箱根のコメザクラ

箱根の山々のコメザクラが満開になり、可愛らしい花は恥ずかしそうに下を向いて咲いているのです。早朝の山歩きでこの1週間存分に楽しませてもらいました。
今日の雨で散ってしまうのでしょうね。
満開の桜の下に立つと、何故か不思議なことに、その下で眠りたいと思うことがよくあるんです。
「何故そんなことを思うのかしら、不思議ですね」と、以前、作家の水上勉先生にお話すると、先生は、「桜は、散ってさくからね。生命が長いと思わせますね。春がめぐってくれば必ず咲く。そういう生命の長さというものに安心するのじゃないかなぁ。散るはかなさではなく、散ってまた咲くことに、憧れるんですよ」とおっしゃいました。
花の命ははかなくて・・・などという言葉もありますが、たしかに人間の生命のほうがずっとはかない。桜の花は毎年春が来れば必ず生き返って咲きます。「散る」とは「咲く」こと。樹齢何百年という木々の桜が花を満開に咲き誇らせている姿に、私たちは生命の永遠を感じ、そのことに深く安堵するのでしょうね。
岐阜と富山の県境にある御母衣ダム。いまから40年ほど前に、庄川上流の山あいの静かな村々が、巨大なロックフィル式ダムの人造湖底に沈むことになったのです。350戸にも及ぶ人々の家や、小・中学校や、神社や、寺、そして木々や畑がすべて水没していく運命にある中で、樹齢400年を誇る老桜樹だけがその後も生き残り、毎年季節がめぐるたびに美しい花を咲かせ続けることをゆるされたのでした。
桜へのひたむきな思いによって荘川桜の移植を成功させた男たちの姿を水上先生は、小説「櫻守」にかかれました。
そして私がはじめて御母衣ダムに荘川桜を見にいったのは、いまから30年ほど前、移植されてからすでに何年か経った春のことでした。
湖のそばにひときわどっしりと立つ老い桜。ああこれがあの桜・・・と。
樹齢400年の老桜とは思えないほど花が初々しかったのが、とても印象的でした。
毎年4月25日頃から5月10日ころまで、庄川桜の壮麗に咲き誇る姿は、その木の秘められた歴史を知るものには格別感動的です。
ふるさとは水底となり移り来し この老桜咲けとこしえに
                            高碕達之助
花が美しければ美しいほど、一方でとても哀しくなるのです。
私が行ったときも、満開の桜の木の下でじっと座り続けているおばあちゃんを見かけました。
あの時、おばあちゃんは先祖が育てた木をみながら、桜の木を相手に、村の思い出話を語り合っていたのかもしれません。

山桜

山桜の蕾が・・・。
東京のぽかぽかと暖かい陽気とは箱根はちょっと違い、朝晩はまだ少しの冷え込みが感じられます。
先日、仕事の合間をぬって千鳥が淵の桜を愛でてまいりましたが、私の住む箱根は山桜が蕾を開きかけております。まだ、箱根は春到来・・・に少しの時間が必要のようです。
居間の窓から見える富士山は今日も真っ白な雪の帽子をかぶっているし、朝、庭に出て日陰の霜柱を踏む音に、ふっと、いつにない寂しさを覚えたのは、この箱根の長い冬の暮らしのせいでしょうか。
子どもたちの巣立ちを見届けた母鳥は早朝の山歩きの途中で鶯の鳴き声に、そっと耳を傾け、安堵しながらも、そこはかとない孤独感のなかで春を待ちわびているのです。
子育ての時代を卒業して、「正真正銘自由の身よ」・・・と爽やかな開放感に浸っている私。
親元を離れて暮らしている子ども達。
私は不安など微塵もなく、仕事への夢と希望の日々ですが・・・。
ちょっと、寂しい・・・。
「ママが寂しいなんて、全然似合わないわ。明日も仕事でしょう。頑張って」と凛としたその声に、母親の私は、娘がいつの間にか甘える側から甘えられる側にまわっていることに気づいて、ジンと感慨にひたります。
山の桜が開花したらご報告いたしますね。


四月は、ひとり、発つ日

新入社員らしき若い人が目につきます。
女性はグレイのスーツに白いブラウス、男性は濃紺やチャコールグレイのスーツ。昨日まではラフなサンダルを履いていたお嬢さんも、今日はおとなしいパンプス。
染めていた髪の毛もすっかりもとの黒い髪に戻して、晴れて正社員として登場しました。電車の中で見かけた何人かの新入社員らしき人は、全身で緊張していました。
そんな新人さんのソワソワも初々しく、陰ながら、”頑張ってね”と心の中で応援させて頂きました。
私は好きな言葉はたくさんありますが、中でも私が大切にしているのが、月並みではありますが,「ありがとう」と「どうぞ」という言葉です。
仕事柄、旅にでることが多いのですが、はじめての土地であっても「ありがとう」あるいは「どうぞ」というたったひと言がきっかけで、暖かい人と人の絆が生まれます。
それは国内だけには限りません。世界中のどこであっても「サンキュー」「プリーズ」「メルシー」「シルブ、プレ」と声にするだけで、人は笑顔になり、その場に優しい空気がふんわりと生まれます。そうしたときには、こんな優しい言葉をもっているありがたさに、感謝の気持ちが私の胸に溢れます。
どんな時代でも、顔と顔を見つめて会話を交わすという、生のコミュニケーションを大切にしたいものです。
生のコミュニケーションは、私たちを切磋琢磨してくれます。心優しく暮らすためにも、温かなコミュニケーションが不可欠です。
「ありがとう」「どうぞ」・・・という言葉を、意識して日に何度も声にしてほしいと思います。声にすると言葉が相手だけでなく、自分自身をも優しく包んでくれるのを感じるはずです.

沖縄観光

今日の私は少し「ノリ」が違います。なぜか、と申しますと先週末大好きな沖縄に行き、沖縄のお惣菜を端から端まで、食べちゃったんです。と、言っても真面目な仕事でうかがったのですが。
一年に2、3回は旅する沖縄なのに毎回ウキウキしてしまう私です。
さあ~何食べようと、考える間もなく、テーブルはいっぱいになります。ああ、帰ってきた、そんな感じがする沖縄。なぜ懐かしいのかしらと、自分でも不思議に思うんです。通い続けて36年近くになります。決っして飽きることのない深い魅力は、この地から、この海から、この風から、沖縄の人々がみずから生み出しただろうエネルギィーが伝わってくるからです。
今回の講演の演題は「沖縄に魅せられて」です。
沖縄への観光客の7割がリピーターです。これからのシニア世代、いえ、成熟した大人の方々へ、どのような旅をご提案できるか・・・。そんなお話をさせて頂きました。

私が沖縄を初めてお訪ねしたのは、1972年の沖縄返還前。まだパスポートが必要な時代でした。あれから36年以上も時が過ぎました。
沖縄の町並みもすっかり変わり、沖縄は今や、飛行機で羽田から、ひと飛びでアッという間に訪ねることができる、多くの人にとって、とても身近な場所になりました。
しかし、先日、口に出すのも悲しくなってしまう、米兵による事件が起こりました。なんということでしょう。ああ、沖縄は今も基地の島なのだと、改めて感じさせられました。
以前にも、同じような悲惨な事件が起きて、もう二度とこうした事件を起こしてはいけないと、沖縄のみならず、全国の皆様が胸を痛め、憤慨し、多くの人が声をあげ、アクションを起こしたのに、また今、悲惨な出来事が、起こってしまったとは。
唇をかみしめるだけでなく、二度と、こうした悲劇が起きないように、何とかしていかなくてはならないと、強く思います。
沖縄にあこがれ、多くの若者のみならず、リタイアした団塊の人々が、気軽にこちらに旅をする時代になった今。輝く空、美しい海だけではなく、沖縄には、かつての戦争、そして基地の今があるということを、そうした旅人にも、ちゃんと知ってほしいと感じるのは、私だけでしょうか。
私は、沖縄で忘れられない多くの人に出会いました。そのひとりが、与那嶺貞さんという女性です。
ご存知の方も多いと思いますが、貞さんは、琉球王府の美の象徴であり、民族の誇りでもある花織を、見事に、復元した女性です。
私と沖縄との出会いのきっかけは、民芸でした。
民芸の創始者・柳宗悦先生の著書に、中学時代に私は出会い、先生がその著書の中で琉球文化と工芸品の素晴らしさについて情熱的に書いておられるのを読み、中学生のときから、いつか沖縄に行って、そこで使っている道具を見てみたいと恋い焦がれていたのです。
そして沖縄の民芸を訪ね歩く中、私は、貞さんと出会う幸運に恵まれました。
以来、ことあるごとに、沖縄に伺うたびに、貞さんの工房を訪ねさせていただいたのでした。親しくなるにつれ、貞さんの人生が、多くの沖縄の女性と同様、過酷なものであったことが少しずつわかってきました。
第二次世界大戦で貞さんは夫をなくし、ご自分は戦火の中を三人の子どもを抱えて逃げまわられたのだそうです。そして終戦後、女手ひとつで三人の子どもを必死で育てあげました。その子育ても終わった55歳のときに、貞さんは古い花織のちゃんちゃんこに出会ったといいます。
花織は、琉球王府の御用布でした。本当に美しい織物です。けれども、工程の複雑で、仕上げるためには技術のみならず、時間も手間もかかるために、伝統が途絶えてしまったのでした。
かつて学校で織物を学んだ貞さんは、花織の美しさに魅せられたのと同時に、琉球の美と文化を後世に残さなくてはと決意なさったのでしょう。やがて幾多の苦労を経て、ついに花織の復元をなしとげられました。
今も、ふとした折に、私はそんな貞さんの口癖を思い出すことがあります。
「女の人生はザリガナ。だからザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ」
ザリガナとはもつれた糸。
ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグは、もつれた糸をほぐして布にする女性のことだそうです。根気よく糸をほぐすためには、辛抱も優しさも必要です。そして、ほぐすという行為には、「この糸でまた織物を織る」という、未来へ続く意思と希望も秘められています。
貞さんは、人間国宝となり、2003年の1月に94歳でその生涯を終えられました。でも貞さんの教えは私の胸の中に今も深く深く刻まれています。そして、沖縄、いえ琉球には、こうした魂があることを、私は、沖縄を訪ね来る人、ひとりひとりに知ってほしいと今も、思っています。
さて、では本題に入ってみたいと思います。団塊世代のリタイアの時期を迎え、この数年、観光あるいは移住など、何とかして、団塊の世代をその地に招き、地方を活性化したいという動きが全国で始まっています。
ちなみに、昭和22年から24年生まれを「団塊の世代」といいますが、この3年間に生まれた彼らの人口は、なんと800万人強なんですね。 本当に多いんです。どのくらい多いかといいますと、最近3年間の出生数はその半分以下、わずか約350万人。優に倍以上。それが団塊の世代なんですね。
その団塊の世代が、そろそろ定年で企業を去り、一線から離れるわけです。団塊の世代は、それまでの日本のシニアとはまったく違うシニアになるだろうと予想されています。というのも、団塊の世代は、日本の高度経済成長を支える消費のリーダーだったからなんですね。
ファッションも、趣味の世界も、車やライフスタイルも、新しい風を常に求めてきたのが、この世代なんです。古いモノに代わる新しいモノをどんどん取り入れ、ファッションや流行を先導してきたんですね。だから年齢が上がっても、従来のシニア枠にはとどまりたくないと考える人が多く、女性だけでなく男性も消費に積極的なんですね。
しかも1000万人近くいるわけですから、シニアマーケットは、これからがらりと変化するのではないかと、いわれています。当然、旅行マーケットも、今までとは違うものになっていくでしょう。団塊の世代が、ニュー・シニアマーケットを形成するわけです。
では、団塊の世代は、どんな旅を求めているのでしょう。
JTBのある調査によると、団塊世代の定年退職の記念旅行の費用は、1人当たり平均で29万6000円だそうです。
もっとも多かったのは、1人当たり「31万~50万円」。
次が「21万~30万円」。
3位が「6万~10万円」。
そして、「16万~20万円」、「11万~15万円」、「51万~100万円」と続いたそうです。
一方、希望する旅行期間で最も多かったのは「1週間~10日」。
2位「2~3泊」、3位「4~5泊」。
案外、短いと感じるかもしれませんが、実は「2週間~3週間」が6%近く、1カ月以上も5%弱、あわせて2週間以上を希望する人が合わせて11%を越していました。つまり、ゆっくりじっくり時間をかけて旅をしたいという人が10組中、1組以上、いるというわけです。
これは、これまでになかったことではないでしょうか。この調査では、退職記念だけでなく、それに限らない、60歳以降の旅行の調査もしていて、そこでもおもしろい結果がでています。
「多少高くても添乗員付きのゆったり周遊型のパッケージ旅行」を希望するのは、女性約51%、男性約39%。
忙しい駆け足旅行ではなく、じっくり時間をかけて、楽しみたいという人が増えてきたんですね。そして、男女差に着目しますと、男性は自由度の高い、添乗員に行動を管理されない旅を望んでいるようにも感じられます。
それを裏付けるように、「自分で手配し自分で動く」、「マイカーやレンタカーで動き回る」ということを希望する人は、やはり女性よりも男性のほうが多いという結果もでています。
そうした団塊の世代にとって、沖縄はどんな魅力を持つ場所なのでしょうか。観光スポットをめぐりたいという人たちは、これからも、これまで通り、多くいらっしゃるのではないかと思います。
沖縄の文化は魅力的ですし、沖縄の歴史は日本に住む者として、必ず知っておかなくてはならないものですから。ひと通り、沖縄をぐるり回ってみて、沖縄の文化に触れ、沖縄のこれまでを知り、優雅にホテルに滞在し、美しい自然も堪能する、そして帰りにはお買い物も楽しんで……。女性の場合は特に、その希望が強いかもしれませんね。
家では日々家事に追われていますし、リタイアしたご主人がいると食事も3度3度、用意しなくてはならないかもしれません。そうした家事から解放され、上げ膳据え膳で、美味しい豪華な食事をいただくというのも、旅の醍醐味であるからです。しかし、こうした従来の旅のあり方だけでなく、これからは、もっと違う旅を求める人が増えてくるのではないでしょうか。
私にはそう思えてならないんですね。
私の知り合いに、ダイビングが大好きな夫婦がいるんです。夫は50歳、妻は48歳。実は数年前に結婚したばかり。お子さんはいません。
団塊の世代よりちょっと若いのですが、彼らは、休みのたびに、各地の海にもぐりにいくんです。今年のお正月は沖縄で過ごしたと、先日、メールをくれました。そして彼らの夢は、リタイアしたら、ダイビングスポットのあるところに、ゆっくり旅すること。旅するというより、ロングステイしたいというのが本音のようです。
私は、これから、こういう旅を求める人が増えてくるのではないかと、思っています。モーレツサラリーマンとして働いてきた団塊世代の男性にとっては、定年は生活が激変するターニングポイントなんですね。
彼らは豊かさを追い求めてきた世代ですけれども、同時にそれゆえに、モノで心が豊かになるとは限らないということも、肌で知っている世代なんです。ですから、リタイアをして、求めるものは、モノの豊かさだけではないはず。
お金を払って豪華三昧の旅をするというよりは、現地の生活に溶け込んで、そこで何かしらを学ぶというような、旅の満足感を、これから重視していくのではないでしょうか。
私は、これまで40年近く、職業が旅人だといっていいほど、日本全国、そして海外もお尋ねしてきました。そうした経験を元に考えて見ますと、とはいっても、ロングステイするためには、いろいろな条件があると思うんですね。
第1に、国内主要空港から直行便が飛んでいるなど、アクセスがよいということが必要な条件だと思われます。
第2に、病院などの医療・福祉施設が整っていることも求められています。特に、シニア世代にとって、いざというとき、病院は大丈夫かというのは大きな関心事なんですね。
第3には、長期滞在に適した宿泊施設があるということです。そしてもちろん、観光やアクティビティにも優れていること。さらに、長期滞在となれば、地元に知り合いも作りたいという希望もあるでしょう。
これをすべて、沖縄は満たしているといえるのではないかと思うんです。そういう意味で、沖縄には、これからもっともっと多くの人が訪れるのではないかと、私は思います。
でも、そのために、やらなくてはならないことがあるとも、思います。そういいますと、新たに箱物をつくろうとか、自然に手を加えようとか考えがちなのですが、そうではなく、沖縄の人たち自身の意識変革がまず、必要なのではないかと思うんですね。
地方に旅すると、私はいつも戸惑うことがあります。「こんな田舎で、何にもなくて」。そういって、今の状態を卑下する人が結構多いんです。
東京みたいに便利ではない。
東京みたいにビルがない。
東京みたいにコンビニがない。
そういうんです。でも、それはマイナス要素なのでしょうか。
いいえ、そうとは限らない。考えようによってはプラス要素にもなりうるものなんですね。考えても見てください。すべての町が、ミニ東京みたいになってしまったら、こんなつまらないことはありません。
東京は東京だからいいのであって、沖縄には沖縄のよさがあるから魅力的なんです。ですから、沖縄で旅人を迎える人たちには、まず第一に、旅人よりも、この場所の魅力に敏感であってほしいんですね。
たとえば沖縄には琉球王朝の文化があります。かつて、中国との間に深い関係を築いてきた沖縄は、手厚いもてなしの心を持ち、陶器、ガラスなどの道具類、織物、そして歓待の宴で披露する歌舞音曲を発展させました。そうした文化を愛し、それを伝えるにはどうしたらいいかということを、さらに考えていただきたいと思います。
私の場合、そうした文化をさりげなく教えてくれる友人がありがたいことに、沖縄にいるんです。彼女たちとは、沖縄ベンチャークラブ主催の講師に招かれたのがご縁でおつきあいがはじまり、早十八年もの歳月が流れました。
今では彼女たちも、沖縄ベンチャークラブのOGとなりました。ちなみにベンチャークラブはボランティア団体・国際ソロプチミストに認証された、十八歳から四十歳までの働く女性のボランティアグループです。
サンシンの音色が響くお店に集まり、おしゃべりや音楽を楽しみながら、沖縄独特のチャンプルーやイリチィー(炒り煮)をほうばり、泡盛をちょっといただいたりします。
また、旧暦3月3日、沖縄の女たちは重箱に一杯ご馳走を詰め、浜に下りて海で身を清め遊ぶという風習があるということを、教えてくれたのも、彼女たちでした。
その日、彼女たちはお重箱に、それはそれは美しい料理をつめ、沖縄の紅型の着物を着て、沖縄の海のすぐ傍らの浜で、とても楽しい時間を過ごさせてくださったのです。
日ごろ、働き者で、時間に追われている彼女たちが童女のようなホッとした顔に戻り、笑いながら、歌いながら、踊りながら、ご馳走を食べる……そのとき、市場などで働いている、やはりいかにも働き者といった、元気いっぱいのお母さんたちの顔まで思い出されて、これが、長い歴史の中で、沖縄の女性たちの楽しみのひとつであったのだなぁと、しみじみ感じることができました。
さて、こうした沖縄の文化を、私は多くの人に知ってほしいのですが、では誰にも知らせればいいかというと、なかなかそうとはいいきれないんですね。特に団塊の世代以降の人たちは、それまでの人よりも、考えようによっては、ずっとわがままです。
たとえばダイビング、たとえば音楽、たとえば料理など、自分の興味あることがはっきりしていますから、いわゆるお仕着せの旅では満足してくれないでしょう。また、インターネットを仕事でもプライベートでも使いこなしている世代ですから、これまでのようなちらしや旅行会社の窓口での案内で、旅のありようを決めるという人は少しずつ減っていくと思われます。
私の30代の長男長女は、旅行でもショッピングでも、自在にインターネットを駆使して、同じものなら少しでも安いものを探します。私の目から見ますと、ほとんど達人といってもいいほど、インターネットを使いこなしています。
また、現在でも、私でも、インターネットである程度、現地の情報も集めることができますし、今後はもっと使いやすくなると思われますので、これからは飛行機、ホテル、現地での行動など全てを自分で設定する旅人がどんどん増えていくのではないでしょうか。
しかも、彼らの目はかなりシビアであるのではないでしょうか。高価なホテル、ゴージャスなホテルを好む人は、そちらを選び、長く沖縄に滞在したいという人は、リーズナブルな宿を選ぶのではないでしょうか。
私自身も、沖縄は第二の故郷といっていいほど、大好きな場所なので、いつになるかわかりませんが、将来はゆっくりこちらにロングステイしてみたいとも思っております。でも、では、どこに滞在するか、と考えると、ちょっと困ってしまうんですね。豪華なホテルでは、安全で安心ですが、コストもかなりかかってしまいます。
沖縄のにおいを肌で味わうというのに最適ともいえません。長く滞在するなら、私は、沖縄のにおいのする宿で、人との交流もあり、しかもプライバシーが守られる宿であってほしいと、思うのです。こうした宿がこれからは求められていくのではないでしょうか。そして、滞在スタイルはというと、団塊の世代も含め、シニアにとって究極の楽しみというのは、ゆったりと過ごすことではないかと思います。
実は、先日、私はプライベートでイギリスに行ってきました。
イギリスの南端の、あるお宅に伺い、ゆっくりしてきたのですが、そのとき、そのご夫婦が散歩に誘ってくださったんです。南端とはいえ、冬のイギリスです。結構、寒いんです。でも、そちらのご夫婦と私の三人で、その村のいちばんきれいな場所を三時間あまりもかけて歩きました。
ご夫妻は、私とほとんど同じ年代です。それが三時間。あたりを見回しながら、ときおりおしゃべりしながら、ゆっくりゆっくり歩いたんです。本当にきれいな風景が広がっていたので、まったく疲れなかったんですね。
そして、散歩を終えて帰ってきたとき、心身ともにすごく満足感があったんです。そのとき、私は、これからはこういう旅が求められるのではないかとハッとしました。自分を見つめるような旅です。
美しい風景の中で、たとえば沖縄の美しい海を見ながら、かぜを感じながら、夫婦で、あるいは友人と、あるいはひとりで。歩いたり、話したり、自分のことを考えたり。
そして、もうひとつ、思ったことがあります。
3時間の間、私を楽しませてくれたイギリスの美しい風景は、手付かずの自然ではなかったこと。山も、木々も、丘も、すべてが美しかったのですが、実は、自然そのままではなく、それを生かすように整えられていたんです。人の手が入ることで、より自然な美しさが際立っていたんですね。これは、観光を目的とする人たちにとって、とても重要なことではないかと思います。
沖縄の自然は魅力があります。
その魅力を際立たせるために、人の手が入っていると感じさせないように、人の手を加えていく。それは今現在のためだけではなく、長く未来にわたって、その自然を保護するためにも必要なことだと、私は思います。
最近の沖縄では、ホテルの建築ラッシュですよね。その前は、マンションの建築ラッシュでした。
それで地域経済が潤うという面もあるでしょうし、それだけ多くの観光客や滞在者が沖縄にはやってくるということなのでしょう。
でも、町のあちらこちらで建設途中のビルが立っているのを見ると、私はふとかつての日本列島大改造やバブルの時代を思い出したりして、ちょっと心配になってしまいます。まさか、そんなおろかなことを、沖縄で繰り返すわけがないと思いつつも、開発には慎重になってほしいと思ってしまうのです。
あの時代、美しい日本の田舎の風景が音をたてて壊され、失われていきました。失われたものは二度と元には戻りません。箱根の我が家は、そのときに出会った古民家が無残に壊されてしまうのが、忍びなく、思わず、買い取ってしまい、そこで考えに考えた末に、古民家の柱や梁を使って、建てた家なんですね。
沖縄の伝統的な家や風景までが、高度経済成長期の本土と同じような道を辿らないでほしいと、私は祈るような気持ちです。シーサーが守る、平家の沖縄の伝統的な家。さわやかに風が通り抜け、木が沢山使われている家。そして、ご近所も家族みたいな、おつきあい。
そういう沖縄の文化を失わないでいただきたいんですね。開発に当たっては、そうしたことに対しても知恵を絞り、バランスよく進めていってほしいんです。
ちなみに、私がロングステイしたいのも、そうした沖縄伝統の家です。ただし、旅人ですから、プライバシーもちゃんと守りたいし、ひとりでいる静かな時間もしっかりと確保したいんですね。
そして、美しく保護された海を見ながら、自然を生かすように整えられた道を、朝夕ゆっくりと散歩したりもしてみたい。そういうスポットなどが整えられれば、沖縄はこれから、もっともっと魅力的な場所になるのではないでしょうか。
もちろん、私のような人ばかりではないでしょう。鍵ひとつかけられれば出かけられる、マンションやロングステイ用のホテルなどを好む人もいるでしょう。でも、そうした人にとっても、沖縄伝統の文化や風景は魅力であることは間違いありません。
美しい海、そしてもてなしの温かな心を持つ人々、開放感があり、青い空に絵のように美しく映える沖縄の風景……こうしたものを大切にして、さらに磨きをかけていってほしいのです。そうすれば、なおのこと、シニア世代、いえ、成熟した大人の男女にとって、ゆっくり流れる時間を味わうにふさわしい場所として、愛される場所になるのではないでしょうか。

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雪景色の箱根

この冬は例年より雪の多い季節でした。
雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして不便も感じますが、雪の箱根はなかなか素敵です。
小田原からバスに乗り、宮下を過ぎるころには空気も匂いも一変します。
夜空は、時には「冬の月」であったり、樹木の枝に降りつもる雪であったり、「星が」煌々と輝いていたり・・・、まさに「星冴ゆる」夜、静寂な里に暮らす喜びを感じます。
冬ごもりした箱根は静謐そのものです。
でも、早朝の赤富士が見られてた時など”春はもうすぐ”・・・と思います。
春を待ち望んでいる花々との出逢いが楽しみです。

「旅は数珠球・・・壷と椿の花」

旅は自己発見である、とはよく言いますが、私にとって、旅こそ自己形成の場ではないかと今でも思えるのです。
学問も、才能も、家柄も、財産も、何もなくて、ただころがりこんできた時の運のようなものにおされて芸能界に入って、右も左も自分が立つ場所さえわからず、さあここですよ、右むいて左むいて、笑って泣いて、さあこの台詞・・・となにやら人形みたいに動かされて、16歳の私は、ただ渦の中に落とされた小石のようなものでした。
めまぐるしいスケジュールの中で、必死で何か杭があるならつかまりたい。なにか小さな木の葉でもいい、つかまっていないと押し流されそうな怖さだけは確実にあったように思えるのです。
この不安の思春期の中で何につかまられるか、何をつかむかで、その後のある程度の方向は定まってくるものではないでしょうか。
私にとって、それはひとつの”壷”だったのです。
いまになって、あれは私の人生の道標であったと思えるのです。
デビューして2年目くらいの冬のこと。
社会派のカメラマン、土門拳先生に雑誌の表誌を撮っていただけるという幸運に恵まれました。場所は京都・苔寺。その日は光がだめだというので、お休み。
「ついて来るかい?」
「これから本物というものを見せてあげよう」
16、7の小娘には何が本物なのかわかろうはずもありません。
ついていった先が、祇園石段下、四条通りに面した美術商「近藤」でした。
お香の匂いがかすかに漂ってひんやりしているけれど、どこか暖かな店。その店に入った途端、ひとつの”壷”の前で、私は動けなくなってしまったのです。誰の作品で、何焼きで、何年頃のなどということは何も分かりません。
ただその”壷”のありように胸打たれてしまったのです。
そこにある壷は、それを見ている私そのもののような気がしたのです。
身動きもならず、ただうずくまるだけの自分。
それでいてその内側に爆発しそうな力を秘めて、体でそれを表すすべもなく、うずくまるしかないという形の心をそこに見たのです。
身じろぎもせず、その壷を見入っている私に、近藤さんが教えてくださいました。
「この壷の名は”蹲”(うずくまる)。
古い信楽で、作者不詳」・・・と。
その壷にはどうしても寒椿を活けたかった。
何日かたつと、突然ポトリと花が落ちるあの姿、と”蹲”の無欲な姿。
結局、当時頂いていた東宝からのお給料を一年分前借して私のそばにやってきたのです。
夢のようなある冬の出来事でした。
今朝、庭に咲く椿を活けてみました。
あれから、かれこれ半世紀がたちます。
旅は数珠球・・・小さな旅から大きな旅まで、私を豊かにしてくれます。

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
箱根の森の中に家をたてて、もう30年になろうとしています。
今年のお正月も”箱根駅伝”ではじまりました。早朝から富士山が青空のもと美しい姿を湖に映し、ランナーを迎えます。今年もドラマが生まれました。
悲劇や番狂わせ、箱根駅伝はいつもドラマティック。
「銀座百点」1月号にかつて早稲田大学の選手として箱根駅伝を走った映画監督の篠田正浩さんが、作家の三浦しをんさんとの対談でこのように話しておられます。
「正月を選ぶということは、基本的に神事なんですよ。箱根駅伝は、新しい年に精進潔斎した若人が神輿を担ぐように襷をつないで、箱根、つまり富士へ向かって走るでしょう。一種の富士講、イニシエーションだと思いませんか。選手たちが神さまの美しい魂というか神聖なものをわれわれの代表として富士山に取りに行き、それを都会に持ち帰ってきてくれる。駅伝は、日本の文化までもを孕んでいる」・・・と。
今年はどんな年になるのでしょうか。昨年気になる言葉が新聞、テレビなどで報道されるようになりました。
「限界集落」
 
消滅の危機にさらされている集落。そんな集落を救え・・と38都道府県の146自治体が「全国水源の里連絡協議会」を設立し、始動したと新聞記事にありました。たしかに高齢化が進み、田畑の跡地は荒廃し消滅の危機にさらされている現実は旅するなかで実感いたします。
しかし、「限界集落」・・・という言葉をそこに暮らす方々はどのような思いで聞かれておられ るのでしょうか。
人間の歴史の中には、絶えず過ちをおかします。しかし、その過ちを修正する能力はあるかも知れません。もう少し、ふっくらと柔らかな、優しい言葉はないものでしょうか。
日本全体が都市化現象にあります。自然と乖離した生活の中で、自分たちが食べているものの、姿が見えないような暮らしは果たして幸せといえるでしょうか。
見ることは知ること。今年も旅の下にいたいと願っております。
今年も良い年でありますように。

アンチエイジング医学を学ぶ

先日”健康長寿を目指して”アンチエイジング医学を学ぶ”という市民公開講座が東京三田でNPO法人「日本抗加齢協会」の主宰で開催され私も招かれ伺いました。
アンチエイジング医学とは?       講師  米井壽一氏
健康で豊かな骨を守るために       講師  鈴木敦詞氏
アンチエイジングのための栄養と食事 講師  白澤卓二氏
お三方の先生の後、私は私のアンチエイジング生活~「明日を素敵に生きる」をテーマにお話させて頂きました。
会場は専門分野の方、若い方々、そして私達世代。熱心にお聴きになられておりました。その時の内容を記します。
このたび、ここでお話させていただくにあたりまして、改めて、自分の生き方を振り返り、年を重ねること、いつまでも若々しくあることなど、様々なことを考えてみました。
若々しくありたいというのは、女性のみならず、多くの人が望まずにはいられないことでしょう。一方、年を重ねることの豊かさも、みなさま、お感じになっているのではないでしょうか。
実は、あさってが、私の誕生日で、……64歳になるんですね。20代のころ、60代の先輩方を見ると、雲の上の年齢という感じがしましたが、いまや、私もその年齢になっているわけです。
でも、それは、私にとって、決して、悲しいことでもさびしいことでも、ないんですね。若いときには見えなかったことが見えてくる、本当にそういうありがたいことが、たくさんあるんですね。
若い頃に比べて、気持ちのコントロールも上手になりましたし、自分が必要としているもの、していないもの、興味を持つもの、もたないもの、楽しいこと、楽しめないことが、年を重ねるごとにわかってきたようにも、感じます。
経験を重ね、考えを深めてきて、自分の輪郭というものが、くっきりとしてきたと言い換えてもいいかもしれません。そして、自分というものがわかってくると同時に、若いときよりも、もっと優しくなれるような気がします。
たとえば人の気持ちを慮ることもできるようになってきたような気がしませんか。若い頃は私を含めみなさん、自分のことでいっぱいいっぱいで、人のことまでなかなか気が回らないでしょう。そういう余裕がないのが、若さの一面だと思うんです。
でも、辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、たくさんの経験を重ね、そのたびに、考えを深め、人間として弾力をそなえて、自分自身のことも少しずつ見えてくると、人は、他の人にも自然に素直に心を開くことができるようになるのではないでしょうか。
でも、年を重ねるということには、身体が老いてくるという誰もが避けられない厳しい一面もあるんですよね。あ、身体も心も変わったな、と私が始めて意識したのは、40代前半のころだったと思います。
今は、夫婦で協力して子育てを行う時代になりましたが、当時は、子育てと家事は女性の役目。男性ばかりではなく、女性も、もちろん、私もそれを当たり前のこととして思っていました。けれど、4人の子どもを育てながら、女優の仕事を両立させるのは、実際には並大抵のことではありませんでした。
私は実の両親に同居してもらい、子育てを手伝ってもらったのですが、それでも、次には何をして、その次には何をして……という具合に、しなくてはならないことと、時間においまくられることが続いていたんです。その疲労が、40代の前半に、ピークを迎えてしまったのだろうと思います。
もちろん、そこには私の個人的な状況もあると思うんですね。体がふたつ欲しいような日常だけれど、この幸せは絶対に手離してはならないと、私はすごく強く思っていたんです。ですから、心にも身体にも相当、力が入りすぎていたのかもしれません。
その上、私は不器用なくせに、完璧をめざしたがるところがあって、しかも、あのころの私は今よりもずっと融通がきかなかったんですね。いいわ、もうここまでにするわ、ということができなかった。
ピンとはりつめていてばかりでは疲れてしまうのがわかっていても、自分を緩めることができなかったんです。そのために、忙しさの中で、自分自身が磨耗してしまったのでしょう。
それまでずっと前に向かって走り続けてきた私が、ある日、立ち止まり、一歩も進めないような状態になってしまったのです。身体に鉛が入ったようで、動くことさえ辛く、お日様が大好きだったのに、外にも出て行きたくなくなりました。
子どもたちの話を聞くことも辛くなってしまったのですね。
たぶん、今にして思えば、欝っぽくなっていたのでしょう。それでも、仕事はありますし、子どもたちには待ったなしでご飯を作って食べさせなくてはならない。それが仕事を持っているということであり、母親なんですね。
夜、倒れこむようにベッドにたどり着いたり、子どもたちが眠った後、女友達の家に車を飛ばして、少し休ませてもらったりもし……思えば、数ヶ月のことなのですが、長く暗いトンネルの中を手探りで歩いているような気がしました。幸いなことに、すべてを受け入れてくれる年上の女友達がいてくれたおかげで、少しずつ元気を取り戻すことができました。
女性の身体は40歳を過ぎる頃から、女性特有の精神的、肉体的変化を左右するふたつのホルモン、エストロゲンと呼ばれる卵胞ホルモンと、プロゲステロンと呼ばれる黄体ホルモンの分泌が変化するために、微妙な変化を感ずるようになるということを、私はその後になってしりました。
40歳を過ぎる頃から、徐々に排卵をしなくなると、エストロゲンの生産が次第に減少し、黄体の形成もなくなり、黄体ホルモンの分泌もやがてなくなっていくのですね。けれど、エストロゲンと黄体ホルモンの分泌を司る脳下垂体前葉は、従来どおり、機能が減退してきた卵巣に対して、よりいっそうの刺激を与え、機能を回復せよと命じるんです。
脳下垂体前葉は自立神経中枢とも密接な関係を持っていますから、そのために自律神経の働きに狂いが生じて、様々な、私が味わったような症状に悩まされてしまうこともおきうるのだということも、知りました。
まさに疲労がピークに達したその時期に、身体のほうにも変化が訪れたというダブルパンチだったわけです。そのために、40代前半で私はうつうつと悩んでしまったというわけなんですね。
悩んでいる真っ最中のあのとき、そうしたサジェスチョンがあったら、少しはラクになれたのかと思いますと、ちょっと残念なんですね。自分の身体に何が起きているか、それを知るだけでも、心構えが違うではありませんか。
原因がわからないと、こんな風に鬱々してしまうのは、自分が悪いからではないかと、さらに自分をせめたりもしがちですよね。いや、そうではなくて、身体に変化が起きているために、心のコントロールがうまくいっていかないのだと、わかれば、それなりに別の対処があったと思うんです。
最近になって、女性の身体の変化、特に40代以降の身体の変化についての、研究と情報開示が進み、私、本当によかったと思っているんです。今、更年期という言葉を、なんのてらいもなく口にすることができる女性たちが増えてきていますよね。
私たちの時代は、まるで「生理がなくなると女も終わり」みたいな風潮があって、更年期などとは、とても口にだせなかったんですもの。今、そんなこと思う女性は少しずつ、少なくなっているのではありませんか。
更年期は女性なら必ず通らなければならない生理的変化の過程ですが、それは同時に、女性に与えられたすばらしい、女の一生の中でもっとも華やかな時期でもあるという認識が、だんだん広がっているんですね。
それは、その年齢の女性に対する社会的偏見、医学知識の誤解などを今、きれいに払拭しつつあるからだと思うんです。
そして今、女性としての自信、社会人として自信が、更年期以降の女性を生き生きと輝かせ、年齢を超えたその人独特の人間的魅力になるという考え方に変わってきているのではないでしょうか。
老化に対する考え方も変わってきているように思います。対処法を知っていれば、無駄な心配をしなくてすむからでしょう。
仕事でおつきあいのあるたとえば女性誌の編集者などは、「私、更年期で、ホットフラッシュがひどいんですよ。そろそろホルモン療法を始めようかしら」と、なんでもない表情でおっしゃるんですよ。
すると隣にいる同年輩の女性たちと「あら、私も」「どこの医者にかかっている?」「いい先生、いる?」という具合に、話がはずんだりもするんです。
そういう女性たちの姿を見るにつけ、自分の身体の状態を的確に把握し、それに対して対処するすべを知っているということが、いかに大切かということを考えさせられます。と同時に、医学の情報を精査して、きちんとキャッチしておくことが、本当に重要だなぁと思うんですね。
少し、私の個人的なことをお話させていただきます。
私が、老いを最初に意識したのは、50歳を超えたあたりだったでしょうか。まず、私は目に異常を感じました。「緑内障」の初期だったんです。幸い、点眼薬で治ったのですが、目に不安があるというのは、非常に精神的に重いものがのしかかったようなものだと感じました。
そこで、いろいろ考えまして、それを機に、車の運転をやめることにいたしました。私は、こう見えましても、運転にはちょっと自信があったんです。我が家は箱根ですので、箱根から箱根新道をとおり、東名を飛ばして、仕事に毎日行っていたんですね。
また我が家は12件の古民家を譲り受けて作り上げたものなのですが、古民家を訪ね歩いていた時期には、地方に古いぼろぼろのマークⅡをおいておき、それに乗って、どんな山道も走り歩きました。それが出来なくなるという寂しさ、足回りが悪くなり、世界が縮んでしまうような怖さもありましたが、私は私ひとりの身体ではないんですよね。
何より先に子どもたちの母親であり、子どもたち4人が社会人となり、独り立ちをするまで見守っていかなければならないわけです。その役割を果たすためにも、安全第一をとったわけなんです。
それからもいろいろありました。中でも、ショックだったのが、60歳になって、転倒しまして、背骨を骨折してしまったことです。あの日、私は会合がありまして、ピンヒールの高い靴を履いていたんです。ちょうど、雨上がりで、建物の床が濡れていたんですね。
そのときに、何かの拍子にバランスを崩してしまったんです。しかも転んだ後、すぐに病院に行けなかったんです。背中が痛くて、本当に辛かったのですが、講演の仕事がずっと詰まっていまして、しかもそれが地方だったんです。私たちの仕事は代わりがないものですから、穴をあけるわけにはいきません。
飛行機で地方に飛び、それから今度は電車で別の地方に向かい、それぞれのところで仕事をし、それからまた飛行機に乗って帰ってまいりました。それから病院に直行しますと、即、入院といわれました。「すぐ入院してください! 安静です!」と。
最初に無理をしたのと、年齢的に骨がもろくなる時期だったのが重なって、なかなか骨がくっつかず、完治まで長くかかりました。そのときに、骨粗しょう症にならないために、できるだけのことをしようと、決心しました。
女性は、ホルモンのバランスが大きく変化する閉経後、骨の量が急激に減るため、骨粗しょう症になる人の割合が高くなるそういう知識は、持っていたのですが、まさか、自分がそのために準備をしなくてはならないなんて、思わなかったんです。
けれど、背中を痛めて、それが現実味を帯びて、迫ってきました。骨粗しょう症(骨粗鬆症)とは、皆さん、ご存知だと思いますが、骨がスカスカになり骨折しやすくなる病気です。骨全体が弱まってしまうため、骨折してしまうと、折れてしまった骨が元に戻るまでにさらにさらに時間がかかるようになってしまうのだそうです。
また、骨折が原因で日常生活行動(ADL)の低下を起こしたり、さらには寝たきりになってしまうことが、今や大きな社会問題となっているんですね。お年寄りが、転んで、足の骨を折ったのがきっかけで、寝たきりになって、痴呆が進んでしまったという例を耳にしたことはありませんか。そういう例が、本当に多いのだそうです。
背中を痛めたのを機に、私がはじめたのが、毎朝の山歩きです。箱根の山を私は、箱根にいる限り、毎朝、1時間から1時間半、歩いているんですね。山ですから、アップダウンもあり、足元も平らではなく、最初は1時間歩くと、へとへとだったのですが、今ではもっと歩きたいと思うほど、体力が戻ってきました。
自然に抱かれて、きれいな山の空気を呼吸する喜びもしみじみと感じられるようになりました骨折が直った直後は、もうヒールの高い靴をはくのはよしましょうと思ったのですが、体力の回復と共に、そうしたお洒落心もまた目覚めてきました。
街を歩くときには歩きやすい靴をはいていますが、パーティや会合などには、私の好きなピンヒールの靴に履き替えて出ることも、このごろではたびたびです。
人生、塞翁が馬(さいおうがうま)といいますが、まさに、私は、骨折のおかげで、骨の老化に気づき、それをストップするべく、早めに手をうてたのではないかと思います。また、50代で車をやめたことも、むしろ、私にとってはよかったと思うんです。
車では通り過ぎてしまう風景を見ることができるようになりましたし、電車やバスを楽しむ喜びも改めて味わっています。
この会のテーマは「アンチ・エイジング」ですが、やはり、年をとれば失うものもあるんですね。
それを認めないのではなく、むしろ老いをもしっかり受け止め、その上で、カバーしていく手段を講じて、いつまでも生き生きと生きていくことが大切ではないかと、私は思います。
それには心の健康と、正しい情報と、ホームドクターの存在が、絶対に必要だと思うんです。
私には、信頼するウィメンズクリニックの先生と、整形外科の先生がおりまして、おふたりに会うだけで、私はホッとするようなところがあるんです。特に、ウィメンズクリニックの先生とは20年来のお付き合いで、私の体のことなら、私よりもよくわかっていらしてくださるんです。
その先生のところには、3週間に1度、伺いまして、チェックしていただいています。身体の悩みから心の状態まで、お話しすることもありますし、同じ女性の先輩でもあるその先生から、これからの女性の身体の変化を実体験としてうかがうこともあります。
何も変調がなくても、そんな風に私は通い続けているわけです。病気になってから病院へ行くというのが、これまでの常識でしたが、私の場合は、病気にならないために、病院に通っているという感じです。状態をひどくしないために、先生に対処法を教えていただいていると、いいかえてもいいかもしれません。
ホームドクターからはもちろんですが、私は雑誌や本を通しても、新しい医学情報を積極的に取り入れようとしています。
40代のあのとき、自分の身体の状況がわからなかったために、症状を重くしてしまったのではないかという、反省があるからなんです。また、私は仕事柄、たとえば肌の状態などにとても敏感にならざるをえないところがあるのですが、そのおかげと申しましょうか、心の健康と身体は密接につながっていると、日々、感じさせられるんですね。
撮影の前に、仕事や家庭でごたごたしたときなどは、肌がたちまちつやを失ってしまいます。夜更かしや、不摂生も、端的に肌の状態に表れます。そうかと思いますと、何か楽しいことを控えて、心が明るく踊っているようなときには、肌は生き生きと輝き始めるんです。
今は美肌ブームで、洗顔やマッサージの重要性が指摘されない日はありませんが、もちろん、ご興味のある方はそれをしっかりやっていただいて、でもそれだけに気を使うのではなく、心の持ち方に留意することも必要ではないでしょうか。
ありあまる物質、過剰な情報、あおられる競争意識……現代は、このようにめまぐるしく、非常にストレスの多い生活環境であることは事実です。人と比較することなく、自分のペースで、自分流に生き、瑣末なことは「気にしない」ようにして、そして「謙虚である」ことを大切にするスタンスが、この現代を明るく生きていくために、私は必要だと思っています。
また、食も大切です。
私は、農と食を今の自分のテーマにしているのですが、ときに「女優なのになぜ、農と食がテーマなのですが?」と聞かれることがあります。それは、食べたもので人は作られるからなんですね。農と食は、私たちの命と密接に結びついているものだからなんです。
若々しく美しく生きるために、私がもっとも大切にしているのは、食といって過言ではないかもしれません。そして、食べるということは、人生最大の楽しみのひとつでもありますよね。
今は、これが美容食だ、健康食だという情報がテレビをはじめとしたマスメディアから流れっぱなしの時代ですから、多くの人がそれに翻弄されている面もあると思うんです。
でも、ちょっと後になって、それが断片的な知識に過ぎず、それだけ食べるのはむしろ弊害が多いことがわかったりもします。何十年も食べてきたもので、私たちの身体は作られているわけで、劇的に変化させようというほうが、無理があるんですね。
大事なのは、もっと当たり前の普通の食事ではないでしょうか。野菜をたっぷり、精製された、たとえば砂糖などは少なめにする、そして栄養バランスの取れた食事こそが王道だと思うんです。
そして、野菜なら、なるべくケミカルを使わずに素直に栽培されたものを、食べたい。そしてみなさんにも、ぜひ、それをおすすめしたいんです。
それから睡眠。年齢を重ね、無理がきかなくなり、疲れやすくなったら、ちゃんと睡眠をとり、身体をやすめてあげることが本当に大切だと思います。
そして若々しくあるために、もっとも大切なのは、限りある人生を一生懸命に真剣に、前向きに生きていこうという意欲を持つことではないでしょうか。そういう意欲を持っていれば、身体の不快、心の不快に対しても、いち早く、懸命な対策をたてて実行して、自分の生きる内外の環境を整えようとするのではないでしょうか。
先ほど申し上げたように、私はもうすぐ64歳ですが、今が本当の意味での青春だと思っているんですよ。人から見たら、足りないところがまだまだたくさんあるでしょうけれど、20代よりはるかに今のほうが理解力、応用力、判断力があると実感できますし、身の丈を知っているので、無理をせず、自分のペースで進んでいけます。
この青春は、数々の人生経験が培ってくれた贈り物、あるいはご褒美のように感じます。今の青春を、これからも私は一生懸命、歩いていきたい。そういう仲間がどんどん増えて欲しいと思っております。
みなさん、これからも一生懸命、前向きに一歩一歩、歩いていきましょう。

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会が私の住む箱根で開催されました。私もお招きを受け「東海道箱根宿」について話をさせて頂きました。
箱根に住むようになり、30年になりました。子育てをしながら、女優の仕事を続けていましたし、普通に考えますと、東京都心に住むほうがずっと便利でした。
でも、箱根に住んではどうだろうか。そう、思い始めたら、箱根が私にぴったりの場所に思えてきたのです。山から小田原に下りれば、新幹線で東京まですぐですし、箱根は自然環境に恵まれ、ゆっくりと子育てができる場所でもあります。
美しい山々に囲まれ、湖もあり、温泉もある箱根は、癒しの場所であり、10代の頃の私の趣味のひとつであった水上スキーもできるリゾートでもあります。しかも、箱根は古くからの宿場町だからでしょうか。人が訪ね、人が帰っていく。そういう風通しのよさが、町の中にどこか感じられました。
歴史ある町でありながら、その歴史ゆえに、他のところから来る、よそものに対してもどこか開かれているように、私は感じていました。もしかしたら、箱根に居を定めた最大の理由は、箱根が古くから「宿場町」だったからかもしれません。
旧東海道の杉並木の道は私の毎朝の散歩コース。人生のほぼ半分を私は箱根で過ごし、今ではすっかり箱根人になりました。
さて、東海道の歴史は古く、律令時代から、東海道は諸国の国分を駅路で結ぶ道であったといわれます。箱根路は、800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって開かれたものなのですね。でも、箱根路は、距離は短くても、ご存知のように天下の剣。急峻ですから、足柄路が復興され、ともに街道筋として利用されたそうです。
源頼朝が鎌倉に政権を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになりました。そして、江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となりました。
江戸時代の東海道は、日本人にとって憧憬をかきたてずにはおかない存在ではないでしょうか。私も、江戸時代の東海道に惹かれるひとりです。
その理由のひとつに、浮世絵の風景があるのではないかと思います。初代、歌川広重が描いた東海道の各宿場の風景画です。これらのシリーズは、広重が描いた作品のなかでも有名なものですが、爆発的な売れ行きで、以後、「狂歌入り東海道」「行書東海道」「豆版東海道」などが次々刊行されたといいます。
そして、これらの浮世絵の流行によって、人々の間に、旅や東海道そのものに対する感心がいっそう高まったのでしょうね。実際、その絵を見ていますと、四季の移ろい、気象の変化、各地の風物が伝わってくると同時に、旅する人たちやそれを迎える地元の人たちの様子も伝わってきて、江戸時代の庶民が絵を通して、旅に憧れを抱くのが、わかるなあ・・という気がいたします。
そして、江戸時代といえば落語。
中でも柳家小三治師匠の高座は特別。江戸時代、庶民の生活は大変だったですよね。でも、生活は大変でも、笑い飛ばしてしまう庶民の力強さがあるんです。それが落語の中に感じられる。
それから、江戸の人々の遊び上手なこと。ものはなくとも、精神がとても豊かな面もあるんですよね。
落語をきいていると、文化の成熟ってなんだろうと、考えさせられることも少なくありません。落語の中に、旅ものが多くあるんですね。小田原や箱根近辺が舞台のものですと、町内の面々がそろって大山参りにいくことになって起きる騒動を語る「大山詣り」、仲のいい三人が旅に出て、小田原の宿・鶴屋善兵衛に泊まる「三人旅」やはり小田原の宿が舞台の「抜けすずめ」「竹の水仙」・・。
さらに「御神酒徳利」。大磯が舞台の「西行」そして箱根、箱根山がでてくる「盃の殿様」あげればキリがないほどです。
落語の「旅もの」は、江戸庶民にとって、憧れの旅へのいざないでもあったわけですが、現代に生きる私たちにとっても、江戸時代の旅にいざなってくれるものなのですね。
私も小さな旅を含めたら、1年の半分は旅しているといっていいほど、今も旅に出ることが多いのですが、それほど旅好きな人間なのですが、落語を聴いていると、とても羨ましくなったりするのです。何にうらやましさを感じるかというと、それは、やはり、“歩いて移動する旅”という点なんです。
歩くことで見えてくる・・・・。
歴史ある町には、その歴史が、文化ある町にはその文化が、目には見えなくても、しっかり刻まれていて、それは歩くことによってのみ、感じ取ることができるのです。
町の匂い、町の佇まい、町の奥行き、町の存在感といったものが歩くと発見できるのです。  私は、それを町の記憶と、ひそかに呼んでいます。
たとえば箱根の町に、私が感じる町の記憶はと申しますと、箱根は後世に「天下の剣」といわれた箱根山の往来は、困難を極めたところです。車だとすぐですが、ちょっと歩くだけでも、その一端がうかがいしれます。
笠をかぶり、杖をつき、わらじをはいて、荷物をかつぎ、旅した人たちの大変さ。それでも前へ前へと進もうとする人の姿。ときに、足を止め、富士山の美しさにため息をつき、芦ノ湖の静かな水面に心慰める・・・そんな、当時の旅人の気持ちに近づける・・・。
歩いた後はぜひ、温泉に肩までつかり、お湯のよさと、「一夜湯治」の贅沢を味わってもらいたいと思います。江戸時代から、何万人という人が歩いて旅した記憶というのは、日本の記憶でもあるんですね。
東海道という道は、それだけの重さと豊かさを持ったものなんです。
自分の住む町や村に誇りを持つということで、歴史を知り、文化を知り、そこで営まれてきた人々の暮らしを知り、今と繋がっていることを認識してはじめて、自分の住む土地が好きだといえるのではないでしょうか。
私は、箱根人として、旧東海道の杉並木が残されていることを誇りに思います。


私の信仰と円空上人

先週に続き「円空さん」についてお話いたします。
私にたったひとつ、信仰があります。
それは木。
木に何か人知を超えた天空の意志を感じるのです。
太古に通じる水脈から命を得、時空を越えて屹立する木、その精に。円空が彫り、極めた果てに見出したものに心ひかれます。木に刻まれた平穏の深さと無垢、無音の歓喜。それこそ木の精霊との出逢い。円空の会心の笑みをみる思いがします。
円空上人は今から三00年ほど前の漂泊の僧でした。1632年に美濃に生まれ、大飢饉のさなかに少年期を過ごし、母を早く亡くしたこともあり、幼くして、寺に奉公したのですが、32歳にして出家。
岐阜、志摩、東北、北海道までも、巡礼の旅を歩きました。どこえいっても厳しい迫害にあったそうです。それでも彼は12万体造仏祈願という途方もない仕事を自らに課し、全国各地でたくさんの木彫りの仏像を残したのです。
辺境の地や離れ島、山間の地などに住む人々の病苦や貧困を救おうとして造仏だったのかもしれません。
また、円空さんは、白山信仰、観音信仰にも帰依しました。
岐阜県美並村(現郡上市)の洞泉寺にあったのは、円空さんの手になる「庚申座像」でした。この仏さまは横座りをして、小首をちょっとかしげて微笑んでいらっしゃる。お顔には幾重にもシワが刻まれていますが、それがなんとも優しいこと。前に立った人がみな、ふっと笑顔に変わるのです。
「比丘尼(びくに)像というのが、ありますがその方が、円空が恋した女性ではないかという節があります。青年円空の人間くさい一面を想像させて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
そして、飛騨路の旅の宝物。千光寺の「お賓頭盧さん(おびんずるさん)」
無病息災を願う千光寺のなで仏です。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。
多くの人がこの仏さまをなで、心の平安を祈ったことでしょう
私の大好きな仏像です。
千光寺を最初に訪れたのは、NHKの日曜日美術館で円空を取り上げたときでした。坂道の途中に天然記念物の五本杉がそびえ立ち樹齢1000年の木とか。
この木に聞けば、円空さんってどんな人?ここでどう過ごしたの、と、みんな聞けそうな気がしました。あの時も全山、紅葉にもえ、晩秋の飛騨路の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間に暮れなずんできました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”
円空さんの造仏の鉈の音を感じながら千光寺をあとにしました。
旅先で出逢う宝物。木の仏像
円空上人の旅のあと。
これからも、円空さんの歩いた道を旅したいと思います。