながら、
軽くシャンパンかワインを飲みながら「私の人生に乾杯!」と、独り言。
箱根にいながら至福の時を頂きます。
箱根湿生花園とラリック美術館をご紹介いたしました。

ギャルリー田澤の展覧会

京都のギャルリー田澤の展覧会を昨年に続き今年も我が家を舞台に開催いたしました。
本日が最終日。
今年は「藤井勘圿絵画展」と「洋燈と卓上の美」
藤井先生の絵を中心に、オイルランプ(舶来・国産)の灯りが室内を優しく包みこんでくれます。
テーブルには、ラリック、シュナイダー、バカラのランプ。
花器、グラス、デキャンタ、等々。卓上の美を演出して頂きました。
田澤夫妻の厳しい審美眼で選び抜かれた素晴らしいものばかり。
私は毎日は在宅出来ませんでしたが、夜帰宅すると会場行き、静かに鑑賞させていただきました。
古民家の柱や梁を生かして建てた我が家とのコラボレーションは本当に楽しみです。
私は藤井さんの作品に出会った瞬間、新しい日本画だと確信しました。
泊や墨、水彩、鉛筆、岩絵の具など多彩な画材と技法を使い繊細にして華麗、古きものへの憧憬も感じさせる作品の世界。
我が家の広間に藤井さんの「蓮」の絵を求めたのはその力に魅惑されたからに他なりません。
この10日間はまさに至福の刻でした。
風の匂い、そして今このときの光に照らされた空間の中で多くのお客様との出逢いをいただきました。
我が家も喜んでいるかのようです。
紫陽花の満開の箱根にて
07-07%E7%94%B0%E6%BE%A4%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%20001.jpg
07-07%E7%94%B0%E6%BE%A4%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%20011.jpg
07-07%E7%94%B0%E6%BE%A4%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%20015.jpg
07-07%E7%94%B0%E6%BE%A4%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%20041.jpg
07-07%E7%94%B0%E6%BE%A4%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%20044.jpg

ラジオ深夜便-「美瑛町」

今夜ご紹介するのは 北海道 美瑛町(びえいちょう)です。
”丘のまち・・びえい”と言われる一面麦畑の広がる美しい町で旭川と富良野の中間に位置します。
わたくしはJR富良野線でまいりました。
このJR美瑛駅は全国駅100選にも選ばれている美瑛町の石山の美瑛石で建築した名駅舎です。わたくしが以前訪ねましたのは真冬でございました。
旭川から美瑛、そして、あの富良野まで片道100キロの旅を致しました。
旅の目的のひとつは、私の大好きな風景写真家・前田真三さんの写真美術館を見たかったことと、南富良野にある映画「鉄道員」の舞台になった駅も見たかったからです。
その時は、降り積もる雪の真っ白い世界が永遠に続きそうな道を行きました。
行けども行けども雪。白銀の世界は、自分がどこにいるかを見失いそうになる様でした。
前田真三さんのフォトギャラリーは「拓真館」といいます。
この写真ギャラリーは廃校になった小学校の跡地で、地元・美瑛町の協力を得て開館。
上富良野町付近に広がる丘陵地帯に位置し、周囲は見渡すかぎりの丘です。
1万坪に及ぶ敷地には白樺の並木道やラベンダー園などがあり、今回は早咲きのラベンダーが風に揺れいい香りが漂っていました。これから8月上旬まで咲いているそうです。
「二人の丘・前田真三・前田昇作品集」にはポピー、ひまわり、カラシ菜、そして一面のラベンダーなど初夏の丘を彩る様々な花があり、目と心を楽しませてくれます。
今では、観賞用に、アロマテラピーにと日本にも定着した
ラベンダーは、地中海沿岸地方原産のハーブだそうですね。
上富良野では、1950年頃から栽培がはじまったそうです。
 
前田真三さんの作品の中で、私はやはり冬の世界が好きです。
雪の原が永遠に続きそうな風景の中に、整然と林立する落葉樹。
自然の見事さに感動しました。
なかでも私が好きな作品は「落日の詩」という、淡い夕日が地平線に落ちていく風景。雪ぐもりの中に太陽が煙った光であたりを包み込む、なんともいえない詩情あふれる作品す。
今は2階に展示されています。
写真集の年譜に今は亡き前田真三さんの生涯が綴られていました。前田さんは大正11年生まれ。14歳のときに初めて、当時人気のカメラ、ベビーパールを手にして夢中で野鳥を撮っていました。
戦争の時代を経て戦後、サラリーマンに。
やがて結婚し、お子さんが生まれてから写真を撮り始め、どんどんのめり込んで・・・。
42歳でプロの道を選択します。
「二人の丘」のあとがきに、ご子息である前田昇さんは、こう仰っておられます。「風景写真は技術ではない」というのが父の心情であったから、私自身写真について教わった記憶は、一度もない。
ただ長年撮影現場に立ち会った中で、父から学んだことが、ひとつある。
それは「ものの見方」である・・・と。
「風景の見方」「写真の見方」さまざまな「事物の見方」を学んだと思っている。
前田先生のご本を見ていましたら、こうありました。
ずいぶん時間をかけて撮るんでしょうね。と、言われることがある。が、私の写真は基本的に待つことはしない。出会った瞬間に撮っていくのが身上だ。しかしながら、 「長い時間をかけるかどうか」について聞かれれば、長い時間がかかっていますよ。私の人生と同じだけのと答えることにしている。・・・そして、こうもありました。
 「風景はただ眺めていても見えてこない。」
積極的に風景に働きかけて、やがて風景を見出すことができ、出会いの瞬間がある。
ステキな言葉だと思いませんか。
風景を見る目、それは私たちひとりひとりの人生そのものが関わっているのですね。人生を重ねることは、ものの見方を学ぶことでもありますね。
風景がそこにあるのでなく、自分なりに風景を見出すのだと前田先生は写真を通して教えてくださいます。
写真美術館で、ラベンダー園で、五感を刺激される旅でした。
「拓真館」は入場無料・年中無休   
開館時間・5~10月まで、午前9時~午後5時
11~4月  午前10時~午後4時
車の場合は国道237号線から入ります。
美瑛駅からタクシーで10分ほど。
スポットは四季の塔から地上32、4mの十勝岳連峰に広がる丘の町美瑛が楽しめます。
郷土資料館では、開拓時の農業器具や石器、昭和初期の生活と風俗や商店開拓画なども見られます。
お時間のある方は美瑛から42キロで富良野へ。
さらに30キロ走って、やっと南富良野です。
高倉健さん主演の「鉄道員」はご覧になりました?
浅田二郎原作、降幡康男監督。
あの最後のシーンが忘れられません。そうなんです。映画のクライマックスはなんといっても最後のシーン。そのシーンは根室本線の幾寅駅
この駅が「幌舞駅」となって、ラストシーンが撮影されたそうです。幾寅駅には今も幌舞駅の看板がかかげられているそうです。
私は雪の舞う中で、健さんのようにホームにジッと立ち尽くしましたが、20秒くらいで駅の中に逃げ込みました。
もう凍ると思ったのです。
健さんは零下30度の外のシーンで30分、立ちすくんで、完璧にそのシーンを撮り終えたそうです。
想像を絶します。
高倉健さんの役者魂を見た思いでした。
待合室はあのまんま。そんな寒さの中で町の人たちは、男爵芋をゆでてつぶして、少し澱粉をはたいてこねて、芋饅頭にして油で焼いて、健さんに差し入れしたそうです。健さんは大層喜んでくださったそうです。
駅は、思い出を紡ぐ場所です。
私にも忘れられない駅があります。
それは、初めてひとりで行ったローマの駅、テルミニ。
私は17歳。憧れと好奇心とをバッグに入れて、自分探しの旅に出たものです。
その駅を舞台にした映画、「終着駅」は1953年、アメリカとイタリアの共同制作でした。
監督=ビットリオ・デシーカー、主演=ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト。
テルミニ駅でアメリカ女性とイタリア青年の叶わぬ恋が描かれます。
情感あふるるその映画に、私は夢中になりました。
17歳の自分にどうしてそんな感情があふれ出たのかわかりませんが・・・。
そこが「駅」だったからかしら。
私が大人になっていく途上の駅。まだ恋愛も知らない17歳の頃の駅の思い出です。
こうして、深夜皆さまとお話していると美瑛駅から、テルミニ駅までが繋がってまいります。
故郷、出逢い、別れ・・・。そんな大切な思い出のつまった「駅」が皆さまそれぞれの心の中に一つはあることと思います。
旅っていいですね。
おやすみなさい。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド」

今回は、能登半島をご紹介させていただきました。
東京から金沢へは、新幹線越後湯沢乗換えも、米原乗り換えもございますが、私は時間がある時は上野から寝台特急「北陸号」で7時間半かけて参ります。
仲間達とワインを持ち込んでおしゃべりしながらの長旅も楽しいものです。
早朝6時に到着後市場に直行。市場の中の食堂で朝食を頂くのです。
刺身定食、煮付け定食など・・・どれもこれも美味。
その土地の活気と旬を味わえるのでどこへ旅しても市場は大好きです。
 
さて、右の親指を反らして、能登半島に見立てますと、その付け根の所が加賀市橋立町です。
私が初めて橋立を訪ねたのは、日本女性として初めて単独でヨットによる太平洋横断に成功した、小林則子さんとご一緒の旅でした。
「北前船の海を行く」をテーマに旅をなさっておられましたので、同じ興味を持つ者として胸が高鳴りました。
北を目ざした男達、船底一枚下は地獄という荒れた海に乗り出す男と、それを見送る女たちのドラマが、時を越えて目の前の海に見えるような気がいたしました。
橋立には往時の北前船のあとがそこここにみられます。
氏神の出水(いずみ)神社には北前船主らが寄進した鳥居や灯篭、こま犬など、絵馬堂には14枚の船絵馬、いずれも航海の無事を祈ってのものです。この町の中には堂々たる風格の船主の屋敷が目につきますが、その中の一軒が現在の「北前船の里資料館」です。
まさに明日資料館へとご自宅を手放す前日に、私達は酒谷さんのお宅にお邪魔いたしました。大きな土塀、広壮なお屋敷の中に静かに佇む酒谷さんがお部屋をご案内くださいました。玄関を入ると上がり框、柱、梁は総ケヤキ。天井にはすす竹が一面にはりめぐらされています。
たくさんの旅をしながら思うのです。
旅は未来であり、過去であり、そして今であり・・・何百年の歴史を持ち、今もそれを色濃く漂わせる場所に出会うと、自分が異次元からやってきたタイムトラベラーになった気がするのです。
その地で出会うおばあちゃん達は、いつも旅立ちの案内人でした。たくさんのことを学んできました。
この港町で出逢ったその方からも貴重なお話を伺いました。
この地方独特の習慣では、家に御仏壇が二つあるのだそうです。男達が、三月梅の頃から船に乗り、年の瀬近くに帰ってくるまで、大きい仏壇は扉をしめておきます。
小さいほうは、夏用のご仏壇といって、留守を守る女たちの仏壇。
男たちが帰って、航海の無事を先祖に報告するときに、初めて大きいほうをあけるのです。
「船がついたぞ!」という声が聞こえると、腰に紐をまいた女たちが、あっちこっちの家々から港へ向かって一斉に走り出すんです。その輝くような顔を今でも忘れられないそうです。
北前船の表むきの仕事を支えていたのは女たちです。
「でも、過去帳に、女の名前はございませんね」そうつぶやく、おばあちゃんの一言が私の胸に響きました。
そして、北上していくと、富来町(とぎまち)があります。
羽咋(はくい)駅からバスで50分、富来駅下車、福浦港行き10分。
この福浦港も大好きな港町です。
日本最古の木製の石垣を含めると約5mの高さがある旧福浦灯台。
三層になった内部。ここから見事な夕日が一望できます。
日本海に面し、能登金剛の名で知られる断崖、荒々しい海岸線は絶景です。
そして、私の大好きなお地蔵様があります。
「腰巻地蔵」です。
旅立つ船員にかなわぬ恋をした遊女が、地蔵に腰巻をかけたところ海がしけ、出航できなかったというロマンティックなエピソードを持つお地蔵様です。そんな昔話に思いをめぐらせながらの、のんびりとした旅の仕方も「大人の旅」ならではではないでしょうか。
この辺りは日本海が一望できるホテルや旅館もございます。
最後になりましたが、この度の災害から一生懸命復興に頑張っておられます、輪島には、私も職人さんや民宿の仲間がおります。大好きなまち輪島は、またの機会にラジオ深夜便でご案内いたします。

やまぼうし

2007-6%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%AE%E8%8A%B1%20005.jpg
箱根の山々の緑が日一日と、濃くなっています
とご挨拶してからちょうど一年がたちました。
我が家の庭の”やまぼうし”の白、ピンクの花が美しく咲いています。
この季節は箱根の山々の緑も濃く、早朝の山歩きをしておりますと、
何とも言えない緑の匂いが心地よく山暮らしの幸せを実感いたします。
”やまぼうしの花咲いた”を出版したのは昭和57年の今頃の季節。
箱根の山が
ふんわりと山法師の花で
おおわれる初夏
見事な開花は
十年に一度とか
結婚して四人生んで
たちまち流れた十年の歳月
私は山法師のように
咲きたいのです
箱根の森の中に家を建てて、三十年になろうとしています。
ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような時計に支配されているよう感覚があります。
樹々の色味の変化で春の訪れを感じ、台所から見える富士山も、刻一刻と変化します。
思い出がたくさんつまった台所も、巣立っていった四人の子供たちの台所から、”私のための”台所にリホームしよう・・・と思いたち山法師の花ではないのですが、10年一区切り・・・と思いきりました。
私には何十年に一度こういうことがあるのです。
”ああ、ほんとうに親としてひとつの役が終わった”
63歳になり、人生のしまい方を少しずつ、考えはじめたのかもしれない
とも、感じます。
思い出や家族と暮らした豊かな時間は、私の中でしっかりと刻まれているから・・・
役目を終えたものを処分し、身軽になる。
そこからまた新しい自分が見えてくる。
時間に迫られて、ゆったりと木々と語れなかった時代から今又
こうして、山法師の花を見ていると、忙しさの中で落としてきてしまった
ことも見えてきます。
まだまだ旅の下、これからも素敵な出逢いがあるでしょう。
多分終の棲家になるはずの我が家で、
「私らしく生きるために、現実としっかり向き合うことが必要なのかも・・・」
と、そんなことを思っております。
爽やかな緑の風を仕事場から感じ、
思わず”カンパリグレープ”をつくり”やまぼうし”の樹の下で飲みました。
2007-6%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%AE%E8%8A%B1%20008.jpg