一途一心、命をつなぐ

天皇陛下の執刀医・天野篤さんが「一途一心、命をつなぐ」(飛鳥新社)を
上梓されました。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)にお招きしお話をお伺いいたしました。
心臓外科医として30年。これまでに手掛けた手術は6000例を超える天野さん。去年2月18日には、天皇陛下の心臓バイパス手術を執刀し、その名が全国に広まりました。
そんな天野さんですが、『挫折から始まった』とおっしゃいます。
天野さんは、1955年、埼玉県蓮田市のお生まれ。
日本大学医学部を卒業後、関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)で研修を行なった後、鴨川市の亀田総合病院、松戸市の新東京病院などの民間病院で、20年近く勤務。
昭和大学横浜市北部病院・循環器センター長・教授を経て
2002年から、順天堂大学医学部の教授です。
スタジオに現れた天野先生は穏やかな笑みをうかべ、
ダンディーで素敵な方です。
3浪目で心から医師になりたいと思われたそうです。
挫折もいくつか経験し、最も大きな挫折は、心臓外科を志す動機であり、
支えであったお父様をご自分の判断ミスもあって失ったことだそうです。
お父様は、3回目の手術で亡くなってしまいます。66歳の時。
天野さんは、すでに心臓外科医になり、手術には立ち会ったそうです。
トラブル続きの手術。”今なら絶対に助けられた”・・・と。
2011年3月11日、午後2時46分。
東日本大震災が起こったときも、手術をしていました。
手術室は大きな横揺れに見舞われ手術機器がずれ動き、血液は波打ち、
皆で必死に体を押さえ、中断するわけにはいきません。
なんとしても手術を続けなければなりません。
「お前ら死んでも、この患者さんは助けるからな!持ち場をはなれるなよ」
そんな言葉が口をついて出たそうです。
「患者さんの命は今、自分の手の中にある
心臓を止めたままで終わらせることはできない。
預かった命はちゃんと元気にして戻さなくてならない。
前身全霊を傾けて命を守る義務がある」
そんな思いで手術を無事に終え、
「大丈夫ですよ、きちんと乗り切りました」と家族に告げると、
涙を流して喜んだそうです。
人の役に立つことができる”手術という力”を持てたことを心から感謝している・・・ともおっしゃいます。
手術をするだけが外科医ではない・・・とも。
小学生の頃はプラモデル作りに熱中。家庭科は5。
手先はとても器用だったそうです、子どものころから。
日本中が注目した手術。
2月18日、東大病院において東大と順天堂大学の合同チームによって
天皇陛下の冠動脈バイパス手術が行なわれました。
結果は、皆さまもニュースでご覧になったでしょう。
“いつも通りにしっかりやれば、絶対に何も起こらない。心配しなくていい。”
お仲間と前夜はイタリアンに行き、リラックスして手術に臨んだそうです。
“いつも通り”
これが難しいのですよね。
ここまでがんばってこられたのは、好きなことをやっているから、好きだから、とことんがんばれる。諦めずに、目標に向かって進んでいける。
やっぱり大切なのは「愛」
「この人のために少しでもいいことをしてあげよう」
「がんばっているから、できるだけ力になってあげよう」
相手に対するおもいやり。
「愛」があれば、普段はできないようなことができたり、難しい局面を乗り越えるパワーが生まれるわけです・・・と。
そして、「天皇陛下の執刀医」と呼ばれることについて、「光栄なことですが、脱皮しないといけないと思っています。これまで以上に、一心臓外科医としての道を極め、努力し、得がたい機会の恩返しがしたい」とおっしゃいます。
スタジオを出、通路までお見送りすると「浜さん、僕はお正月は真っ暗な中、家内と一緒に箱根神社に初詣に行くんですよ」と笑顔でお話くださいました。
後姿がとても清々しく、とてもチャーミングな天野先生でした。
「先生、患者さんのために、これからも頑張ってください」・・・と心の中でお願いしました。
4月28日と5月5日、2週にわたり放送いたします。
ぜひ、お聴きください。

八ヶ岳・夢宇谷へ。

早春のある日、箱根から山中湖、河口湖を抜けて
八ヶ岳に行ってまいりました。
一面の菜の花畑が広がる大地。
足もとで咲く可憐な菫。春の息吹を感じつつの小さな旅。

森を抜けると私の大好きな「夢宇谷(むうだに)」につきます。
夢宇谷・・・とは夢の広がる谷、という意味でつけられたそうです。
オーナーは世界中をエネギィッシュに飛び回っている幸義明さん。
森を切り拓き、自ら創作場を造り、そして、蒐集した骨董や世界の
作品がところ狭しと飾られています。

今回はイスタンブールから届いた
「アナトリアン・キリム・パッチワーク」を見たくてでかけました。
幸さんもトルコのめずらしいこの絨毯が好きで自ら選んできたそうです。
アナトリア地方のキリムのパッチワーク。
オールド絨毯を切り取り、パッチワークしてつくられたカーペットです。
パッチワークですから、造り手のセンスで作品が変わります。
素敵な色づかい、風合い、トルコならではのセンスが魅力的でした。
帰り道、桜が舞い散り、春風とともに家路につきました。
夢宇谷 Weekends Gallery 「MUU」
山梨県北杜市大泉
TEl:0551-38-0061
ご興味のある方はお問い合わせください。

天草のスーパースマイルを訪ねる旅

熊本県天草に行ってまいりました。

90歳を迎えた味噌名人の横山さん。
84歳の野崎さん。
そして、惣菜一筋笑顔のチャーミングな吉永さんも80代。
皆さん天草にお住まいです。
長野から、宮城から、東京、岐阜とそして熊本・天草の方々。
総勢30名ちかくの集まりでした。
皆さん、持ち寄りで美味しい・それはそれは美味ばかりの手作りの料理。
採れたての魚や貝などテーブルに溢れるほどのお料理でした。

30年ほど前に「これからの農を支えるのは女性の力」と思い、農・食の問題を勉強してまいりました。
スタートしたときはには、個人的な興味だったものが、いつしか社会的な関心へと高まっていきました。農業を営む多くの人々と知り合い、生の声をたくさん耳にするようになりました。
30年の間に農業がどう変化したのか、生産者と消費者の両方から見ることができました。政府関係の各委員や農業関連のジャーナリストとも交流が生まれ、各種の研究会で勉強させて頂きました。
その間に、だんだんとわかってきたことがあります。
それは、農業が、何より、生命とかたく結ばれている、”母なる業”であること。
そして農業のあり方が、この国に住む人間の環境を左右すること。
農業こそが私たちの未来の鍵を握っているということ。
私は20年ほど前から、主に女性たちで、農山漁村に伝わる「食」をテーマに、生産者と都会の消費者とで交流しあう「食アメニティ活動」を行なっているのですが、ここに集う女性たちの素晴らしさにはいつも目を見張ります。
彼女たちは、自分の手で作った素材や山々から摘んできた素材を丹念に処理し、手間をかけて、素材を生かした味わいを生み出します。ひとつの無駄もなく、産物を使いきろういうその姿勢は見事なばかりです。
「グリーンツーリズム」を学ぶためにイギリス・ドイツ・イタリア・オーストリア・オランダ・フランス、そして韓国でも女性たちとの交流を深め学んできました。
そんな仲間が全国にいてくださいます。
真摯に生きてきた女性たちならではの知恵と工夫。
女性のおおらかさとたおやかさ、土に根ざした強さとでもいうのでしょうか。
合理性や効率を追求しがちな男性社会にはない、命を育む者が持つ底力ようなものを感じています。
今、日本は岐路にあります。
「農は命に直結している」・・・ことだけは忘れないでください。
バスの車窓から見た美しい海は忘れられません。
皆さん、ありがとうございました。
また伺いますね。
スパースマイルの皆さま・・・お元気で!

幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語

帯にはワーグナーに愛されながら、「消された」楽器の秘密。
と書かれています。
え・・・ヴィオラ・アルタってどんな楽器なの?
ヴィオラとは違うの?
早春の箱根の山で「謎解きの旅」にでました。いっきに読み終えました。
たちどころに、ヴィオラ・アルタの音色が響き、身体中が感動の渦の中にいる自分に気がつきます。
「謎解き」ですから多くは語りません。ただ、どうしてもその音色を聴きたく、ラジオのゲストにお招きしお話を伺いました。
ヴィオラ・アルタ奏者の平野真敏さん。
平野さんは、1967年、福岡県生まれ。
東京藝術大学・音楽学部・器楽科およびドイツ・デトモルト音楽院ドルトムント校を卒業。この度、「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語 (集英社新書)」を上梓されました。
2003年のある日、渋谷の楽器店を訪れたことからはじまります。
「お母さん、こんなに小さなチェロがあるよ」
と小学校低学年の男の子が、古いショーケースを覗きこみ言います。
元々は、ヴィオラ奏者だった平野さん。
10年前のある日、その見慣れない楽器に出会いました。
平野さんは、その後、どうしてこの楽器が音楽史の表舞台から消されたのかを知るため、ヨーロッパに向かいます。
ここから壮大なドキュメンタリーの幕開けです。
平野さんにはラジオでたっぷり語っていただきました。
そして・・・スタジオにその幻の楽器をお持ちいただき拝見し、その音色も聴かせていただきました。
ぜひ、ラジオをお聴きください。
その謎と音色をお楽しみください。
ひと言だけ・・・秘密は、その響きはある楽器の音色にそっくりだったのです。
放送は文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」3月31日、日曜日
10時半から11時です。

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小浜市の伝統行事と食

先日、福井県若狭で「小浜市の伝統行事と食」というシンポジュームに招かれ伺ってきました。

「若狭のよもやま話」・・・と題して、民俗学者の神埼宣武さんとご一緒に若狭・小浜の伝統文化や食について興味深いお話が伺えました。
豊かな歴史と自然に育まれた若狭小浜は「御食国」「鯖街道」「社寺と町並み」など伝統行事が各地区で守られ、海・山・里が一体となって文化が守られている地域です。
私が若狭に通い始めたのはかれこれ20年ほど前でしょうか。
京都でもなく、北陸の各都市とも違うこの地、初めはワケもなく惹かれ、京都と金沢を行き来する間に何度も途中下車して寄り道してきた歴史があります。
四季折々の空の色。
海辺の町のおかずの匂い。
この地に釘づけになったのです。
旅人でありながら住み着くことを考えるほどこの地に惹かれてしまったのです。
特に夏の終わりの「地蔵盆」のことは人づてに聞いていました。
その頃に訪ねたい・・・と思いうかがったのが17年前です。
ゆく夏を惜しむかのように鉦や太鼓で送る子らの念仏が今も心に残ります。
「伝えなければすぐに途絶えてしまう」
そういう思いで守られてきた伝統行事です。
14歳までの少年たちが8人、小部隊を組んでとり行われます。
15歳からは青年会に入ります。
地蔵盆で男子は社会の仕組みを知るらしいです。
8月20日の地蔵洗いと厨子洗いに始まり旗づくり。行灯をつるす松をとりに山へ行く。子供たちだけでワッショイ、ワッショイととってくる。お堂建て。このお堂で子供たちは泊まります。
この行事は男の子が成長する大切な通過儀礼であり、それが伝統。
子どもの祭りだから大人は”手をださない”子ども任せ。
子供たちはカネやタイコではやしたて、町ゆく人、旅人を引きとめて、
そなえてもらうよう願います。
「な~もじぞう、な~もおけそこ」という不思議な呪文。
夏の終わりの祭りです。
見事な彩色地蔵は、やはり若狭小浜の独特の風習。
私は思うのです。
“都会を追い求めないで”・・・と。
日本の食文化は、ひとつの食材を「走り・旬・名残」とうつろいの中で楽しみます。季節の食材を大切に慈しんできました。
今の教育現場では「食育」という言葉が使われます。
もちろんそれも大切です。
でも・・・こうした日常の暮らしの中から子供たちが成長していくことを大人たちは大切にしてほしい・・・と感じた若狭の旅でした。

浜からの風を感じながら、お魚市場での買い物。
焼鯖づしを買いローカル線に乗り、帰路につきました。
(車中で焼鯖づしとビールで乾杯!)です。

『昆布と日本人』

私たちの暮らしに欠かせない”昆布”
昔から日本人の食文化に欠かせない、昆布。
春・この季節では、やわらかく煮える昆布と筍、または豚肉とあわせて煮る昆布など等。沖縄の人は本当に良く昆布を召し上がりますね、国際通りの公設市場に行くと昆布が山盛りに売られていますもの。私も大好きです。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)のゲストに
昆布と日本人」を上梓された奥井海生堂4代目・奥井隆さんをゲストにお招きいたしました。
ちょうど収録の前日、若狭周辺を小浜から敦賀に向かっておりましたので、お店に伺い、また工場で「蔵囲(くらがこい)昆布」を見せていただきました。

奥井さんは1948年生まれ。
立教大学経済部を卒業後、奥井海生堂に入社。
奥井海生堂は、曹洞宗の大本山・永平寺、横浜の総持寺ご用達の「御昆布司」を勤め、京都や全国の有名料亭などに高級昆布を納めています。
私が伺った時に見せていただいた専用昆布蔵で数年間寝かされ蔵囲いの中で熟成し、夏の浜で太陽による自然乾燥をうけた昆布が静かにときを待っていました。温度と湿度の管理が大変なようです。
昆布の歴史は古く、1200年以上前には蝦夷地(今の北海道)から奈良の都に、昆布は運ばれていたそうです。
江戸時代の中ごろから明治にかけて、北前船で日本海から京都、大阪、薩摩、琉球を経て、清(中国)へ。昆布ロードがあったのですね。
今、世界中から和食が注目を浴びています。
(世界無形文化遺産に登録を申請しました)
とくにフランス人のシェフが「昆布」に注目し、「昆布巻きのコクはチーズに似ている」との話も伺いました。ワインとの共通点もあり、和とフレンチのマリアージュもあるかも知れませんね。
とにかく「昆布は奥が深い」です。
ぜひ、ラジオをお聴きください。
放送は3月17日です。
今夜は白身魚を昆布で〆てみようかしら・・・。


映画『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』

素敵な映画を観てきました。
「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」 TOHOシネマズシャンテで。
インドが舞台です。
ごく普通に生きてきた熟年7人の男女が自分の意思でインドへと旅立ちます。
それぞれの事情を抱えてやって来た男女7人。乗り継ぎ便の欠航のため、満員の長距離バスで目的地ジャイプールにようやくたどり着きます。あふれる音・色彩のなかそこで待ち受けていた想像を超えた体験。
監督は「恋におちたシェイクスピア」(98)でアカデミー賞7部門獲得したジョン・マッデン、1949年英国ポーツマス生まれ。キャストは英国の名優たち。

中でもイブリンを演じるジュディ・デンチは最高です。
「恋におちたシェイクスピア」ではアカデミー賞助演女優賞を受賞していますし、「007シリーズ」で上司M役を演じています。

夫が亡くなり自分は無一文だと突然しらされ、少ない出費で長く暮らせそうな
可愛らしいホテルを目指してインド行きを決意するのですが、そこで待ち受けていたホテル・・・・とは。
すべて前向きに受け入れて挑戦していく姿に感動するのです。
主人公は”旅人”です。
「この国は感覚を刺激してくる」・・・と彼女は言います。
とても良くわかります。
私がインド通いを始めたのは10代終わりのころから約10年間でした。
パトナー、ナーランダー、ラージギル、ブッタガヤー、ベナレス、サルナート
おもにインドの北部を周っていました。長距離バスにのり、人で溢れる列車に乗り、ガンダーラや石仏など地方の像を訪ね歩き、終バスが来なくて村の家に泊めてもらったり・・・。
人なつこい人々。貧しくとも、逞しく、くったくない笑顔。
ガンジス河に朝日が昇るのをインドの人たちと拝み、沐浴の意味を考え若かった私に、「人が死ぬ」ことの意味を考えさせてくれました。

映画の舞台はデリーの少し下のジャイプールが舞台です。
ユネスコ世界遺産登録されている美しい・・・というより、エネルギーのかたまりのような街。華麗な寺院、色鮮やかなサリーが溢れる万華鏡のような街。
7名がインドに来て45日が過ぎたころ、それぞれの人生が輝きはじめた
時に突然終わりがきます。
ひとり一人の生きてきた人生。
選択はさまざまです。
私もこの年齢になってみて、この映画のもつ魅力が理解でき、感動し、生きる力をもらい、幸せについて考えました。
なんか・・・いいな~。
忘れかけていた胸の奥の奥のほうの切なさが心地よい映画でした。

18ひつじ《私たちの時代》

先日、36年続いてきた18年生まれのひつじ会で古希の集いが開催されました。53名の”ひつじたち”
事務局からこんなメッセージが配られました。
18ひつじ 《私たちの時代》
私たちは、太平洋戦争の最中、昭和18年ひつじの年に生まれました。
真珠湾攻撃の華々しい戦果の後、ミッドウエイ海戦に破れ、ガダルカナル島を攻略され、戦争の帰趨に暗雲が漂い始めた時期です。
その後、父は戦場に送られ、残された母と子は空襲の中を逃げまどいながらも終戦を迎えました。 外地で終戦を迎えた”18ひつじ”は更に引き上げという苦難を味わいました。
もちろん、私たちに戦争の記憶はありません。そして、戦後、日本のゼロから出発。貧困の時代から高度成長を経て、豊かな時代へ。日本の成長と私たちの成長は重なっています。生まれて70年、激動の時代を生き抜いた”18ひつじ”は本当に幸せ者だと思いませんか。
「18ひつじ古希の集い」
さまざまな職業の人の集まりです。
ファイティング原田さんは、エデル・ジョフレを破って世界バンタム級チャンピオンに。2階級制覇。彼が22歳の時。
私、浜美枝がイギリス映画「007は二度死ぬ」に出演したのは24歳の時。
昭和44年には東大紛争安田講堂崩落。
昭和45年大阪万博。
昭和47年あさま山荘事件・田中角栄列島改造論。沖縄日本復帰。
そして、昭和52年我々が34歳の時に「18ひつじ会」が発足しました。
昭和64年昭和天皇崩御。
ベルリンの壁崩壊。
そして、事務局の方が一人ひとりに生まれた日の新聞を用意してくれました。
私の生まれた日の毎日新聞には、ほとんどが戦争に関する記事でした。
この間、天に召された仲間もいます。
私が大好きだった女優・大地喜和子さんも。
みんなで献杯をしました。
戦争真っ只中にあって生まれた私たち。
でも、世界を見渡せば戦争は続いています。
逃げまどう子どもたちがいます。
どうぞ・・・平和な世界が訪れますように。


C・W・ニコルさん

20日(水)東京で「C・Wニコル来日50周年、アファン財団設立10周年」の記念パーティーが開催され、私は司会をつとめさせていただきました。

会場にはニコルさんの友人・知人・関係者、またアファンの森を応援してくださっている人たち、300名近い方々が全国から集まられました。
私がニコルさんと始めてお会いしたのは30年ほど前のことでしょうか。
対談をして、とても記憶に残るお話をしてくださいました。
“強くなりたかったら森へ行け”と小さな頃おばあさまに教えられたニコルさん。木と兄弟になるために木に抱きついてお願いしたそうです。
“兄弟になってくれ”と。
木の脈を感じ、木の声を聞いたそうです。
「耳をすますと、木が答えてくれますよ・・・木を抱くことは自分より強いものの存在を感じとることだった。」とおっしゃいます。座談会のときにうかがったお話です。そういう自然との接触が今日のニコルさんの心の基盤なのです。

彼が日本に住むと決めたのは、ひとえに自然の美しさ。
住んでみて分かったこと、住んできた歳月の中で急速に変化したことの多くがニコルさんの最初の思いや憧れを打ち砕くものでした。
“愛していればこそ、その破壊ぶりに噴りを感じる”と、当時語ってくださいました。
私にはよくわかるのです。
私も全国を歩いていて、壊されていく家々を何度も、何十回、いえ何百回と見てきましたから・・・。

パーティーで素敵なスピーチをしてくださった、アメリカ出身で日本文学と日本文化研究においては第一人者であり、3・11以降コロンビア大学退職後に日本国籍を取得されたドナルド・キーン氏のお話は、私たちが忘れかけている”日本の美”について語ってくださいました。そして、ニコルさんの現在の活動に賞賛の言葉を贈られました。

森づくりを始めて28年、長野県信濃町黒姫の荒廃した里山の再生活動を行なってきたアファンの森財団。
そのアファンの森をニコルさんと二人三脚でつくられた森のパートナー、松木信義さんが黒姫から苦手な都会の会場に駆けつけてくださいました。
松木さんは15歳から森で生きてこられた方です。
80歳になろうとしている松木さんは、引退して森を去りましたが、いつでも必要な時は駆けつけてくださるそうです。「松木さんほど森を知っている人は誰もいないのです」・・・とニコルさん。

そして、歌手の加藤登紀子さんはニコルさんと一緒に東松島で津波被害にあった学校を高台に移し「森の学校」づくりに協力し、パーティーで「鳴瀬未来中学校校歌」をお披露目してくださいました。

最後に「ニコルズバンド」の曲にのり、ニコルさんの素敵な歌声を聴きながら閉会いたしました。だれもが、名残惜しくなかなか会場を後にできませんでした。
22歳で日本の地を踏んでから50年。
アファンの森はこれから先、50年、100年経ち「たとえ自分はもういないとしても、将来に向けてなにか素晴らしいことが出来るはず森は未来だ」とニコルさんはおっしゃいます。
そうですね、将来の子供たちのために、私たちは今何をなすべきか・・・。
ニコルさん、ありがとう!!
そして、これからも宜しくお願いいたします。

「僕、72歳の赤鬼はもう年寄りです」な~んて言わないでくださいね。
人間として憧れています。ニコルさんの”木を抱く”生き方に。

生誕100周年記念 『中原淳一展』

日本橋三越本店・新館7階ギャラリーで18日(月)まで展覧会が開催されています。

「時を越えて魅了するモダン&チャーミング」
と書かれております。
戦前から戦後にかけて、ファッションデザイナー、人形作家、インテリアデザイナーなど多彩な才能を発揮した中原淳一。
展覧会があると、仕事の合間をぬってはよく見にゆきます。
今回も早速行ってまいりました。
昭和21年に「それいゆ」が発刊され毎号、爆発的に売れ、全国に中原フアンが広がりました。私も小さな頃から「それいゆ、ひまわり」のファンでした。でも、本屋さんで表紙を眺めているだけ・・・。だってとても高価な本でしたから、私には。
生前、女優になりたてのころにお目にかからせていただきましたが、憧れの先生は雲の上の存在でした。中原先生のお描きになった挿絵はすべて好きで、さまざまなおしゃれのヒントを本からいただいたものです。でも、あるとき展覧会で、改めて、以前は気づかなかった中原先生の文章に素敵な人間哲学がありました。
そんな文章をご紹介いたします。
『愛すること』     中原淳一
女性は愛情深い人間であって欲しいのです。
朝食の支度をするのなら、その朝食を食べてくれる人のひとり一人に愛情をこめて作って欲しいのです。
窓を開けたら新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、掃除をするならそこに住む人はもちろん家具、柱、壁にも愛情をこめられる人であって欲しいのです。
世の中がどんなにめまぐるしくなっても、そんな悠長なことは言っていられないなんて言わないでください。生きている限り、愛情深い女性でいてください。そういうことを知っている女性が必要でなくなることは、ないはずです。
飾とは、ファッションだけではなく、暮らし、そして生きること全般に美を追求されてきた中原先生の、心底、思うことがこの一文に現れているのだと思います。
「それいゆ」や「ひまわり」はまさに女性にありとあらゆる「暮らしの技術」を教えていることに気づきます。
「愛情深い女性でいてください」
このフレーズがこころにのこります。

【出典:中原淳一・若き日の名作選『中原淳一と少女の友』より】