私と民藝

私は映画全盛時代の華やかな映画界におりました。まわりには煌びやかなものがいっぱいありました。ファッション雑誌から抜け出たような流行の洋服に身をつつんだ女優さん、いまでは想像がつかないほど希少な舶来のネクタイを結んだ男優さん、私のような駆け出しの女優であっても、みんなお洒落に磨きをかけていました。

撮影所の中庭を背筋をピンと伸ばしかっこよく、それはかっこよく歩く原節子さんなど・・・白いブラウスにフレアースカート。今でも目に焼きついています。

もちろん私も、洋服や靴やアクセサリーに興味がなかったわけではありません。でもそれよりなにより、夢中になったのが骨董だったのでした。その原点は中学時代、図書館で出会った本です。なぜ、その本に出会ったのか・・・その本を手にとったのか、いまだに定かではありません。

それが、柳宗悦の『手仕事の日本』や『民藝紀行』でした。

女優としての実力も下地のないままに、ただ人形のように大人たちにいわれるままに振舞うしかなかったとき、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、繰り返し読みました。

中学生の頃、難しいことなどわかるはずはありません。柳さんは、日常生活で用い「用の目的に誠実である」ことを「民藝」の美の特質と考えました。無名の職人の作る日用品に、民芸品としての新たな価値を発見したのでした。

私が柳さんの本を読みながら思い浮かべていたのは、日常、私が「美しいなぁ」と感じる風景でした。たとえば、父の徳利にススキを挿し、脇にはお団子を飾り、家族で楽しんだお月見の夜…

わが家で使っているものなど、どこにでも売っている当たり前のものばかりでしたが、それでも、ススキを生けた徳利に、月の光があたったときなど、曲面に反射する光の動きのおもしろさに「うわぁ、きれい…」と感じました。

何度も何度も水を通して洗いあげられた藍の布のこざっぱりとした味わいも「いいものだなぁ」と思いました。湯飲みに野の花を生けると、その空間全体に、ちがう表情が生まれることも、肌で感じることができました。

民芸運動の創始者として知られる柳宗悦(1889~1961)。柳さんの民芸の追及の背景には、当時の粗悪な機械製品や、鑑賞の対象としてのみつくられる趣味的な美術品など、工芸の現状に対する強い反発の念があったようです。

しかし、幼い私はひたすら、「用の美」「無名の人が作る美」という考え方に共鳴し、しだいに「美しい暮らし」という言葉に強い憧れを抱くようになったのでした。

地方文化を大切にしました。「手仕事の日本」には『沖縄の女達は織ることに特別な情熱を抱きます。絣の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集まって、沖縄の織物を守り育てているのであります』と。

そして焼物なども。
「沖縄こそが民芸のふるさと」とも語っています。

”名もなき工人が作る民衆の日用品の美『民芸』”

まばゆい光を常に浴びているより民芸を求めて旅をはじめ、古民家の柱や梁を一本もあますところなく使って箱根の家をつくりました。『民家はいちばん大きな民芸』と言ったのは柳宗悦との出会いによって民芸の道にはいられた柳さんのお弟子さんでもある松本の池田三四郎さん。

池田さんは 「松本民芸家具」の創始者であり、私が多くのことを学んだ方です。いつかまた池田さんのお話しはさせていただきますね。

「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず務めていけば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたんですよ」とおっしゃられた言葉が耳に残ります。

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