『グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生』

年の瀬を迎え何となく慌ただしさを増す日々の中で、一息つきたいと展覧会に行ってまいりました。

「グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」。

この画家の名前は、アンナ・メアリーロバートソン・モーゼス。多くの人々からは親しみを込めて、”モーゼスお婆ちゃん!”と呼ばれたのですね。

彼女は1860年、アメリカ・ニューヨーク州の北部で生まれました。しかし、同じ州内でも大都会・ニューヨークとは全く趣を異にする、カナダの国境に近い農村地帯でした。 そして、そこで生まれ育ったことが彼女の人生とその後の創作活動に大きな影響を与えたのです。

27歳で結婚した彼女は夫と一緒に農業や牧畜に従事しながら、10人の子どもをもうけます。そして、少しでも家計の足しにしたいとバターやジャムなどを作り、販売したのです。

今から100年以上も昔、女性の自立の原点がアメリカの農村にもあったのですね。そんな彼女ですが、70代半ばにリウマチを患い、楽しみの一つだった刺繍を断念しました。そこから彼女のもう一つの人生がスタートしたのです。 ”遅すぎるデビュー”ではありませんでした。

80歳の時に初めて個展を開き、たちまち大評判となりました。大地に根を張り、自然と共に生きる。そして地域の人たちとの触れ合いを何よりも大切にする。そうした堅実な日常を絵画の中に再現していったのでしょう。

素朴で倹しい毎日の暮らし。それは開拓民であるアメリカ人が、当時でも失いつつあった”原風景”を改めて思い出させる”心の玉手箱”だったのかもしれません。

作品に雪の光景が多くみられたのは、寒い北部ニューヨークへの彼女の思い入れの強さだったのでしょう。

”遅咲きの画家”は101歳の長寿を全うしましたが、世を去るわずか半年前まで、絵筆を持ち続けたのです。最後の作品には、大自然の中で人々と家畜がゆったりと暮らしている光景が描かれていました。

そして、空のかなたには山や畑を見つめる、どこか優しそうな虹が顔をのぞかせています。この作品のタイトルは”虹”でした。  

彼女自身の言葉が残されています。

「人生は自分で作り上げるもの。これまでも、これからも」

10人の子供を産んだ彼女でしたが、5人を早く亡くしています。繰り返しの悲劇を乗り越えながらの生活と芸術。

この展覧会は入場者の9割以上が女性でした。アメリカのみならず、世界中の女性たちから愛され続けているグランマ・モーゼス。 東京の世田谷美術館には、彼女がそっと優しく私たちを抱きしめているような空気が満ちていました。

今年のクリスマスは、ことのほか素敵なプレゼントをいただきました。
ありがとうございました!グランマ。

展覧会公式サイト
https://www.grandma-moses.jp/

私と民藝

私は映画全盛時代の華やかな映画界におりました。まわりには煌びやかなものがいっぱいありました。ファッション雑誌から抜け出たような流行の洋服に身をつつんだ女優さん、いまでは想像がつかないほど希少な舶来のネクタイを結んだ男優さん、私のような駆け出しの女優であっても、みんなお洒落に磨きをかけていました。

撮影所の中庭を背筋をピンと伸ばしかっこよく、それはかっこよく歩く原節子さんなど・・・白いブラウスにフレアースカート。今でも目に焼きついています。

もちろん私も、洋服や靴やアクセサリーに興味がなかったわけではありません。でもそれよりなにより、夢中になったのが骨董だったのでした。その原点は中学時代、図書館で出会った本です。なぜ、その本に出会ったのか・・・その本を手にとったのか、いまだに定かではありません。

それが、柳宗悦の『手仕事の日本』や『民藝紀行』でした。

女優としての実力も下地のないままに、ただ人形のように大人たちにいわれるままに振舞うしかなかったとき、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、繰り返し読みました。

中学生の頃、難しいことなどわかるはずはありません。柳さんは、日常生活で用い「用の目的に誠実である」ことを「民藝」の美の特質と考えました。無名の職人の作る日用品に、民芸品としての新たな価値を発見したのでした。

私が柳さんの本を読みながら思い浮かべていたのは、日常、私が「美しいなぁ」と感じる風景でした。たとえば、父の徳利にススキを挿し、脇にはお団子を飾り、家族で楽しんだお月見の夜…

わが家で使っているものなど、どこにでも売っている当たり前のものばかりでしたが、それでも、ススキを生けた徳利に、月の光があたったときなど、曲面に反射する光の動きのおもしろさに「うわぁ、きれい…」と感じました。

何度も何度も水を通して洗いあげられた藍の布のこざっぱりとした味わいも「いいものだなぁ」と思いました。湯飲みに野の花を生けると、その空間全体に、ちがう表情が生まれることも、肌で感じることができました。

民芸運動の創始者として知られる柳宗悦(1889~1961)。柳さんの民芸の追及の背景には、当時の粗悪な機械製品や、鑑賞の対象としてのみつくられる趣味的な美術品など、工芸の現状に対する強い反発の念があったようです。

しかし、幼い私はひたすら、「用の美」「無名の人が作る美」という考え方に共鳴し、しだいに「美しい暮らし」という言葉に強い憧れを抱くようになったのでした。

地方文化を大切にしました。「手仕事の日本」には『沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます。絣の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集まって、沖縄の織物を守り育てているのであります』と。

そして焼物なども。
「沖縄こそが民芸のふるさと」とも語っています。

”名もなき工人が作る民衆の日用品の美『民芸』”

まばゆい光を常に浴びているより民芸を求めて旅をはじめ、古民家の柱や梁を一本もあますところなく使って箱根の家をつくりました。『民家はいちばん大きな民芸』と言ったのは柳宗悦との出会いによって民芸の道にはいられた柳さんのお弟子さんでもある松本の池田三四郎さん。

池田さんは 「松本民芸家具」の創始者であり、私が多くのことを学んだ方です。いつかまた池田さんのお話しはさせていただきますね。

「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず務めていけば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたんですよ」とおっしゃられた言葉が耳に残ります。

『民藝の100年』

私がまだ成人に達する前、心を丸ごと奪われたのが”民藝”でした。

そんな若い頃、どのような心境だったのか?改めて振り返りたいと、東京・竹橋にある国立近代美術館に行ってまいりました。

「民藝の100年」が開かれていました。

「柳宗悦没後60年記念展」と銘打たれた展覧会の会場に足を踏み入れた途端、予想もしなかった光景にいきなり驚かされました。入場者は中高年ばかりでは決してなく、若い方々がとても目立ったのです。

大正時代に産声を上げた民藝運動は単なる歴史の遺物ではなく、現代にも息づいていることをまず知らされました。

柳宗悦らのリーダーシップによる民藝運動は、関東の一部地域に留まることなく、日本各地に、そしてアジアや欧米にも影響を広げていきました。北海道や台湾での先住民との交流、朝鮮半島での文化的結びつきが改めて歴史の一コマを教えてくれました。

時代が米国との直接対決になる直前まで、柳宗悦らは欧米を訪れ、日本文化の紹介に力を注ぎ、交流を試みていたのです。純民間の”平和外交”だったのですね。敗戦後、民藝を含む日本の伝統的な芸術・文化への批判が海外から高まる中、それらを擁護したのは戦前から柳らと交流のあった米国人だったことも記録に残っています。

100年前の日本で一部の趣味人が好んだ芸術運動!?

民藝に対するそんな表面的な俗説を吹き飛ばすパワーが会場に満ち溢れていました。そこで静かに佇んでいた若者たちは、民藝運動の歴史と国際性を改めて知ったのだろうと嬉しくなりました。   次回はなぜ私が「民藝」に魅かれたのか、を改めて考えてみたいと思います。私の旅の原点であり、私の人生の”背骨”でもあるからです。  

展覧会公式サイト
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/mingei100/

ゴッホ展

先日、上野の東京都美術館で開催されている「ゴッホ展」にお邪魔しました。事前申し込み制で、入館時間も予約するなど、隅々に気配りの感じられる展覧会でした。

”糸杉”を描いた傑作、『夜のプロヴァンスの田舎道』が16年ぶりに見られるなどとても魅力的でしたが、私は展覧会のサブタイトルにも興味をもちました。

「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」。

フィンセント・ファン・ゴッホの前に書かれているヘレーネとは、ゴッホの絵画に心底惚れ込んだ女性の名前です。

ヘレーネ・クレラー・ミュラー。彼女の夫はオランダの実業家で、輸送や金鉱開発などヨーロッパを越えた事業展開をしていました。若い頃から芸術や文学への関心が強かったヘレーネですが、三男一女の母となった後も絵画、ことにゴッホへの憧れは高まる一方でした。

ヘレーネが最初にゴッホの作品を購入したのは40歳を迎える直前でした。ゴッホの自死から20年近くが経っていました。ゴッホの評価は生前は勿論、没後も決して目立っていたわけではなかったようです。ゴッホに傾倒し絵画を集め続けたヘレーネは、個人としてはついに世界最大のゴッホ収集家となりました。そしてそれに引きずられるように、ゴッホの名声も国際的に確立していったのです。

その背景には夫・アントンの理解と協力があったのは当然ですが、芸術に対するヘレーネの変わらぬ情熱が夫を揺り動かしたのでしょう。素晴らしい”婦唱夫随”だったのですね。

しかし、ヘレーネの”ゴッホ命”の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。彼女は40歳を過ぎてから大病を患い、医師から生命の危機を宣告されたり、第一次世界大戦による戦争景気とその反動などで夫の会社が経営危機に陥るなど、幾多の困難にも直面しました。

しかし、ヘレーネのゴッホに対する燃えたぎるような思いは全く萎えを見せませんでした。大病から復帰できたら美術館を作る!価値ある芸術を未来へ伝承するのだ!という病床での決意は、最後まで貫かれました。

こうしたヘレーネのゴッホ作品への向き合い方は、既に出来上がった名声や知名度ではなく、画家の持つ精神性への憧憬から生まれ出たものだろうと推測しました。

会場内を行きつ戻りつしながら、青空と太陽が眩しいアルル地方の作品も素晴らしいけれど、それ以前の「素描」に心を動かされました。農夫など労働者が黙々と働く姿。『ジャガイモを食べる人々』の生活臭。モノクロの絵画には、ゴッホのリアルな感性が溢れ出ていました。

40年に満たない人生を疾走した天才画家。70年の後半生を、ひたすらその画家に随伴した女性。 上野の会場には芸術への限りない崇拝と、それを後世に伝えるのだという強い信念が見事に重なり合っていました。

展覧会公式サイト
https://www.tobikan.jp/exhibition/2021_vangogh.html

映画「夢のアンデス」

息を呑む大自然と、胸を締め付けられる人間社会の営み。この圧倒的な落差をアンデスの山々が見つめている。今、そんな映画が公開されています。「夢のアンデス」、南米・チリのドキュメンタリーです。  

1973年、チリでクーデターが発生しました。3年前に選挙で選ばれたアジェンデ政権が倒されたのです。クーデターの首謀者はピノチェト将軍で、それから20年近くにわたり独裁体制が続きました。軍事政権による弾圧は厳しいものでした。逮捕、虐殺などの恐怖政治が日常的な光景となり、約3000人が犠牲となりました。しかし、実際の被害者は数万人に達したともいわれており、詳細は現在もわかっていません。

「夢のアンデス」のパトリシオ・グスマン監督も弾圧を受けた一人でした。クーデターの混乱の中で逮捕、監禁されました。その後、彼はチリを離れ、フランスなどを拠点に独裁体制を批判する映画を製作してきました。 今回の作品でも登場するように、多くの人たちがそれぞれのやり方で強権政治に対する抗議の声を上げました。彫刻家や文学者、そして音楽家も異議申し立てをしたのです。

彫刻家のフランシスコ・ガシトゥアはアンデスの山から切りだされた岩に一筋一筋、魂を込めた無言の抵抗を刻みこみました。もし岩が言葉を話し、その言葉が翻訳できたならば、彼らに語らせたい。いや、岩石を削ること自体が翻訳なのだ。なぜなら、彼らは人々の生と死をずっと目撃していた、歴史の証言者なのだから。グスマン監督は、アンデスの山々に寄せる自分自身と彫刻家の心情を静かに語っています。証人の中には、自国のチリに留まりカメラを廻し続けた映像作家もいました。パブロ・サラス監督はピノチェト時代の圧政と現在のチリの姿を、捉え続けています。

軍事政権は30年も前に崩壊しましたが、今なお、独裁政治の負の遺産は社会の隅々に陰を落としています。当時の政権は外国資本の導入を積極的に押し進め、基幹産業である銅の採掘などにも影響を与えています。そうしたことも原因となり、経済格差は現在、無視できないほどの広がりを見せていると報道されています。

そんな現状に心を痛めながらも、グスマン監督は祖国への限りない愛情と未来への希望を捨てていません。今年7月には、軍事政権時代から続いている現行憲法を改めるための議会がスタートしました。男女ほぼ同数のこの議会では、先住民の女性が議長に選出されています。来年半ばには、新憲法制定の国民投票が実施される予定です。

幾多の試練を乗り越え、未来を切り開こうとしているチリの人々。その目撃者たるアンデスの山々は、いま何を思っているのか。   グスマン監督は改めて大自然に問いかけながら、祖国への思いを訴えかけたかったのだと思います。

映画公式サイト
https://www.uplink.co.jp/andes/

美しい日本の秋

振り返れば、この半世紀あまり私は日本国内ずいぶん旅を続けてきました。訪ねる先には農村の女性が待っていてくれたり、手仕事の職人さんであったり。

ときには円空上人が何度も訪ねたという袈裟山千光寺。高山の高野山と異名をとる神秘的なたたずまいの寺で、真紅に燃える木々がうっそうと繁る原生林のなかに立つと、その辺りの樹木一本一本が立木像に見え、ざわざわと鳴る木の騒ぎが耳に響きます。秋の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間にくれなずんでしまいます。

晩秋の津軽平野ではつい昨日まで赤々と燃えていた木々の葉がすっかり落ちて、道端のナナカマドに美しい赤い実だけが残る頃、津軽は早くも秋の終わりを告げて、もうじき長く厳しい冬がやってくることを人々に教えます。

全国各地を旅するときはいつもたったひとりで行動する私ですが、晩秋の津軽平野を歩いていて、不意に冷たいみぞれが落ちてきたりすると、やはりたまらなく寂しくなることもありました。けれど、旅の途中の寂しさはいつもほんの一瞬だけのこと。その先にはたくさんの同士とも呼べるべき女性たちが待っていてくれて、いつも私を温かく迎えてくれました。

移りゆく季節の中に折りなす人々の営み、表情豊かな草花たちの息吹に触れるとき、私はこの美しい日本に暮すことのできる喜びとやすらぎにつつまれます。

小春日和のような一日私はバスを乗り継ぎ強羅の箱根美術館に行ってまいりました。

苔の緑と200本以上のモミジが鮮やかな庭。毎年11月になると訪れるところです。イロハモミジや大きな葉が真っ赤に染まっています。

和菓子とお抹茶を一服いただきながら庭をながめながらのひととき。

私は78歳になりました。歳を重ねるって素敵なことです。

まもなく山にも初霜が降り本格的な冬を迎えます。

箱根美術館公式サイト
https://www.moaart.or.jp/hakone/

「いのちを耕す」

この頃、時間があると本棚にある本を手に取り”あの頃どんな本を読んでいたのかしら”と思うことが多くなりました。なんとか、ひと目でもいい、お会いすることができないものか、とひたすら思い続けた女性(ひと)がいました。

作家の故住井すゑ先生。不朽の名作「橋のない川」の作者としてどなたもご存知の方です。

ある日、本屋さんでふと手にとった住井先生と長野県佐久総合病院(当時)の総長若月俊一先生との対論集『いのちを耕す』という本でした。御年九十三歳の住井先生と八十五歳の若月先生。対談のはじまりに住井さんは、「私もいくつになったら自分が年を取ったという意識をもつのか。一生もたないのではないかと思ってね」とおっしゃっているのです。

なんと素敵なことではありませんか。本のなかのお写真をお見受けするその笑顔は童女のように愛らしく、また観音さまのように、私の心を優しく包み込んでくださるようでした。

農民文学者の犬田 卯(しげる)氏と結婚されて、四人のお子さまを育てながら農民文学運動と作家活動を続けて来られた住井さん。その先生がご著書の中で一貫して「農業は一つの産業じゃなく、生命そのものですよ」と。

この時代にいかに「農」が大切であるかを語っていらっしゃるのです。当時、「いのちを耕す」を読んで、「あぁ私がいまこだわって見続けているものは、けっして間違っていなかったのだ、」とたまらなく嬉しく思えたのが昨日のことのようです。思わず書庫の椅子に座り読み続けてしまいました。

住井すゑさんは1997年6月16日に老衰のためご自宅で逝去されました。(享年95)

四人の子を持つ母親の視点から出発されて、いま、「農業というのは母なる業(わざ)です。母の問題には科学も何もいらない。そんなの超越しているわけです」と言いきられる住井先生の哲学は、宇宙の法則を語るまでの拡がりを持っています。そして先生のお言葉のひとつひとつが、私たちが生きて行く上で何が大切なことかを教えてくださいます。

「今や人々はカネを追い回すのに忙しすぎて”人間”のことなど考えるヒマがないのでしょうか、幸か不幸か、カネを追い回す才覚など持ち合わせない私は、オハナシを産もうと腐心します」

とおっしゃる九十三歳のひとりの女性が、亡きご主人の故郷の地である茨城県牛久の里で、農作業の傍ら童話を書き続けていらっしゃる・・・。そのお姿を想像するだけで勇気がわいてきます。背筋がしゃんと伸びる気がするのです。

大地に足を踏みしめて生きながら、政治や社会悪と闘い続けてこられたひとりの女性。

その方が「二十一世紀は、食料の自給できない国からつぶれていくでしょう」と断言されれば、それはどんな学者や評論家の予言よりも間違いないことと思えました。

あれから25年の歳月がながれました。現在「農」の現場は若者たちが環境に配慮し、あらたな世界が生まれつつあります。コロナ禍のなかで”心地よい暮らし”を模索している人も増えてきました。きっと良い方向に向いていくことを信じています。

住井すゑさんが天に召された翌月7月6日に県民センターでお別れの会がありましたが、「住井すゑさんと未来を語る会」と題されていました。私も一番後ろの席で参列させていただきました。左前の席に映画監督の山田洋次さんが目を閉じ静かにお聴きになっている姿が印象的でした。

先日11月3日 文化の日に「牛久市住井すゑ文学館」が開館しました。

農民文学者の夫・犬田卯の故郷の牛久村城中に家族で移住し、以来この地で執筆活動を続けてきました。住井さんは、家事、子ども四人の世話、夫の看病、畑仕事をしながら執筆し、その原稿料で一家を支えたといわれます。

私は35年ほど前に先生が『大地のえくぼ』と呼んだ牛久沼。その辺に建つお住まいを遠くから拝見しました。そしてその美しい風景を”きっと先生も見ていらっしゃる”と思ったものです。

開館翌日に東京駅から常磐線に乗り、文学館を訪ねました。旧居の跡に建った文学館は書斎・抱僕舎(ほうぼくしゃ)などの建物と土地が、ご遺族より牛久市へ寄贈され、改修工事が行なわれ誕生したのです。

執筆をした机上には原稿、使い古した広辞苑やペン、夫に使用した注射器など。こよなく愛した窓から見える沼の風景。

私はやはり「日記」に注目しました。

「もう五、六日前、あなたの毛糸ものを出したらふいに悲しくて、床にもぐって涙。そのせいか、川をへだてて、どうしてもあなたのそばにいけぬ苦しい苦しい夢をみた。」

「この日記帳をもらうことにしたからそのつもりでね」と、犬田の日記を住井が自身の日記にしたことが書かれています。

逞しくてあたたかい 住井すゑさん。

意外な素顔がわかるのが、ジャーナリスト・エッセイストで住井すゑと犬田卯の次女・増田れい子(1929~2012)の『母 住井すゑ』(海竜社)を読まれると素顔がよく分かります。

生まれた大和。その美しい風景から「橋のない川」がこの世に誕生したこと。いたみをバネに生きるつよさ……

わがいのち
おかしからずや
常陸なる牛久沼辺の
土とならむに                  住井すゑ

文学館の庭から見える沼の向こうに夕陽が沈みかけ前の藪の中には「木守柿」がぶら下がっていました。季節は晩秋からやがて冬へ。

なんだか…とてもあたたかな気持になりました。

牛久市住井すゑ文学館
https://www.city.ushiku.lg.jp/page/page010300.html

印象派・光の系譜

モネ、ルノアール、ゴッホ・・・70点近い印象派の名画が並んでいる!そんな夢のような展覧会は、あまり聞いたことがありませんでした。

取るものもとりあえず、東京・丸の内の会場に足を運びました。三菱一号館美術館でした。

入場者は体温を測り、手指を消毒し、静かに場内に吸い込まれていきました。

印象派・光の系譜」と名付けられた今回の展覧会は、20人を超える印象派の画家の作品が集められ、それらはすべてイスラエル博物館所蔵のものでした。

エルサレムにあるこの博物館は、50万点もの膨大な文化財を保有する、世界でも有数の博物館といわれています。

建国後、僅か10数年しか経っていないイスラエルが国の威信をかけ、そして世界中の同胞の支援を受けて1965年に開館したのですね。

会場にはルノアールやセザンヌ、ゴッホの作品はもちろん、モネの傑作”睡蓮の池”が、さりげなく飾られていました。そんな中で、私が思わず立ち止まり、動けなくなってしまった一隅がありました。

ゴーガンが描いた”ウパウパ”(炎の踊り)です。

彼が最後までこだわったのは大都会のパリではなく、南太平洋の島・タヒチの人々と自然でした。先住民が大切にしてきた文化。

それに対する理解と共感を持ち続けたゴーガンは、炎の横で踊り続ける島民の姿を目に焼きつけ、それをカンバスによみがえらせたのです。

古来からのポリネシアの日常を想起させるようなこの光景こそが想い描いてきた”理想郷”だったのでしょう。
当時のタヒチはフランスの植民地でした。そしてフランスは、官能的すぎるという理由でこの踊りの禁止令をだしたのです。

伝統文化を手放せない島民は、隠れて踊ったのですね。この作品が描かれたのは、1891年、日本では明治24年のことでした。

近代文明から距離を置きたいと望んだ島の人々。ゴーガンは当時のタヒチの社会に、ごく自然に同化することができた、いや、同化したかったのだと思います。

それは南太平洋の島々に特有の、湿度と肌のぬくもりをゴーガン自身が何よりも求めていたからだろうと、勝手に推測しました。

「印象派の作品の中心的な要素は、水の反射と光の動きだ」、という解説にうなずきながらも、”炎の踊り”をたまらなく気に入ってしまう自分に驚き、そして嬉しくなってしまうのでした。

”見る人の心を解放してくれる絵画”。やはりゴーガンは素敵でした。

もう一度、足を運びます。来年の1月16日まで、直接お会いできるのですから。

通常、展覧会でのカメラの使用は認められていませんが、最近は”一部撮影可”というケースも増えてきました。この展覧会の雰囲気を少しだけ、ご紹介させていただきます。

展覧会公式サイト
https://mimt.jp/israel/

秋の信州

私は一時期、何かに憑かれたように長野に凝っていた時期がありました。私には、元来、ある「地」に憑かれるというちょっと不思議な習性があって、そういう気持になるともう矢も楯もたまらず、そこに行かなければ気がすまなくなるのです。長野もそうでした。

長野県下のロードマップは東京より詳しいくらい。夜中に子供を寝かせてから車を飛ばす・・・。今思っても、よくあんなエネルギーがあったなと思うほどでした。

朝日がのぼるころ長野について、そのままただ、また帰ってきたり、ときにはお休みをとって、車と私はひとつになって山野をかけめぐるのでした。林道、農道、さまざまな小径にも分け入り、とにかく走り続けた時期がありました。

軽井沢を、追分を走るうちに、とても好きな道に出会いました。秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしています。柔らかなモスグリーン、ベイジュ、柿色。日本の秋の色彩の美しさのすべてが目の前に広がります。みとれることしばし、私はひとり野に立ちつぶやきます。「日本ってすてき!」

ある一角が気になりだしました。そこに、とても日本とは思えない風景が紛れ込んでいるのに気がつきました。その感じは微妙で、木立の立ち並び方から、畑のたたずまい、畑の奥のほうに建つ家の様子・・・。

すべてが、ヨーロッパの田舎を思わせるのです。どんな方が住んでいらっしゃるのかしら。何をしている方?と、外から何度も畑を覗きながら気になりだしました。佐久の町が眼下に一望できて、それは気持がいいんです。

それが今は亡き村田ユリさんとの出逢いです。後に知ったことですが、ユリさんは知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろんな分野の方から慕われている大変な方だと後になって知ったのです。

どういうわけかユリさんにお会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。年中お会いしているわけではありません。地方から、私が召し上がっていただきたいと思った物を少し送らせていただいたり。そんなお付き合いが続きました。家に帰って、机の上にユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときには、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。

ときどきお邪魔して、お酒を飲みながらお話しを伺うと、大変な経験をしていらっしゃることが少しずつわかってきました。ドイツをはじめ、ヨーロッパに永くいらっしゃったとのこと。戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてきた方なのです。

あるとき、疲れ果てて夜遅く10時頃にユリさんの家に着いたことがありました。そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持いいわよ、お入りなさい」と進めてくれました。お風呂の中にはお庭にある、ゆっくり休めて体が温まり、気持ちよくなるもの全部が集まっているようでした。そしてお風呂の後、ベッドに入ると枕の下には、さっきととは違う種類のハーブがしのばせてありました。

その細やかな心遣いが嬉しくて、涙が出るほど感激しました。

そのユリさんの畑で黙々と土に触れていらしたのが玉村豊男さんの奥さま、抄恵子さん。

寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだり、ウイスキーを飲んだり、当時はまだご近所に住む玉村豊男さんご夫妻とご一緒し、豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。

”ご縁って不思議なもの”ですね。

そして、後にご夫妻は長野県東御(とうみ)市の里山に移り住み、豊男さんが植えた500本の苗木は、いまや11ヘクタールの葡萄畑を持ちワインを作っておられます。ワイナリー経営の先駆者的な存在です。

ヴィラデストガーデンファームアンドワイナリー

カフェで美味しいランチをいただきました。今回の長野の旅は友人ご夫妻とご一緒で、ドライブの旅でした。5人で思う存分おしゃべりをいたしました。庭には抄恵子さんたちの丹精込めた花々が美しく咲き、ふっとユリさんのことを思い出しておりました。このお庭をユリさんがご覧になったらさぞ喜ばれたことでしょう。

帰りにショップで国際サミットで提供された、「ヴィニュロンズリザーブ、メルロー、シャルドネ」を抱え、友人の運転してくださる車窓から秋の景色を、そして、何度も「道の駅」で地元の野菜や手づくりの菓子や花などをどっさり車に積んで家路に着きました。

普段はひとり旅。列車での移動ですからお買い物はほとんどしませんけれど、日本の豊かさ、生産者の方々の思いを実感できた旅でもありました。

車窓からは雄大な霊峰富士が美しく、玉村ご夫妻と2年ぶりの長野での再会。やはり、人と出逢い、ふれあい、めぐり会えたことの幸せを心からかみしめた”秋の信州の旅”でした。

樋口一葉展 ~ わが詩は人のいのちとなりぬべき

僅か24年の生涯を足早に駆け抜けた作家。その息遣いに触れたくて、横浜に向かいました。港の見える丘公園にある神奈川近代文学館では、凛とした表情の一葉が出迎えてくれました。

「樋口一葉展  わが詩は人のいのちとなりぬべき」

来年、生誕150年となる彼女の特別展が開かれています。照明を少し落とした会場入り口の左側には、父親から贈り物である文机が置いてありました。紫檀で作られ、梅花の透かしが彫りうっすらと見える机は、独特の空気感と文化の匂いを漂わせていました。右側には、羽織を着たときに布地を継ぎ合わせたのがわからないよう仕立てられた着物が、ひっそりと飾られていました。

家計の浮沈を乗り越えた彼女の鮮烈な意志と生き方が、入り口から滲み出ていました。

そして今回、私のもう一つのお目当ては日記でした。子供の頃から読書好きで利発だったという彼女の日記に、以前からとても魅せられていました。一度は直筆の文字をこの目で見てみたい!日記から一葉の心模様を知りたかったのです。

ようやく念願が叶いました。とても流麗な文字は部分的には読み取りにくいところもありましたが、見惚れてしまう、やはり美しいものでした。14歳から書き始めたという日記は、日々の行動の記録に留まりませんでした。

自らの心に「おもひあまりたる」ことを、率直に綴っていました。そして、男性上位の社会で感じる悔しさや失望を繰り返し吐露しているのです。

一葉の短い人生は、波乱万丈と言ってもいいでしょう。士族にまで取り立てられた父親が事業に失敗し、一葉が17歳の時に亡くなります。一家の柱となった一葉は、駄菓子店を切り盛りしながら苦しい生活に耐えるのです。

しかし、一葉が文学に対する情熱を失うことは全くありませんでした。筆一本で家族を支える覚悟を決めた一葉は店を閉じ、息つく間もなく創作活動に集中します。”奇跡の14か月”という言葉が残っています。

明治27年12月に22歳で「大つごもり」を発表。その後、「たけくらべ」、「にごりえ」を書き上げました。この仕事ぶりに驚きを隠さなかったのが、泉鏡花、幸田露伴ら文壇の大御所たちでした。森鴎外などは、「この人に、まことの詩人という称を於くることを惜しまない」と絶賛しました。

その後、一葉は「十三夜」を完成させ、明治29年11月に亡くなりました。肺結核が進行していたのです。24歳6ヶ月でした。

会場を出て、深呼吸しました。秋麗(あきうらら)、爽やかで穏やかで、そして少し眩しい秋晴れの一日でした。

夭折した一葉の無念を思いつつ、経済的困窮や、時代の流れに抗いながら、懸命に生き抜いた彼女の意志と振る舞いに、秋晴れ以上の眩しさを感じたのです。

神奈川近代文学館 公式サイト
https://www.kanabun.or.jp/exhibition/15455/