「旅は数珠球・・・壷と椿の花」

旅は自己発見である、とはよく言いますが、私にとって、旅こそ自己形成の場ではないかと今でも思えるのです。
学問も、才能も、家柄も、財産も、何もなくて、ただころがりこんできた時の運のようなものにおされて芸能界に入って、右も左も自分が立つ場所さえわからず、さあここですよ、右むいて左むいて、笑って泣いて、さあこの台詞・・・となにやら人形みたいに動かされて、16歳の私は、ただ渦の中に落とされた小石のようなものでした。
めまぐるしいスケジュールの中で、必死で何か杭があるならつかまりたい。なにか小さな木の葉でもいい、つかまっていないと押し流されそうな怖さだけは確実にあったように思えるのです。
この不安の思春期の中で何につかまられるか、何をつかむかで、その後のある程度の方向は定まってくるものではないでしょうか。
私にとって、それはひとつの”壷”だったのです。
いまになって、あれは私の人生の道標であったと思えるのです。
デビューして2年目くらいの冬のこと。
社会派のカメラマン、土門拳先生に雑誌の表誌を撮っていただけるという幸運に恵まれました。場所は京都・苔寺。その日は光がだめだというので、お休み。
「ついて来るかい?」
「これから本物というものを見せてあげよう」
16、7の小娘には何が本物なのかわかろうはずもありません。
ついていった先が、祇園石段下、四条通りに面した美術商「近藤」でした。
お香の匂いがかすかに漂ってひんやりしているけれど、どこか暖かな店。その店に入った途端、ひとつの”壷”の前で、私は動けなくなってしまったのです。誰の作品で、何焼きで、何年頃のなどということは何も分かりません。
ただその”壷”のありように胸打たれてしまったのです。
そこにある壷は、それを見ている私そのもののような気がしたのです。
身動きもならず、ただうずくまるだけの自分。
それでいてその内側に爆発しそうな力を秘めて、体でそれを表すすべもなく、うずくまるしかないという形の心をそこに見たのです。
身じろぎもせず、その壷を見入っている私に、近藤さんが教えてくださいました。
「この壷の名は”蹲”(うずくまる)。
古い信楽で、作者不詳」・・・と。
その壷にはどうしても寒椿を活けたかった。
何日かたつと、突然ポトリと花が落ちるあの姿、と”蹲”の無欲な姿。
結局、当時頂いていた東宝からのお給料を一年分前借して私のそばにやってきたのです。
夢のようなある冬の出来事でした。
今朝、庭に咲く椿を活けてみました。
あれから、かれこれ半世紀がたちます。
旅は数珠球・・・小さな旅から大きな旅まで、私を豊かにしてくれます。