時空を超えて輝き続ける志

20世紀初頭のヨーロッパ大陸で、あり余る才能を惜しげもなく発揮した2人の若い画家がいました。

エゴン・シーレ。
オーストリアのウイーンで生まれ、少年時代から抜きん出た絵画の才能を示しました。その頃、既に名声を得ていたクリムトは17歳の青年シーレが描いた作品を眺め、「君には才能がありすぎる!」と呟いたそうです。当時、ウイーンで盛んだったジャポニスムの影響などを受けながら、シーレは浮世絵版画にも心惹かれたようです。

見る人に強烈なインパクトを与えるシーレの自画像。それは、人間の存在とその不確かさを捉えようとしたもので、そうしたシーレの根源的な問題意識は、女性の自立した生き方というテーマにも表現の対象を広げることになります。意思的な姿が眩しい裸婦像の作品が社会的にも大きな衝撃を与え、”不道徳だ!”という批判すら巻き起こしたのです。

そんな絵画が顔を揃えた「エゴン・シーレ展」を見に行きました。会場は上野の「東京都美術館」。入り口には長い行列ができるほど、多くのファンが詰めかけました。ひとりで来た高齢の男性が、自画像の前でじっくり眺める姿が印象的でした。

そして、女性ファンが多いことも驚かされました。全体の7-8割を女性が占めていたでしょうか。シーレの生き方、そして当時の女性たちの想い、それらを自画像や裸婦像の中に見つけ出そうとしているようでした。

作品を凝視する若い女性の真剣な眼差しには、女性の生き方がどれほど変わったのか、変わったものと、変わらないものとは何なのか?彼女たちはその答えのきっかけを掴もうとしているではないかと思いました。会場には静かな熱気が感じられたのです。


上野を後にして東京駅に向かいました。展覧会の”ハシゴ”は初めての経験です。会場のステーション・ギャラリーでは”街に生き、街に死す”とも言われた佐伯祐三の回顧展が開かれていました

エゴン・シーレと佐伯祐三が同じタイミングで鑑賞できる。こんな機会は本当に珍しい!”ハシゴ”は当然でした。

佐伯は19世紀の終わりに大阪で生まれ、東京美術学校を出た後、パリに渡ります。パリの裏町の風景、彼は風景画に自らの心象を投影したのでしょうか。形を変えた”自画像”だったのかもしれません。妻子を連れてのパリへの渡航。2度にわたるパリの生活は4年余りでしたが、質も量も実に豊かなものでした。急ぐように、せかされるように、短期間でパリを描き続けた日々でした。

20世紀初頭のヨーロッパで、シーレと佐伯が直接会うことはありませんでした。シーレは第一次世界大戦に出征し、大流行していたスペイン風邪に罹患します。子を宿していた妻が死亡し、その3日後、シーレも亡くなるのです。1918年、わずか28歳でした。

佐伯はシーレの死から5年後、妻子を伴いパリへと向かいます。2回目の生活は”結核”を抱えながら、思いつめたような”速筆”ぶりだったということです。そして、パリの病院で亡くなるのです。30歳でした。同行していた娘も、同じ病で半月後に後を追いました。

猛烈なスピードで世紀の狭間を駆け抜けた2人の天才画家、余りにも惜しい夭折ですが、彼らの存在は単なる”一陣の風”だったのではありません。今も見る人の心を射貫くような素晴らしい感性が永遠に輝きを放っているのですから。

ステーションギャラリーを去る時、壁に残された古いレンガが目に飛び込んできました。時代を感じさせ、心を落ち着かせる壁画のレンガ。これは1914年(大正3年)に創建された東京駅で歴史を見続けた証人でもあるのです。

エゴン・シーレや佐伯祐三の、いわば”同時代人”とも言える存在でしょう。時と場所を飛び越えて旧友たちが一堂に会したような錯覚を覚えながら、温もりすら感じるそのレンガを見つめ続けました。

東京都美術館 https://www.egonschiele2023.jp/
東京ステーションギャラリー https://www.ejrcf.or.jp/gallery/

モリコーネ 映画が恋した音楽家

イタリア映画の魅力を改めて知りたいと思い、先日、見逃せない作品に会ってきました。

私がイタリア映画に憧れたのは、10代の頃に見た『終着駅』でした。あの映画に出てきたローマの中央駅ホームに一度は立ってみたい。そして、チネチッタ撮影所に行ってみたい。そんな思いが私の映画ファンとしての出発点でした。

今、見逃せないと思った作品の主人公はエンニオ・モリコーネ。
3年前に91歳で亡くなった映画音楽の作曲家です。

クリント・イーストウッドが主演した『夕陽のガンマン』シリーズは、軽快だけれど乾いたあの名曲によって、多くの人たちの心を揺さぶります。半世紀以上も前に、この大ヒット映画のテーマ曲を作ったモリコーネは当時、まだ30代後半でした。父親がトランペット奏者だったこともあり、モリコーネは子供の頃からトランペットの手ほどきを受け、作曲の勉強をしていました。しかし、本当は医者になりたかったと、晩年になっても述懐しています。病に苦しんだ父親の影を引きずっていたのかも知れません。

そのモリコーネの”全体像”を描こうとしたドキュメンタリー、『モリコーネ 映画が恋した音楽家』は質量共、大作と呼ばれるに相応しい厚みと重みを備えた作品でした。2020年に亡くなるまで、5年にわたり本人へのインタビューが繰り返されました。そこでは彼の音楽、とりわけ映画音楽に対する率直で複雑な思いが語られています。ローマの音楽院で学んだモリコーネでしたが、第2次大戦後のイタリア社会の混乱もあったのでしょう、生活のために編曲の仕事を中心とした音楽活動に邁進するのです。

この映画に登場するのは、モリコーネを取り巻く多くの仲間たちです。クエンテイン・タランティーノ監督の『ヘイトフル・エイト』で、モリコーネはアカデミー作曲賞を受賞しました。

また、歌手のジョーン・バエズ。フォークの女王と呼ばれた彼女は、『死刑台のメロディー』でモリコーネが作曲した主題歌「勝利への賛歌」を歌っています。

そして、プロデューサーで作曲家のクインシー・ジョーンズ。彼はモリコーネに対するアカデミー賞の受賞式ではプレゼンターを務めるなど、モリコーネの評価確立に大きな貢献をしました。

こうした、80人近くの友人たちとモリコーネ本人が語る”作曲家像”は、極めて興味深いものでした。その一つが、”映画音楽”を区別すること自体が無意味で不当だったのです。”映画音楽”は映画の添え物ではない、独立した存在なのだとという強い信念でした。彼はそれを証明するために生涯、戦い続けたのです。

私も青春時代から感じていたことがありました。映画の魅力の半分は、やはり、スクリーンから溢れ出る音楽なのだと。心躍らせる映画音楽が、見る人の人生に伴走してくれるのだと。

”マエストロ”(巨匠)とも称されたモリコーネを描くドキュメンタリー映画は、ジュゼッペ・トルナトーレによって作られました。あの『ニュー・シネマ・パラダイス』でモリコーネと初めてコンビを組み、カンヌやアカデミーで旋風を巻き起こした監督です。これ以降、トルナトーレが作る全ての長編作品は、モリコーネが音楽を担当しました。この関係は、およそ30年にわたりました。

そして、2人による最後の”創作活動”は、イタリア映画の魅力を再確認することにとどまらず、世界の映画界というスクリーンに映し出されたスケールの大きなメッセージとなって実を結びました。

`映画公式サイト
https://gaga.ne.jp/ennio/

十代で出会った古伊万里の皿

皆さまはこの皿の絵から・風景からどんなことを想いますか。

土門拳さんに「近藤」を教えていただいてから、私は時間さえあれば、東京駅から特急列車に乗り、京都を往復しました。翌日の仕事が急にオフになり、あわてて夜行列車に飛び乗ったこともありました。

近藤さんは、買いつけや作家のお世話、各地で行われる骨董の展覧会などで、全国を飛びまわっていらっしゃる方でした。「近藤」ファンの方に、私は何人もお会いしましたが、なかには「いつ行っても、近藤さんに会えないんだ。いないんだよ」と嘆かれる人も少なくありませんでした。

ところが、私がうかがうと、近藤さんはいつもお店にいらっしゃるのです。前もって連絡するわけではありません。近藤さんがお忙しいことがわかっているのに、お電話を差し上げ、待っていただくなんて、そんな申し訳ないことはとてもできませんから。

でも、お店をのぞくと、そこにいつも近藤さんのお顔が見えるのです。不思議な話しでしょ。「浜さんがいらっしゃるときは、どうしてうちの、いつもいるんでっしゃろ」、近藤さんの奥さまが、そういってくださったこともありました。各界の錚々たる方々がお客さまの「近藤」ですが、十七歳の私にも、こちらが気遅れするほど、きちんと対応してくださいました。

いつも京都のお菓子とお薄をいただきました。その抹茶茶碗がどれもこれも見事なものでした。その姿かたちはもちろん、持ち上げたときの手触り、持ち重ら、柔らかな口当たり、お薄の淡いグリーンが美しく映える色合い、風合い…最初にお抹茶をいただくところから、近藤さんのレッスンは始まっていたように思います。

そう、「近藤」の店主・近藤金吾さんこそ、私の骨董の最初の先生だったのでした。私に美を知るきっかけを与えてくれ、そして導いてくださった恩人なのです。私は店のなかで何時間も過ごさせていただきました。立ったり座ったり、歩いたり立ち止まったり。私があるものの前で動かなくなると、声をかけてくださることもありました。

「そない、気に入らはったんですか」

そうなのです。そうして出会った古伊万里の皿。無名の工人の作った皿。古伊万里とは、伊万里焼の初期のものをさす言葉。普通、草創期を含めず、赤絵が完成した正保(1644-1648)末期から元禄(1688-1704)前後のものをさして使われているようです。どこにでもあるような里山の農家が、月とともに描かれています。その素朴さ、のどかさがとても素敵なお皿です。

現在住んでいる箱根の家を建てる前、私はたくさんの里山を旅しました。最初は単に旅好きだったものが、いつしかそこに住む人を訪ねる旅になり、やがてその人々が手放さざるを得ない家を預かる旅になっていきました。

雪深い富山の山奥。行きつけるだろうかという不安の中で訪れた山間の村、人気のない村道は雪が降り積もり、家々もまた、雪の中にシンといました。巨大な合掌造りの家は雪を堂々と受け止めて決してたじろがない強さがあります。

家の中に入ると、大きなイロリが切ってあり、おじいさんとおばあさんがいました。家を手放さなければならないとはわかっていても、家から立ち去ることのできない老夫婦と、私は一体、何を話していたのでしょう。

何百年もその村で生きてきた家は、そこに住んだ人々の息を吸っている。おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさんの生活の足跡を刻んでいる。いま、我が家を構成する十二軒の家々の柱や床やふすまは、それぞれの家の歴史をしょっている。私はそういう材料で家を造るとき、たくさんのじい様やばあ様の話をこれから先も聞いて過ごそうと思いました。それは”生命のつながり”を持っていると思えるのです。

かつて木と人がひとつに暮らした時代が持っていた優しさを、少しずつ、少しずつ失っていくのが私は怖いのです。海外から多くの方々がこの日本の歴史・文化・暮らしに興味をもち訪れてくれる時代になりました。気がついたら ”皿の風景”がなくなっていた……なんてならないでください。

『新しい年によせて』


2023年が始まりました。いかがお過ごしでしょうか。

昨年は、当たり前と思っていたものの大切さを改めて実感させられた年でした。

コロナ、ウクライナ侵攻、気候の激烈な変動、迫る世界的飢餓……。人々の暮らし、それぞれの地域で育まれた豊かな文化、人の命が、今も危機にさらされています。

日本の脆弱さもあらわになりました。自給がのぞめないエネルギー価格が急上昇したのをはじめ、さまざまな輸入品が不足、急騰し、暮らしを直撃しました。

「輸入が止まったらどうするの? 農業を振興し、自給率をあげ、安全安心な食を生産し続けてもらわなければ、未来を担う子どもたちの命が守れない」という思いから、私は40年前から、食と農に携わってきました。がんばっている農家を支えたいと、農に携わる女性たちとネットワークを作り、さまざまな活動も行ってきました。

世界規模での自然災害発生、人口増加による需給ひっ迫など、食を取り巻く問題は今後、さらに厳しさを増していくともいわれますが、残念なことに、抜本的な食の国家戦略、外交戦略は作られないまま、今に至っています。

「食料を自給できない国は真の独立国ではない」といったのはフランス元大統領ジスカール・デスタンでした。

今年は、みんなで食と農に向き合いませんか。

求めるのは「安ければいい」食・農ではなく、「命を守る・本物の」食・農です。

国民が必要とし消費する食料はできるだけ国内で生産しなくてはならないと、JAは「国消国産」を掲げ、全力で取り組んでいます。

私の仲間も、農家民泊、農家カフェ、農家レストランとビジネスを広げ、各地で活躍しています。そのお子さんやお孫さんが次の担い手として農に向き合っています。

時代のニーズを見据え、さらに新しい形で農を活性化させている若者もいます。

安全で確かな食べ物を子や孫に渡すために、本物を作るこうした生産者を、私たち消費者がしっかり支え、強い農業を作っていかなくてはなりません。

食の安全保障こそ、今、いちばんに取り組まなくてはならない課題だと思うのです。

80歳にむけて

先日、79歳の誕生日を迎えました。

80歳まであと1年。
年齢とは不思議なものですね。

朝に夕に、顔を見せてくれる孫の成長を思うと、今も確かに時が流れていると、実感させられます。体が少しずつ変化しているのも感じます。同時に、正直に言えば、自分がこの年齢になったということに驚き、戸惑っているもうひとりの自分もおります。

若い頃から、私は幸運なことに、男女を問わず、年長の方々にとてもかわいがっていただきました。お訪ねするとみなさん「よく来たね」「待っていたよ」と快く迎えて下さり、私が知りたいことを惜しみなく教えてくださいました。そのおつきあいの中で、心まで静かにいやしていただくこともたびたびでした。

数年前から、今の私の年齢だったあの方々は、いったい、何を思い、日々をどう過ごしていらしたのだろうと考えるようになりました。

自由で柔軟で、新しいものや若者の提案もおもしろがって積極的に受け入れてくれた尊敬する先人――年齢が体に刻まれていても、その経験と知恵に磨かれた叡智と感覚には、若い者にはない輝きと奥深さがありました。

「もう80。まだ80」

そんな風におっしゃって微笑んでいらした方の透明な表情も忘れることができません。

もっと話を聞きたかった。もう少し踏み込んで、みなさんの来し方なども知りたかった。もっともっと――

それが叶わぬ今になって、そうした思いが私の中でふくれあがっていきました。

喜寿から二年の間。以前とはひと味違う、ゆったり旅をしてきました。

これからはもうひとつギアをゆるめていこうと思います。

今だからこそやってみたいを思えることが新たに生まれました。

共に時を過ごした仲間、現役でがんばっている若者たち……これまでに出会った人たちをもう一度お訪ねし、これからのことに思いをはせ、ときには思い出も分かち合いたい。自分が携わった活動の行方も見届けたい。あとを託す人たちの思いを知りたい。語り足りなかったことをほどいて分かち合い、懐かしい人たちの心のひだにもそっと触れてみたい。

私の心を震わせた絵画や彫刻などにも、もう一度、目にしたい。その作り手の生涯も辿ってみたい。

日本の四季に彩られたさまざまな暮らしの中に身をおき、心ゆくまで味わいたい。

体が動き、ひとり旅ができる間に、できる限り各所に足を伸ばしたい。

人に会い、自分に会うこれらの旅をする中で、私はいったい何を感じるのでしょう。

そうした私の発見や感動などを、これからも随時、このブログで発信してまいります。これまでのように、素敵な映画や美術展などをご紹介することも考えています。

ただ、暮らしのギアチェンジにあわせ、ブログの更新もちょっとゆっくりにさせていただくことにしました。

約20年間、週に1度、更新していましたが、これからは月に1度に。

お伝えしたいことがたまってしまい、ときに饒舌になってしまうのではないかという不安もありますが、これからもぜひ、おつきあいくださいませ。

浜美枝の新しい時代の始まりです。

晩秋の飛騨路 ひとり旅

晩秋から初冬にかけての旅はとても好きな季節です。飛騨路は私にとっていつも帰ってくる路といえます。これで何度めの高山・古川、と数えるのを止めたのはもう30年も前のこと。

行くというより通う道。それが私の飛騨路です。もう一体いつからなのか、はっきりしないのですが、物心ついた頃、すでに高山へ通っていました。いつの間にか古川の、あの咲きさかる藤棚の下で、友と酒をくみかわしていたのです。

いつも思うことがあります。私の血の中にどこか遠い砂漠の民がいるのではないか。砂嵐と共にどこかへ旅立ち、いつの間にかオアシスの周りにテントを張り、子どもたちを遊ばせ、台所でコトコトやっていたと思いきや、つかの間のスコールのあと、いままでそこにいた気配すらなく次ぎの地へと移動していく。遊牧の民の血が私の中にあるにちがいないと思うほどに、せっせと歩き続けた私なのです。

木曽川と一緒に山々を分け入って進む高山線は、木の国へと人を誘うルートです。なかでも飛騨古川は、私にとってふるさとのような町です。木の家への憧れやみがたく、廃屋を探す旅を続けているとき、この町へおりたちました。

木の家にたどりつく前に、私は青年団に出逢いました。今ではみんな素敵な中年団になっています。ふるさとを映画にしたいという希望をもつ飛騨古川青年会議所のメンバーでした。この町を心から愛する青年たちでした。聞けば映画にする方法がみつからない、とのこと。そのときの出逢いがきっかけで、私はいつの間にか古川町の応援団員になりました。

友人の映画技術者を紹介したり、私のできることで微力を尽くし、彼らが自ら手がけ2年半かかってその映画ができました。なんと8ミリでの二時間の大作。「ふるさとに愛と誇りを」というちょっと気恥ずかしいようなタイトルでしたが、地域社会の見直しの中で、彼らが大切にしている町の姿、その中にこの地で生きることの誇らしさが描かれた大作でした。この映画がご縁で、以来、毎シーズンこの町に通ってきました。

駅に降り立つと「お帰りなさい!」と迎えてくれる仲間。

この町の4月19、20日の「起こし太鼓」は勇壮で素晴らしいです。ユネスコ無形文化遺産に登録されている気多若宮神社の例祭。1月15日の「三寺まいり」は親鸞聖人のご遺徳を偲び、円光寺、真宗寺、本光寺を巡拝したことに始まる200年以上続く伝統行事。「和ろうそく」を灯します。

400年以上もの伝統を持つ「三嶋ろうそく」は信仰深い飛騨の神仏行事になくてはならない宝物で、7代にわたり手作りの技が伝えられています。和ろうそくは”私の”古川の誇るべき伝統工芸です。

祭り好きの古川の人々にとって、古川提灯にともされる和ろうそくの灯りは、まるでいきもののようなゆらめき、この町とこの町をを訪れる旅人に忘れられない灯りをともしつずけるのです。

町の産業、人口の推移、教育などあらゆる面でバランスがとれていないと、町というのはいつか原型を失っていくのではないか。古川の祭りは、いつも私に「町のバランス」を思いおこさせます。祭りがプロの手に渡らずに町の人々で支えられている理想的な姿をみることができます。

コロナの影響で中止になっていた祭りも少しづつ復活してきました。

そんな彼らとの交流の中で、私は円空仏に出会いました。ある夜、青年団の一人が古くから家にあったという一体の仏像をもってきてくれました。聞けば、その家に伝わる宝物、円空仏だというのです。

円空さんは1600年代、この飛騨一帯をはじめ全国各地の山間や辺境の地を修経者として旅をし、人々の貧困や病苦を救おうと一心に祈り、そして木像を彫り続けました。飛騨路のお寺、千光寺には名作が多く残されています。その木像を抱かせていただくと、400年以上の歳月を経たその像は枯れているのですが、ずっしりと手に重く、温もりがあるのです。平穏の深さ、無垢、無音の歓喜。木の精が確かにそこに在るのです。

千光寺に足をのばしました。標高千メートルの静寂。紅葉も終わりにちかく、千光寺は袈裟山の頂上にほど近いところに、まるで時間が止まったかのように静寂があたりを包みます。遠く御嶽山には雪がかぶっていました。

千光寺は「お大師さま」として親しまれている弘法大師を宗祖とし、高野山真言宗のお寺です。前住職で実父の大下大圓さんからご子息の真海副住職(39)が25代目新住職となられました。

先日、新住職就任の儀式「普山式」が厳かに行われたそうです。同寺は約1600年前、伝承上の人物「両面宿儺(りょうめんすくな)が開山したと伝わります。

私は、新住職のご案内で本堂でお参りをさえていただきました。しばらく当寺に滞在し飛騨一円で刻んだ仏像は数百体にのぼるといわれ、千光寺には六十三体の「円空仏」が安置されています。

なかでも円空さんの”おびんずるさん”は頭の部分がつるつるです。人々は頭をなでて苦しみから救われたといわれます。口角をあげ笑みを浮かべたお姿。大好きな仏さまです。「なでぼとけ」ともいわれ、もっとも親しまれてきた円空仏です。最初に私が伺った頃には本堂に安置されており、私も頭をなでさせていただきました。円空の自刻像ともいわれます。生涯に十二万体の仏像を刻んだといわれる円空さんに別れをつげました。


そして嬉しいお知らせです。

飛騨古川に移住して15年、山田拓さん・慈芳さんご夫妻の経営する「SATOYAMA STAY NINO-MACHI」に宿泊することができました。まず、2010年に「里山文化と世界をつなぐ」というコンセプトで飛騨の古民家からスタートした里山の暮らしを体験できるガイドツアーを立ち上げ”里山サイクリング”を、世界中から集まるゲストに提供し、飛騨の日常を自転車でのんびり体験してもらう。

古川の人たちと触れ合ってもらう。私が理想とする交流をしてくださり、今回新たに古川の街並みにあうように地元の匠が町に溶け込むように創った宿です。古民家再生とはまた違った新たな取り組みです。きっと100年、200年と続く職人の心意気を感じました。部屋には家具、小物、陶芸家による陶文字アートが壁に飾られ、出来る限り地元の作品が素敵です。

私は蔵を改装した部屋に泊まりました。すべてに細やかな配慮がなされており何とも心地よい空間でした。食事は朝食のみ。地元の食材を出来るだけ使い、夕食は町の中で召し上がっていただく…このコンセプトは素晴らしいですね。

私は3軒お隣のおばあちゃんのお惣菜やさんにお皿を持って買いに行き、宿で食べました。絶品!大きなお鍋に何種類ものおかず。大皿にもたくさんのおばあちゃんの料理。外国の方々はさぞかし喜ばれることでしょう。

インバウンド。コロナも落ち着き海外の方も戻ってきました。ご夫妻は2年間海外をキャンプしながら周ったそうです。これからの旅のあり方の一つの方法でもあるでしょう。

旅は曼荼羅

旅は昔から賜ぶ(たぶ)と書いて、旅。

人に出逢い、人から必ず恩をいただくこと、それが旅だと思います。私が旅する先で知り合い、おつき合いいただいている友人たち。私はいただくばかりで。そう、借りばっかり。いただく心より、ちょっとだけ、さし上げられる心のほうを多めにしていきたいな、これからの旅に対する私の心構えです。

写真で古川の街を散策してください。古川祭保存会の駒さんは初めて古川とご縁を結んでくれた道具家「駒」の駒侑記扶さん。土門拳さんが何度も訪ねています。

鯉が泳ぐ瀬戸川と白壁土蔵の街。造り酒屋の麹の香りが漂ってきます。「飛騨の匠」の伝統技術が受け継がれ、寺や家屋の軒先に大工の目印「雲」。屋台蔵。三寺まいりにには欠かせない「三嶋ろうそく」。

私が伺うと入り浸る「カレーとコーヒー」の店。飛騨牛のスジなどでとったダシで牛スネ肉と玉ねぎで煮込んだコクのあるスパイシーなカレーと美味しく焙煎されたコーヒー。今回はびっくり!外国の方が半分くらいでしょうか。どうやって調べるのでしょうね。幼い子ども連れの方も。

万事がスピード時代。たまには”のんびりと旅を”お楽しみください。

今回の旅では、素敵な再会ができました。皆さま”ありがとうございました”また出逢えることを楽しみにしております。

山田拓さんのSatoyama Stay Nino-Machi
https://satoyama-experience.com/jp/satoyama-stay/nino-machi/

飛騨古川観光協会
https://www.hida-tourism.com/

「ヴァロットン 黒と白 展」

東京駅から歩いて数分のところに「CAFE 1894」があります。しっとりとした、お洒落なカフェレストランで、名前の数字はカフェが入るビルが完成した年に因んだものです。明治27年にできたのですね。丸の内にあるこのオフィスビルは「三菱一号館美術館」となり、今も多くのファンの心を惹きつけています。

先日、その美術館に行ってきました。「ヴァロットン 黒と白 展」。19世紀末から20世紀初めにかけて、パリで名声を博した木版画家のフェリックス・ヴァロットン。彼が生み出した黒と白の世界、その色彩の豊かさにまず圧倒されました。

単なる黒と白、2色の作品ではなかったのです。スイスで生まれたヴァロットンは10代の後半に、絵画を学ぶためにパリに向かいます。そして、およそ10年の助走期間を経て、本格的な木版画の制作に取り組みます。

若きヴァロットンは前衛的な芸術家集団・ナビ派に属し、ゴーギャンやボナールらと交流を深めました。その中で、日本の浮世絵文化に心を惹かれ、ジャポニズムの影響を強く受けながら、木版画の新しい世界を開拓していったのです。

作品の題材は、パリの街で繰り広げられる男女の心の機微、これは「アンティミテ」などで知られています。そして、第一次世界大戦の悲惨さや愚かさを鋭く風刺した「これが戦争だ!」や、学生たちのデモ行進の様子を描いた「息づく街 パリ」など、実に幅広いテーマで時代の空気や精神を切り取っています。

ヴァロットンが木版画によって表現したのは、ジャーナリズムそのものだったのでしょう。黒が黒だけで終わっていないのは、木版画によって社会の実態を捉え、それを伝えようとしたからなのだと感じました。

ヴァロットンは晩年、木版画を中心とした絵画への貢献に対し、フランス政府から「レジオンドヌール勲章の受章を打診されました。彼はそれを、きっぱりと断ったということです。

ヴァロットンの魅力に溢れた「三菱一号館美術館」では、作品と会場が見事に調和していました。建物の設計者はジョサイア・コンドル。日本に惚れ込み、日本で没したイギリスの建築家で、鹿鳴館を設計したことでも知られています。

この美術館のビルは、およそ半世紀前、老朽化により再建されました。それを担当した関係者は、窓枠一つ、階段の手すり一つに至るまで、可能な限り復元させるとの思いで臨んだそうです。

ビルの一角にあるカフェは、そんな雰囲気と志を醸し出しているようです。

私は昔から映画も落語も美術館も、一人自分のペースで動くのが好きでした。特にお薦めは美術館です。そこは静かで、一人でいても誰も不思議に思いません。そんな空間に身を置く、ソファに座って自分を休める。贅沢で心豊かな時間と空間です。

そんな体験をした私はまだ落ち葉の残る丸の内の歩道を、一人静かに歩きながら、新幹線のホームへ向かいました。

展覧会公式サイト
https://mimt.jp/vallotton2/

(作品は一部撮影可)

女性の翼

沖縄から戻りました。今回は「復帰50周年特別企画」の講演に招かれました。テーマは「私と沖縄の50年」ということで、これまでの沖縄とのご縁について話させていただきました。

そしてパネルディスカッションでは「沖縄(うちなー)女性の歩んだ道」をテーマにそれぞれの分野で活動をなさってこられた4名のパネリストからは看護の現場から、また一日7万食余りの給食を県内のこども園、小中学校へ提供してきた”食の現場”から、また青少年育成のため尽力された方、離島(八重山など)教育現場で活躍された方々のお話しでした。

皆さん私と同世代。大変なご苦労がある中、明るく前向きに歩んでいらしたお話しには私自身励まされました。会場には30代から90代までの会員の方々200名あまりの方でいっぱいでした。

熱気あふれる会場で私はこのような話をさせていただきました。


「女性の翼」が今年40周年をむかえられたこと、本当におめでとうございます。

男女共同参画社会との実現への寄与を目的に、「女性の翼」はこれまで、さまざまな研修会を開き、女性の社会進出を促進する活動を地道に続けられてきました。

国内のみならず、海外セミナーも定期的に行い、そこで感じたこと、学んだことを力に変え、着実に沖縄で実践なさってきたこと、沖縄の女性の底力あってのことだと、深く感じております。

私はこれまで、職業は旅人かと思うほど、多くの土地を旅してきました。心惹かれ、何度も繰り返し、お訪ねしている土地もたくさんございます。

けれど、沖縄ほど魅力を感じる土地はほかにありません。

沖縄に来るたびに、第二の故郷に戻ってきたかのような安堵感を覚えます。ああ、ここに帰ってきたと。私がはじめて沖縄に降り立ったのは、まだ返還前のパスポートが必要な時代でした。そのご縁を結んでくれたのは、民芸運動の創始者・柳宗悦氏の本でした。

柳氏は昭和13年に沖縄を訪ねられたのですが、そのときの感動を「沖縄は自分が思い描いた民芸の理想郷「美の王国」だと綴っていらっしゃったのです。

民芸が提唱する用の美、無名の人が作る美しい沖縄の道具をこの目で見たいということ。それが第一の目的でしたが、回数を重ねるごとに、沖縄の女性にどんどん惹かれていく自分に気づかされました。

決して忘れられないことのひとつが、故・与那嶺貞さんとの出会いでした。

ご存知のように、貞さんは、琉球王府の美の象徴であり、民族の誇りでもある花織を、復元した女性です。民芸を訪ねる中で、貞さんに出会えたことは、幸運としかいいようのないものであり、貞さんと過ごした時間は今も鮮やかに記憶に刻まれています。

出会って以来、ことあるごとに、私は貞さんの元を訪ねさせていただきました。貞さんの人生は、多くの沖縄の女性と同様、過酷なものでした。第二次世界大戦で夫をなくし、自分は銃火の中を三人の子どもを抱えて逃げまわり、終戦後、女手ひとつで三人の子どもを育てられました。

その子育ても終わった55歳のときに、貞さんは古い花織のちゃんちゃんこに出会い、その復元を決意なさんたんですね。琉球王府の御用布であったにもかかわらず、工程の複雑さ、煩雑さから、伝統が途絶えてしまった花織を、貞さんは幾多の苦労を経て復元し、人間国宝となられました。

貞さんが織った花織は、何本もの糸を用い、花が浮いたような美しさです。驚くほど軽く、肌触りは限りなく優しいんです。貞さんのその着物は、私の宝物です。

貞さんは「女の人生はザリガナ。だからザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグでないとね」とよくおっしゃっていました。

ザリガナとは沖縄の言葉で、もつれた糸をほぐすこと。

女の人生はもつれた糸をほぐすこと。今日、ほぐせなかったら、10日、1年、いやもっとかかっても根気よくほぐしてこそ、美しい花織を織ることができる……。

貞さんのこの言葉は、みなさま、沖縄の女性の本質を表しているのではないでしょうか。「女性の翼」の力の根源ではないでしょうか。根気よく糸をほぐすためには、辛抱強さと優しさが必要です。ほぐした後にどんな織物を織ろうかと、未来へつなぐ希望も兼ね備えていなくてはなりません。辛抱強さと優しさ、希望を持ち合わせている沖縄の女性、「女性の翼」こそが、21世紀のよりよい社会を作る大きな力となると私は信じています。

とはいえ、今も沖縄には、さまざまな問題が山積しています。
沖縄は、先の戦争で、日本本土防衛の最後の砦となりました。

約3カ月にわたって日米両軍による激しい戦闘が繰り広げられ、日米双方で20万人もが命を落としました。県民も約4人に1人が犠牲になりました。軍人よりも民間人のほうに多くの犠牲が出た悲惨な戦いでした。

戦後は、アメリカ統治下となり、琉球政府は三権分立の形をとっていても、統治者と被統治者の別があり、軍事優先の政策に翻弄されました。

そして1972年5月、27年間に及んだアメリカ統治が終わりを告げ、沖縄は日本に復帰しました。

それから50年。今年、返還50周年を迎えました。

今、青い空と海、穏やかなで明るい人々に心惹かれ、沖縄は多くの観光客が訪れる場所となっています。しかし日本復帰から50年が経った今なお、変わらない問題もあります。「二度と戦争はしない。してはいけない」という決意がどこの人より強い沖縄の、その国道の脇には大きな長いフェンスが渡され、町が基地で分断されている状況が今も続いているのです。

このことを私たちは決して忘れるわけにはいきません。

また2年半に渡る新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛要請のために、沖縄の観光産業は大打撃を受け、先が見えない状況が続きました。こうした中で増えるもののひとつが、子どもや女性に向けられる暴力です。行き場のないフラストレーションが弱者に向かってしまうんですね。

沖縄でも残念なことにDV被害者が増えています。また、近年、困窮するシングルマザーも増えてきました。

「女性の翼」は、今すぐ、待ったなしでサポートを必要としているこうした女性たちのために真っ先に立ち上がって下さっています。

「あなたの笑顔が私の笑顔」という言葉を掲げ、「女性の翼OK基金」を創設し、行政の制度では間に合わない緊急の対応や、施設から自立するときの一時金で、大変な状況にある女性たちを支え、応援して下さっています。

「女性の翼」の会員は30歳台から90代まで、250 名もの正会員がおり、県内市町村の女性議員の多くも会員というのも心強い点です。男女共同参画が提唱されて久しい今でも、出産、子育て、介護など、人生の節目節目で立ち止まることをよぎなくされる女性も少なくありません。

それでも、「女性の翼」が40年に渡り、女性の心をつなぎ、手を握り、ネットワークを作り上げ、活動を広げてきたというのは、会員ひとりひとりの思いの深さ、確かさ、また包容力や気持ちの温かさあってこそだと思います。

女性も男性も、自分らしく「人間らしく」生き生きと暮らせる沖縄を作っていくためには、これからますます「女性の翼」の活動が必要です。

みなさんのこれまでの努力に感謝し、敬意を表すと共に、これからもがんばってくださいますようにとエールを送らせて下さい。

私も微力ながら、沖縄のために活動を続けるつもりです。

ひとつ私が心に期しているのは、首里城の再建のために、全国の皆さんに沖縄の職人の素晴らしさをいま一度知ってもらおうということです。

首里城の建物、そして収蔵品や復元品にいたるまで、琉球の粋と心が詰まっていました。復元するには職人さんがなくてはなりません。

伝統を受け継ぐ職人たちも育ってもらわなくてはなりません。
やちむんや琉球ガラス、漆器、芭蕉布や花織など各地の織物……。

この悲しい出来事を機に、本土の人にも沖縄の伝統工芸を知ってもらうために、私もまた発信を続けて参りたいと思っております。

先日は主婦の友社の雑誌「ゆうゆう」との企画で、松田米司さんのやちむん八寸皿をご紹介し、読者さんを中心に通信販売もすることができました。こうして少しずつではありますが、できることを今後も進めていくつもりです。

そして、何より、これからも私は沖縄の女性たちとともに歩んでまいりたい。

皆さんの仲間でいたいと思っております。
本日はありがとうございました。


恩納村の会場から那覇空港に向う途中にある道の駅に寄り ゴーヤと海ぶどうを買い、松田米司さんの器に”ソーメンチャンプルとゴーヤチャンプル”を作りいただきました。この器は八寸なので、カレーでもパスタでも何にでも使いやすいです。

年明けの釜出しに合わせて”ゆうゆう”(主婦の友社)の1月号(12月1日発売)、2月号(12月28日発売)で お求めいただけます。

琉球歴史文化の日

11月1日は「琉球歴史文化の日」と定められました。(令和3年3月31日)

沖縄は長い歴史の中で、先祖への敬い、自然への畏敬の念。多様な文化を受け入れてきました。そうした沖縄の歴史と文化への理解を深め故郷(ふるさと)への誇りや愛着を形成していく。それらの目的があります。伝統芸能、伝統工芸、音楽、食文化、沖縄のことば(しまくとぅば)……など等。

このブログでも沖縄のことは何どもお伝えしておりますが、私が始めて沖縄の地を訪ねたのは復帰の前年。もう51年前のことです。”沖縄こそが民藝のふるさと”と書かれた民芸運動の創始者 柳 宗悦氏の本で始めて知りました。それからです、私の沖縄詣でがはじまりました。

そして私はある春の一日。まるで幻のような絵巻物をみることができました。旧暦三月三日の「浜下り」という行事へ誘われたのです。私の沖縄の仲間たちからのお誘いでした。私の沖縄行きをいつも二倍三倍も楽しく心強いものにしてくれる女友だちが、三月三日のお祭に伝統的な衣装を着て集まるというではありませんか。

「浜下り」という行事は、昔ながらの女・子どもの息抜きの日。一年の労働を休み、女たちは浜辺に下りて、重箱を広げ、歌い舞って一日を楽しむというもの。浜辺で身を浄めるという故事にもゆらいしているそうです。総勢20名もの女性が浜へ下り、髪をアップにし、トップにかもじをのせた型の沖縄髪、銀のかんざし、花鳥更紗文様の打ち掛けには真っ赤な衿がついています。

高貴な女性たちの装束に身を包んだ女性たちが、古い舞い唄にあわせて舞うさまは、まさに竜宮城もかくやと思わせる幻想的華やかさ。現在でも普段着で「浜下り」は続いている伝統行事です。かれこれ30年ほど前のことです。こうして続いている友情。

旅は私に多くのことを学ばせてくれます。

幼かった四人の子供たちと夏休に沖縄の旅も経験しました。母親になったとき、ごく自然に旅を子育ての舞台にしようと思ったものです。その理由は頭で知識として学ぶのが学校なら、「体で、心で感じとってほしい」それが旅だからです。

長女は訪ねた村でおばあちゃんの話す言葉が外国語のよう。早速、図書館へ向かいました。長男は農家のおじさんにサトウキビをわけてもらいます。山育ちの長男は丈夫な歯と上手に登山ナイフが使えることが自慢です。ところがサトウキビの固さには歯がたちません。「歯がたたないもの」があると教えられました。

案内してくださったタクシーの運転手さんは六十代半ばの温厚な方。白髪まじりの頭に日焼けしたお顔。Tシャツの首元にひきつったような傷跡がみえました。一緒に写真を撮らせていただきました。末っ子のことばは「ここってアメリカ?」でした。

「いーや、坊や、ここは日本、沖縄だよ。昔、アメリカがやってきて戦争があったんだ。おじちゃんの家族や親戚もずいぶん死んだんだよ」と。

戦闘機がずらりと並ぶ基地あたりは息子たちにとって、なかなか迫力があり、それだけにおじさんのひと言がリアリティを持って伝わるんです。次女のアルバムには一緒に撮った写真の下に「おじちゃんかわいそう、せんそうっていやだね」と書かれていました。

毎年、八月になるとテレビで「語り継ぐ戦争」「語り継ぐ平和」的な番組が多くなります。

沖縄の地で、沖縄の人びとの貴重な体験談に瞬きもせず聴く小さな子供たちの姿に、私が教えられました。小さかった子ども達も親になり、やはり子どもを連れて沖縄の旅をしています。

今日(4日)これから私は沖縄に行ってまいります。「沖縄女性の翼」という女性の社会進出を促進するための活動を積極的に行っている人たちのお招きを受け、話をさせていただきます。「誰もが一人の個人として尊厳が守られる社会。誰一人取り残されない社会の実現にむけて」をテーマにシンポジュームが開催されます。次回ご報告いたします。

津軽三味線 高橋竹山さん

「ちくざん さーん!」。思わず大声を出しそうになり、慌てて口を押さえました。そして、静かな拍手を送り続けました。津軽三味線奏者の二代目・高橋竹山さんが上野の山に戻ってきたのです。

日本で一番好き、と彼女が語る東京文化会館小ホール。600席を超す会場は、気持の昂ぶりを両手でしか表現できない竹山ファンで、ほぼ埋め尽くされました。「襲名25周年記念演奏会」と銘打った今回の舞台は、ピアノを中心に多彩な音楽活動を繰り広げている小田朋美さんを加えて、”高橋竹山の今”を存分に感じさせるものとなりました。

竹山さんは少女時代から津軽三味線に心を奪われ、初代 高橋竹山に弟子入りします。三味線一つで東北や北海道などを巡る初代に弟子の竹山さんは同行し、修行を重ねたのです。そして、訪れる先は国内に留まりませんでした。アメリカを始め、フランスやイギリスへと、海外公演は繰り返されます。各地を歩く中で、竹山さんは演奏の技術だけではなく、津軽三味線の魂そのものを学んでいったのでしょう。こうして25年前に二代目を襲名した竹山さん、今回の記念演奏会は素晴らしいものでした。背筋をピンと伸ばした凛々しい立ち姿。ピアノとの共演も、2時間に及ぶ舞台の巾と奥行きを豊かなものにしていました。

アイルランドの詩が朗読されました。そして、詩人・茨木のり子さんの、「わたしが一番きれいだったとき」が語られました。平和と自由を賛美する、各国で翻訳された詩です。さらに、ファドも登場します。女性が哀調たっぷりに唄う、ポルトガルの”民謡”ですね。

私がまだ20代の頃、ポルトガルを旅したことがありました。田舎町の酒場で踊り唄い続ける黒い瞳の痩せたダンサー。彼女に促され、私も踊りました。客たちは、用意された素焼きの小皿を床に叩きつける、店にはそんな”約束事”があったようです。初めての体験に驚きながら、私も小皿を投げました。店内の人たちの地を這うような喋り声、そして呻きとも聞こえる合いの手。竹山さんの舞台は半世紀前のそんなシーンを、まざまざと思いだすきっかけとなりました。

東北の土着の息遣いから、多国籍の広がりを持つ世界の感性へと昇華した津軽三味線。

神々しさすら感じた舞台を、じっくりと拝見することができました。

高橋竹山公式サイト
https://www.chikuzan.jp/