追悼 ジャン=リュック・ゴダール監督

ゴダールさんの訃報に接して、また私の青春が遠のいていきました。『勝手にしやがれ』は1960年公開のフランス映画界にヌーベルバーグ(新たな波)を起こし、革命児でもあり続けたジャン=リュック・ゴダールさんが9月13日、スイスの自宅で死去されました。91歳。

私の青春史は、1960年代の映画史とダブります。特に60年代の幕明けともなったフランスの二人の監督作品は、時代の幕明けにふさわしい衝撃でした。

少年院を逃げ出した少年が海に行きつき、そこで身動きもならず立ち尽くしてしまうラストシーン。「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー)。くわえ煙草で街行く女のスカートをまくり、自転車をかっぱらって、あげくの果てはパリの裏通りで死んでいく青年。「最低だッ」とつぶやいて自分で自分のまぶたを閉じて死んでいく破滅男をとった「勝手にしやがれ」(ゴダール)のラストシーン。青年の反抗精神とペシミズムが、せつないほど胸に迫り、スクリーンを見据える私にも新しい自己主張を持った映画の時代=私たちの時代を予感するに充分な手応えを残したものでした。

ヌーベルバーグ(新たな波)は、きれいごとの青春とは違う生々しい肉声を持った青春を私につきつけたのです。”私たちの映画”をみせつけてくれたゴダールさんに逢ったのは、カンヌの映画祭でした。

いまは亡き川喜多長政さんにお願いして紹介していただいたのです。私、そのときあまりのカンヌのまぶしさにサングラスをしていました。川喜多さんに紹介していただいたとき、サングラスをとらずにゴダールさんと握手して、後で川喜多さんに注意されたのを思い出します。「人に出逢ったときは、サングラスをはずすんですよ」それ以来、私はあまりサングラスをしなくなったのです。そのときのゴダールさんは、まさに映画祭中の人気を独り占めしていました。

本屋の配達人、テレビ局のカメラマン、演出助手、ダム工事の土方、撮影所下働きなど下積みの生活を経てきた青年の、したたかな輝きが満ちていました。「女と男のいる舗道」「小さな兵隊」など、次々に話題作を作っていました。

当時はアンナ・カリーナとまずくなりはじめた頃だったと聞きました。案の定、「軽蔑」や「恋人のいる時間」などにアンナ・カリーナは出演拒否しています。”映画監督の中で一番モテない男”というウワサをそのとき耳にしました。そうかな……

1966年、ゴダールさんが来日したときは、映画仲間とゴダールさんを囲んで映画論を隅っこで聞いていました。よく理解はできませんでしたが、何をみんなは夢中で議論していたのでしょうか。

青春のある一日は、まるで遠い映像です。夢中で燃えて過ごした日々は一体どこへいってしまったのでしょう。1966年、日本は高度成長の真っ只中。繁栄の時代に入ったにもかかわらず、日本映画界は早くも低迷期に入ろうとしていました。アメリカでもその頃、ハリウッドの映画産業界が、次々と他の産業に身売りしていた時代でした。

ゴダールさんとの出逢いに象徴される私の映画青春史……サングラスごしの出逢いのように、いままたセピア色の記憶になりつつあるのです。

  ジャン=リュック・ゴダール監督  ご冥福をお祈りいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です