秋の京都

この季節は「秋思・しゅうし」とよぶとか。
実りの秋、収穫の秋。花は実となり枯れ葉となりどこか寂しい思いがいたしますが、心が幸せで満たされるような展覧会に行ってまいりました。
『石井麻子のニットアート展』です。


石井麻子さんには過去に何度か我が家の箱根やまぼうしで、展覧会をしていただき、そのたびに心惹かれる天使たちが舞い降りてきます。着るとラブリーな気持ちにさせてくださるセーターやベスト。私のクローゼットでは石井さんの天使たちが仲良く一年中微笑んでくれています。
今回の京都文化博物館でのニットアート展では2003年から製作をはじめたニットタペストリー27枚が展示されました。パリからスタートし「京都姉妹都市シリーズ」は9都市。春夏秋冬プラハ、グアダラハラ、韓国、キエフ、フィレンツエ、西安、ボストン、ケルン、京都など。
そして我が家のやまぼうしのために製作してくださった「箱根・HAKONE」。深い青の色が湖や空、そして寄木細工の文様。素敵です。宇(そら)で遊ぶ天使たち、天使の森深く迷いこんだような感覚にとらわれる素晴らしい手仕事。心がほっとして思わず微笑んでいる私。
世界の平和を祈り、そして古都の、歴史、文化、自然に学びながら、「畏敬の念」を持って製作に立ち向かうことは至福という言葉以外ありません。とおっしゃる石井さん。行く秋を足の赴くままに旅をさせていただきました。


そして、翌日は早朝京都御苑の周りを散策し、向かった先は今回の旅の楽しみのひとつであった千年の都に伝わる秘法を紹介する、秋の「京都非公開文化特別公開」のひとつ、来年生誕300年を迎える江戸中期の絵師、伊藤若冲(じゃくちゅう・1716~1800)の天井画が初公開されているのです。
10月30日~11月8日
江戸中期の奇才と呼ばれた若冲。謎の絵師です。
今回初公開された、浄土宗信行寺の天井絵「花卉図」。本堂の一画に、格子状に区切った167面は一枚が38㌢の角の板で、中央を円形の画面として植物が描かれています。
朝一番で行ったのですが、すでに1時間待ちの行列。頭上に花々が降り注ぐように描かれています。アヤメ、ボタン、ユリ、シュウカイドウ、ヒマワリ、キク、ナンテン・・・若冲らしいこだわりもうかがえます。ボタンは正面から描かず、後ろ姿。アヤメは茎をくるりと丸めて下をむいているのです。本堂で檀家のひとたちが祈る場所にはそのような構図がふさわしいのでしょうね。
それにしても・・・あの「若冲」の本来の作品とはかなり違います。最晩年のこの作品がもしかしたら、もっとも「若冲」の本質的な絵なのかもしれません。信行寺はこれまで、劣化を防ぐために公開せずにきたそうです。美術を学ぶ人たちから『拝観のチャンスを』との願いを受け一度だけの公開となりました。
本堂の一画にすべて異なる植物を外国人も京都の人も、私のような観光客も、若冲のその晩年の絵に魅せられました。


その足で錦小路の市場へと向かいました。
若冲は高倉錦小路の青物問屋の長男に生まれますが、15歳ごろから絵を学び弟に家業は任せ、絵に専念し動植物を描き続け、その手法はだれも真似のできない様々なアイデアで描いていきます。
私は今回の天井画を観て初めて「若冲の心」の入り口にたてたような気がしました。
謎の人物でもなく、奇抜でもなく「人間若冲」をかいま見ることができました。
紅葉にはもう少し・・・冬が間近まできている気配はありますが、心はぽかぽか・・・丹波の栗きんとんとお抹茶をいただき京都を後にしました。

落葉美術館

長野から、しなの鉄道に乗り、りんごの実る木々の合間をぬってワンマンカーはひたすら黒姫に向けて走ります。


何度も何度も通った道。
このたび黒姫に住む友人ご夫妻から10年間閉館していた「落葉美術館」が今回を最後に1年に1日だけではなく、1週間開館するので「見にいらっしゃらない?」とお誘いを受け黒姫に行ってまいりました。毎秋、11月3日に一日だけのオープン。なかなかタイミングがなく今まで残念な思いをしてきました。今回は10日28日(水)~11月3日(火)・午前10時30分から午後4時まで。(入場無料)
私は初日の28日に行ってきました。
黒姫駅には友人が出迎えてくださり車で7、8分の「落葉美術館」へと。


紅葉は見事で山の上から裾野に降りてきています。雑木林の入り口から平山英三・平山和子ご夫妻のアトリエへと向かいます。サクサクサク・・・と落ち葉を踏みしめ歩きます。手入れのゆきとどいた庭と建物。入り口を入り磨かれたガラス窓の向こうには紅葉した樹々。土間と画室が展示室になっています。水彩絵の具を使って原寸で描かれている落ち葉の絵。落ち葉の表情は繊細で、その姿が忠実に描かれています。
友人ご夫妻は車を運転し、よく平山ご夫妻と落ち葉拾いをなさったそうです。ご自宅に帰られて色の変わらないうちに奥さまが克明に落ち葉のすがたを忠実に描きしるす・・・。葉の大きさによって描ききれない時は、きれいに包んで冷蔵庫で採ったときの印象を保存されるそうです。
美しい落ち葉に出逢った喜びが絵から伝わってきます。やまぶどう、こぶし、いたやかえで、くり、メイプル、おおばやなぎ、いたやかえで、はりぎり、ほおのき、やまぼうし、はうちはかえで、もみじ、さわぐるみ、おおばかめのき・・・など等。落ち葉の表情が繊細で、こんなに豊かな表情をしているとは驚きです。色が鮮やかさを保つために画室はなるべく暖房をしないようにするとか。落ち葉の季節は零下の日もありストーブはかかせません。落ち葉のしめりけにも気をくばられるのでしょうね。
東京から移り住んで30年あまり。お目にかかったことはありませんが、黒姫の落ち葉に魅せられて描き続けていらっしゃる和子さんのお姿を想像いたします。
敷地の雑木林には沢が流れています。黒姫の雪解け水なのでしょうか。
私も落ち葉のシャワーを浴びながら、こんなに美しい落ち葉があることに感動いたしました。落ち葉は秋だけではなく冬や春、夏の林にも出逢えるそうですね。
箱根の紅葉も美しいのですが、黒姫の雑木林は、また趣があります。
まもなく黒姫も雪におおわれます。
展示室の壁にこんな言葉が書かれていました。
 自然がつくりだした一枚一枚の落ち葉の意匠は美しく不思議で
 林のなかは、つきることのない美術館です。
 私どもは黒姫で出会った美しい落葉のすがたを描きしるして、
 住まいの一隅に落葉美術館としてまとめております。
 小さな美術館ではございますが、林のなかの、ほんとうの落葉の
 美術館の分館のひとつともなればと思っております。
                          平山英三
                          平山和子
やがて消えていく落ち葉に、70代になり自然への敬慕がつのります。
そして長野から途中下車し、上田の玉村豊男、抄恵子さんご夫妻の「ヴィラデスト・ガーデンファーム」にお邪魔して秋の花が美しく咲くお庭を散策し、コーヒーをいただき、晩秋の山の風が心地よい夕暮れ帰路につきました。


80代になられた平山ご夫妻。
もう、落ち葉の絵を観ることはできませんが、どうぞお元気でこれからも黒姫の落ち葉を描きつづけてください。そして、生きていることの幸せを与えてくださったことに深く感謝申し上げます。

輝く農山漁村の女性たち

輝く農山漁村の女性たち
~こだわりの地域特産品はこうして生まれる~
というテーマで、山口県からお招きを頂きうかがってまいりました。
第1部は”農の風景~輝く農山漁村女性たちへのエール~”と題して私がお話をさせていただきました。
第2部は現場で活躍している女性たちとのトークセッション”こだわりの地域特産品はこうして生まれる!” こんなお話を私はさせていただき、また活躍している地元のジャム屋さんをご紹介させていただきました。


山口県は、豊かな自然環境に恵まれ様々な地域資源が溢れています。ある意味恵まれすぎているかもしれません。山の幸、海の幸、温暖な自然環境。暮らしの中で培った知恵や技、そして地域資源を活かした特産品づくりを進めています。
私はこれまで40年近く農村漁村にお邪魔し女性たちと語りあってきました。歩いていると、農業の半分は女性が支えているのに、「自分の銀行口座」もなく、家族に遠慮して暮らしている・・・と思えることもありました。”もっと光をあててほしい!”と「食アメニティー」を立ち上げ、国にも協力していただき、農山漁村の伝統食など「食」によって経済的自立をはかろうとする女性たちを応援してまいりました。
確かに日本の農業・漁業は高齢化、担い手不足という側面もあります。TPPでの合意で、はたして日本の環境に即した生産ができるのか、安い生産物が輸入されて、確かに消費者としては嬉しいのですが、「食料」は工業品ではありません。海外からの輸入がストップした場合、担い手はすぐにはできません。広大な敷地を持つアメリカやオーストラリアとは違います。そして、世界中たとえばフランスもイタリアも「農業国」です。大型化してできる限界も日本の場合いはあります。何よりも、この美しい日本の景観は何で生まれているのでしょうか。外国からの観光客は何に魅力を感じて旅をしてくれるのでしょうか。そんなことを思いながらの40年でした。
『これからは、生産だけで食べていけない時代がくる!』と思い農村女性たちとヨーロッパへ”グリーンツーリズム”の勉強に13年通い学んできました。いまではあたり前のような「農家民泊・農家レストラン」。そこに女性の活躍の場があります。
女性たちには底力があります。「命を育む」という意味がよくわかります。今回のテーマである「六次産業化」は生産、加工、販売すべて完結いたします。地域に根ざしたやり方で、勢いを失いつつある・・・と言われた時代から、新たな「農業のあり方」を考えはじめ行動に起こしています。
食を取り巻く状況は確実に変化しています。ファーマーズマーケットでの食堂経営など、六次産業化は日本全国で大きなうねりになってきました。大量に生産し、市場に流す、一過性のイベントに頼るのではなく、新たなムーブメントが生まれてきました。
地域の食材を生かした加工品や料理を生み出すことで、地域内に人と人のつながりが生まれ雇用や起業を促進するレストランやカフェが生まれます。そこに都会の人が訪れ、生産者と消費者をつなぐ・・・そのような役割に「女性の活躍」が大きいのです。


ご紹介した地元、山口県周防大島のジャム屋さんです。
この周防大島は民俗学者、宮本常一のふるさと。私も何度か資料館にはお邪魔しております。
最初にこのジャム屋さんを知ったのは、地元の方からではなく東京でした。「知っている?山口の島で作っているジャム、フレッシュですご~く美味しいのよ」という話でした。私は毎朝、ヨーグルトにジャムは欠かせません。気になってある時訪ねました。
正直言ってジャムは日本全国のどの農村でもよく作られています。果実を栽培する地域では、誰もが真っ先に思いつくのがジャムです。イチゴの産地、りんごの産地、桃、梨、ぶどう・・・果実の産地に行けば必ずジャムを作っています。
「周防大島のジャム」はどこが違い、都会の人も興味をおぼえるのか。
松嶋匡史さんと奥さんの智明さん。ご主人は京都出身の元サラリーマン。奥さんの故郷での開業は新鮮な果物が入手しやすいということで始めたそうです。新婚旅行でパリに行き、たまたまジャム専門店に入ったとき、作り方、売り方が違っていたそうです。
高齢化率日本一の島に現れたジャム屋さん。ここまでくるのは大変なご苦労があったと拝察いたします。ジャムの主原料は、島特産のミカンを中心に契約農家から買い入れること。契約農家は52軒にのぼり、かつては加工用ミカンでは1キロ、10円ほどしかならなかったのが、ジャムづくりに適した果実を栽培してもらい、キロ100円で買いとるとのこと。お店で試食もできます。パンにつけて食べる焼きジャム。季節の新鮮なジャム。年間120種類。生産量は10万個。店頭で半分売り、ネット販売が2割、卸やパン店への販売が3割。広島のパン屋さんとのコラボ。パテシエの雇用。
「こだわったジャムにはブランド価値がある。お客さんもこだわりのもの作りに価値を感じて買ってくださる」とおっしゃいます。均一化され、どこにでもある物ではなく「つくり手も買い手も喜ぶ」大切なことだと思います。
トークセッションでは、それぞれのゲストの方の事例発表を伺い、地域に根ざしたすばらしい活動をなさっておられました。それを地域の豊かさにどう繋げていくのか・・・大変興味があります。
六次産業化については国が支援し、各自治体で積極的に推進されています。現実的にはまだまだです。販売先の開拓、メニュー開発など六次産業化には問題が山積しています。やはり「無理のない等身大」のところから進み、ひたむきに、愛情をもって、そして消費者のニーズをしっかりリサーチする経営努力も大切でしょう。
ご一緒した方々は何よりも、ご自分の暮らす故郷を愛しておられます。
山口にはまだまだ眠っている宝が山のようにあると感じました。
『輝く農山漁村の女性たち』に参加させていただき、会場の皆さまとご一緒に日本の未来・山口の未来について考えました。次回伺うときには「新たな宝」を教えてくださいね。
皆さま、貴重なときをありがとうございました。

片岡鶴太郎 四季彩花

片岡鶴太郎さんの展覧会がパナソニックの空間演出ソリューション特別展が汐留ミュージアムで開催されています。
先日拝見しに行ってまいりました。
画業20周年を迎えられた鶴太郎さんは、絵画だけではなく陶器、ガラス器、染色・・・とそれぞれの分野で制作を続けておられます。今回の展覧会は、美しい日本の四季への思いが込められた作品の数々。そして、今回は初めての試み、最先端のテクノロジーによって4Kを含む各種映像・照明、その空間演出は今までの個展とは異なり、新たな世界が広がる素晴らしい展覧会でした。
鶴太郎さんは高校卒業後、片岡鶴八に弟子入り。3年後、東宝名人会、浅草演芸場に出演し。その後、バラエティー番組を足掛かりに大衆の人気者になり、現在は幅広いキャラクターを演じられ役者としても活躍中です。
あれは、7年前のことでした。我が家で対談をさせて頂いたのが始めての出会いでした。なぜか、とても気になる存在でした。展覧会で作品を拝見して、「どういう心の移り変わりがあったのかしら・どのようにしてこの世界にお入りになったのかしら」など等。
『40歳で始めて絵を発表したものですから、40歳というのは、僕にとって人生の区切りであり、新たな始まりでした。恵まれた芸能生活もある時、40歳の手前で、同時に全部無くなり、引き潮の中でポツンと取り残されたような、何ともいえない、無常観がたまらなく悲しかった。これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きていったらいいのか・・・人生の中にポツンと置かれた孤独感と焦り、そんな時2月の寒い朝、ロケで家を出る時に、何か視線を感じ振り返ると、お隣の庭に朱赤の椿が咲いていたのです。”花という命”と始めて語り合えた・・・「この花を描ける人になりたい」そう思ったのがきっかけです』と。
不思議なご縁を感じました。
私も40歳の時に演じるという女優業を卒業いたしました。
そして、人生のギアーテェンジをいたしました。17歳で始めて出会った古信楽”蹲”には寒椿を生けます。
鶴太郎さんと偶然新幹線の中でお会いし、おしゃべりをしていたら共通の画家が好きで、思わず私は鶴太郎さんに「我が家のスペースで展覧会をしてください。生活空間の中で鶴太郎さんの絵を拝見したいのです」と、申し上げておりました。描く絵は野に咲く花であったり、野菜や魚、そこには私は専門的なことは分かりませんが、細密画ではなく、深いところを見ていながら、どこかで思い切って省く・・・そこに見る側を優しさで包み込むようなそんな絵。
それから我が家”やまぼうし”の空間で5回の展覧会をさせていただきました。
2015年3月、書の芥川賞といわれる「第10回手島右卿賞」を受賞されました。
絵画だけではなく書も魅力的な展覧会です。
人は人生の中で何度か壁に阻まれます。
その時に救われるのが芸術なのではないでしょうか。
今回の展覧会はそんな優しさに満ちた会場でした。
2015年9月17日~10月18日(日)まで。
パナソニック汐留ミュージアムにて開催中。
☆新橋駅から歩いて5~6分です。
http://panasonic.co.jp/es/museum/shikisaika/

「青春18きっぷ・ポスター紀行」  飛騨路への旅

待っていた一冊の本がやっと届きました。
JR「青春18きっぷ」ポスター紀行(講談社)
25年分のポスターが一挙に掲載!されているのです。
皆さんは旅をなさる時、もちろん新幹線や飛行機が多いでしょうね。
私も使いますが、時間が許せば普通列車でのんびり旅がいいですね。
とくに無人駅のようなローカル線に乗り、お互い旅人同士、目があい挨拶を交わす・・・列車がホームに入り、その列車もどこか遠くから旅してきたようなそんな感じ。駅や渡り廊下に貼ってあるポスターに旅情をかきたてられてずい分旅をしてきました。
青春18きっぷ
本を眺めていたら、高山本線も出てきました。


「そうだ、飛騨に行こう!」と思い立ち2泊3日で行ってまいりました。
小田原から名古屋までは新幹線で。そして高山本線で高山まで。沿線の景色をぼ~と眺めながら。7割は外国の方には驚きました。奥飛騨から乗鞍のほうまで足をのばすのでしょうか。


「円空さん」に逢いたくて、高山の街のはずれ車で20分ほどの千光寺に向かいます。旅先には宝ものがあります。その宝物に逢いに行く旅もあると思います。飛騨路の旅の宝物は円空さん。飛騨びとの心に住む円空仏は、まさに木から生まれた仏さま。人々はエンクさんエンクさんといって親しんでいます。
円空さんは1632年、岐阜の羽島の生まれといいます。少年期は大飢饉のさなかであったり、美濃の洪水にみまわれて母を亡くしたりで大変不幸でした。幼くして寺に奉公を余儀なくされたのもそんな事情が重なったのでしょう。その寺を後に出奔するのですが、恋愛がからんでいたという説もあります。そのあたりが青年円空の人間くさい一面を想像させえて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
生涯12万体の仏像を全国で彫ったといわれています。辺境の地、離れ島、山間僻地・・・人々の貧困、病苦を救おうと一心に彫りつづけました。想像を絶する旅を続けて、村を訪ね、人と出逢い、交流の中で仏の教えを説いたのでしょう。素朴な仏像はおもちゃとして用いられたかもしれません。
千光寺の宝物殿には円空が立木に梯子をかけてそのままオノをふるって造仏したとされる「立木仁王像」。そして、私の大好きな「おびんずるさん」無病息災を願う千光寺のなで仏。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。そうなのですね・・・旅の先には宝ものがあります。ここ千光寺の円空さんに会う他に、こちらの住職さんも会いたい人なのです。端正なお顔立ちと良い声の持ち主で、大下住職は12歳のときにこの寺に入られ修行をつんでこられた方。
以前伺ったことがあります。
『人は一生のうち三度ほど生命の無常を感じます。私は12歳のときに死について考えました。つまり生について考えるということです。それが仏門に入ったきっかけです。寺から中学に通い、やがて高野山へ修業にでました。』
今回もお話を伺うだけで何だかとても心が落ち着きました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”と心の中でつぶやき千光寺を後にしました。
そして、旅の空の下には友がいます。私を待っていてくれる人が・・・。
秋の陽射しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれます。


私には心の故郷と呼べる土地がいくつかありますが、この飛騨古川の街に引き寄せられるように、何十回とこの街を訪れ、今ではこの町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染みわたります。
地方創生・・・という言葉さえない時代に若者たちとの町づくりに夢中になり40年が経ち、若者へとバトンタッチされています。
『ふるさとに愛と誇りを』という8ミリ映画が完成して40年。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
『青春18きっぷ』から半世紀がたっても心は変わりません。
「旅情は距離がつくる」と書かれています。
旅先で自分の過去の記憶が現在いまこうして暮らしている私の心を刺激してくれます。
やっぱり旅は素敵です。

伊藤若沖

江戸中期に京都で活躍した絵師『若沖』
没後200年だった2000年(平成12年)、京都博物館で開催された大回顧展で観て以来、夢中になったのですが、いまひとつ謎の部分が多くよく人物像がわかりませんでした。
この度、作家の澤田瞳子さんが『若冲』(文藝春秋)をお書きになりました。
夢中で読みました。もちろん小説ですからフィクションですが、その大胆な発想は「若沖」の人物像が変化した」ことが執筆の動機になったそうです。
澤田さんに是非ともお会いしたくラジオのゲストにお招きいたしました。
澤田さんは、1977年、京都生まれ、現在も京都にお住まいです。
同志社大学文学部・文化史学専攻卒業。
時代小説 アンソロジー(作品集)の編集などに携わったのち、2010年、『孤鷹の天』で小説家デビュー。翌年、第17回中山義秀文学賞を最年少で受賞しました。
2012年、『満つる月の如し、仏師・定朝』で本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。翌年、新田次郎文学賞を受賞。その他『泣くな道真』など、精力的に時代小説を発表しています。
日本美術の人気背景に、女性作家の江戸時代に活躍した絵師を題材にした作品が次々に発表されています。男性作家の描き方とは違うスケール、社会や歴史にも切り込んだ、そして直木賞候補にもなった澤田さんの『若冲』のように絵のもつ奇抜で強烈な印象をさらに”人間若沖”が読み取れ興味深く読みました。
澤田さんは京都暮らしなので子どものころから若沖の絵に親しんでいたそうです。歌手なら、路上ライブからいきなり日本武道館でのデビュー!的なブレーク。
小説を書くにあたって、過去帳などの資料を読み込み、そこに若沖の絵に「翳り」を感じたともおっしゃいます。書かれた記録が少ない中、私など素人は「どうしてこんなお話が生まれるのかしら・・・」まるで若沖そのまんま!のようなストーリー展開なのです。
京都錦市場の老舗青物問屋の長男として生まれますが、家業は2人の弟に任せて、絵を描くことに没頭。84歳で亡くなるまでが謎でしたが、この小説に描かれている『若沖』で小説ですが私自身は納得できる、そして魅力ある内容のお話が伺えました。2週にわたり放送いたしますので、ぜひ澤田さんのお話を楽しみにお聴きください。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜10時半~11時まで。
9月13日、20日放送。


流れ星


初秋の夜半は一年の中で流れ星が一番見られる季節です。
箱根の森に住み40年近くがたちます。
流れ星は、探してもなかなかみつかりません。
でも、ふっと夜中目が覚め、庭に出て星空を眺めていると一時間もしないうちに見つけられます。
夜空を一瞬流れ飛ぶ「流れ星」。
「流れている間に願いごとをすれば必ず叶う」と聞いたことがあります。
下の息子がまだ赤ちゃんの頃、夜泣きが収まらず、おんぶして庭に出て、「ほら、お星さまキレイね」と背中に語りかけてみると、もうスヤスヤ寝ているのです。あのときも流れ星をみたように思います。
今はひとり、夜半の星空をひとり占めできます。
澄んだ夜空は心地よいのです。
ずい分以前のことですが、詩人でエッセイストの今は亡き松永伍一さんと教育雑誌で「子どもの個性を育てる」をテーマに対談をしたことがございます。自然のふところに親と子が立ち、そんな環境の中での子育てを願ってのことでした。
先生はおっしゃいまいた。
「自然によっていのちが生かされていることを、あまり論理的に言ってしまうと、逆に子どもの物差しが自然に目盛をつけてしまうから、流れ星を見て「流れ星って素敵ね」と子どもが言ったら「ほんとにいいね。でも宇宙の中であれも大変なドラマだよね」というぐらいで止めておくことが大切です。すると、それを受けて子どもは、自分なりに論理づけをしていきます。そうやって子どもが少し論理的に言ってきたら、ようやくこちらも論理的に対応するという「待ちの姿勢」が大事なのです。大人はせっかちに「こうあってほしい」「こうしなさい」と親の願望と命令形で目線が下を向いて言葉が出てきているんです。なるべく、親として子どもと目線を同じ高さにしなくてはいけませんね。」
こんなお話をしてくださいました。
『自然を相手にすると待たされるものです。』
子育てもそうでした。
今のお母さんたちは大変です。
情報はふんだんにあるし、物差しもたくさんあります。
おんぶして「お星さまきれいね」・・・というくらいのゆとりを差し上げたいですね。

映画「あの日のように抱きしめて」

「東ベルリンから来た女」の監督ペッツォルトの今度の作品も衝撃的です。画面転換は淡々としておりますが、アウシュヴィツに収監された女性のベルリンへの帰還という、大変デリケートなテーマでホロコーストの直接的な影響を見せつけられ、心は乱されますし、ドイツでこのような映画が製作されることに驚きます。
主演の二人の芝居が素晴らしいのです。「東ベルリンから来た女」同様主演女優はニーナ・ホス。夫役にはやはり前作と同じロナルト・アフェルト。
ル・パリジャンの評には「心を乱す、胸が張り裂けるような力強いメロドラマ。狂気の愛と失われたアイデンティティー、裏切り、そして残された希望の物語」と書かれています。
漆黒の闇の中を痛々しく包帯に顔を巻かれたネリー。
アウシュヴィツから生還した妻と、変貌した妻に気づかない夫。
再会を果たした二人は、悲しみを乗り越え再び愛をとり戻せるのか。
失われた愛を探すニーナが感動的に演じています。
優しくも切なさすぎます。
明日8月15日、文化村ル・シネマで封切られます。
私は試写で観ましたが、もう一度大きなスクリーンで観ます。
それにしてもドイツ人たちの癒えない傷を引きずっている、そのことに胸が痛みます。
削ぎ落とされたセリフと無駄のない演出、愛の真理。
亡命作曲家による”優しくささやいて、愛を語るときは”という歌詞。
戦争というテーマの中に心が大きく揺さぶられました。
明日は8月15日。
終戦記念日に私たちは何を思うのでしょうか。
公式サイト http://www.anohi-movie.com/

長岡の大花火

戦後70年の今年の長岡花火にはどうしても行きたくて、昨年から計画しておりました。「子どもたちに繋ぐ平和の願い・70年祈り続けたふるさとの花火」とあります。いままで何人かの人から聞いておりました。「長岡の花火は一度は観るべき」と。
長岡生まれ、長岡育ちのノンフィクションライター、温泉エッセイストの山崎まゆみさんの著書「白菊」を読みますます観たくなりました。
1945年8月1日午後10時30分から1時間40分もの間にわたった空襲。市街地の8割が焼け野原と化し1486人の尊い命が失われました。花火が空へ向ける花「白菊」。夜空に白一色のきれいな円を描き静かに消えていく様には涙がこぼれました。
長岡花火は空襲で亡くなった人への慰霊・鎮魂の花火です。一日の蒸し暑い日が終わりに近づき、薄くくれ始めた夜空に向け、女性のアナウンスが響きわたります。「平和への祈りと戦災殉職者への慰霊をこめてお送りします。」


食べていた「花火弁当」とお米の里・長岡のお酒スパークリングワインを飲み終え静かに迎えます。
『打ち上げ、開始でございます』


「ドン、ヒュー、バーン

花火音がゆっくりと、ゆっくりと、静かに鳴った。
花火玉が炸裂する音とともに、白い花弁が飛び出し、白い尾を引く。
空に咲いた一輪の白い花は、ふんわりとしていて、やわらかいで、丸くて、清楚な印象すら残す。
一発目の後、間をあけて、もう一輪の花が咲く。
ドン、ヒュー、バーン。
観客は歓声をあげることはない。胸の前で手を合わせて、まるでじっと見守るように、空を見上げる。」

山崎まゆみ「白菊」より
この「白菊」は伝説の花火師の生涯をたどり、感動の真実にせまるノンフィクションです。
この花火大会は毎年8月2日、3日の2日間開催され、2日間で2万発が咲きます。全国各地からバスを仕立てて見学に訪れ、市内は大混雑になり、車は全く動かなくなります。訪れる人は30万人近くとか。朝から桟敷席を取る人、信濃川の土手沿いに観覧席が用意されるも全くたりません。ビルの屋上や家の屋根、路地に座る人・人・人。


正三尺玉花火は直径90センチメートル、重さ300キロ。巨玉が上空に打ち上げられるのは1日2発、2日間で4発です。そして「ナイアガラ」信濃川に架かる長生橋と大手大橋延長650メートルの花火はナイアガラの滝を再現しています。
復興祈願花火「フェニックス」は平成16年10月23日に発生した中越大震災からの復興への祈りを込めて空高く上がります。
シンセサイザーの曲にのり軽やかに打ち上げられる花火。
そんな長岡花火を「裸の大将」の愛称で知られる放浪の画家・山下清が1950年に「長岡花火」と題して貼り絵で描いています。河川敷に座る人は小さく、そして繊細に描かれています。花火は大きく咲いています。川面に映る花火の色の美しいこと。山下清はどんな思いでこの花火を見たのでしょうか。
慰霊と平和への願いを込めて打ち上げられる花火。
私は1943年11月20日生まれ。下町の亀戸の我が家も空襲で全てを失いました。全国で尊い命が奪われました。戦争はぜったいにあってはなりません。
今回、私はお弁当・送迎バスがある宿に泊まることができました。1年前から計画し、この花火を通し、平和への祈りを捧げることに感謝した花火大会でした。
帰りのバスから漆黒の闇の空に星が輝いていました。

夕暮れの美術館

ラジオの収録、打ち合わせなど東京での仕事を終え、ホッと一息。そういうときには東京駅近くの美術館へ。そして、観終わったあとのカフェでの白ワインを一杯・・・至福のひとときです。


三菱一号館では 「”狂ってたのは、俺か、時代か?”画鬼暁斎展」が開催されています。
河鍋暁斎(かわなべ きょうさい、1831-1889)は幕末に生まれ、6歳で浮世絵師歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じてその正統的な修業後、幕末には「画鬼」とよばれたそうです。
そして、今回大変興味深かったのは三菱一号館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドル(1852-1920)との交流でした。暁斎に弟子入りして絵を学び、師の作品を広く海外に紹介したこと。日本文化をこよなく愛し、日本人の女性と結婚し、そしてその師弟愛。コンドルと暁斎の親密な交流がみられる「暁斎画日記」コンドルが旅先で絵を描く暁斎を写生した作品も素晴らしいです。
100年ぶりにメトロポリタン美術館が所蔵する暁斎の水墨画が里帰りしました。
個人的には暁斎がコンドルに贈った「大和美人図屏風」(京都国立博物館寄託)が好きです。閉館も近かったので早足になりましたが、やはりこの絵の前で見入っていた若い外国の人もいました。
『画鬼』といわれた河鍋暁斎。正直あまり全貌は知りませんでしたが、今回の展覧会で理解できました。
この美術館の展示室は、明治期のオフイスビルが復元されているため、小さな展示室が連なり、作品との距離が近くじっくり向き合えるのが嬉しいです。


陽の落ちかけた夕暮れどき、仕事帰りの出逢いの場、美術館。
建物に刻まれた歴史を愉しみながらの一杯の白ワインは人生の幸せを感じさせてくれます。
丸の内を歩きながら東京駅へと向かいました。