晩秋の飛騨路 ひとり旅

晩秋から初冬にかけての旅はとても好きな季節です。飛騨路は私にとっていつも帰ってくる路といえます。これで何度めの高山・古川、と数えるのを止めたのはもう30年も前のこと。

行くというより通う道。それが私の飛騨路です。もう一体いつからなのか、はっきりしないのですが、物心ついた頃、すでに高山へ通っていました。いつの間にか古川の、あの咲きさかる藤棚の下で、友と酒をくみかわしていたのです。

いつも思うことがあります。私の血の中にどこか遠い砂漠の民がいるのではないか。砂嵐と共にどこかへ旅立ち、いつの間にかオアシスの周りにテントを張り、子どもたちを遊ばせ、台所でコトコトやっていたと思いきや、つかの間のスコールのあと、いままでそこにいた気配すらなく次ぎの地へと移動していく。遊牧の民の血が私の中にあるにちがいないと思うほどに、せっせと歩き続けた私なのです。

木曽川と一緒に山々を分け入って進む高山線は、木の国へと人を誘うルートです。なかでも飛騨古川は、私にとってふるさとのような町です。木の家への憧れやみがたく、廃屋を探す旅を続けているとき、この町へおりたちました。

木の家にたどりつく前に、私は青年団に出逢いました。今ではみんな素敵な中年団になっています。ふるさとを映画にしたいという希望をもつ飛騨古川青年会議所のメンバーでした。この町を心から愛する青年たちでした。聞けば映画にする方法がみつからない、とのこと。そのときの出逢いがきっかけで、私はいつの間にか古川町の応援団員になりました。

友人の映画技術者を紹介したり、私のできることで微力を尽くし、彼らが自ら手がけ2年半かかってその映画ができました。なんと8ミリでの二時間の大作。「ふるさとに愛と誇りを」というちょっと気恥ずかしいようなタイトルでしたが、地域社会の見直しの中で、彼らが大切にしている町の姿、その中にこの地で生きることの誇らしさが描かれた大作でした。この映画がご縁で、以来、毎シーズンこの町に通ってきました。

駅に降り立つと「お帰りなさい!」と迎えてくれる仲間。

この町の4月19、20日の「起こし太鼓」は勇壮で素晴らしいです。ユネスコ無形文化遺産に登録されている気多若宮神社の例祭。1月15日の「三寺まいり」は親鸞聖人のご遺徳を偲び、円光寺、真宗寺、本光寺を巡拝したことに始まる200年以上続く伝統行事。「和ろうそく」を灯します。

400年以上もの伝統を持つ「三嶋ろうそく」は信仰深い飛騨の神仏行事になくてはならない宝物で、7代にわたり手作りの技が伝えられています。和ろうそくは”私の”古川の誇るべき伝統工芸です。

祭り好きの古川の人々にとって、古川提灯にともされる和ろうそくの灯りは、まるでいきもののようなゆらめき、この町とこの町をを訪れる旅人に忘れられない灯りをともしつずけるのです。

町の産業、人口の推移、教育などあらゆる面でバランスがとれていないと、町というのはいつか原型を失っていくのではないか。古川の祭りは、いつも私に「町のバランス」を思いおこさせます。祭りがプロの手に渡らずに町の人々で支えられている理想的な姿をみることができます。

コロナの影響で中止になっていた祭りも少しづつ復活してきました。

そんな彼らとの交流の中で、私は円空仏に出会いました。ある夜、青年団の一人が古くから家にあったという一体の仏像をもってきてくれました。聞けば、その家に伝わる宝物、円空仏だというのです。

円空さんは1600年代、この飛騨一帯をはじめ全国各地の山間や辺境の地を修経者として旅をし、人々の貧困や病苦を救おうと一心に祈り、そして木像を彫り続けました。飛騨路のお寺、千光寺には名作が多く残されています。その木像を抱かせていただくと、400年以上の歳月を経たその像は枯れているのですが、ずっしりと手に重く、温もりがあるのです。平穏の深さ、無垢、無音の歓喜。木の精が確かにそこに在るのです。

千光寺に足をのばしました。標高千メートルの静寂。紅葉も終わりにちかく、千光寺は袈裟山の頂上にほど近いところに、まるで時間が止まったかのように静寂があたりを包みます。遠く御嶽山には雪がかぶっていました。

千光寺は「お大師さま」として親しまれている弘法大師を宗祖とし、高野山真言宗のお寺です。前住職で実父の大下大圓さんからご子息の真海副住職(39)が25代目新住職となられました。

先日、新住職就任の儀式「普山式」が厳かに行われたそうです。同寺は約1600年前、伝承上の人物「両面宿儺(りょうめんすくな)が開山したと伝わります。

私は、新住職のご案内で本堂でお参りをさえていただきました。しばらく当寺に滞在し飛騨一円で刻んだ仏像は数百体にのぼるといわれ、千光寺には六十三体の「円空仏」が安置されています。

なかでも円空さんの”おびんずるさん”は頭の部分がつるつるです。人々は頭をなでて苦しみから救われたといわれます。口角をあげ笑みを浮かべたお姿。大好きな仏さまです。「なでぼとけ」ともいわれ、もっとも親しまれてきた円空仏です。最初に私が伺った頃には本堂に安置されており、私も頭をなでさせていただきました。円空の自刻像ともいわれます。生涯に十二万体の仏像を刻んだといわれる円空さんに別れをつげました。


そして嬉しいお知らせです。

飛騨古川に移住して15年、山田拓さん・慈芳さんご夫妻の経営する「SATOYAMA STAY NINO-MACHI」に宿泊することができました。まず、2010年に「里山文化と世界をつなぐ」というコンセプトで飛騨の古民家からスタートした里山の暮らしを体験できるガイドツアーを立ち上げ”里山サイクリング”を、世界中から集まるゲストに提供し、飛騨の日常を自転車でのんびり体験してもらう。

古川の人たちと触れ合ってもらう。私が理想とする交流をしてくださり、今回新たに古川の街並みにあうように地元の匠が町に溶け込むように創った宿です。古民家再生とはまた違った新たな取り組みです。きっと100年、200年と続く職人の心意気を感じました。部屋には家具、小物、陶芸家による陶文字アートが壁に飾られ、出来る限り地元の作品が素敵です。

私は蔵を改装した部屋に泊まりました。すべてに細やかな配慮がなされており何とも心地よい空間でした。食事は朝食のみ。地元の食材を出来るだけ使い、夕食は町の中で召し上がっていただく…このコンセプトは素晴らしいですね。

私は3軒お隣のおばあちゃんのお惣菜やさんにお皿を持って買いに行き、宿で食べました。絶品!大きなお鍋に何種類ものおかず。大皿にもたくさんのおばあちゃんの料理。外国の方々はさぞかし喜ばれることでしょう。

インバウンド。コロナも落ち着き海外の方も戻ってきました。ご夫妻は2年間海外をキャンプしながら周ったそうです。これからの旅のあり方の一つの方法でもあるでしょう。

旅は曼荼羅

旅は昔から賜ぶ(たぶ)と書いて、旅。

人に出逢い、人から必ず恩をいただくこと、それが旅だと思います。私が旅する先で知り合い、おつき合いいただいている友人たち。私はいただくばかりで。そう、借りばっかり。いただく心より、ちょっとだけ、さし上げられる心のほうを多めにしていきたいな、これからの旅に対する私の心構えです。

写真で古川の街を散策してください。古川祭保存会の駒さんは初めて古川とご縁を結んでくれた道具家「駒」の駒侑記扶さん。土門拳さんが何度も訪ねています。

鯉が泳ぐ瀬戸川と白壁土蔵の街。造り酒屋の麹の香りが漂ってきます。「飛騨の匠」の伝統技術が受け継がれ、寺や家屋の軒先に大工の目印「雲」。屋台蔵。三寺まいりにには欠かせない「三嶋ろうそく」。

私が伺うと入り浸る「カレーとコーヒー」の店。飛騨牛のスジなどでとったダシで牛スネ肉と玉ねぎで煮込んだコクのあるスパイシーなカレーと美味しく焙煎されたコーヒー。今回はびっくり!外国の方が半分くらいでしょうか。どうやって調べるのでしょうね。幼い子ども連れの方も。

万事がスピード時代。たまには”のんびりと旅を”お楽しみください。

今回の旅では、素敵な再会ができました。皆さま”ありがとうございました”また出逢えることを楽しみにしております。

山田拓さんのSatoyama Stay Nino-Machi
https://satoyama-experience.com/jp/satoyama-stay/nino-machi/

飛騨古川観光協会
https://www.hida-tourism.com/

「晩秋の飛騨路 ひとり旅」への2件のフィードバック

  1. 浜さん、先日は、お越し頂いてありがとうございました。
    お会い出来て、お話しもさせて頂き、とても嬉しい時間でした。
    その上、浜さんのブログに登場させて頂いて、とても光栄です。
    ありがとうございます。
    また、古川にお越しの際は是非お立ち寄り頂ける事を楽しみにしております。

    1. 森本純子さま

      いつも美味しいカレーとコーヒーをありがとうございます。
      心の故郷、飛騨古川。帰るたびに美味しいコーヒーで迎えてくださいます。
      スタッフの皆さまの優しいもてなし。
      あの空間は地元の方々との交流の場
      そこに、海外の方々も惹かれるのでしょうね。
      また、うかがわせていただきます。
      佳き新年をお迎えくださいませ。

      浜 美枝

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