ラジオ深夜便 第2回

5月16日深夜0時半からNHKラジオ深夜便に出演いたしました。
「大人の旅ガイド~日本のふるさとを歩く」の第2回目です。
今回ご紹介致しましたのは、宮崎県の北部、高千穂の美郷町、北郷区”椎野集落”です。
この集落は「あじさいロード」として知られている村なんです。
アクセスは宮崎市内からですと日豊本線日向市駅下車、宮崎交通バスで北郷支所前下車{所要時間1時間}そこから車で20分ほど。
私は昨年、晩秋の頃、高千穂町を抜けてはいりたかったので、車で、「熊本インター」から国道57号、325号、218号を通り集落にはいりました。おおよそ、3時間半。細い道をぬいながらの道中はそれはそれは美しく、素晴らしいドライブでした。
椎野集落のあじさいロードの見ごろは6月中旬から、7月初旬ころまで。見ごろの時期には全長7㎞に渡って約3万本のあじさいが咲き誇るとの事。1万人の観光客で賑わうそうです。
北郷町の人口はわずか2000名、椎野地区は全部で9戸。
この小さな集落は、全国花の町コンクールで特別賞も受賞しています。
そして、あじさいロードを管理しているのは高齢者の方々です。何より素敵なことは、この集落には本当の意味での”もてなしの心”があるということです。
約20年前、集落近くに観光名所ができ、往来するお客さんの目を少しでも楽しませよう!と「あじさい」を道路に植栽し始め、その活動が徐々に集落全体へ浸透していきました。ここも、高齢化、過疎化が進む村ですが、村人が生きがいをもち、「人を何かでもてなしたい」「村を通る人がきれいだな」と思ってくれたら嬉しい・・・そんな気持ちからの活動なんですね。
皆さまご存知でしょうか。あじさいの手入れは水やり、剪定などなど、重労働なんですよ。
「みんなが喜んでくれるから、がんばれる。花の季節に、村を訪ねてくる人から笑顔をもらっているんですよ・・・」と笑顔で語るお年寄り。すばらしいことですよね。中々出来ることではありません。
自然は寂しい
しかし人の手が加わると暖かくなる
その暖かなものを求めて歩いてみよう
                         宮本常一
都心の再開発が話題です。立派な建物ときらめくネオンもいいでしょう。
しかし本当の豊かさってなんだろう・・・。と考えさせられました。
その日はとても寒く小雨も降っておりましたが、集落から眼下に広がる山々の何と神々しいことか。
炭火で沸かしたお湯でお茶を淹れて頂き、心がほっこりあたたかくなりました。
ポンと移植したあじさいだけなら、人びとの心は動きません。
暮らしを見つめ、そこに自信をみいだし、村を愛し、その良さを他の人にも伝えたい・・・そんな思いがあったからこそ、たくさんの人々の心を動かしたのだと思います。
近ごろ、日本の美しさが話題になることが増えましたが、暮らしの延長線上にある
“もてなしの心”のような美意識にもまた、光があたるような社会であってほしいと切に思います。
農業の傍らのあじさいの手入れは大変です。高齢化もさらに進んでいます。
“サポーターができればいいな”・・・・と仰っておられました。
この町、集落は、あじさいの季節以外も春夏秋冬 それぞれ美しい表情を
みせてくれます。
チャンスがございましたら旅をしてください。

ラジオ深夜便 第1回

月に一度、NHKラジオ深夜便の「大人の旅ガイド」のコーナーに出演させていただくことになりました。深夜11時20分から早朝までゆったりとしたテンポで大人のやすらぎ時間を感じることの出来る番組内の0時半から約10分間のコーナーです。
4月18日の回では、新潟県柏崎市高柳町(たかやなぎちょう)をご紹介させていただきました。高柳町は、新潟のほぼ中央、十日町と柏崎の中間に位置する山間地域です。平成17年5月1日に高柳町と西山町が合併し新しい柏崎市が誕生しました。
私が初めて高柳町を訪ねたのは15年ほど前のことです。「じょんのび村」とも言われるこの町は、「じょんのび」というお国言葉、「ゆったり、のんびりして芯から心地がいい」が表す通りの場所でした。
茅葺環状集落である荻の島集落は、私の大好きな場所です。山や林、中央の田んぼが一体となってまるでひとつの生命体のようです。四季折々の美しい風景とそよぐ風、そして、美味しいコシヒカリ。お水が美味しいからでしょう、お豆腐も美味。ほんの数日の滞在でも故郷に帰ったようなそんな気持ちにさせてくれます。その美しい景観は「棚田百選」にも選ばれています。この美しい地域には「農」を営む機能と豪雪を克服する知恵がたくさん詰まっているのです。
「なんていい風が吹いているの」と思ったのが第一印象です。当時経済優先から生活優先へ、さらに生活の質の向上を目指して、町民が一丸となってまちづくりに励んでおられました。町民が、この町に生まれ、住み続けていることを誇りに思っている。豊かな自然や生活文化の伝承が根付いているからでしょうか、「住んでよし・訪れてよし」の町づくりを感じるのです。
高柳町内にある門出(かどいで)和紙(わし)工房(こうぼう)「高志(こし)の生紙(きがみ)工房」では、今からおよそ450年前、信州から伝わったとされる門出(かどいで)和紙を漉くだけでなく原料のコウゾの栽培もしています。見学だけでなく事前に申し込みをすれば、体験することも出来ます。
からむしギャラリー、風(かぜ)の座(くら)、ブナ林など、他にも訪れたいところはたくさんあります。
お泊りのお宿は、じょんのび温泉で。ゆったりとした里山風景を満喫できる農村リゾートです。
東京からは、上越新幹線・越後湯沢から上越線・まつだい駅。
上越新幹線・長岡から信越本線・柏崎駅。
また、東京から柏崎間は高速バスも出ています。そこからは、路線バスで高柳町まで。
柏崎では、木村茶道美術館もおすすめです。情緒漂う日本庭園「松雲山荘」の中にあり国宝級の展示品でお薄をいただくことが出来るのです。
紅葉の名所としても知られていますので、私も次回は紅葉の時期に伺ってみたいと思っております。
次回は、5月16日の深夜0時半頃出演予定です。宮崎県の美しいあじさいの里をご紹介いたします。週の真ん中、静かな夜をご一緒出来れば嬉しいです。

今につながる芸術の不思議

ゴッホの「馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人びと」を見たのは、初めてヨーロッパに旅したときだった。16歳でデビューし、順調に仕事を続けていたものの、女優という職業になじめず、ひとり、旅に出たオランダの美術館で出会ったのである。
暗く抑えた色調、けれどテーブルの上は明るく、温かい家庭を感じさせる。貧しくはあっても、自らが作った作物を、家族とともに食す喜び。そこに光を当てた絵を前にして、私は胸がいっぱいになった。そしてもう少し、がんばってみようという気持ちが、自然に沸き上がってきた。18歳だった。
すぐれた芸術は総じて、人に生きる力を与えてくれるものではないだろうか。人生の岐路にあるときなど、私が美術館を訪ねたくなるのはそのためだろう。様々な芸術品が私の心を慰め、明日に一歩踏み出そうとする力を与えてくれた。
芸術作品の何が心に響くのか言語化することもなく、作品の前にたたずみ、その力に抱かれる幸せを、ただただ味わっていた私だったが、23年前にはNHK「日曜美術館」のキャスターを務め、さらに美術は身近になった。先日、広島で「NHK日曜美術館30年展」を見る機会を得、番組のユニークさを改めて感じた。「私と○○」というスタイルで美術を語り、作家の交友関係や知られざるエピソードを紹介する中で、人と美術の間に垣根はないと教えられた。
私はその後女優を卒業し、農業や暮らしの美をテーマに文章を書くなどして現在に至っている。後になって「ファン・ゴッホの手紙」を読み、ゴッホが農民画家たらんことを欲し、「馬鈴薯を食べる人びと」には大地を掘り起こす手の労働やまっとうな報酬を得る生き方への強い思いがこめられていたことを知った。体に電流が走ったような衝撃だった。それは私がまさに求め続けてきた世界だったからだ。芸術のことなど何もわからなかった18歳の私はあの絵を見て、今の私へとつながる種子のようなものを自らの中に発見したのか。芸術の不思議さを思わずにはいられない。
(朝日新聞4月25日掲載)

タウトが再発見した日本の美

ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938)は、ナチスを逃れて33年に来日。わずか2年半の日本滞在の間に京都の桂離宮など、日本の美を世界に伝えたことで知られている。
日本の美を再発見したともいえる彼は、民芸の柳宗悦やバーナード・リーチとも交友があった。柳がタウトを自邸に招いたときには、民芸の本質について論議も重ね、話は深夜にまで及んだという。互いの考えにひかれつつも、両者は後にそれぞれ批判も行っている。
けれど私はタウトの著作を読み、桂離宮や伊勢神宮、そして飛騨の白川郷や秋田の民家、かまくらの風景にまで、彼が強く心を動かされたのを知り、柳とタウト、両者が求める美の本質はやはり非常に近いのではないかと常々感じていた。
先日、「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」(ワタリウム美術館)を見る機会を得た。集合住宅やグラスハウスなど初期の作品から、来日後の工芸作品まで、幅広い展示がなされた濃い内容で、非常に興味深かった。
日常生活、社会生活、純粋な精神生活という3要素を融合させたとき初めて完全な世界となるという彼のユートピア思想、また日本で出会った美が彼の思想をどのように発展させていったかを、私は肌で感じとることができた。
「……素朴な農民の手によって何の底意もなくいわば天真自然に作られたときにのみ、真に独創的な従ってまた適正な質をもち得るのである。これに反して、鋭い芸術的感覚と豊かな教養を具(そな)えた芸術家がここに様式の根底を求めようとするならば、結局外形に拘泥し……」(鈴木久雄著「ブルーノ・タウトへの旅」からタウトの小論文より抜粋)。
タウトのこの思いは柳と同じではなかったか。異邦人であったタウトが再発見した日本の原風景や日本の美。自らのうちにある美を再発見し、さらに朝鮮の美をも見いだした柳宗悦。それぞれ違いはあっても、自然との融合といった本質や、異なる文化風土に根ざした美をも理解し、感じ取るまなざしの確かさは、共通していたのではないかと思うのだ。
(朝日新聞4月18日掲載)

浅川巧の功績をたどる

民芸運動の創始者である柳宗悦に朝鮮の器や道具類の美しさを紹介し、「用の美」への目を開かせたのは、浅川巧(1891~1931)だといわれる。私が巧を知ったのは12年前のことだった。
朝鮮総督府の技師であった巧は、緑化運動に成果を上げるかたわら、朝鮮民族文化の美を見いだし、朝鮮陶磁器の研究家である兄・伯教(のりたか・1884~1964)と共に朝鮮半島の何百もの窯跡を調査した。そして「朝鮮陶磁名考」といった本を著し、日本に紹介した。さらに、朝鮮工芸品の保存の必要性を感じた兄弟と柳らは、私財を投じて収集を重ね、24年に現在のソウルの地に300点を超える工芸品が展示・保存された美術館を開設した。
巧と同様、朝鮮の白磁に強くひかれている私は、その後、韓国の友人の助けを借りて、彼の足跡をたどり始めた。
巧がそうであったように、韓国の暮らしを体験してみたいと、友人の家の一室を借りて2年間通ったこともある。オンドルの部屋で眠り、下町の銭湯に通い、市場では韓国のお母さんたちに混じって買い物をした。そして巧が見たであろう山や川を目に焼きつけ、風のにおいを感じた。偶然にも、友人の家が、巧が眠る忘憂里(マンウリ)の丘からすぐだったため、しばしば巧のお墓参りもさせていただいた。
ひとつ思ったことがある。それは朝鮮の美は民族の歴史と無縁ではないということ。何度も戦いにさらされてきた朝鮮の人々は、そのたびに辛く激しい感情を味わっただろう。その激しさが昇華して心の中に現れる静けさ。それが李朝の家具や白の清廉の美につながったのではないか。
李朝白磁のつぼがかたどられた巧の墓の傍らに「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮らして生きた日本人。ここ韓国の土となる」とハングル文字で刻まれている。民族の美はその民族固有のものであるが、国境を越え、その美を味わい、敬愛することはできるのだ。美というものは、変わることなき、人類の共通言語だと感じる。
(朝日新聞4月11日掲載)

隣国で出会った「用の美」

韓国の友人が新聞の切り抜き記事とその翻訳を送ってくれたのがきっかけで、この2月末、私はソウルを訪ねた。
それはイルミン美術館で「文化的記憶 柳宗悦が発見した朝鮮と日本」展が同月まで会期延長され、非常に盛況であると伝えるもので、私はそれを読むなり、飛行機に飛び乗ってしまったのだ。
柳宗悦(1889~1961)は、暮らしの中で使われてきた民器の中に「用の美」を見いだした民芸運動の創始者である。無名の人が作る道具や工芸品の中にも美しさがあることを発見し、日本の近代工芸の発展に大きな功績を残した。私は、中学生のときに柳の本と出会い、その考え方に心奪われた。私が約30年間にわたって古民家を再生した箱根の家での暮らしを楽しんでいるのも柳との出会いがあったからだろうと思う。
柳はまた、日韓併合下の朝鮮で、焼き物と出会い、その美を見いだし、人々や芸術を強く擁護した。柳が朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したことが見下す意識からだと問題提起されたこともあったが、この会場で私は胸が熱くなるのを覚えた。
東京・駒場にある日本民芸館の協力のもと、朝鮮の陶磁器だけでなく、生活に密着した美しい朝鮮と日本の民芸品、民芸運動を進めたバーナード・リーチや富本憲吉、棟方志功などの作品が一堂に展示されていた。すべての作品に温かな人のぬくもりと、力強さが感じられた。そして「これほど大切に保たれているとは」「こうして里帰りするなんて素晴らしい」と、集った人々が口々に語るのを、この耳で聞くことができたのだった。
美は、ひと握りの選ばれた人たちだけのものではない、と柳宗悦は私たちに語りかける。感覚を研ぎ澄ませれば、誰もが本物の美しさに出会えるのだ、と。柳に出会った幸せを感じると共に、彼の足跡を追ううちに、私もまた美を求めて旅をせずにはいられなくなってしまったことに気がついた。
美の懐の深さ、温かさだけでなく、現場に赴き発見する喜びをも、柳は私に教えてくれたのだろうと思う。
(朝日新聞4月4日掲載)

ラジオな日々 (文化放送4月15日放送分)

今回ご紹介させていただくのは、脚本家で作家の藤井青銅さんの最新刊「ラジオな日々」です。会社員時代に「星新一ショートショートコンテスト」に入選したことをきっかけにラジオの放送作家として大活躍することとなる藤井さんの自伝的な小説であり、大変素敵なゲストをお迎えすることができました。
-80’s RADIO DAYS-
サブタイトルにもあるように80年代はラジオ全盛の時代でした。放送作家出身の作家や文化人が綺羅星の如く顔を揃えており、ラジオは多くの人にとって憧れであり、青春そのものでした。そんなラジオの世界の真っ只中にいらしたのが藤井さんです。
「夜のドラマハウス」「オールナイトニッポン」あの時代を共有する世代にはドキドキするほど懐かしい響きです。当時のラジオは、手作りでした。喫茶店を転々としながら手書きで原稿を仕上げ、それをラジオ局に持ち込んで番組が作られていく様子が生き生きと描かれています。IT化が進んだ現在では考えられないような暖かい空気感がそこにはありました。IT化により双方向型のコミュニケーション手段が発達したと言われますが、電波の先には、たくさんのリスナーがいて、その声がハガキや電話で帰って来ます。ハガキや電話の声には豊かな表情がぎっしり詰まっているのです。
私もそれを日々感じながら、長年ラジオの仕事を続けさせていただいています。そして、それを支えてくださっている、放送作家をはじめ、スタッフの方々の奮闘を見ると、その精神はあの頃と変わらない。そう嬉しく感じるのです。これからも、それを忘れずにいようと思うのです。

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植木等さん追悼

 3月27日、植木等さんが亡くなられました。私は、10代の終わりから20代の半ばにかけての7年間に、植木さんの14本の映画にご一緒させていただきました。植木さんの訃報を聞き、いろいろな思いが胸にこみあげてきました。
 
 植木さんと初めてご一緒させていただいたのは、東宝入社3年目、18歳のときのことでした。テレビの「シャボン玉ホリデー」で活躍され、「スーダラ節」が大ヒットし、映画「ニッポン無責任時代」でスターとしての地位を確立した植木さん。
 
 しかし、その素顔は違いました。私は仕事場での植木さんしか存じませんが、植木さんは他の俳優やスタッフとお酒や食事を共にすることもなく、撮影が終わった「じゃ、また明日」とさっと家路につく人でした。また撮影の合間には、撮影所のセットの片隅ですっと背筋を伸ばし、腕組みをしたまま、目を閉じて静かに佇んでいらっしゃいました。その姿を見て、ふと仏像に似ていると、感じたこともありました。無責任男が「動」ならば、素の植木等は「静」だったのです。
 
 ときどき、植木さんは目を開けて「浜ちゃん」と新人女優だった私に声をかけてくださいました。決して言葉数は多くはなかったのですが、そのひとことひとことに心にしみるような滋味がありました。私がいただいたギャラで、お釈迦さまの生涯を辿るためにインドを旅した話をすると、植木さんは驚いたように目を開き、「お釈迦様もそんな風に旅をして歩いたんだよね。仏教とは難解な思想じゃなく、とても人間的なものなんだよ」とうなずいてくださいました。そして仏教の教えや生命に対する考え方を、小さな声で、まるでひとり言葉をかみしめるように、語ってくださいました。
 
 植木さんは三重県の浄土真宗のお寺の生まれで、お父様は平和や差別解消を説かれ、投獄されたこともあったほどの信念の人物だということを後に知りました。植木さんが口癖のように私に何度もおっしゃったのが、まさにそのことでした。「浜ちゃん、人間はね、心が自由じゃなければいけないよ」 今、この原稿を書きながら、あのときの植木さんの声が聞こえるような気がします。
 
 そんな植木さんでしたが、監督の「よーい、スタート!」でカメラが回りはじめたとたん、軽妙なしぐさと高笑いで無責任男を演じられるのでした。その変わりようは天才的でした。当時の東宝では、黒沢明さんや成瀬巳喜男さんといった巨匠が活躍しておられ、大ヒットしていても娯楽作品は格下に見られるような傾向がありましたが、そのことについても植木さんは私に「やっていることはばかばかしくても、それで他人様が喜んでくれるなら、いいじゃないか」といって、私を励ましてくださいました。つたない演技ではありましたが、これらの映画に出演させていただいたことを今、私は心から誇りに思えるのは、植木さんのあのときの言葉もあってのことだと感じます。「多くの方に喜ばれ、大声で笑ってもらう。それもいいじゃないか」 植木さんの言葉に、私はどれだけ勇気づけられたでしょう。
 
 最後に植木さんにお会いしたのは数年前、私がパーソナリティをつとめるラジオにお招きしたときでした。「やぁ、浜ちゃん、元気?」とスタジオに入ってこられて、近況を穏やかな口調でお話くださいました。素敵に年齢を重ねてこられた姿に胸が熱くなりました。そして収録が終わると「それじゃぁ、またね」とおっしゃって、植木さんはすっとスタジオを出られました。かつてとまったく変わりませんでした。
 人は生まれ、いずれ去っていきます。これはどうしようもないこと。それでも寂しさを感じる気持ちは心の奥底から湧き上がってきます。
 植木等さん、ありがとうございました。
 植木さんに会って教えていただいたことが、私の人生に豊かさをもたらしてくれました。これからも多くの言葉を心に刻み、歩んで行きたいと思います。
                       

食べる落語

脚本家であり、伝統芸能のジャンルで多くの作品を発表されている稲田和浩さんをお迎えしました。
最新刊「食べる落語 いろはうまいもんづくし」をご紹介させていただきます。
落語に登場する食べ物に焦点をあて、それぞれを落語の面白さとともに解説していらっしゃいます。食べ物に興味のある方はもちろんのこと、落語にまだ馴染みのない方にも是非読んでいただいて落語への入門書としていただきたいと思います。また、江戸の文化風習を知る本としてもおすすめです。
落語に出てくる食べ物、有名なところでは、やはり蕎麦、鰻、秋刀魚、メザシといったこころですよね。それ以外にも、鍋焼きうどん、羊羹、焼き芋、そして、「はんぺん、はす、芋を甘辛く煮たものを丼に二杯」。。お腹がすいてきそうです。
江戸には、精米屋がいて、白米を食べていたこと。それ以外のおかずは味噌汁や漬物ぐらいで質素だったこと。住宅事情により、意外にも外食産業が発達していたことも知りました。ベトナムやタイ、インドネシアなどの国々を訪れると、今でも同じような路地の風景に出会います。
「早朝は、あさり・しじみ、豆腐、納豆。朝になると八百屋、昼間は飴屋、ゆであずき屋、それから屑屋なんかも来て、夕方にはまた旬の食材を売りにくる。夜中は、夜鷹そば、鍋焼きうどん、深夜には稲荷寿司。こうして長屋の一日が過ぎていったのである。」
現代より質素な食事でも、そこに豊かさを感じます。旬の食べ物と地産地消。今私たちが必死に取り戻そうとしていることが、当たり前のようにそこにあったことを思い知らされます。

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山歩きと地球温暖化

この冬は、箱根も雪が少なく、快晴の日が続いています。おかげさまで、ツンツンと地面から飛び出した霜柱をシャキッシャキッと踏みしめながら、毎朝、山歩きも楽しんでいます。真っ白に雪化粧した富士山もそれはそれは美しく見えます。
以前は1時間歩くと、たっぷり歩いたという気持ちになったのに、このごろではもっと歩きたいと思う自分がいることに、嬉しい驚きも。毎日続けていくうちに、体に力ができてきたのかもしれません。いくつになっても、筋肉は鍛えられるといいますが、本当にそうなんだわ、と感じます。
でも、こうも暖かいと、地球が変わり始めているという事実を、つきつけられているようで、やはり、不安を感じずにはいられません。
先日、アメリカの元・副大統領で大統領候補でもあったアル・ゴア氏のドキュメンタリー映画「不都合な真実 (An Inconvenient Truth)」を見てきました。この映画は、ゴア氏の講演活動を追い、具体的なデータとともに地球温暖化対策の必要性を訴えたものです。 二酸化炭素などの温室効果ガスが増えたために、地球の気温が上がる地球温暖化現象。地球温暖化は、海面の上昇や異常気象、生態系の変化といった事態を引き起こし、やがては植物や動物、そして人類は危機的な状況という事態に……。
環境のために、そして地球のために、この日このときから、私たちは自分たちがやれることをやっていかなくてはならない。それが、スクリーンを通してひしひしと伝わってきました。映画のエンドロールにもあったように、「変わる勇気を持つ」ことが、何より大切なのではないかしら。
時間にゆとりがあるときには、私も小田原から我が家までタクシーではなくバスを利用するようになりました。タクシーなら30分で着くところを、バスは1時間以上もかけて登っていきます。過ぎ行く風景をのんびりと眺めたり、途中のバス停で乗降するおばあさんやおじいさんの様子を垣間見たり。それもなかなか楽しいんです。部屋の暖房の設定温度もさらに一度、下げました。箱根の冬は、そうはいっても寒いけれども、あったかいソックスとセーターがありますもの、大丈夫。

不都合な真実 不都合な真実
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