謹賀新年

明けましておめでとうございます。
箱根の森の中に家をたてて、もう30年になろうとしています。
今年のお正月も”箱根駅伝”ではじまりました。早朝から富士山が青空のもと美しい姿を湖に映し、ランナーを迎えます。今年もドラマが生まれました。
悲劇や番狂わせ、箱根駅伝はいつもドラマティック。
「銀座百点」1月号にかつて早稲田大学の選手として箱根駅伝を走った映画監督の篠田正浩さんが、作家の三浦しをんさんとの対談でこのように話しておられます。
「正月を選ぶということは、基本的に神事なんですよ。箱根駅伝は、新しい年に精進潔斎した若人が神輿を担ぐように襷をつないで、箱根、つまり富士へ向かって走るでしょう。一種の富士講、イニシエーションだと思いませんか。選手たちが神さまの美しい魂というか神聖なものをわれわれの代表として富士山に取りに行き、それを都会に持ち帰ってきてくれる。駅伝は、日本の文化までもを孕んでいる」・・・と。
今年はどんな年になるのでしょうか。昨年気になる言葉が新聞、テレビなどで報道されるようになりました。
「限界集落」
 
消滅の危機にさらされている集落。そんな集落を救え・・と38都道府県の146自治体が「全国水源の里連絡協議会」を設立し、始動したと新聞記事にありました。たしかに高齢化が進み、田畑の跡地は荒廃し消滅の危機にさらされている現実は旅するなかで実感いたします。
しかし、「限界集落」・・・という言葉をそこに暮らす方々はどのような思いで聞かれておられ るのでしょうか。
人間の歴史の中には、絶えず過ちをおかします。しかし、その過ちを修正する能力はあるかも知れません。もう少し、ふっくらと柔らかな、優しい言葉はないものでしょうか。
日本全体が都市化現象にあります。自然と乖離した生活の中で、自分たちが食べているものの、姿が見えないような暮らしは果たして幸せといえるでしょうか。
見ることは知ること。今年も旅の下にいたいと願っております。
今年も良い年でありますように。

年末年始のご挨拶

皆さまにとって今年はどんな年でしたでしょうか。
私は今月はじめに『子供の「おいしい!」を育てる―大切にしたい親子の食卓』(すばる舎})を出版いたしました。
この本は私にとって初めての、若い母親向けのものです。日本の未来を作るのは子供たち。その子供を育てている母親が食を大切にしはじめたら、日本は変わると、私は常々思い続けてきました。
といっても難しく考えるのではなく、ほんのちょっとの工夫や気配りで、食はがらりとかわります。食が変われば、農に注がれる眼差しもやがて大きく変化していくはず。そうしたムーブメントになってくれたらと、祈るような気持ちで、書きました。
日本の食卓を本当の意味で豊かにするためには、消費者、生産者ともに意識変革が必要だと思います。そのために来年も、食と農の両面から私も活動していくつもりです。また、いくつになっても日々の暮らしを楽しみつづけるために、どう素敵に年齢を重ねていくかということも、模索していきたいと思います。
どうぞ来年も宜しくお願い申し上げます。

子どもの「おいしい!」を育てる―大切にしたい親子の食卓
子どもの「おいしい!」を育てる―大切にしたい親子の食卓 浜 美枝

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 “良いお年をお迎えくださいませ”

NHKラジオ深夜便-「青森県津軽平野」

今回ご紹介するのは青森県津軽平野です。
今夜あたりの津軽は雪がしんしんと降っているのでしょうか。
私は先週、津軽を旅してまいりました。青森の冬の風物詩といえば、ストーブ列車なのですが、今回は残念ながら、その時間がとれず青森空港に降り立ちました。
友人の西津軽の酪農家、安原栄蔵さんのご案内で津軽平野、浪岡町、黒石、弘前・・と回りました。安原さんとの出会いは「あ、これが本当のアイスクリーム!」と思わず一口、口にした途端、もうぞっこん惚れ込んでしまいました。
安原さんは、青森県では珍しいジャージー牛を導入。自家産の新鮮な牛乳を使ったアイスクリームを作っています。まず向かった先は、一度は訪れたかった津軽の画家「常田健」のアトリエでした。浪岡町でりんご園を営農しながら、生涯農民の暮らしを描き続けてきた常田さん。銀座の画廊で目にした「絵とその画家」展での作品に出合ったとき、感動を覚えました。
胸がキュンどころか、涙があふれんばかりの感動に包まれたのでした。生涯、中央画壇に躍り出るどころか、自分の絵すら売る事もせず、公開することも稀だったそうです。NHKテレビのドキュメンタリーで拝見した常田さんの日常生活は、穏やかなものでした。バッハやムスログスキーのCDを聴きながら絵筆を持つ手を休めず、ひたすら故郷、津軽の人々を描きつづけました。
常田さんは、明治43年生まれ。89歳で亡くなるまで、アトリエで過ごされたそうです。
「土に生き土と暮らし」「「紅いりんごと白い雪ノ下で、ただ絵を描いていれば幸せだった・・・」という常田健。
旧制弘前中学校卒業後、上京して川端画学校やプロレタリア美術家同盟研究所で学び、郷里に戻り、多くの反戦画を描いたことで弾圧も受け、その後は農民が一心に労働する姿を描いてきました。その一点一点に、私は涙せずにはいられませんでした。
1939年の「母子(おやこ)」と題する作品を今回もアトリエで拝見いたしました。頬杖する手は節くれだっています。疲
労困憊する母のそばの赤ちゃんはもるまると太っています。不幸と希望がそこにあるような気がしました。
「土地を守る」という作品は、農民が警官の楯に手をついてふんばって土地を守っている姿が描かれています。常田さんの作品は、反戦や戦いを描くのではなく、淡々と人間を描いているのです。しかしその淡々とした中に、言いようのない人間の苦しみと、さらにそれに屈しないたくましさも描かれているのです。
平凡社から出版されている「土から生まれた」の中の常田健さんの詩を読ませていただきます。
「満足」
冬、春、夏、秋
何回くりかえしてもいい季節だ。
ただくりかえしていてくれれば
それで満足だ。
ただこのくりかえしだけしかないように願う。
「木」
てっとりばやいところ
りんごの木を見るがいい。
音楽などを
かれこれ言うには
及ばないのだ。
木の構造は
生命そのものだ。
そのうねり。
そのわん曲。
その枝。
そのひと枝にまさるものは
ほかにあろうか。
これにまさる音楽もまたないのだ。
底冷えする蔵のアトリエは、お孫さんがストーブを炊き暖めてくださっていました。直前まで飲んでいたであろうカップ、ベッドの横に掛かっていたズボン、ジャケット。壊れかけた土蔵でひたすら絵筆を握り続ける常田がそこに佇んでいるような錯覚が生まれてくる。
制作途中のキャンバス。2000年4月26日突然帰らぬ人となった常田健さんが、そこに笑みをたたえ、背中を丸めストーブに手をあて思索している姿さえ見えてくるのです。ダイナミックな構図に、タッチに、主題に、深くて感動的な思いを味わい、少し戸惑い、作品に歳月があり、その時代に生きてきた人たちの多くの悲しみや痛み、そして喜びや愛も伝わってきたのです。
土蔵の扉を閉めると青森県の信仰の山として有名な岩木山が寒風の青空の中、くっきりとそびえておりました。
「常田健 土蔵のアトリエ美術館」は月に3、4日開館しております。
お問い合わせは  電話―0172-62-2442
交通
町内を縦断する形で国道7号とJR奥羽本線がほぼ並行しています。
鉄道
奥羽本線  大釈迦駅駅~浪岡駅下車
バス
青森市営バス  弘南バスが出ています。
そして、こちらも以前から訪れたかった商店街・・・黒石市の「こみせ」
こみせの町並みが続く「中町こみせ通り」全国同じような町並みの中で、ごく普通の小さな町が普通の暮らしを守り、人々の暮らしを支えています。幅1、6メートルほどの屋根つきの歩道が美しく、立ち並ぶ屋敷も立派で、国の重要文化財に指定されています。
「こみせ」とは、木製のアーケードのことだそうです。江戸時代の情緒を残し、市民に親しまれております。毎年8月には、日本三大流し踊り「黒石よされ」が三千人の踊り手による「流し踊り」も壮観とか。黒石は温泉郷で、山間に五か所の温泉があります。
次回はゆっくり秘湯に浸かってのんびりしたいものです。黒石町までは弘南鉄道弘前駅から30分。
お問い合わせは 黒石観光協会  0172-52-3488
そして、最後に一度は食べてみたかった「津軽そば」を食べに弘前市内に向かいました。江戸時代に生まれた伝統あるそばの特徴は、大豆をすりつぶした大豆粉を使い練った生地を熟成させてから打ち、出汁は昆布と焼き干しでとった
津軽の素朴な汁。今はあまり食べられなくなったとか。弘前・三忠食堂で前もって予約すればたべられます。小ぶりのどんぶりなので、私はおにぎりと一緒に注文いたしました。
料金は480円  電話  0172-32-0831
弘前市和徳(わっとく町)164
人と出会い心を賜(たぶる)そんな人情豊かな冬の津軽平野を旅してまいりました。

アンチエイジング医学を学ぶ

先日”健康長寿を目指して”アンチエイジング医学を学ぶ”という市民公開講座が東京三田でNPO法人「日本抗加齢協会」の主宰で開催され私も招かれ伺いました。
アンチエイジング医学とは?       講師  米井壽一氏
健康で豊かな骨を守るために       講師  鈴木敦詞氏
アンチエイジングのための栄養と食事 講師  白澤卓二氏
お三方の先生の後、私は私のアンチエイジング生活~「明日を素敵に生きる」をテーマにお話させて頂きました。
会場は専門分野の方、若い方々、そして私達世代。熱心にお聴きになられておりました。その時の内容を記します。
このたび、ここでお話させていただくにあたりまして、改めて、自分の生き方を振り返り、年を重ねること、いつまでも若々しくあることなど、様々なことを考えてみました。
若々しくありたいというのは、女性のみならず、多くの人が望まずにはいられないことでしょう。一方、年を重ねることの豊かさも、みなさま、お感じになっているのではないでしょうか。
実は、あさってが、私の誕生日で、……64歳になるんですね。20代のころ、60代の先輩方を見ると、雲の上の年齢という感じがしましたが、いまや、私もその年齢になっているわけです。
でも、それは、私にとって、決して、悲しいことでもさびしいことでも、ないんですね。若いときには見えなかったことが見えてくる、本当にそういうありがたいことが、たくさんあるんですね。
若い頃に比べて、気持ちのコントロールも上手になりましたし、自分が必要としているもの、していないもの、興味を持つもの、もたないもの、楽しいこと、楽しめないことが、年を重ねるごとにわかってきたようにも、感じます。
経験を重ね、考えを深めてきて、自分の輪郭というものが、くっきりとしてきたと言い換えてもいいかもしれません。そして、自分というものがわかってくると同時に、若いときよりも、もっと優しくなれるような気がします。
たとえば人の気持ちを慮ることもできるようになってきたような気がしませんか。若い頃は私を含めみなさん、自分のことでいっぱいいっぱいで、人のことまでなかなか気が回らないでしょう。そういう余裕がないのが、若さの一面だと思うんです。
でも、辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、たくさんの経験を重ね、そのたびに、考えを深め、人間として弾力をそなえて、自分自身のことも少しずつ見えてくると、人は、他の人にも自然に素直に心を開くことができるようになるのではないでしょうか。
でも、年を重ねるということには、身体が老いてくるという誰もが避けられない厳しい一面もあるんですよね。あ、身体も心も変わったな、と私が始めて意識したのは、40代前半のころだったと思います。
今は、夫婦で協力して子育てを行う時代になりましたが、当時は、子育てと家事は女性の役目。男性ばかりではなく、女性も、もちろん、私もそれを当たり前のこととして思っていました。けれど、4人の子どもを育てながら、女優の仕事を両立させるのは、実際には並大抵のことではありませんでした。
私は実の両親に同居してもらい、子育てを手伝ってもらったのですが、それでも、次には何をして、その次には何をして……という具合に、しなくてはならないことと、時間においまくられることが続いていたんです。その疲労が、40代の前半に、ピークを迎えてしまったのだろうと思います。
もちろん、そこには私の個人的な状況もあると思うんですね。体がふたつ欲しいような日常だけれど、この幸せは絶対に手離してはならないと、私はすごく強く思っていたんです。ですから、心にも身体にも相当、力が入りすぎていたのかもしれません。
その上、私は不器用なくせに、完璧をめざしたがるところがあって、しかも、あのころの私は今よりもずっと融通がきかなかったんですね。いいわ、もうここまでにするわ、ということができなかった。
ピンとはりつめていてばかりでは疲れてしまうのがわかっていても、自分を緩めることができなかったんです。そのために、忙しさの中で、自分自身が磨耗してしまったのでしょう。
それまでずっと前に向かって走り続けてきた私が、ある日、立ち止まり、一歩も進めないような状態になってしまったのです。身体に鉛が入ったようで、動くことさえ辛く、お日様が大好きだったのに、外にも出て行きたくなくなりました。
子どもたちの話を聞くことも辛くなってしまったのですね。
たぶん、今にして思えば、欝っぽくなっていたのでしょう。それでも、仕事はありますし、子どもたちには待ったなしでご飯を作って食べさせなくてはならない。それが仕事を持っているということであり、母親なんですね。
夜、倒れこむようにベッドにたどり着いたり、子どもたちが眠った後、女友達の家に車を飛ばして、少し休ませてもらったりもし……思えば、数ヶ月のことなのですが、長く暗いトンネルの中を手探りで歩いているような気がしました。幸いなことに、すべてを受け入れてくれる年上の女友達がいてくれたおかげで、少しずつ元気を取り戻すことができました。
女性の身体は40歳を過ぎる頃から、女性特有の精神的、肉体的変化を左右するふたつのホルモン、エストロゲンと呼ばれる卵胞ホルモンと、プロゲステロンと呼ばれる黄体ホルモンの分泌が変化するために、微妙な変化を感ずるようになるということを、私はその後になってしりました。
40歳を過ぎる頃から、徐々に排卵をしなくなると、エストロゲンの生産が次第に減少し、黄体の形成もなくなり、黄体ホルモンの分泌もやがてなくなっていくのですね。けれど、エストロゲンと黄体ホルモンの分泌を司る脳下垂体前葉は、従来どおり、機能が減退してきた卵巣に対して、よりいっそうの刺激を与え、機能を回復せよと命じるんです。
脳下垂体前葉は自立神経中枢とも密接な関係を持っていますから、そのために自律神経の働きに狂いが生じて、様々な、私が味わったような症状に悩まされてしまうこともおきうるのだということも、知りました。
まさに疲労がピークに達したその時期に、身体のほうにも変化が訪れたというダブルパンチだったわけです。そのために、40代前半で私はうつうつと悩んでしまったというわけなんですね。
悩んでいる真っ最中のあのとき、そうしたサジェスチョンがあったら、少しはラクになれたのかと思いますと、ちょっと残念なんですね。自分の身体に何が起きているか、それを知るだけでも、心構えが違うではありませんか。
原因がわからないと、こんな風に鬱々してしまうのは、自分が悪いからではないかと、さらに自分をせめたりもしがちですよね。いや、そうではなくて、身体に変化が起きているために、心のコントロールがうまくいっていかないのだと、わかれば、それなりに別の対処があったと思うんです。
最近になって、女性の身体の変化、特に40代以降の身体の変化についての、研究と情報開示が進み、私、本当によかったと思っているんです。今、更年期という言葉を、なんのてらいもなく口にすることができる女性たちが増えてきていますよね。
私たちの時代は、まるで「生理がなくなると女も終わり」みたいな風潮があって、更年期などとは、とても口にだせなかったんですもの。今、そんなこと思う女性は少しずつ、少なくなっているのではありませんか。
更年期は女性なら必ず通らなければならない生理的変化の過程ですが、それは同時に、女性に与えられたすばらしい、女の一生の中でもっとも華やかな時期でもあるという認識が、だんだん広がっているんですね。
それは、その年齢の女性に対する社会的偏見、医学知識の誤解などを今、きれいに払拭しつつあるからだと思うんです。
そして今、女性としての自信、社会人として自信が、更年期以降の女性を生き生きと輝かせ、年齢を超えたその人独特の人間的魅力になるという考え方に変わってきているのではないでしょうか。
老化に対する考え方も変わってきているように思います。対処法を知っていれば、無駄な心配をしなくてすむからでしょう。
仕事でおつきあいのあるたとえば女性誌の編集者などは、「私、更年期で、ホットフラッシュがひどいんですよ。そろそろホルモン療法を始めようかしら」と、なんでもない表情でおっしゃるんですよ。
すると隣にいる同年輩の女性たちと「あら、私も」「どこの医者にかかっている?」「いい先生、いる?」という具合に、話がはずんだりもするんです。
そういう女性たちの姿を見るにつけ、自分の身体の状態を的確に把握し、それに対して対処するすべを知っているということが、いかに大切かということを考えさせられます。と同時に、医学の情報を精査して、きちんとキャッチしておくことが、本当に重要だなぁと思うんですね。
少し、私の個人的なことをお話させていただきます。
私が、老いを最初に意識したのは、50歳を超えたあたりだったでしょうか。まず、私は目に異常を感じました。「緑内障」の初期だったんです。幸い、点眼薬で治ったのですが、目に不安があるというのは、非常に精神的に重いものがのしかかったようなものだと感じました。
そこで、いろいろ考えまして、それを機に、車の運転をやめることにいたしました。私は、こう見えましても、運転にはちょっと自信があったんです。我が家は箱根ですので、箱根から箱根新道をとおり、東名を飛ばして、仕事に毎日行っていたんですね。
また我が家は12件の古民家を譲り受けて作り上げたものなのですが、古民家を訪ね歩いていた時期には、地方に古いぼろぼろのマークⅡをおいておき、それに乗って、どんな山道も走り歩きました。それが出来なくなるという寂しさ、足回りが悪くなり、世界が縮んでしまうような怖さもありましたが、私は私ひとりの身体ではないんですよね。
何より先に子どもたちの母親であり、子どもたち4人が社会人となり、独り立ちをするまで見守っていかなければならないわけです。その役割を果たすためにも、安全第一をとったわけなんです。
それからもいろいろありました。中でも、ショックだったのが、60歳になって、転倒しまして、背骨を骨折してしまったことです。あの日、私は会合がありまして、ピンヒールの高い靴を履いていたんです。ちょうど、雨上がりで、建物の床が濡れていたんですね。
そのときに、何かの拍子にバランスを崩してしまったんです。しかも転んだ後、すぐに病院に行けなかったんです。背中が痛くて、本当に辛かったのですが、講演の仕事がずっと詰まっていまして、しかもそれが地方だったんです。私たちの仕事は代わりがないものですから、穴をあけるわけにはいきません。
飛行機で地方に飛び、それから今度は電車で別の地方に向かい、それぞれのところで仕事をし、それからまた飛行機に乗って帰ってまいりました。それから病院に直行しますと、即、入院といわれました。「すぐ入院してください! 安静です!」と。
最初に無理をしたのと、年齢的に骨がもろくなる時期だったのが重なって、なかなか骨がくっつかず、完治まで長くかかりました。そのときに、骨粗しょう症にならないために、できるだけのことをしようと、決心しました。
女性は、ホルモンのバランスが大きく変化する閉経後、骨の量が急激に減るため、骨粗しょう症になる人の割合が高くなるそういう知識は、持っていたのですが、まさか、自分がそのために準備をしなくてはならないなんて、思わなかったんです。
けれど、背中を痛めて、それが現実味を帯びて、迫ってきました。骨粗しょう症(骨粗鬆症)とは、皆さん、ご存知だと思いますが、骨がスカスカになり骨折しやすくなる病気です。骨全体が弱まってしまうため、骨折してしまうと、折れてしまった骨が元に戻るまでにさらにさらに時間がかかるようになってしまうのだそうです。
また、骨折が原因で日常生活行動(ADL)の低下を起こしたり、さらには寝たきりになってしまうことが、今や大きな社会問題となっているんですね。お年寄りが、転んで、足の骨を折ったのがきっかけで、寝たきりになって、痴呆が進んでしまったという例を耳にしたことはありませんか。そういう例が、本当に多いのだそうです。
背中を痛めたのを機に、私がはじめたのが、毎朝の山歩きです。箱根の山を私は、箱根にいる限り、毎朝、1時間から1時間半、歩いているんですね。山ですから、アップダウンもあり、足元も平らではなく、最初は1時間歩くと、へとへとだったのですが、今ではもっと歩きたいと思うほど、体力が戻ってきました。
自然に抱かれて、きれいな山の空気を呼吸する喜びもしみじみと感じられるようになりました骨折が直った直後は、もうヒールの高い靴をはくのはよしましょうと思ったのですが、体力の回復と共に、そうしたお洒落心もまた目覚めてきました。
街を歩くときには歩きやすい靴をはいていますが、パーティや会合などには、私の好きなピンヒールの靴に履き替えて出ることも、このごろではたびたびです。
人生、塞翁が馬(さいおうがうま)といいますが、まさに、私は、骨折のおかげで、骨の老化に気づき、それをストップするべく、早めに手をうてたのではないかと思います。また、50代で車をやめたことも、むしろ、私にとってはよかったと思うんです。
車では通り過ぎてしまう風景を見ることができるようになりましたし、電車やバスを楽しむ喜びも改めて味わっています。
この会のテーマは「アンチ・エイジング」ですが、やはり、年をとれば失うものもあるんですね。
それを認めないのではなく、むしろ老いをもしっかり受け止め、その上で、カバーしていく手段を講じて、いつまでも生き生きと生きていくことが大切ではないかと、私は思います。
それには心の健康と、正しい情報と、ホームドクターの存在が、絶対に必要だと思うんです。
私には、信頼するウィメンズクリニックの先生と、整形外科の先生がおりまして、おふたりに会うだけで、私はホッとするようなところがあるんです。特に、ウィメンズクリニックの先生とは20年来のお付き合いで、私の体のことなら、私よりもよくわかっていらしてくださるんです。
その先生のところには、3週間に1度、伺いまして、チェックしていただいています。身体の悩みから心の状態まで、お話しすることもありますし、同じ女性の先輩でもあるその先生から、これからの女性の身体の変化を実体験としてうかがうこともあります。
何も変調がなくても、そんな風に私は通い続けているわけです。病気になってから病院へ行くというのが、これまでの常識でしたが、私の場合は、病気にならないために、病院に通っているという感じです。状態をひどくしないために、先生に対処法を教えていただいていると、いいかえてもいいかもしれません。
ホームドクターからはもちろんですが、私は雑誌や本を通しても、新しい医学情報を積極的に取り入れようとしています。
40代のあのとき、自分の身体の状況がわからなかったために、症状を重くしてしまったのではないかという、反省があるからなんです。また、私は仕事柄、たとえば肌の状態などにとても敏感にならざるをえないところがあるのですが、そのおかげと申しましょうか、心の健康と身体は密接につながっていると、日々、感じさせられるんですね。
撮影の前に、仕事や家庭でごたごたしたときなどは、肌がたちまちつやを失ってしまいます。夜更かしや、不摂生も、端的に肌の状態に表れます。そうかと思いますと、何か楽しいことを控えて、心が明るく踊っているようなときには、肌は生き生きと輝き始めるんです。
今は美肌ブームで、洗顔やマッサージの重要性が指摘されない日はありませんが、もちろん、ご興味のある方はそれをしっかりやっていただいて、でもそれだけに気を使うのではなく、心の持ち方に留意することも必要ではないでしょうか。
ありあまる物質、過剰な情報、あおられる競争意識……現代は、このようにめまぐるしく、非常にストレスの多い生活環境であることは事実です。人と比較することなく、自分のペースで、自分流に生き、瑣末なことは「気にしない」ようにして、そして「謙虚である」ことを大切にするスタンスが、この現代を明るく生きていくために、私は必要だと思っています。
また、食も大切です。
私は、農と食を今の自分のテーマにしているのですが、ときに「女優なのになぜ、農と食がテーマなのですが?」と聞かれることがあります。それは、食べたもので人は作られるからなんですね。農と食は、私たちの命と密接に結びついているものだからなんです。
若々しく美しく生きるために、私がもっとも大切にしているのは、食といって過言ではないかもしれません。そして、食べるということは、人生最大の楽しみのひとつでもありますよね。
今は、これが美容食だ、健康食だという情報がテレビをはじめとしたマスメディアから流れっぱなしの時代ですから、多くの人がそれに翻弄されている面もあると思うんです。
でも、ちょっと後になって、それが断片的な知識に過ぎず、それだけ食べるのはむしろ弊害が多いことがわかったりもします。何十年も食べてきたもので、私たちの身体は作られているわけで、劇的に変化させようというほうが、無理があるんですね。
大事なのは、もっと当たり前の普通の食事ではないでしょうか。野菜をたっぷり、精製された、たとえば砂糖などは少なめにする、そして栄養バランスの取れた食事こそが王道だと思うんです。
そして、野菜なら、なるべくケミカルを使わずに素直に栽培されたものを、食べたい。そしてみなさんにも、ぜひ、それをおすすめしたいんです。
それから睡眠。年齢を重ね、無理がきかなくなり、疲れやすくなったら、ちゃんと睡眠をとり、身体をやすめてあげることが本当に大切だと思います。
そして若々しくあるために、もっとも大切なのは、限りある人生を一生懸命に真剣に、前向きに生きていこうという意欲を持つことではないでしょうか。そういう意欲を持っていれば、身体の不快、心の不快に対しても、いち早く、懸命な対策をたてて実行して、自分の生きる内外の環境を整えようとするのではないでしょうか。
先ほど申し上げたように、私はもうすぐ64歳ですが、今が本当の意味での青春だと思っているんですよ。人から見たら、足りないところがまだまだたくさんあるでしょうけれど、20代よりはるかに今のほうが理解力、応用力、判断力があると実感できますし、身の丈を知っているので、無理をせず、自分のペースで進んでいけます。
この青春は、数々の人生経験が培ってくれた贈り物、あるいはご褒美のように感じます。今の青春を、これからも私は一生懸命、歩いていきたい。そういう仲間がどんどん増えて欲しいと思っております。
みなさん、これからも一生懸命、前向きに一歩一歩、歩いていきましょう。

ラジオ深夜便-「石川県能登半島」

ご紹介するのは石川県能登半島の輪島です。6月に能登の付け根の橋立、福浦の港町をご紹介いたしましたが、今回は突端の輪島です。
旅をしていて思うのですが、寒い季節に寒い土地へ行くのも旅のコツ。美味しいもの、人情・・・温かさがひときわ嬉しい旅になります。そこに、伝統工芸の世界があればもっと嬉しくなります。
日本は広く、日本は豊か。私たちが住むこの国は、素晴らしい技と知恵の宝庫です。
“日本の日本的なるもの”に気づいて以来、私はこの小さな島国日本に限りない愛着を持っております。
今回の「能登半島地震」は、大きな被害をもたらしましたが、本当に皆さま頑張って復興されています。あの、本町商店街・輪島朝市のおばちゃんたちも元気・元気!魚や干物、野菜や漬物などおばちゃんや、おばあちゃんが声高く売りさばいています。静かな輪島もここだけは、いつも活気いっぱい。手づくりの漬物や干物の何と美味しいことか。今はカニの季節ですね。
11月6日~3月20まで解禁となるズワイガニや甘エビ、殻つき牡蠣など、贅沢な海の幸をはじめ、奥能登の伝統調味料「いしる」やふぐ、鯖、とびうお、はまちなどの粕漬けも美味。
疲れたら、朝市通りにある自家焙煎コーヒーで冷えた体もここでホッとひと息。趣のある珈琲屋さんがあります。
私が能登、輪島を最初におとずれたのは・・・もう20年ほど前になるでしょうか。旅は最良の師や友を私に与えてくれます。今は亡き 漆芸家 角偉三郎さんに出会い、とても女の片手では持ち余る大きさの「合鹿椀」に出会い、木のぬくもり、漆の肌そのものの質感が手にふれ、カタチの強さがしっかりと手につたわったのです。
漆の原点である椀。
何に使われた合鹿椀か。そう両手の中にすっぽりと納まる大きさです。飯盛りだけではなく、なんにでも使われたとのこと。合鹿とは地名で、昔は柳田の漆器と呼ばれていたそうです。大正期に後継者が途絶えましたが、その椀を見事に復元し、独自の世界を築いたのが角偉三郎さんです。父は下地職人、母は蒔絵の仕事の家に生まれ、輪島を代表する工芸家でした。
輪島塗の繊細にして流麗(りゅうれい)な椀の対極にある、土臭くて無骨な合鹿椀。寒村の生み出した椀に出会い、そこから輪島の旅がはじまったのです。
輪島はまさに海の文化の拠点。
北前船や遠い大陸から客人が持ち寄ったものを積み上げて歴史が作られてきました。輪島の人はつねに海辺にたって向こうをみていた気がします。
「海からの文化は、又、海から出ていく文化でもありますね」・・と語っていらした角さん。
そんな輪島にはたくさんの魅力がつまっています。おすすめは、輪島塗の「工房めぐり」です。お問い合わせは輪島観光センターまで。「工房めぐりガイド」のマップがあります。ここに載っている工房は輪島塗の奥の深さを知って頂こうと専用の看板をかかげている有志の職人さんの工房です。マップを入手してから必ず電話連絡し、都合をうかがってから訪ねてください。
木地、塗り、上塗り、蒔絵、・・・輪島塗の工程を学んだら、“ギャラリーわいち”へ。朝市がたつ本町通リの商店街と重蔵神社の間にある「わいち商店街」にあります。「うるしはともだち」をキャッチフレーズに木地師さん、塗師(ぬし)さん、蒔絵やさん9名が集まり、伝統の美を伝えながらも従来の枠にとらわれない自由な発表の場として情報発信と交流の場となっています。と同時に、普段使い出来る素敵な器を買い求めることが出来ます。
ちなみに私はスプーンでカレーライスを食べることも出来てしまう、傷のつきづらい器を買ってまいりました。私の友人の桐本泰一さんも、ギャラリーわいちの仲間です。新しい輪島の魅力を教えてくださった若い友人でもあります。
ご紹介いただいたのは、能登の玄そばを石臼でひいた昔ながらの手打ちそばをいただける「輪島・やぶ本店」。
宿は「民宿深三(ふかさん)」宿のオーナーは深見大さん、瑞穂さんご夫妻。
定年後に民宿をはじめたお父様から受け継ぎ、2000年にお二人の思いのつまった民宿にリニューアル。能登ヒバや杉をふんだんに使った柿渋下地の拭き漆の床が気持ちよく素足で歩きたいほどです。数代前までは呉服屋さんだったということで、蔵に眠っていた箪笥、古布、着物が見事に甦り宿に彩りを添えています。冬の寒さでも温かさを充分に感じるのは、暖房だけではなく、漆の温もりと、何よりオーナーご夫妻のおもてなしです。食事は全てお二人で調理を担当されると伺い嬉しくなりました。
美しい輪島塗の器とテーブル・・・地の新鮮な魚や山菜、そして美味しいお米、朝、夕飯共に大満足でした。他にも素敵な宿、民宿がございます。
交通アクセスは
羽田~能登を1時間で。
東京から上越新幹線「とき」で越後湯沢乗換え、ホクホク線「はくたか号」利用
大阪から特急「サンダーバード号」で和倉温泉へ。そこからはバスで輪島へ。
金沢からは能登有料道路にて輪島まで。
おすすめは輪島市コミュニティバス「のらんけバス」各ルートがあります。
輪島、和倉特急バスも1日4往復、和倉温泉始発のJR特急も便利です。
輪島~金沢直通バスもあります。
最後に、今回の災害で大きな被害をうけた輪島市門前町。
震災で法堂や仏殿など建物が傾いたり壁が崩れる被害を受けた曹洞宗の総持寺祖院では、雲水と僧侶の方々が復興義援金を募るため托鉢をし今後は県内各地のほか富山市など県外でも予定しているそうです。
復興に頑張っている輪島を是非訪ねてください。
それも大きな支援になります。

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会が私の住む箱根で開催されました。私もお招きを受け「東海道箱根宿」について話をさせて頂きました。
箱根に住むようになり、30年になりました。子育てをしながら、女優の仕事を続けていましたし、普通に考えますと、東京都心に住むほうがずっと便利でした。
でも、箱根に住んではどうだろうか。そう、思い始めたら、箱根が私にぴったりの場所に思えてきたのです。山から小田原に下りれば、新幹線で東京まですぐですし、箱根は自然環境に恵まれ、ゆっくりと子育てができる場所でもあります。
美しい山々に囲まれ、湖もあり、温泉もある箱根は、癒しの場所であり、10代の頃の私の趣味のひとつであった水上スキーもできるリゾートでもあります。しかも、箱根は古くからの宿場町だからでしょうか。人が訪ね、人が帰っていく。そういう風通しのよさが、町の中にどこか感じられました。
歴史ある町でありながら、その歴史ゆえに、他のところから来る、よそものに対してもどこか開かれているように、私は感じていました。もしかしたら、箱根に居を定めた最大の理由は、箱根が古くから「宿場町」だったからかもしれません。
旧東海道の杉並木の道は私の毎朝の散歩コース。人生のほぼ半分を私は箱根で過ごし、今ではすっかり箱根人になりました。
さて、東海道の歴史は古く、律令時代から、東海道は諸国の国分を駅路で結ぶ道であったといわれます。箱根路は、800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって開かれたものなのですね。でも、箱根路は、距離は短くても、ご存知のように天下の剣。急峻ですから、足柄路が復興され、ともに街道筋として利用されたそうです。
源頼朝が鎌倉に政権を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになりました。そして、江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となりました。
江戸時代の東海道は、日本人にとって憧憬をかきたてずにはおかない存在ではないでしょうか。私も、江戸時代の東海道に惹かれるひとりです。
その理由のひとつに、浮世絵の風景があるのではないかと思います。初代、歌川広重が描いた東海道の各宿場の風景画です。これらのシリーズは、広重が描いた作品のなかでも有名なものですが、爆発的な売れ行きで、以後、「狂歌入り東海道」「行書東海道」「豆版東海道」などが次々刊行されたといいます。
そして、これらの浮世絵の流行によって、人々の間に、旅や東海道そのものに対する感心がいっそう高まったのでしょうね。実際、その絵を見ていますと、四季の移ろい、気象の変化、各地の風物が伝わってくると同時に、旅する人たちやそれを迎える地元の人たちの様子も伝わってきて、江戸時代の庶民が絵を通して、旅に憧れを抱くのが、わかるなあ・・という気がいたします。
そして、江戸時代といえば落語。
中でも柳家小三治師匠の高座は特別。江戸時代、庶民の生活は大変だったですよね。でも、生活は大変でも、笑い飛ばしてしまう庶民の力強さがあるんです。それが落語の中に感じられる。
それから、江戸の人々の遊び上手なこと。ものはなくとも、精神がとても豊かな面もあるんですよね。
落語をきいていると、文化の成熟ってなんだろうと、考えさせられることも少なくありません。落語の中に、旅ものが多くあるんですね。小田原や箱根近辺が舞台のものですと、町内の面々がそろって大山参りにいくことになって起きる騒動を語る「大山詣り」、仲のいい三人が旅に出て、小田原の宿・鶴屋善兵衛に泊まる「三人旅」やはり小田原の宿が舞台の「抜けすずめ」「竹の水仙」・・。
さらに「御神酒徳利」。大磯が舞台の「西行」そして箱根、箱根山がでてくる「盃の殿様」あげればキリがないほどです。
落語の「旅もの」は、江戸庶民にとって、憧れの旅へのいざないでもあったわけですが、現代に生きる私たちにとっても、江戸時代の旅にいざなってくれるものなのですね。
私も小さな旅を含めたら、1年の半分は旅しているといっていいほど、今も旅に出ることが多いのですが、それほど旅好きな人間なのですが、落語を聴いていると、とても羨ましくなったりするのです。何にうらやましさを感じるかというと、それは、やはり、“歩いて移動する旅”という点なんです。
歩くことで見えてくる・・・・。
歴史ある町には、その歴史が、文化ある町にはその文化が、目には見えなくても、しっかり刻まれていて、それは歩くことによってのみ、感じ取ることができるのです。
町の匂い、町の佇まい、町の奥行き、町の存在感といったものが歩くと発見できるのです。  私は、それを町の記憶と、ひそかに呼んでいます。
たとえば箱根の町に、私が感じる町の記憶はと申しますと、箱根は後世に「天下の剣」といわれた箱根山の往来は、困難を極めたところです。車だとすぐですが、ちょっと歩くだけでも、その一端がうかがいしれます。
笠をかぶり、杖をつき、わらじをはいて、荷物をかつぎ、旅した人たちの大変さ。それでも前へ前へと進もうとする人の姿。ときに、足を止め、富士山の美しさにため息をつき、芦ノ湖の静かな水面に心慰める・・・そんな、当時の旅人の気持ちに近づける・・・。
歩いた後はぜひ、温泉に肩までつかり、お湯のよさと、「一夜湯治」の贅沢を味わってもらいたいと思います。江戸時代から、何万人という人が歩いて旅した記憶というのは、日本の記憶でもあるんですね。
東海道という道は、それだけの重さと豊かさを持ったものなんです。
自分の住む町や村に誇りを持つということで、歴史を知り、文化を知り、そこで営まれてきた人々の暮らしを知り、今と繋がっていることを認識してはじめて、自分の住む土地が好きだといえるのではないでしょうか。
私は、箱根人として、旧東海道の杉並木が残されていることを誇りに思います。


私の信仰と円空上人

先週に続き「円空さん」についてお話いたします。
私にたったひとつ、信仰があります。
それは木。
木に何か人知を超えた天空の意志を感じるのです。
太古に通じる水脈から命を得、時空を越えて屹立する木、その精に。円空が彫り、極めた果てに見出したものに心ひかれます。木に刻まれた平穏の深さと無垢、無音の歓喜。それこそ木の精霊との出逢い。円空の会心の笑みをみる思いがします。
円空上人は今から三00年ほど前の漂泊の僧でした。1632年に美濃に生まれ、大飢饉のさなかに少年期を過ごし、母を早く亡くしたこともあり、幼くして、寺に奉公したのですが、32歳にして出家。
岐阜、志摩、東北、北海道までも、巡礼の旅を歩きました。どこえいっても厳しい迫害にあったそうです。それでも彼は12万体造仏祈願という途方もない仕事を自らに課し、全国各地でたくさんの木彫りの仏像を残したのです。
辺境の地や離れ島、山間の地などに住む人々の病苦や貧困を救おうとして造仏だったのかもしれません。
また、円空さんは、白山信仰、観音信仰にも帰依しました。
岐阜県美並村(現郡上市)の洞泉寺にあったのは、円空さんの手になる「庚申座像」でした。この仏さまは横座りをして、小首をちょっとかしげて微笑んでいらっしゃる。お顔には幾重にもシワが刻まれていますが、それがなんとも優しいこと。前に立った人がみな、ふっと笑顔に変わるのです。
「比丘尼(びくに)像というのが、ありますがその方が、円空が恋した女性ではないかという節があります。青年円空の人間くさい一面を想像させて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
そして、飛騨路の旅の宝物。千光寺の「お賓頭盧さん(おびんずるさん)」
無病息災を願う千光寺のなで仏です。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。
多くの人がこの仏さまをなで、心の平安を祈ったことでしょう
私の大好きな仏像です。
千光寺を最初に訪れたのは、NHKの日曜日美術館で円空を取り上げたときでした。坂道の途中に天然記念物の五本杉がそびえ立ち樹齢1000年の木とか。
この木に聞けば、円空さんってどんな人?ここでどう過ごしたの、と、みんな聞けそうな気がしました。あの時も全山、紅葉にもえ、晩秋の飛騨路の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間に暮れなずんできました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”
円空さんの造仏の鉈の音を感じながら千光寺をあとにしました。
旅先で出逢う宝物。木の仏像
円空上人の旅のあと。
これからも、円空さんの歩いた道を旅したいと思います。

古川への旅

旅の空の下に友がいます。私を待っていてくれる人が・・・
今週末は飛騨、古川に行ってまいりました。
“古き日本の美”を感じる旅。
NHK朝ドラマ「さくら」の舞台となった飛騨の匠の街、飛騨古川は風情の漂うレトロな街。そこで、朝日新聞の読者の方々22名と「和ろうそく懐石の夕べ」をご一緒いたしました。
宴席は宮川沿いの老舗割烹宿。郷土料理を味わいながらの楽しい宴でした。
そして、クライマックスは友人所有の「円空さん」を抱かせていただいた事。

今年の飛騨の紅葉は遅れており残念ながら「息を呑むような素晴らしさ」とはいきませんでしたが、それでも秋の日差しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれましたし、奥飛騨から少しずつ紅葉が街におりてきておりました。
私と古川のご縁はもう30年近くなります。
これで飛騨古川を訪ねるのは何度目になるでしょう。
高山本線古川駅はいつも私を下車させてしまうんです。
私の心の故郷と呼べる土地がいくつもあるのですが、飛騨古川もそのひとつです。引き寄せられるように、何十回とこの町を訪れ、今では、この町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染み渡るまでになりました。
「浜さん、僕たち、映画を作りたいのですが、どうやって作ったらいいのか分かりません。相談にのってください」唐突に話しかけられたあの日から、古川の青年たちは私の大切な友になったのです。
当時、青年。いま、みんな中年の仲間。
題して、「ふるさとに愛と誇りを」という1時間30分ものフイルムでした。
大層みごとなものでした。彼らが生まれ育った町がくっきりみえてくる大作・・。
あなたは持てますか?ふるさとに愛と誇りを。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば御岳山、乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
木々の間をぬう風は凛と澄み切って、そこにいるだけで心身が浄化されるような町なのです。
私はこの町にいる間中、山や木に守られている・・・という、いわくいいがたい安心感に包まれ、心が素直になっていくのを感じます。以前、この飛騨古川への旅路で、円空仏に出逢ったとき、自分でも思いがけないほど感動したものです。
その”円空さん”をしっかりと抱かせていただけたのです。
ろうそくの灯りのもとで。
町の飛騨市美術館では「円空仏展」も開催されていました。
円空上人については、次回ゆっくりお話をしたいと思います。
昨年は胸にしみるような紅、光を封じ込めたような黄色、しかも葉の色は刻々と変化して・・・どこを見回しても錦絵さながらの風景が広がり、四季のある国に生まれた幸せを思わずにはいられませんでした。きっと、11月半ばか下旬にはこのような風景に出逢えるでしょう。
もう一度戻ってきたい古川を後にいたしました。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く」

今回ご紹介するのは愛媛県内子町・石畳地域です。
まず最初に内子町について少しお話しさせて頂きます。
明治の家並みの美しさ、白壁・なまこ壁の町並みは皆さんご存知のことと思いますが、内子町は愛媛県の西南部に位置し、東西15、5km、南北14、5km、に位置しており、68%を山林が占める農山村です。
松山市からは約40キロ
松山から内子まではJR予讃(よさん)内子線で25分
車なら松山インターから高速松山自動車道で約25分
平成17年1月1日に、旧内子町、旧五十崎町、旧小田町の3町が、合併し、新内子町が誕生しました。
町の目指すべき姿として、「エコロジータウン・うちこ」をまちずくりのキャッチフレーズに揚げています。
町中を小田川、中山川、麗川が流れ、農家と農地が散在し、標高200~300米の山腹や丘陵地には、かつては葉タバコから現在現在は果樹、施設園芸など、谷間に美しい自然と農村の景観が形成されております。
町内に目を向ければ「町並み保存地域」にみられるように家々は、見事な鏝絵(こてえ)が残り、漆喰芸術の数々が見られます。
江戸から明治期には養蚕業、木蝋、大正期は生糸で栄えてた町。今でも当時の繁栄がしのばれます。
私は早朝、町並みを歩いたことがございますが、人々が声をかけ合い清清しい空気がそこには流れておりました。
そして、なんといっても内子といえば「内子座」・・・。
地方に残る貴重な芝居小屋。文楽や歌舞伎も演じられる小屋です。昨年は、十八代目中村勘三郎の襲名歌舞伎公演も行われました。なにも開催されていない時には内部を見学できます。
私は舞台下の奈落を見学させて頂き、築90年、木造建築の2階建てのこの小屋をよく改修復元したと感心させられました。地元の方々の熱き思いが伝わってきました。
もともと、この小屋は農閑期に農民が歌舞伎や文楽などを楽しんだ小屋です。こうした背景には地域の人々の伝統文化の保存、継承、農村が持つ信仰の熱さ、念仏講や秋祭り、神社での神楽、子供相撲、炭焼きの復活など、地域の個性的な景観が人々の手で守られております。
「町並み」から「村並み」へをキャッチフレーズにして、”今”・・・という時代にマッチした町づくりが行われております。
さて、今回ご紹介する”石畳地域”は町の中心部から約12km、「小田川」の支流「麗川」源流域に位置する、農林業を主体とした人口380人の小さな地域です。
過疎、高齢化が進むなかで、「このままでは集落が消えてしまう」、「石畳に誇りに思える地域をつくりたい」と昭和62年、農家の若者や町職員12名の有志(現在25名の会員)が「石畳を思う会」を発足させました。
未来を担う子供たちに何を残すべきか・・・未来への投資のために汗をかこう!
そして、
地域の歴史を伝える水車小屋を自費で復元。
水車公園の整備
地域を流れる麗川の蛍の保護。
樹齢350年といわれる「東のしだれ桜」地元の石工職人によって美しい石垣が築かれ、毎年4月には、集落の人々が桜の下の民家で「桜まつり」を開催し多くの人で賑わいます。
そして、地域の名所は「弓削神社の屋根付橋」 杉皮で葺かれた屋根はそれはそれは美しいです。
橋脚も昔ながらの工法で改修され、「結い」の精神が残る集落。従来の「行政におんぶにだっこ」的な考えから自立し
た集落づくりに頑張っておられます。
「地域の文化を大切にしよう」
「自分たちでできることは自分たちの手でやっていこう」
そして、内子町全体では”グリーンツーリズム”に力をいれています。町内には宿が13軒あります。私も泊まったことがございます。
「ゆっくり農村体験をしてほしい」・・・とどこの農泊の方々も仰います。

石畳地域には町営民宿「石畳の宿」があります。明治中期の農家を移築復元し、懐かしい雰囲気が漂う宿泊施設。地域の農家主婦が地場の素材を使い手料理でもてなしてくださいます。
こちらは、JR内子駅より車で30分。
定員は12名。
囲炉裏を囲みながら田舎料理、旬の野菜の煮物や山菜のてんぷら、囲炉裏で焼く川魚・・・など山里でのんびりと、地元の人たちの温かなもてなしを・・・心あたたまりますよね。
そうそう、内子には幻の名酒といわれる地元の棚田米使用の純米大吟醸生酒もございます。
肌寒くなった秋、紅葉を見がてら旅がしたくなりました。

柳家小三治師匠

“これはもう「恋」なのかもしれません”
雑誌「ゆうゆう」にそう告白してから、4年がたつでしょうか。
友人に寄席に連れていってもらい、柳家小三治師匠の落語を聴き、すっかり感激し、魅せられ夢中になってしまいました。足しげく寄席に通い、気がつくと「追っかけ」に夢中です。
先日も上野の鈴本演芸場のトリを聴きに着物を着て出かけてまいりました。演目は「お茶汲み」でした。
独演会はもちろん出来るかぎり参ります。大変人気があるかたですから、チケットを取るのも至難の業です。
前売り券があるときはとにかく電話。気合でとります。立ち見で聴くことも。
だいたい、私はひとつのことにのめり込むたちなのですが、これほど胸をときめかせるものに出会ったのは、正直初めてかもしれません。
落語家は舞台の上に、しゃべりとしぐさだけで、ドラマの世界を作りあげるのですが、何が素敵かって、師匠の場合、そのドラマのふくらみが・・・ああ、言葉が見つからない・・・本当に素晴らしいの。豊かなの。
たとえば師匠がある人物の言葉を話すでしょう。すると、その言葉だけでなく、当の人物が持つ空気感というのかしら。そういうものまで、じんわりと、伝わってくるのです。
その人物像、時代背景、場所の雰囲気、人々の息遣いまで感じ取れるのです。
それから何といっても、師匠の人間性なんでしょうね、芸に品格も感じられるのは。
落語の本編が始まる前の”まくら”も楽しみです。師匠の横顔がのぞけて、フアン心理をも存分に満足させていただけるのです。
気がつくと首を伸ばして、体を前に傾けて、目で耳で一心にその世界を堪能させていただいて・・・・。扇子を持つ姿、お茶の飲み方などのしぐさにも、胸がキュンとしたりして。
こんなふうに思いっきり”好き”っていえる人がいるって、本当に幸せ。”恋?”そうね。もうこれは「恋」なのかもしれません。
そこで、ご案内です。この度 落語研究会 「柳家小三治」全集 のDVDがTBS・小学館から発売
されました。10枚組みのDVDと写真集・インタビュー記事・・・「追っかけ」にとっては、まさに「宝物」・・・。
これからの人生、舞台とDVDで甘い夢がみられます。

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