日本人の原風景

素晴らしい本に出会いました。

今、コロナ禍が人と人の営みを分断しています。このような時期に、今一度私たちの暮らしを見つめ直すことも大切なのかも知れませんね。

先祖が長く営んできた暮らし。例えば自然の恵みを受けたり、四季折々の行事など、かつては人びとの暮らしの中に当たり前のようにあった文化や、自然の理にかなった習慣や四季の移ろいによって美しく変化する国の景観や・・・そうしたことの尊さは、人びとの心の拠りどころであったはずなのに知らぬ間に軽んじて、捨て去ってきてしまったようにも思えます。

時代はたえず変化しつづけます。情報化の時代でもあります。しかし、こうしてコロナ禍にあって『普通に暮す幸せ』をもう一度見直し、”美しい日本の暮らし”を考えることも大切なことではないでしょうか。

私は幼い頃にそうしたことを経験した最後の世代です。ならば次世代に引き継いでいく大事な使命を担っているように思います。

そこで、出会ったのが神崎宣武さんの「日本人の原風景」です。

神崎さんは1944年、岡山生まれ。

武蔵野美術大学在学中から、民俗学者・宮本常一に師事し、国内の民俗調査研究に、長年、携わっておられます。

また岡山県の宇佐八幡神社の宮司や「旅の文化研究所」の所長もお務めです。「社(やしろ)をもたない神々」「神主と村の民俗誌」など。

そして今回の「日本人の原風景」です。難しい話しではなく「田植え祭り」はなぜあるのか、神田祭り、浅草の三社祭り、6月には赤坂・日枝神社の山王祭り。都市でのお祭にはどんな願いが込められているのか。

また旅のお話ですと旅が大衆化された江戸時代「一生に一度のお伊勢参り」落語にもある「大山参り」など等。もう一つ、旅といえば、「男はつらいよ」の寅さん。

神崎さんのご専門の民俗学は人と人との営みがベースになっています。その営みが遮断された現在の私たちの暮らし。「普通に暮す」ことの大切さは昔も今も変わりません。不自由ですよね。辛いですよね。

そこでラジオのゲストにお迎えし、「日本人の原風景」を語っていただきました。何だか”幸せ”を感じられました。ぜひラジオをお聴きください。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
4月4日 日曜日
9時半~10時

詩人 谷川俊太郎さん

詩人 谷川俊太郎さん

昨年12月に米寿を迎えられた谷川さん。そして、去年、未収録の作品と書き下ろしからなる31篇の最新の「ベージュ」(新潮社より)を発表されました。

1952年、「二十億光年の孤独」を刊行以来、2500を超える詩を創作し、海外でも評価が高く、詩集をはじめ、散文、絵本、童話、翻訳、脚本など創作活動は多伎にわたり、2016年、「詩に就いて」で三好達治賞を受賞するなど、これまでに数々の賞を受賞なさっておられます。

「ベージュ」は難しい言葉ではなく、普段の生活している言葉で綴られています。

読み進めていくうちに「これは谷川さんご自身にラジオで朗読をして頂き、お家にいる皆さんに聴いていただきたい」との思いにかられ無謀なお願いをしてしまいましたが、快くお受けくださり、なんと2編の詩を朗読してくださいました。

スタジオではパソコン越しにリモートで行いました。コロナ禍でこのようにリモートでのご出演がかない素敵でした。89歳なんて信じられない若々しいお声。このような時期、心が落ち着かないときの詩はなおさら染み渡ります。今回は2週分を収録させていただきました。

朗読は3月14日分で、21日はたっぷり近況や詩のお話、ご両親のお話などうかがいました。ぜひお聴きください。そして、朗読していただいた詩をお読みください。

ベージュ   谷川俊太郎

「明日が(あすが)」

老いが身についてきて
しげしげと庭を見るようになった
芽吹いた若葉が尊い
野鳥のカップルが微笑ましい

亡父の代から住んでいる家
もとは樹木だった柱
錆びた釘ももとは鉱石
どんな人為も自然のうち

何もしない何も考えない
そんな芸当ができるようになった
明日がひたひたと近づいてくる

転ばないように立ち上がり
能楽の時間を歩み始める
夢のようにしなう杖に縋って

 

「川の音楽」

私は橋の上に立っています
振り返ると川がどこからかやって来て
前を見ると川がどこか私の知らない里へ流れていく
川はアンダンテの音楽を隠しています

何十年か前にも麦藁帽子をかぶって
橋の上から足の下の川の流れを眺めていた
川が水源から海まで流れていくことをそのころは知っていた
でも今はそんな知識はどうでもいいのです

川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると
生まれる前から死んだ後までの私が
自分を忘れながら今の私を見つめていると思う

夕暮れの光にキラキラ輝きながら
川はいつまでもどこまでも流れていきます
笹舟のような私の思いをのせて

「浜 美枝のいつかあなたと」
文化放送 日曜日 9時30分~10時
放送 3月14日と21日

風景画家・コンスタブル展

先日仕事で東京に出かけ、その帰りに丸の内の三菱一号館美術館で開催されている「テート美術館所蔵 コンスタブル展」に行ってまいりました。

”あぁ~旅がしたい!”そんな日々を送っている私。

最初のひとり旅は、1961年10月末から約20日間。行き先はイタリア、フランス、イギリス、オランダ、デンマーク。

安いチケットを見つけ南回りで30時間近くかけての旅でした。ラフなプランのもとに旅立った当時の私ですが、なにぶん半世紀以上前のこと。自分のオリジナルツアーにしたいという一念で出かけた旅だったことは、現在でもよい思い出です。

ロンドンに着いてから最初に行ったロンドン・ナショナル・ギャラリーで初めて見たジョン・コンスタブルの風景画に魅せられました。

イタリアでの刺激的な旅のあと、穏やかな田園風景は旅の疲れを癒してくれました。19世紀イギリスの風景画家・・・という認識くらいでしたが、その田園風景は英国の「自然」が表現されていて”雲”の描き方に自分の暮す故郷への愛情が深く感じられ魅入りました。

今回のコンスタブル展はテート美術館所蔵の作品がメインで、国民的風景画家の、35年ぶりの大回顧展です。

ジョン・コンスタブル(1776~1837)は終生描き続けた故郷サフォーク州のイーストバーゴルド村周辺ののどかな情景は何だかイギリスの田舎を旅している気分にさせてくれます。

イギリスのもう一人の風景画家ターナーはずい分旅をして描いていますが、コンスタブルは生まれ育った故郷周辺をおもに描いているからでしょうか・・・とても懐かしさを覚える絵画なのです。

半世紀以上前に観たときの”雲”の印象は今回の展覧会でその意味を知ることができました。天候の移り変わりの激しいイギリス。私も一年だけですが暮してみて実感しました。

刻々と変化する空・雲。そして夕立を予告するような空・雲。よほど”自然”と向き合っていなければ描けない絵画です。そして、木々の表現。描かれるごくごく普通の人びとの表情。家族や友人と過ごした場所での制作。

ひたすら日常の中で自身の生活や環境から離れることなく描いた世界。暮らしを慈しみ、大切にしていること。

「イングランドの風景」の版画集も素晴らしいです。

コロナ禍の中での日々の暮らし。時には気分転換が必要ですね。特に私はイギリスの田舎が好きです。60年間に何度も訪れ、その”自然を美しく保つ”ことに国民が誇りを持っていることに感動を覚えます。

こうして、展覧会に行くだけでも旅ができるのですね。
展覧会は5月30日までです。
公式サイト
https://mimt.jp/constable/

『白い土地 ルポ 福島「帰還困難区域」とその周辺』

間もなく3月11日 東日本大震災から10年を迎えます。

そして、先日13日の土曜日深夜23時8分には震度6強の地震があり、また被害がでました。皆さんのお気持を思う時、”なぜまた”との思いがいたしました。

朝日新聞記者でルポライターの三浦英之さんが出版された本を読み、今まで報道されてきたこと以外に福島の現実を知りました。

ぜひ皆さんにも知っていただきたくて、ラジオのゲストにお招きしリモートでお話しを伺いました。

三浦さんは1974年、神奈川県のお生まれ。これまで震災報道や国際報道を担当したほか、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞はじめ数々の賞を受賞なさっておられますが、「現場の人・職業記者」です。

現在、福島県南相馬市にお住まいです。福島の前はアフリカでの勤務。ぜひ生の声を、生のお話しをお聴きいただきたいです。

本のタイトルになっている「白い土地」とは白地(しろじ)といって帰還困難区域の中でも、国が復興を進める「特定復興再生拠点区域」に含まれない、将来的にも住民の居住の見通しが全く立たないおよそ310平方キロメートルエリアの隠語だそうです。

三浦さんは着任し、すぐに公立図書館に足を運ぶと無数の震災・原発の本があり、自分の取材する隙間が残されていなく絶望したそうですが、その後、避難指示が解除されたばかりの浪江町でたった一人新聞配達をしている人に出会い、「新聞配達をさせてほしい」と頼み、朝の夜明け前2時頃から手伝い、雨の日も雪の日も、新聞を自宅に届けていて初めて「生の情報」が得られたと仰います。

そうですよね、私たちはテレビの画像などでインタビューに答えておられる姿に「ご無理なさっている」と感じることがしばしばあります。本音で語り合い、話をじっくり聞き、取材なさって本ができました。

『どうしても後世に伝えて欲しいことがあります』浪江町の町長は死の直前、ある「秘密」を三浦さんに託します。

政府は「復興五輪」と位置づけ東京オリンピックの開催を決めました。この背景も三浦さんは取材しています。私はほんとうに知らないことばかりでした。オリンピック開催の象徴、聖火ランナーは原発事故の地からスタートします。

『復興五輪』・・・という言葉を三浦さんはどのように受け止めていらっしゃるのか、ぜひ本を、そしてラジオをお聴きください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
放送は3月7日 日曜日 午前9時半から10時

この番組も20年を迎えました。毎回番組の最後にゲストの方に「忘れられないあの味」をお聴きしております。三浦さんは「震災直後に現場で頂いた塩をまぶした小さな”おむすび”です。」と。「家族や娘、息子を失った方々もいらっしゃいました。」と答えられました。懸命に握る姿を想像し、思わず私は涙がこぼれました。

曽我の梅林

寒さがゆるみ、春らしい気配がしてきました。
春の訪れを待ち望んでいる私。

この1週間ほど朝日新聞記者でルポライター・三浦英之さんの書かれた『白い土地・ルポ「帰還困難区域」とその周辺」』の本を読んでおりました。

ラジオのゲストにお迎えし、お話しを伺うことになっています。その様子は次回このブログで詳しく皆さまにお伝えしたいと思います。

間もなく東日本大震災から10年を迎えます。三浦さんはアフリカ勤務の後、2017年の秋、福島県に着任し、実際に南相馬に拠点を置きルポされた本です。深く考えさせられました。

春めくや藪ありて雪ありて雪   小林一茶

早朝のウオーキングでは霊峰富士もまだ雪化粧をしており白銀の世界です。

毎朝「白い土地」のことを考えながら歩いておりました。

ふっと春の訪れを感じたくて、小田原市東部の曽我梅林に行きたくなり、小田原から国府津へ。そしてJR御殿場線に乗り換え車窓から梅林が見えてきます。

一つ目の下曽我駅で下車し、白いマスクを着けた方々が数人一緒に降り歩いて梅林に向かいます。のんびりと散策しながら歩いていると白梅の香りがしてきました。

「いい香り!」と思わず嬉しくなりました。

満開に近い白梅に枝垂れ梅の紅梅も咲き始めていました。開花は例年より早いそうです。

新型コロナウイルスの感染防止のため、イベントなどは中止になり、申し訳ないほど人も少なくのんびりできました。

約3万5千本の梅の木が植えられているそうです。こうして巣ごもりの状態でも”春を見つけ”小さな旅を楽しんでおります。

そうそう帰り道、無人販売で曽我のみかんを買ったり、昔ながらの和菓子屋さんで美味しい「田植え餅」を見つけお土産に買って帰り、家でいただきました。

ポーラ美術館

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年

立春が過ぎたものの、箱根の山はまだ”春浅し”。
朝はまだ零下4,5度であったり、時には春らしさを感じたり、春探しの日々です。

先日、穏やかな日差しの中観たかった展覧会に行ってきました。箱根の山はとても静かです。観光客もほとんどおりません。コロナ禍での自粛。私も仕事で東京に行く以外はこの箱根におります。

幸せなことに箱根には素敵な美術館がいくつもあり、40年暮していて、どれほどの幸福をいただいてきたことでしょう。

今回は「ポーラ美術館」で開催されている展覧会です。
ソーシャルディスタンスはしっかり取れました。

とても観たかった2枚の絵。

ラファエル・コラン(1850-1916)の<眠り>(1892)が120年ぶりに公開されています。

1900年のパリ万博で公開されて以来、個人蔵であったのか、様々なエピソードがありますが以降現存さえも知られていませんでした。私がコランの裸婦像を始めて観たのは多分オルセー美術館だったと記憶しています。

田園に横たわる柔和で優美でそこに降り注ぐ自然の光。コランの裸婦に惹きこまれました。そのコランを師と仰いだ「黒田清輝」が多分パリ万博でもその<眠り>を見たであろうと言われています。

今回の展覧会では、黒田の<野辺>と一緒に<眠り>が飾られています。黒田の女性は左手に野の花を持ちモデルは日本人でしょう。(今回の会場は一部の絵をのぞき、撮影が可でした。)

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本の浮世絵や工芸品はフランスの芸術に大きな影響を与え、ゴッホやモネなどジャポニズムの時代が到来します。また多くの日本人画学生がフランスへ留学します。黒田清輝もです。

展覧会場では、ユトリロと佐伯裕三、ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、ゴーガンなど。そして日本人画家、岸田劉生、村山魁多、関根正二、安井曾太郎、戦後に祖国を追われ、最期はフランス人として生涯を終えるレオナール・フジタ。(藤田嗣治)日本人として誇りを持ち続けたフジタ。

皆さま、なかなか美術展には行かれない現状ですが、館内の静けさと写真でお楽しみください。

ポーラ美術館公式サイト
https://www.polamuseum.or.jp/

コネクションズ
海を越える憧れ、日本とフランスの150年
は4月4日まで。

浜 美枝の「いい人みつけた」その4

柳家小三治さん
このラジオ収録は1984年初秋でした。

小三治師匠の落語に始めて出逢ったのは40年ほど前、富山の宇奈月のお寺でした。師匠の噺に聞き惚れていました。それ以来です。”おっかけ”は。

それにしても、改めて本を読み直すと赤面のいたり・・・よくそんなことまで伺うわ、と我ながら申し訳ないことばかりです。噺家らしからぬ噺家っていっても、私たちファンにはとうに小三治さんの個性、そのらしからぬところに惹かれてているのですから。

私びっくりしちゃったんです。スタジオにいらした時の格好!ヘルメットかぶってオートバイで。その格好で走ってらしたら、小三治さんを何とお呼びしていいか分からなくなりました。何とお呼びしたらいいかしら。

「小三治です。大三治はお断りしています。」

落語家とバイクは、ちょっと結びつかなかったです。

「ほんとにそうですね。今までの観念からいうとね。私は噺家になりたいなと思っていた時分はね、そういうことをやらなかったかもしれないし、またやっても内緒にしてましたよね。僕が生まれたころ、特に育ったのも山の手ですしね。下町の雰囲気っていうものは身の回りになかったでしょ。だからなんとか噺家になりたい、いかにも噺家らしく下町の味をいっぱい口の中にほうばったようなそういう人になりたいと思ったんだけどね。

ずいぶんそれで悪戦苦闘しまして、四、五年はそんなつもりでいましたかね。でもこりゃ、どうも生まれや育ちは変えられるものではないと気がついてやめたんです。噺家になろうと思うことをやめたんです。これはたまたま実益をかねてる趣味だと、だからずっとこれをやっているかどうかわからない。ダメなときはやめてしまえばいいんだ。

ただ、今、俺は好きなことをやらしてもらってんだとそう思ったとたん、気が楽になってね。それからですよ。スキー、オートバイ、スキンダイビングとか自分の好きなことのびのびやりだしたのね。噺家の常識からいえば、当然日本舞踊とか長唄なんかの素養があり三味線かなんかちょいっとつまびく。

ところが、そういうのが大嫌い、私は。正直言って、まあなんとかなろうとしましたから踊りも習いました。そういう歌も興味をもって聞きましたから、多少は普通の方より聞いてはいます。でもほんとのこと言うと、やっぱりジャズ聞いたりクラッシック聞いたり、歌謡曲やニューミュージックなんか聞いているほうが面白い。今ふうの若者のなれのはてなわけですよ。」

落語家になろうとしていたときに、それらしく、いかにもそれらしく努力していらしたわけですね。

「不思議なんですよ。前々からどうして噺家になりたいと思ったかっていうとね。小三治さんは噺家らしからぬ噺家だって言われた。それですから、なんとか噺家になりたいと思ったところが、噺家なるのやめたと思ったとたんにね、どこがどうなったのか知りませんけどね、

「さすが噺家さんですね。噺家さんらしいですね」って言われるようになったところに、私は大きななんか生きるうえで秘密があるような気がするね。肩の力が抜けちまってどうでもいいやと思ったとたんに急にさすが噺家さんとか噺家らしいとか・・・。なんでしょうね。

そう思ったとたんに、逆に言えばプロらしくなった。なんとかこれで食ってやろうと思っているうちは、ほんとうのプロにならないのかもわからないね。だけど最初からそう思ってちゃダメかもわからないね。それまでのものがそこでもって花が咲いた。花はさかないけれど何かになった。」

なぜオートバイに乗るのですか。

「なぜでしょうね、なぜなんでしょうね。単純に言って面白いからですよ。こんなに面白いもの、ほんとに生きている間知ってよかったなって、つくづくそうおもいますよ。」

凝り性なんですね。

「そう、凝り性ですね。同じ人間なのに、あいつがうまくできて俺ができないってのは悔しいです。負けず嫌いといえば聞こえはいいけど、それをひっくり返せば潜在的劣等感といいますかね。負けず嫌いってのは劣等感の裏返しかもわからない。

劣等感のない人は負けず嫌いじゃないんじゃないですか。負けていても平気でいられる、そういう人はよほど自信のある人か何かです。ゴルフの場合でも、力を入れたら飛ばない。オートバイの場合もそうです。自分を乗り越えていかないとうまく操れるようにならない。」

危険なときには肩の力が入っているようではなおさら危ないですか。

「だって危険なときってのは、体にどうしても力が入ります。そこをスッと肩の力を抜くとそれが突然安全に変化するんですね。そういうことを自分自身で乗り越えていくってところが、落語やってもパチンコやってもみんなそうだったけど。パチンコなんかもね、入っていちいち喜んでるようじゃ玉は入らない。だから人間の本能に逆らっていくように。パチンコもセミプロまでいきましたけどね。」

小三治・少年期、青春期(初恋のはなしなど)、父親論など等。

マイクを前にして、私、小三治さんに女性観に話しが及んだときなんか、いじわるおばさんふうになっていたかもしれません。言いにくいこといっぱい言わせてゴメンナサイ。男の人の少年の心、聞いていて、私ドキドキしたんです。(これは当時の感想です)

この時代にお話しを伺えてほんとうに幸せでした。

『人間国宝 柳家小三治師匠』

これからも”おっかけ”を続けさせてください。

浜 美枝の「いい人みつけた」その3

大塚末子さん

私は40歳のときに演じるという女優を卒業し、新たな道へと進みました。

”自分の感じとった感性が一番尊い。その感性で種々の職業につくべきである”という言葉は日本の農民美術の指導者・山本鼎の教えです。この言葉は長野県上田市の神川小学校の入り口に掲げられています。

16歳で女優になり、不安にかられるとこの言葉にふれたくて、何度もこの小学校の前に立ち、この言葉をあおいだことがあります。

暮らしの中で、絶対だと思えるときがいくつもあります。子供を生んで、その可愛さにひたると、私は一生、母親で生きようと思う。しかし、三~四年すると、どこかムズムズと外の社会で働くことを思い出し、一瞬、子供の可愛さがうとましくなる。”絶対”と思えたことがどんどん動き変化していく・・・

どれが本当の自分で、どう在りたいのかを見失うこともあります。成長して変化していくのが人間ですから”絶対”と思えた中で生きにくくなったら、少しタガをゆるめて、少し柔軟に、もっと自分を許して、自分をラクにしてみる・・・

そんな呼吸法をみつけられたのは40代になってからでしょうか。それはある先輩の女性から大切なことを教えられたからです。

”嵐の中を生き抜くのって本当に大変。でもこれだけは確実に言えるわ。嵐を抜け出てきたほうが、後半、いい顔を持っているわよ”と。それからです。年上の素敵に生きている女性に出逢いたいと心から願い、お逢いしてきました。おかげさまで、ラジオの仕事は30代後半から現在も続いております。

大塚末子さんも、そのおひとりです。

大塚さんは「大塚末子着物学院・テキスタイル専門学校」という二つの学校の校長先生でいらっしゃいました。収録時は82歳。グレイの素敵な、上下別々のお召物と、赤と黒のスカーフ。おぐしが真っ白で当時このような着物の着かたをなさる方はいらっしゃいませんでした。

”針一本と残りぎれからの出発。・・・48歳での一人立ちでした”

未亡人になられて、それから着物学院その他のお仕事を始められた大塚末子さんの活動は私にとって当時眩しいほどのご活躍でした。

「伝統というのはただ守るだけではなく、積極的にこの現代に生かすことです」と82歳になられても意欲的に仕事をなさる大塚末子さん。私は今年40歳になりまして、大塚さんは82歳。こんなに美しくいられるっていうのは、憧れと同時に私たちの夢なんです。女の美しさってどんなふうに感じられますか?と当時の私はお訊ねいたしました。

「私、一番気をつかっておりますのは”健康”であるっていうこと。頭が白くなって、それからシワがよって、シミができる。これは仕方がない老人のシンボルでしょ。これをどうこうしようというより、やはり心身が健康であることが、一番私にとって大事なことかと。」

「私は針一本。残りのわずかなこの布(きれ)の中から何かをつくろう、こうしたならば子供たちが喜ぶであろうとか、こうしたものができるんじゃないかとか、これはささやかな自分の経験からでございますけれど、みんなあまりにも一つの規格の中に追いやられている。これは政府が悪いんですか個人が悪いんですかわかりませんよ。何かそういうものの考え方を考え直さなきゃ嘘ですね。」

「やはり老いたる者がああして欲しいという要求を持つよりも、若者から尊敬されるものを、老人は老人として考えていかなければいけない。自分だけが哀れっぽくなっちゃいけない。自分を幸福の神様見てくれてないんだというような、そういう心を持たないことが一番大事ではないかと。誰かが何か見ててくださる、そういうことを考えますと、この人にお世話になったから、この人に何かしなくちゃいけないじゃなくて、何かやはり生きていく限りつまずいた石ころにも一つのご縁があったのじゃないかしら、と今、思いますね。」

40年近く前のお話しです。さりげない言葉の裏側に大変なご苦労をなさって生きてこられた大塚末子さんのことばに優しさを感じ、胸が熱くなりました。大塚さんは「お陰さまで」ということばと「させていただく」ということばを何度も使われました。「いいひとを見つける」ためにはとても大事なことだと教えられました。

天は二物をお与えになった。いえ、三物かもしれない。美しさと自立した精神と、素晴らしいクリエイティブな能力。そして柔らかな腰の低さ。

40歳だったあのころ、現在77歳になった私。
少しでも大塚末子さんに近づきたいと心から思いました。

浜 美枝の「いい人みつけた」その2

画家・安野光雅さん

安野先生が昨年のクリスマスイブに亡くなられました。

先週の淡谷のり子さんに続き、今回はその安野先生を心から偲びたいと思います。

箱根の家の本棚には、先生のお描きになった絵本がたくさん並んでいます。「旅の絵本」「ABCの本」「あいうえおの本」「野の花と小人たち」・・・先生の絵本は私の大切な本にとどまらず、子供たちの宝物でもあるのです。

先生のお描きになった絵本は不思議です。子供たちと一緒に”安野ワールド”を楽しみながら、まるで違う出口にたどり着きます。絵本という入り口から入ったはずなのに、あるときは哲学や文学、またあるときは音楽、そして、歴史の書物を読み終えて出てくるような感覚になるのです。一冊の絵本の中に、どのような秘密が隠されているのか?ぜひ、お逢いしたい!そんな想いが、ようやく叶いました。

1984年春の収録でした。淡いモスグリーンの素敵なセーター姿で先生はスタジオに現れました。

”子どものときに虹をみたのです。生まれ育った島根県の津和野の虹。それが私を絵描きにしたのかもしれません”

その虹が、絵を描く最初のエネルギーになったわけですか?と私。

「いえ、それはできすぎですが、小さな頃の思い出という思い出を全部集めてね、たぐり寄せた結果、子供の時に虹を見た思い出が一番最初だった気もします。とても鮮烈だった。」

それは何歳くらいの頃ですか?

「4つか5つの頃ですね。」

津和野のイメージというと日本的な風景を思い浮かべます。安野さんのお描きになる世界は日本的というよりヨーロッパの風土を感じるのですが、生まれた土地と描く世界とは、違うものなのでしょうか?

「津和野という所は盆地ですから、周りが全て山、山、山ですから。山の向こうはどうなっているんだろうと強く思いますね。山に囲まれて育った人間でないと、分からないかもしれない。山に囲まれていることは、限りなく山のかなたへの夢をふくらませてくれるものなのです。気持は盆地の中になく、外へ外へと行くような気がするんです。多少キザな詩がありますね。山のあなたの空遠く・・・・、あれなんぞはね、津和野の少年にはほんとに心にしみる詩でした。あの山の向こうはアメリカ、こっちはイギリス・・・行ってみたいなと思っていたわけです。」

そして、先生は虹を見た。津和野の輝くばかりの自然を・・・。

「子供のときに見たもの、驚いたもの、感動したものを、大人は摘んじゃいけないね。あ、いけません!やっちゃダメなんて!子供の好奇心ほど強いものはありません。」

安野さんの旅の足跡を、私たちは『旅の絵本』で見せていただいていますが、去年(1983年)できた本はアメリカでしたね?

「アメリカを東から西までうろうろしましてね。印象的だったのはアトランタ。南部の大都会です。」

私はまだ一度も行ったことがありません。『風と共に去りぬ』の舞台ですね。クラーク・ゲーブルとビビアン・リーの名場面が忘れられません。

「あの町は南北戦争の激戦地でした。南軍が町に火をつけて逃げ、そこへ北軍が攻め入り、町は完全に焼け野原。キング牧師の家もあります。平和な黒人運動の推進者で、後に暗殺されて死んでしまったキング牧師。あの人の言葉で、僕が読むと涙が出てきてしょうがない演説があるんです。浜さん、読んでいただけますか。」

読ませていただきます。

「わたしには夢がある。
いつの日かジョージアの赤い丘で
かつての奴隷の息子たちと、
かつての奴隷所有者の息子たちが
兄妹愛のテーブルに共にすわるという夢が

わたしには夢がある。
いつの日かわたしの4人の子どもらが
肌の色ではなく
その品性によって評価される国で
生活するという夢が。」

「ワシントン大行進という人種差別反対の大行進は、長蛇の列だったそうです。そのときにキング牧師はこの演説をして、みんな涙を流して行進したそうです。僕も今でもそれを読んでいると涙が出てくるんです。去年ですか、やっと彼の碑ができて、彼の暗殺された日は、永遠に忘れられない日として決められたそうです。歴史というものは悲しいものですね。歴史的に見れば日本にも偏見はあったわけですから、一概にはいえませんけれど。アメリカ史とは、差別の歴史だったような気もする。インデアン、黒人問題、など、いまだに差別意識をもっている人もいるし。でもね、そういう人がいることを知り、そういう人が少なくなったことを知るのも旅なのでしょうね。行って、見て、感じてわかることがいっぱいあるんです。」

(放送の一部を再録し、本”いい人みつけた”から。)

『旅の絵本』シリーズは、そうした先生の旅の実感を描き続けているのですね。

先生は少年だった頃の自分と、現在大人である自分とを合わせ持っていた方なのでしょう。キング牧師の演説に瞳を濡らす姿をマイクの前でお見受けし、その熱き心に、ほんの少し触れさせていただきました。

40年近く前の会話が思い出されます。数日前に政権が変わったばかりのアメリカ、そしてコロナ禍の収まらない世界。
先生は今、何を感じていらっしゃるのでしょうか。

安野光雅先生、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

浜 美枝の「いい人みつけた」その1

現在の文化放送「いつかあなたと」の前、1983年から14年ちかく、TBSラジオで番組をもたせていただいておりました。

放送が開始されて一年あまり、お逢いした方は80人になろうとしていました。月曜~金曜で10分ほどの番組でした。

ゲストをお招きし、その方々のお話が素晴らしかったので一冊の本にまとめました。私がうかがった”いい話”をどうしても独り占めしたくなかったのです。頁の都合ですべての方のお話をお載せできませんでしたが、どの方のお話しにもその方ならではの人生のかくし味がしのばれました。

現在コロナ禍の中で読書は欠かせません。本棚から見つけた本の中の”いい話”をみなさんと共有したいと思い、今月はそんな素敵な方のお話です。

誰にとっても人生は出逢いの連続です。誰かと出逢うことで知らされる道しるべの多いこと!自分が熟慮と綿密な行動計画で歩く道を選択しているかというと、決してそればかりではなく、ある日、ふと出逢った人に人生の重要なヒントを与えられ、そこから違う生き方が開けてくるようなことがあると思います。

私などは、その最たるもので、一人の考え休むに似たり。多くのことを、多くの人に教えられて、今日まで何とか歩いてこられたように思えるのです。伺ったお話は1983年から84年です。

淡谷のり子さん(1907-1999)
日本のシャンソン界の先駆者。
愛称は「ブルースの女王」

今でも、あの香りは忘れられません。

淡谷さんがスタジオに入っていらしたらとてもいい香りがしたんですよ、と私。

「音大を出て、世の中にでましたの。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたので、まず買ったのが香水なの。そう、香水と帽子と靴と。着物に帽子をかぶってた人もいたわ。香水は”黒水仙”が好きなの。日本にはなくてフランスへいらっしゃる方に頼んでね、たった一軒あるんですって。それもなかなか売らないんですって。」

喜寿のお祝いをなさったばかりの頃のインタビューでした。ほとんどシワがないお顔でした。

「シワがない顔なのよ。ペタッとしちゃって。凸凹がないでしょ。凸凹のある人ほど、きれいな人ほどシワがあるんですよ。でも人さまの前に出るから、週に一度は全身美容には通っています。」

「母は十七歳で私を産んだのかな。よく本読んだり勉強していましたね。新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本を読んで、隠して読んで、本も読ませないんだから。商人は学問はいらないって。で、三十を過ぎて私達を連れて東京に来て、自分で働いて学校に入れようと思ったんですって、でも贅沢に育った母は半年でお金がないの。でも、貧乏しても子供たちには教育を受けさせたかったって。あの母があったから私がいるんだと思いましたね。何が悲しいって、母との別れが一番悲しかったですね、私。」

淡谷さんの男性観、結婚観みたいなものは、ご両親の生活から影響があったのですか。

「ありますね。ずいぶんありますね。私これでも結婚したことがあるんですよね。一度だけ。とってもね、私には合わないのです。合わないので失礼しましたけどね。私ああいうこと、嫌い、結婚は。歌が大切なの。奥さんになるには才能がなければ駄目。私はそういう才能はなかったですよ。とにかく歌だけきゃ駄目なの私。五十四年歌い続けて壁にぶつからなかった、悩まなかった。ぶつかったのは戦時中ですね。それでも戦争中もやっていましたから。警察と軍隊にずいぶん始末書書いたりしましたよ。おしゃれしちゃいけない、モンペはけとか・・・みっともない格好してステージはでられませんから、ちゃんとイブニングドレスで最後まで、何と言われても。”非国民”だとか言われましたよ、ずいぶん。あれも歌っちゃいけない、これもいけないと言われて、外国の歌はね全部駄目なの。許されたのはアルゼンチンタンゴだけ。だから日本語でアルゼンチンタンゴだけ歌いました。」

慰問先でも夢を与え続けた淡谷のり子さんが、喜寿を迎えておっしゃいました。

「なんとしても、今まで長いこと歌ってきましたね。でもどうしてもこれからクラッシックをもう一ぺん勉強したいと、そんな夢を持っているんですよ。もう一度勉強したいんです。」

クラッシックは、淡谷さんの郷愁みたいなものなのでしょうか。

「そうなんです。郷愁なのです。でもね、普通あるところまで人生いくと、特に女性はね、もうこれでいいや、もうここまでやったら満足だ、と欲望やロマンから遠ざかっていきがちですね。美しく年をとりたいの、私。無理しないで、だけど年とったからとか、あまり考えないほうがいいですよ。それ隠すでしょ、女性は、特に年は。隠さないで出せばいいのです。私はいくつなのよ今年は、って言ったほうが楽になりますよ。」

最後に”愛されるということよりも、愛することって幸せじゃないかと思うんです”・・・と、おっしゃいました。

歌手生活五十余年、一貫してご自分の哲学を通し抜いた姿に深く感動すら覚えたことがよみがえります。

そして淡谷さんの歌。
いつかあるところで聴いた『恋人』。

いまだに耳の底に残っています。歳月を超え、世代を超え、男も女も超えて、そこに集う人々の心の中を縫っていきました。淡谷さんが歌い終わった瞬間、怒涛のような拍手がわきおこり、拍手するその手で涙を拭っている人が大勢いました。もちろん私も。一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに興奮し、その夜は眠れませんでした。

(YouTubeで淡谷さんの歌、お話しが聴けます)