沖縄の美

東京駒場の日本民藝館で「復帰50年記念 沖縄の美」展が8月21日(日)まで開催されています。

琉球王国として独自の文化を形成してきた沖縄。このブログにも何度か沖縄の工藝については書いてまいりました。今回の展覧会では館蔵する紅型や織物、陶器など、特に沖縄離島の織物など、八重山上布や宮古島の紺絣、久米島の鮮やかな黄色地の絹織物など、勿論私の好きな花織など島々の織物を一堂に見られます。

柳宗悦が初めて沖縄を訪問したのは1938年。以来、4回にわたり工芸調査や蒐集を重ね「沖縄の美」を紹介してきました。そして「美の宝庫」であることを世に紹介してきました。

私自身、この民芸館には何十回訪れたことでしょうか。何度見ても感動する「てぃさあじ」。漢字で書くと「手」。女性が兄弟や想い人のために、旅の安全や健康を祈りながら心を込めて作り贈った布です。いろいろありますが、日本民藝館に所蔵されているてぃさあじは芭蕉布が多く、命をかけて漁に出る男達に贈った手拭いのような布。華やかさのなかに温もりがあり、女心がよく現れています。大好きな織物です。

民芸館の正面の階段を上り、シックな長椅子に腰掛、私はしばし、「なぜ、こんなにも日本の手仕事が好きなのかしら?」と思いました。

昭和18年11月。私は東京・亀戸で段ボール工場を営む父と母のもとに生まれました。父は九州八代の出身、母は三重県伊勢の出身です。父は出征し、空襲の続く下町で母ひとりで奮闘することが、どんなに大変だったか、想像にかたくありません。乳呑み児の私を背中に背負い、小さかった兄の手をひきながら、工場を見回り、女工さんたちと働くという日々でした。

いよいよ戦火がはげしくなり、下町の人々がどんどん疎開を始め、私たち母娘もとにかく疎開することに決めたのです。女工さんたちにも早く帰るよう言い残し、母は二人の幼子の手をひいて親戚のいる神奈川へ疎開しました。あの東京大空襲の前夜のことでした。工場の留守を守った女工さんたちは、工場もろともその夜、亡くなりました。たった一日の違いが、女工さんと私たち家族の運命をこうもひきさいたのでした。

東京の空が赤く燃えるのを、母は身をもがれるような思いでみつめたと後に語っていました。私たち家族は女工さんにいのちを分けていただいたのでした。戦後、父は復員してきましたが、戦後の混乱のさなか、なかなか立ち直れず、母が仕立て仕事をしながら私たちを育ててくれました。

手先の器用な母は、仕立て仕事の腕もよく、大変忙しくしていましたから家事の多くを5~6歳の私にやらせました。お米のとぎ方、かまどの火のこと、おかずの心配…貧乏のつらさにうちのめされそうになると、母は私に聞かせたものです。「あの女工さんたちの尊いいのちとひきかえに得たいのち、それがあなたのいのちなのよ。大切にしなければ……」貧乏のつらさにうちのめされそうになると母は、私にこの言葉を聞かせ、そうして自分にムチ打って生きてきたのでしょう。

甘えたい思いも強くありました。でも、口には出すべきではないという私なりの意地がありました。子どもらしくない子どもだったのです。私はしっかりした、よく手伝えるお姉さん。しっかりお手伝いしなければいけない…。あれはたしか6歳だったと思います。

七・五・三を前にして母は、赤いキモノを私に着せたくて、それこそ夜なべして赤いキモノを仕立ててくれました。ところが私は、そのキモノが好きになれませんでした。なぜなら、女の子は赤、ときめつけ、私の意志でなく母の意志のもと勝手につくられてしまったそのキモノは、私を無視しているというふうに受け止めてしまったのです。

私は母に着せられた赤いキモノ姿で外へ飛び出し、ペンキ塗りたてと書いた青い塀の前へ、ペタンと全身ではりついたのです。今思い出しても、なんて可愛くない子だと呆れてしまいます。なんとも勝気な六歳の私が、遠景の平野にぽつんと立って頑張っている図が浮かびます。  

民芸館の椅子に座りながら幼かった頃の私に出会います。 沖縄の女性には特別な霊力があるといわれます。「オナリ神」信仰があり、女性は家族や恋人への無事を祈り思いを込めて織った「てぃさあじ」はまさに沖縄の美であり、温もりであり、手仕事ならではの美しさです。心豊かな午後のひとときでした。

日本民藝館
https://mingeikan.or.jp/exhibition/special/?lang=ja

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