伊勢湾に浮かぶ答志島

近畿大学・総合社会学部の客員教授として講義を受け持って今年で3年目です。アッというまの3年。前半期、月2回の講義です。
その中でも楽しみの一つが、フィールドワーク。
勝手に私が『師・先生』と仰いでいる方が民俗学者の宮本常一です。名著「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読み、足元を見つめ直すきっかけを与えてくださいました。何より「現場」を大切になさった方です。旅程はほぼ16万キロ。地球を4周に及ぶといわれています。ときには辺境と呼ばれる土地で生きる古老を訪ね、その一生を語ってもらい、黙々と生きる多くの人々を記録にとどめました。私など足元にも及びませんが、宮本さんは、常に「主役になるな。主流になるな」という言葉でもって、自分を戒めておられたそうです。
学生達には「現場を見てほしい」・・・と常々思っています。
授業で「寝屋子制度」について学びました。

授業を終えて、近鉄で鳥羽に向かいます。佐田浜から市営定期船で30分ほどで伊勢湾に浮かぶ「答志島」に着きます。船上で「わ~あ、私この授業を受けていなかったら一生この島には来なかったかもしれません」という学生。
私が始めて島を訪ねたのが17年ほど前のこと。
この島には「寝屋子制度」が日本で唯一残っているところです。
「若者宿」とよばれ、少年期から青年期にかけて男子が一緒に寝泊りする集団。仲間を作り、頼んでどこかの家を宿にし、毎晩そこで寝泊りします。その若者達を預かり、宿を提供するのが、「寝屋親」です。血のつながりはありませんが、生涯、親子のような付き合いをします。

なぜ寝屋子制度はできたのでしょうか。
漁業は、板底一枚下は地獄と言われる危険な仕事。
いざ、という時に、理屈よりさきに身体が海に向かいます。

今回もお世話になったかつて漁師歴50年の山下正弥さんも、荒波の中で奥さんが海に落ち寝屋子に助けられたそうです。
「まあ~時代が変わったから多小の変化はありますが、今も島の精神的な居場所になっています」と話してくださいました。
民宿に泊まり、島の方々の優しいもてなしを受け、お話を聞き、島を散策し、たった2日間でしたが学生達は「何か」を感じとってくれたようです。
「無縁社会」が話題になる現代社会ですが、この島は違います。
答志の島に生まれ、育ち、寝屋親をし、海で生き抜いた正弥さんは言います。
「漁業が元気でなければ、この制度もなくなる・・・」と。
早朝ひとり港の周りを散策していると、かつては海に潜っていた海女のおばあちゃんが声をかけてくださいます。「おはよう」と。顔中のシワは人生の宝です。80代でも現役の海女さんがいらっしゃいます。路地を歩きながら、干した魚を見ながら、「幸せってこういうところにあるのだわ」と思いました。

埠頭の桟橋でいつまでも見送ってくださった正弥さん。
学生達にたくさんの宝をありがとう・・・と感謝いたしました。

旅は曼荼羅

朝、ベッドの上で目覚めると、一番先に思うのは、ここはどこ?
日本列島は仕事の旅。講演や取材で訪ねる先々で知り合った人々との交流は果てしなく続き、二度目三度目はプライベートな旅に変わっていきます。
旅は一期一会とよく言いますが、そういう思いを深く味わうためにはそれなりの旅の工夫がいると思います。地球上には無数の旅先があります。人より少し多くを旅している私ですが、訪ねたところはまだまだ少ないです。行ってみたいところにこと欠かないのですから、恐らくこれからも旅を続けることでしょう。
あちらにはいつもときめきがある。あちらに行って、こちらの私がみえてくる。旅先で現実をふりかえると、現実の問題もよりくっきりと整理されよくみえてくる。なんだ、そうだったのかと、自分の進む道がみえてくることもあります。迷い道があるから広場に出られて、まわり道をするから目的地が恋しくなるのです。
関西での仕事の帰り、京都へ寄り道をしてきました。
『法然院』は、京都東山の鹿ヶ谷にある浄土宗の山寺です。
銀閣寺から南禅寺や永観堂のある南方へ10分ほど歩いたところ。

山門までの石段を一歩一歩と進むと初夏の風が心地よく、青い樹木一色。
山門をくぐると、両側に白い盛砂があります。
水を表す砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているそうです。
白砂壇(びゃくさだん)
そう・・・、気持ちよい空気の流れです。
桜や紅葉の季節ではないので人もそれ程多くはありません。
ガイドブック片手の海外からの旅行客が数人。
境内には蔵、隅に古い石塔が佇んでいました。

今回も法然院 貫主・梶田真章住職の法話を聞かせていただくのが目的でした。昨年の3・11以降、心のざわつきが治まらず、おはなしを伺ったのが最初でした。
「私を存在させているのは私ではなく、周りとのご縁で生かされているのです。なるべく他の存在を生かすように、生きとし生けるものに慈しみと悲しみの心を向けなさいとお釈迦様は説きました。それが慈悲です・・・」と。そして、「あらゆる命とかかわりあう」こともお話しくださいました。
清々しい気持ちで法然院を後にし、夕暮れ人の少ない哲学の道を散歩して帰路につきました。そうそう・・・哲学の道には”おいしい”スポットがたくさん集まっています。私はまる豆かんを食べました。

夏椿に魅せられて

先日、岡山山陽新聞社主宰の「山陽レディース倶楽部文化講演会」に招かれ伺ってきました。
岡山シンフォニーホール、2000名の会場は女性たちで満席。
「農と食の文化を考える~心とからだを元気にしてくれる食」というテーマでお話をさせていただきました。
私はこの40年、全国にお邪魔しておりますが、その土地に伺う時その街の空気をすいたくてなるべく前日に入ります。
新幹線から岡山の駅に下り立ち、お椀をふせたような小さな山がぽこぽこと続いている風景を拝見するたびに、ああ帰ってきたとつぶやきたくなるような懐かしさを感じます。そしてまるく高く広がっている空を見ると、心がふわっとひろがっていくような開放感にいつも包まれます。
今回もそうでした。そして地元の新聞を読みます。
山陽新聞・朝刊、岡山市民版に「ナツツバキ涼しげ」・・・とカラー写真と記事が載っておりました。

北区一宮の徳寿寺の境内でナツツバキが開花。とあります。ナツツバキのことは知っておりましたが、梅雨時に咲く花で、なかなかタイミングがなく今まで見たことがありませんでした。
さっそく早朝、徳寿寺にまいりました。6時すぎでしょうか。お寺のおばあさまにご挨拶いたしましたら、裏庭にご案内してくださいました。真っ白な可憐な花がこの梅雨時に爽やかに朝日を浴び咲いておりました。
おばあさまが、「ご覧になって、花びらに紅をひいたように赤がありますでしょ」と教えてくださいました。
艶ぽい・・・。
ナツツバキはツバキ科の落葉高木。
朝に咲いて夕方には落下する一日花のため、平家物語で世の無常の象徴である「沙羅の花」とされた。と記事に載っていました。
足元には落下したナツツバキ。
また幸せな時間がもてました。
岡山でお食事をいただくと、その美味しさに驚かされます。何気ないメニューであっても。お野菜もお魚も卵もお肉も本当においしくて、関心してしまうのです。それも道理、岡山の販売農家数は、中国地方では一番多く、全国でも十六番目。およそ6万戸の農家がこの地で生産にがんばっていらっしゃる。
桃太郎伝説誕生の地にふさわしい、気品あふれる白さととろけるような味わいが特徴の岡山白桃。そして、エメラルドグリーンの房と豊かな芳香で「果物の女王」と呼ばれるマスカットの素晴らしい味わい。これらの果物は芸術品だとさえ思えます。
また、岡山県は全国に先駆けて、有機無農薬農業に取り組んだ県です。私たち、安全で安心なものを求める消費者にとっては、「おかやま有機無農薬農産物」はまさに信頼のブランド農産物です。私は、岡山にうかがうと、ヨーグルトを必ずと言っていいほど、いただきます。ジャージー牛の牛乳で作られていて、甘く、深いコクがあるのです。岡山はジャージー牛全国第1位の県であるからです。
さらに、ママカリ・牡蠣・タコ・鯛・アナゴ・シャコなど瀬戸内海の魚介類のおいしいこと。
海・山・川の自然に恵まれた岡山の豊かさを感じさせていただきました。
会場の女性たち、みなさん それらを生かし、親から子へ子から孫へとつないでいらっしゃる方々ばかり。
会場の皆さま!ありがとうございました。またお逢いしたいです。

女性たちが元気で美しい山間の町

岐阜県山県市の美山地域に残る伝統素材「桑の木豆」を、地域の味として伝えていこうと頑張っているの女性たちのいる「ふれあいバザール」をお訪ねしてきました。
バザールが発足して15年です。
美しい山の町という、まさにその名の通りの町です。
私を迎えてくださったのは、20年来の友人、元山県農業改良普及センターの山岡和江さん。美山の女性たちの頑張りは山岡さんの指導のお陰かも知れません。

山岡さんがまず連れていってくださったのが、「あじさいの山寺・三光寺」境内花園では、二百余品種・一万余株にも及ぶ「山アジサイ・額アジサイ」が花曼荼羅のように咲いていました。初めて見る「岩がらみ、そしてブルースカイ・紅花甘茶・白妙」など等あじさいを見ながら庭の木の下で、、ところてんを頂きながら至福のひとときでした。
ふれあいバザールの女性たちとは、私が「食や暮らしや環境」に興味のある女性たちとヨーロッパ研修にでかけて知り合い、その情熱・実行力・優しさに感動していらいのお付き合いです。
田園暮らしに関して、ヨーロッパのライフスタイルは日本に比べて、一日の長があります。農業が暮らしとあいまって、豊かな生活環境の創出に素晴らしい知恵が発揮されているのです。その環境作りを学ぼうと、英国・ドイツ・フランス・イタリアなどの田園の暮らしぶりや、さまざまな農業環境を視察し、あちらの女性たちとの交流の旅を20年近く、延べ200名くらいの女性たちの参加でした。
そんなご縁で、美山には以前にも伺っております。
みやま・・・古代から美濃森下紙が漉かれ、貴族や寺社に尊ばれたという町です。
美山は品と豊かさとセンスのある町です。
気持ちよく余所者を受けとめ、なごませてくださる。
「ふれあいバザール」がまさにそうした空間なのです。
周囲を山々に囲まれ、山百合が咲き温かな空気、人々の、えも言われぬ優しさ。そんな場所にあります。

建物に入ると左手側に地元でとれた新鮮な野菜や加工品などが並び右手側が食堂。この地域でしか栽培していない「桑の木豆」、国産そば粉の手打ちそば。これを目当てに大勢の人たちが訪れます。店舗前の駐車場は午前中から静岡名古屋など他県ナンバーの車でいっぱいです。奥の厨房ではすべて手作りでそばを打ち、山菜天ぷらを揚げ、てきぱきと働く姿の美しいこと。
1997年4月のオープン以来の黒字経営です。
生産者に85パーセントは支払い、その残りの15%で市から借りている建物の家賃やスタッフの人件費、などすべて賄われています。建物の改修や駐車場の整備など行政に頼らず自立しています。そんな経営を学びたいと、全国からの視察が相次ぎ、注目を集めています。リーダーの藤田好江さんとも長いお付き合いです。彼女はじめ、皆さんが兼業農家か趣味で農作物を栽培しています。
皆さんバザールで生き生き働いています。
皆さんの『とびきりの笑顔』が何よりのおもてなしです。
生産・加工・販売、そして食堂経営。
理想的なかたちです。
そばは毎朝、200名分を手打ちで作り、天ぷらは摘みたての桑の葉やミズキ、ダイコンの葉、水菜、どくだみの葉もすべてカラッと揚がっています。藤田さんはお客さんが「美味しい・美味しい」と言って食べてくれるだけで幸せです・・・と。
『食は命そのもの。農を考えることは、未来を考えること』だと私は思っています。
「ふれあいバザール」のみなさん!そしてサポーターの生産者や地元の方々、他県の人。皆さんありがとう!また伺いますね。
美山という町で私は、非常にバランスのとれた「人と産物と環境」を見せていただきました。東京から名古屋から岐阜へ。岐阜から入っていく夢回廊などと呼びたい、いわゆる観光地とは一味も二味も違う、暮らしの広がりと農村の未来がそこにひろがっているそんな旅をしてまいりました。

英国大使の御庭番

あと1ヶ月余りでロンドンオリンピック!楽しみですね。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
東京・千代田区にあるイギリス大使館で25年間、専属庭師として美しい庭作りに取り組んだ 濱野義弘さんをお客さまにお迎えいたしました。
1万坪のイギリス大使館の中で、およそ1000坪と最も大きい大使公邸の庭を一人で管理したのち、大使館全体の庭の責任者であるヘッドガーデナーとなり、去年の3月まで従事されていました。
濱野さんは1960年のお生まれ。東京・杉並区のご出身です。
私はイギリス大使館に入ったことはありませんが、千鳥が淵の周辺を、特に桜の季節の散策は素晴らしいです。イギリス大使館の広大な敷地をどんな風に管理され、どんな庭なのかしら・・・と、とても気になっていました。
この度「英国大使の御庭番: 傷ついた日本を桜で癒したい!」(光文社)を濱野さんは上梓されました。

そもそも、どんなきっかけで大使館の御庭番になれるのか?
新聞で見つけた”英国大使館専属庭師募集”の三行広告だったそうです。
当時、25歳の濱野さん。
「親方にも信頼をしてもらい、仕事も忙しく流れてくる仕事を、ただ”こなす”植木屋に慣れすぎてきたいたのかもしれません。このままじゃダメだな。もっと素敵な庭を作りたい」・・・と思われたそうです。
三行の広告が人生を大きく変えました。
「これっきゃないでしょ!」と未知の世界へと飛び込みます、住み込みで。独学で生み出したバラやランの管理、大使夫人は難題を時には持ちかけます。でも、それはそれは美しい大使館の庭を25年かけて作り上げたそうです。
「多くの客人が大使公邸へと向かう途中を、桜を愛でてもらいましょう」・・・と大使。大使館の四季は美しすぎるほどです。特に桜の季節は・・・と濱野さん。
濱野さんが大使館に入った翌年1986年5月8日、大使館に新婚のチャールズ皇太子とプリンセス・ダイアナ妃がやってきました。
日本庭園の飛び石も丁寧に洗ってお迎えの準備。
バラの美しい季節「ダイアナ プリンセス・オブ・ウエールズ」というクリーム色とピンクの覆輪が鮮やかなバラがあるそうですが、間近で見るダイアナ妃は華のあるとてもチャーミングな方だったそうです。
そして、25年の勤務を終えようとした、2011年3月9日。
退職記念に桜の木を植樹しましょう・・・と公使の申し出に感激し土入れを行ったそうです。
翌々日、3月11日 あの大震災が起こります。
濱野さんは現在、福島県南相馬市の私立幼稚園や他の幼稚園に桜を植樹し
これからも傷ついた日本を桜で癒したい・・・と活動をなさっておられます。
子供たちから「さくらをうえてくれてありがとう!」と手渡された写真付きの手紙に「ありがとう。これからも頑張って植えるからね」
そう伝えるのが精一杯でした。と語ってくださいました。
スタジオでの濱野さんの笑顔がとても美しく輝いていました。
放送は6月17日です。
ぜひお聴きください。

日本の戦前のジャズの世界を聴こう

先日、箱根やまぼうしで「戦前・戦中のジャズ研究家の毛利眞人さん」をゲストにお迎えして蓄音機で戦前のジャズを聴く会を開催いたしました。
初めて聴く蓄音機でのジャズ・・・音色は想像したよりもボリュームもあり澄んだ音でした。我が家の100年は越える木々も気持ち良さそうにスイングしています。

幕開けは大正時代とのこと。
日本のジャズの歴史は、なんと軍楽隊から始まったそうです。
ダンス音楽としてジャズが日本に流入し、その「新しい音楽」を演奏できる楽団は軍楽隊・・・というわけです。
毛利さんは1972年のお生まれ。
中学生のころからレコードのコレクションを始められ、現在は音楽に関する執筆をはじめ、とくに戦前のジャズ・ポップスに関して詳しい研究・執筆をされています。また1万枚のSPレコードを蒐集されています。
第二次世界大戦が終わったあと(昭和20年)、町にジャズがあふれた・・・ということは知っていましたが、大正時代、昭和の初期から戦争まで、いえ戦争中も、日本ではジャズはよく聴かれていたそうです。ジャズの香りがする音楽が映画館で演奏されていた・・・民衆の思いはたとえ戦時中でもかわらなかったのですね。
当時マニラは東洋のアメリカと呼ばれるほど洗練された街、日本人にジャズを親しく教えたのはフィリピンから来日していたジャズメンたち。
やがて日本でもジャズ・コンサートを開くジャズバンドも現れ、ラジオからも最先端の音色が流れます。特に唄入りのジャズを日本語に訳詞した「ジャズソング」が爆発的に流行したそうです。
「アラビアの唄」を蓄音機を通して聴きました。(昭和3年9月13日録音)
二村定一・日本ビクター・ジャパン。
このレコードから日本のジャズソングがはじまります。
毛利さんが時々クランク(ハンドル)をまわします。
リズムを取りながら・・・。
“ジャズってこういうものなのだ!懐かしい!”と思わず身を乗り出してしまいます。お客さまの年齢もさまざま。皆さんからだで、足でリズムをとっています。窓からは深い新緑が風になびき心地よいこと。
初期のジャズソングは浅草オペラの流れを引き継いだ声楽的な歌い方でしたが、昭和7年にサンフランシスコ生まれの日系二世歌手・山畑文子が来日したのをきっかけに、本場アメリカの雰囲気を漂わせた日系シンガーが続々と日本で活動し始めます。
チャップリンのモダンタイムの中から、「川畑文子のティティナ」
ベティー稲田の「懐かしのホノルル」
森山久の「南米の伊達男」
昭和10年代は戦前のジャズ黄金時代。
服部良一や仁木他喜雄といったすぐれたジャズ・アレンジャーが育ち、日本人のジャズ・フィーリングも飛躍的に進歩した・・・と毛利さんはおっしゃいます。そして戦時中はアメリカ映画は禁止されますが、ジャズの人気は盛り上がり、なんと・・・「日の丸数え歌」として戦争をジャズに!には驚きです。
笠置シズコさんの「ペニイ・セレナーデ」(昭和15年3月19日録音)
民謡にみせかけて実はジャズの 「草津節」
このころは役人とジャズマンたちが「知恵比べ」をしていたのでしょうか?
おおっぴらには演奏することは禁止されていたのですから。
毛利さんは当時の資料が少ないため古本屋や当時の新聞を調べたり・・・と大変だったようです。私は普段はCDでジャズを聴きますが、蓄音機から流れてくるレコードの演奏に何だかとても幸せなときを過ごせました。
ぜひ、次回は戦後のジャズも”蓄音機”で聴きたいです。

六月の杜・明治神宮御苑

東京での仕事の合間、東京の森を散策してきました。
私はこの森が大好き。ニューヨークのセントラルパークやパリのブローニュに負けない、いや勝っているかもしれない美しい森です。

原宿駅に降り立ち、神宮橋を渡り、右手奥に第一鳥居が見えてきます。この鳥居をくぐると、もう一瞬のうちに森に抱かれる感じがして、心がゆったりとしてきます。昼下がりのひととき・・・初夏の風が心地よく、椎の木、樫の木、楠などが、豊かな葉をしげらせて私を迎えてくれます。外国の方々も多く、明治神宮までの参道を樹木を見ながら歩いています。
明治神宮は、大正九年(1920年)、なんと今からおよそ100年前に明治天皇と昭憲皇太后を祀るために造られた神宮です。面積は約七十ヘクタール。当時、この辺りは代々木御料池のあった所で、武蔵野の一部だったそうです。おしゃれの町、原宿も原宿村だったんですね。この辺一帯は、農地や草地で林は少ししかなく、荘厳な神社を造るためには、林の造成が必要だったんですね。

樹木の多くは全国の篤志家の献木だったそうです。
荘厳な森林というのは、すぐできるわけではありません。
神宮造営のために、当時の最先端の林学・農学・植物学者から造園家まで、多くの人々が森造りに参加したのですね。
ここに、人の手によって神宮の森の造成が始まり、庭園とゆうよりもっと昔の森林の状態を再現しました。当時の資料によると、東京市の小学生児童の献木は五千件以上あったそうです。それらの樹木が、今の神宮の南北両参道に植えられたそうです。参道を歩くとき、小さな手で造成現場に献木を持って行った小学生の姿が目に浮かびました。
昔、昔のみなさん、有難う。
豊かな樹木を見ると、思わず大正時代の多くの先達に感謝したくなります。
六月はなんといっても菖蒲です。
見ごろは中旬ころ。
私は何度も通いました。現在は百五十種にも増え、あまりの美しさに息を飲む、そんな感動が体験できます。
鬱蒼と繁る樹木の一本一本に、”ありがとう”と声をかけ、気持ちがスーッとしました。
たくさんの酸素が神宮全体をキレイにしているように感じました。
たった2時間の小さな旅でした。

『山本出さんとの出逢い』

箱根やまぼうしで、備前 「山本出・周作・領作 父子展」が27日(日)まで開催されています。

千年もの伝統を受け継いでいる備前焼。
「絵付けをしない」、「釉薬を使わない」、その窯の炎の中から生まれた備前焼はまるで魔法にかかったように神秘的です。
今回は父子展。若いお二人も真摯に備前焼と向き合い、今の生活にあった作品を生み出し、新たな息吹を吹き込んでくださいます。

今回の展覧会は、私自身深い感慨に浸ります。
出さんに出会ったのは、もうかれこれ40年にはなるでしょうか。
お互い年を重ね、子供たちが成長し今回のような展覧会ができるなんて当時は想像もできませんでした。窯だしの日に真っ先に駆けつけ、ワインで乾杯をし、作品を前に至福の時を迎えたことがまるで昨日のことのようです。
でも・・・
何よりもの思い出は、「アフリカの夜明け」と名づけた一本のトックリ。
あれは36年前のこと、もう寒くなってきた秋の終わり。
いま思えばなにか不幸なことが起きてもおかしくないような、重い雲がたれこめる日のこと。妊娠6ヶ月の私はある方の個展を見にでかけました。秋の陽射しがコスモスの一本一本に頼りなげに照射し、咲き乱れるコスモスは儚げにみえて、けっこうしたたかな茎を持ち、風にそよがれている・・・そんな風情に心ひかれてその一枚の絵を買ったのです。
その帰り道、彼は死んで生まれました。
六ヶ月の生命は、人間としてこの世に存在することを許されませんでした。
悲しみの底に落ち込んでしまった私は、どんな慰めの言葉も虚ろにひびくばかり。
偶然、アフリカの取材の仕事が入りました。
三人の子どもたちの、それぞれへの配慮、留守中のこまごましたことを含めて主婦がいなくなると家中のリズムが乱れることは必致。
でも・・・
「結局ひとりで立ち直るしかない」・・・そんな思いでアフリカに向かいました。
ヨハネスブルグの取材は、相当ハードなものでした。
泊まったホテルは鉱山の町。
窓の外には鉱山に向かう蒸気機関車が走っていました。
早朝ボタ山にオレンジ色の朝日が射し、私はこの色に魅せられてベッドを飛び出し、いま燃え始めんとするボタ山に向かって走り始めました。
朝一番の蒸気機関車も山に向かいます。
シュッシュッと白い蒸気をはきながら、走る私と肩を並べる黒い固まり。
やがて蒸気機関車は私を追い抜き、ボタ山は高く昇り始めた太陽にいよいよ赤く輝き、あらゆる力をこめて走り続けました。
あのとき、私をつき動かした力は何だったのか。
太陽だったのか、山だったのか、機関車だったのか、広大な南アフリカの大地だったのか・・・人よりはるかに大きな無限の包容力に、私は全身でぶつかっていたのです。
帰国した私を待っていたように、山本出さんから一本のトックリが届けられました。トックリの口の部分から下にかけてなんとあの夜明けのような赤があるのです。土と炎で作ったひとつの器に閉じ込められた赤がアフリカの夜明けと同じ色とは・・・。人生の不思議なめぐり合わせを感じました。

あれから36年が経ち、出さんは数々の賞を受賞され、伝統をふまえながらも、たえず新たな作品へと挑戦を続けています。(3月には岡山県重要無形文化財の認定を受けられました)
そして、息子さんたちにその心と技はしっかりと受け継がれています。
今回は周作さんの「ヒダスキのビールカップ」と領作さんの「小鉢」をもとめました。備前焼のグラスで飲むビールはきめ細やかな泡で、なんとも美味しいのです。小鉢は料理でももちろんいいのですが・・・私は最初は焼酎のロックを。
備前焼は使えば使うほど落ちついた味わいを楽しめます。
備前焼にカジュアルフレンチ・・・も素敵でした。

そして会期中、お互い年を重ねる幸せをかみしめました。
『出逢いって素敵』です。

石川梵写真展 「人の惑星」

素晴らしい写真展に行ってまいりました。
石川梵写真展「人の惑星(ほし)」です。


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石川さんには以前に文化放送「浜美枝のいつかあなたと」にもご出演いただき素晴らしいお話をうかがいました。
石川さんは1960年のお生まれ。
AFP通信社、東京支局のカメラマンを経た後、フリーランスになります。辺境の民と、その祈りの世界をライフワークにこれまで撮影してきた国々は60ヶ国以上。「ライフ」や「パリマッチ」をはじめ、国内外の主要誌で作品を発表しています。
1997年に発表した写真集「海人(あま)ザ・ラストホエール・ハンターズ」では、日本写真協会新人賞。2012年度日本写真協会賞作家賞を受賞なさいました。
また、インドネシア・レバンタ島の村人が銛(もり)一本で鯨を仕留める姿を綴った「鯨人」を去年出版され、読者を(私も)興奮の世界にいざなうと評判を呼びました。石川さんが19年もかけて取材した、インドネシアの東にあるレバンタ島は、日本から5000キロも離れていて、到着するのに最短でも3日かかるとか。島の大きさは沖縄本島くらいだそうです。そこのラマレラ村で暮らす人々が、銛一本で鯨を仕留め古くからの生活を守っています。そしてクジラ漁の撮影に成功してから「クジラの心」を撮りわすれていたことに気付き、また村へと出かけます。命がけの取材だったそうです。
そして、石川さんは、去年の東日本大震災で、震災の翌日から現地に入り2ヶ月間取材を行いました。
「THE DAYS AFTER」では、「いったい何でこんなことになったのか。神の怒りか、自然のきまぐれか、地球の怖さをだれよりも知っている自分が、目の前で繰り広げられた光景を受け止めることができなかった。」と語っております。
ニュースカメラマンではなく、ジャーナリストとして「静かに永く、この出来事を後世に伝えたい」と今でも現場に通っています。
今回の展覧会は「人の惑星(ほし)」です。
魂が揺さぶられるような、心をわしずかみにされるような・・・しかし心が温かくなるような写真展です。石川さんはおっしゃいます。
「荒ぶる地球と、それに対峙し、生きてきた人間。実はそれは、今回の震災にも通じるものです。地球とはどんなに恐ろしく、優しく、人間は自然に翻弄されつつも、こんなに強い生き物か、その先にある祈りの心まで一緒に見つめてほしい。そんな願いを込めた今回の写真展です」と。
『石川梵写真展「人の惑星(ほし)』
2012年5月8日(火)~6月13日(水)
キャノンギャラリーS
開館10時~17時30分
休館・日曜・祝日
入場無料
品川駅から港南口に出て右手に真っ直ぐ進み徒歩
約8分ほど、右手のキャノンビルの1Fです。

小商いのすすめ

「日本よ、今年こそ大人になろう」と提案している平川克美さんを文化放送・「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)にお招きしお話を伺いました。
小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ」(ミシマ社)を上梓。
実業家、文筆家の平川克美さんは1950年、東京のお生まれ。
早稲田大学理工学部を卒業後、翻訳を主とするアーバン・トランスレーションを友人らと共同で設立。
現在は、ベンチャー企業を支援する会社の代表取締役の他、立教大学MBA特任教授や文筆業でも活躍され、「株式会社という病」、「経済成長という病」などの著書では、右肩上がりの経済成長の信奉者に警鐘を鳴らしています。
私は「小商いのすすめ」を読ませて頂き、タイトルだけみると「ビジネス書かな」と思ったのですが、まったく違い「これからの日本、そして日本人の生き方のヒント」が詰まった一冊で、分かりやすい哲学書のような感じをうけました。
平川さんの生まれ育った町は、町工場の並ぶ京浜工業地帯の小さな街・大田区。みんなが貧しかった昭和30年代の日本の風景。「貧しかったがゆえの豊かさ」を感じられる時代。
まさに私の川崎の長屋での暮らしはそんな豊かさを感じられる子供時代でした。多摩川で水泳を教えてもらったり・・・は平川さんと同じです。
「昭和39年を境に日本の光景ががらりと変化しました。東京オリンピックです。オリンピック以降の高度経済成長の時代に、町の規模、匂い、暮らす人びとの繋がり方、雰囲気・・・以前と以後では、人間と自然との関係が180度転換したということかもしれません」・・・と。
そうです・・・三十年代の町の風景は、「商店街のある暮らし」でした。
私は、小学生になる前からカマドの番を託され買い物かごをさげて近所の商店街にお買い物。魚屋さんでイワシを買い、八百屋さんでキャベツの外側をタダで頂きそこには人々の温もりや匂いがあり、まさに「小商い」の街でした。
平川さんはおっしゃいます。
「ここらで、いったん立ち止まって、自分たちが求めてきたものが何であったのかを考えてみてもいいのではないか、と思っているのです。”立ち止るのには勇気が必要です”」
「拡大均衡の時代は終焉を迎えました、日本人が採用すべき生き方の基本は、縮小しながらバランスする生き方以外にありません。だから「小商い」なのです。」・・・と。
『震災と原発事故』は私たちの暮らしを見直す大きなきっかけになりました。
「小商い」という言葉は、「ヒューマン・スケール」という言葉の日本語訳です。
とおっしゃいます。
スタジオで平川さんのお話を伺っていると、何だか元気がわき、”大人になろう”と心から思えてきました。
たくさん・たくさん素敵なお話を伺いました。
是非ラジオでお聴きください。

放送は5月20日 日曜10時半~11時です。

http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=bloghamamiejp-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4903908321&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr