沖縄に恋焦がれて

沖縄に行ってきました。
初夏、沖縄の祭り~海人の祭典・ハーリー(爬竜船・はりゅうせん)競漕が終わると梅雨が明けるといわれます。3泊の滞在中は真っ青な空と海。街路樹には沖縄の花・ホウオウボク(鳳凰木)が赤色五弁の花を咲かせ出迎えてくれます。
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なぜ私がこんなに沖縄に魅力を感じ、第二の故郷に戻ってきたかのような安堵(あんど)感を覚えるのでしょうか。その理由は”人”だと思います。特に沖縄の女性たちの辛いことがあっても空を見上げてスクッと立ち続ける明るさとたくましさ。その全てに強くひきつけられるのです。
まだ、舗装されていなく砂埃のたつ国際通りに立ったのは半世紀以上前のことでした。
『民藝のふるさとは沖縄にあり』と民芸運動の創始者である柳宗悦氏は語っています。壷屋焼や宮古上布、芭蕉布、紅型など、沖縄の手仕事の健全さに心を奪われた柳宗悦。沖縄は自分が思い描いた民芸の理想郷「美の王国」だと思い通い続けたのでしょう。
沖縄にいると”今の私””未来の私””そして”過去の私”に出会えます。
今回は敬愛してやまない読谷村に暮らした今は亡き与那嶺貞さんの13回忌、どうしても与那嶺さんがひたすら機を織り続けた仕事場の跡にたってみたかったのです。そして、仕事が終わる夕方、ご一緒に手をつなぎ歩いた道を歩いてみたくなったのです。1984年のこと、読谷村で与那嶺貞さんにお会いしました。人間国宝になられてからも何ひとつ変わることなくひたすら『花織』を織りつづけていらした貞さん。
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与那嶺さんは、5~600年前に南洋から伝わってきた織物「花織」を再現することに一生懸命でした。与那嶺さんがその織物を蘇らせようとしたとき、その織り方を知る人は一人もなく、昔から残されていた一枚のちゃんちゃんこがあるだけでした。織り方が複雑で難しく途絶えてしまったのでしょうから、再現するのも大変なご苦労だったそうです。与那嶺さんは、あの沖縄が焦土と化した戦争を生き延び、涙も涸れてしまった戦後を子供を抱えて再び生きなおした方です。ご主人は戦争で亡くされておられます。”戦争で何もかも失ったけれども、父親が私に授けてくれた教育だけは、誰も奪えませんでした”とおっしゃられました。工芸学校で学んだ技術が、後年、幻の「花織」再現に結びついたのです。
手をつなぎ歩きながら私にこう語りかけてくださいました。
「浜さん、女の人生はザリガナね」・・・と。こんがらがって織れないからといって切って捨てたら一生布は織れません。女としてそれを丹念にほぐしていきましょう。そうすれば「ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ」”もつれた糸をほぐして、ちゃんとした布にする女”。もつれた糸を一心にほぐしながら、美しい美しい布を織り上げる。泣く涙も涸れてしまった沖縄の女性たちは、こうして自らを励まして戦後を生きてきたのです。
こんがらがった糸を切りたくなるとき、私はいつも与那嶺さんの優しいまなざしを思い浮かべます。
丹念にほぐしていけば  花のヤシラギ(布)をウイルサビル(織ることができる)”
読谷村では焼き物を見て、読谷のソーキそばを食べ、風にふかれ、村を後にしました。
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4月下旬から行方不明となっていた女性が遺体で発見されました。
それは、日常普通に暮す界隈で起きた残忍な事件でした。このようなことが起こりうるのでしょうか。どんなにか恐怖だったことでしょう。人の命がこのように扱われてよいのでしょうか。これまでにも、米軍人・軍属による事件は多発しています。
私の滞在中に県議選が行われました。「平和で豊かな社会を築く」「日米地位協定の改定を」「基地縮小着実に進める」など。それぞれの思いを胸に新たな一歩を踏み出しました。今回のような許すことの出来ない事件、基地問題など・・・本土にいて感じる感覚の温度差も強く感じた沖縄滞在でした。
93歳で現役のまま亡くなった与那嶺貞さんたちのご苦労が、現代へときちんと受け継がれているでしょうか。私たち日本人の一人ひとりの問題だととらえているでしょうか。
最後の夜は働くボランティアグループの30年来の女友達たちと飲み、食べ、沖縄の未来について語りあいました。

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