私の信仰と円空上人

先週に続き「円空さん」についてお話いたします。
私にたったひとつ、信仰があります。
それは木。
木に何か人知を超えた天空の意志を感じるのです。
太古に通じる水脈から命を得、時空を越えて屹立する木、その精に。円空が彫り、極めた果てに見出したものに心ひかれます。木に刻まれた平穏の深さと無垢、無音の歓喜。それこそ木の精霊との出逢い。円空の会心の笑みをみる思いがします。
円空上人は今から三00年ほど前の漂泊の僧でした。1632年に美濃に生まれ、大飢饉のさなかに少年期を過ごし、母を早く亡くしたこともあり、幼くして、寺に奉公したのですが、32歳にして出家。
岐阜、志摩、東北、北海道までも、巡礼の旅を歩きました。どこえいっても厳しい迫害にあったそうです。それでも彼は12万体造仏祈願という途方もない仕事を自らに課し、全国各地でたくさんの木彫りの仏像を残したのです。
辺境の地や離れ島、山間の地などに住む人々の病苦や貧困を救おうとして造仏だったのかもしれません。
また、円空さんは、白山信仰、観音信仰にも帰依しました。
岐阜県美並村(現郡上市)の洞泉寺にあったのは、円空さんの手になる「庚申座像」でした。この仏さまは横座りをして、小首をちょっとかしげて微笑んでいらっしゃる。お顔には幾重にもシワが刻まれていますが、それがなんとも優しいこと。前に立った人がみな、ふっと笑顔に変わるのです。
「比丘尼(びくに)像というのが、ありますがその方が、円空が恋した女性ではないかという節があります。青年円空の人間くさい一面を想像させて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
そして、飛騨路の旅の宝物。千光寺の「お賓頭盧さん(おびんずるさん)」
無病息災を願う千光寺のなで仏です。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。
多くの人がこの仏さまをなで、心の平安を祈ったことでしょう
私の大好きな仏像です。
千光寺を最初に訪れたのは、NHKの日曜日美術館で円空を取り上げたときでした。坂道の途中に天然記念物の五本杉がそびえ立ち樹齢1000年の木とか。
この木に聞けば、円空さんってどんな人?ここでどう過ごしたの、と、みんな聞けそうな気がしました。あの時も全山、紅葉にもえ、晩秋の飛騨路の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間に暮れなずんできました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”
円空さんの造仏の鉈の音を感じながら千光寺をあとにしました。
旅先で出逢う宝物。木の仏像
円空上人の旅のあと。
これからも、円空さんの歩いた道を旅したいと思います。

古川への旅

旅の空の下に友がいます。私を待っていてくれる人が・・・
今週末は飛騨、古川に行ってまいりました。
“古き日本の美”を感じる旅。
NHK朝ドラマ「さくら」の舞台となった飛騨の匠の街、飛騨古川は風情の漂うレトロな街。そこで、朝日新聞の読者の方々22名と「和ろうそく懐石の夕べ」をご一緒いたしました。
宴席は宮川沿いの老舗割烹宿。郷土料理を味わいながらの楽しい宴でした。
そして、クライマックスは友人所有の「円空さん」を抱かせていただいた事。

今年の飛騨の紅葉は遅れており残念ながら「息を呑むような素晴らしさ」とはいきませんでしたが、それでも秋の日差しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれましたし、奥飛騨から少しずつ紅葉が街におりてきておりました。
私と古川のご縁はもう30年近くなります。
これで飛騨古川を訪ねるのは何度目になるでしょう。
高山本線古川駅はいつも私を下車させてしまうんです。
私の心の故郷と呼べる土地がいくつもあるのですが、飛騨古川もそのひとつです。引き寄せられるように、何十回とこの町を訪れ、今では、この町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染み渡るまでになりました。
「浜さん、僕たち、映画を作りたいのですが、どうやって作ったらいいのか分かりません。相談にのってください」唐突に話しかけられたあの日から、古川の青年たちは私の大切な友になったのです。
当時、青年。いま、みんな中年の仲間。
題して、「ふるさとに愛と誇りを」という1時間30分ものフイルムでした。
大層みごとなものでした。彼らが生まれ育った町がくっきりみえてくる大作・・。
あなたは持てますか?ふるさとに愛と誇りを。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば御岳山、乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
木々の間をぬう風は凛と澄み切って、そこにいるだけで心身が浄化されるような町なのです。
私はこの町にいる間中、山や木に守られている・・・という、いわくいいがたい安心感に包まれ、心が素直になっていくのを感じます。以前、この飛騨古川への旅路で、円空仏に出逢ったとき、自分でも思いがけないほど感動したものです。
その”円空さん”をしっかりと抱かせていただけたのです。
ろうそくの灯りのもとで。
町の飛騨市美術館では「円空仏展」も開催されていました。
円空上人については、次回ゆっくりお話をしたいと思います。
昨年は胸にしみるような紅、光を封じ込めたような黄色、しかも葉の色は刻々と変化して・・・どこを見回しても錦絵さながらの風景が広がり、四季のある国に生まれた幸せを思わずにはいられませんでした。きっと、11月半ばか下旬にはこのような風景に出逢えるでしょう。
もう一度戻ってきたい古川を後にいたしました。

柳家小三治師匠

“これはもう「恋」なのかもしれません”
雑誌「ゆうゆう」にそう告白してから、4年がたつでしょうか。
友人に寄席に連れていってもらい、柳家小三治師匠の落語を聴き、すっかり感激し、魅せられ夢中になってしまいました。足しげく寄席に通い、気がつくと「追っかけ」に夢中です。
先日も上野の鈴本演芸場のトリを聴きに着物を着て出かけてまいりました。演目は「お茶汲み」でした。
独演会はもちろん出来るかぎり参ります。大変人気があるかたですから、チケットを取るのも至難の業です。
前売り券があるときはとにかく電話。気合でとります。立ち見で聴くことも。
だいたい、私はひとつのことにのめり込むたちなのですが、これほど胸をときめかせるものに出会ったのは、正直初めてかもしれません。
落語家は舞台の上に、しゃべりとしぐさだけで、ドラマの世界を作りあげるのですが、何が素敵かって、師匠の場合、そのドラマのふくらみが・・・ああ、言葉が見つからない・・・本当に素晴らしいの。豊かなの。
たとえば師匠がある人物の言葉を話すでしょう。すると、その言葉だけでなく、当の人物が持つ空気感というのかしら。そういうものまで、じんわりと、伝わってくるのです。
その人物像、時代背景、場所の雰囲気、人々の息遣いまで感じ取れるのです。
それから何といっても、師匠の人間性なんでしょうね、芸に品格も感じられるのは。
落語の本編が始まる前の”まくら”も楽しみです。師匠の横顔がのぞけて、フアン心理をも存分に満足させていただけるのです。
気がつくと首を伸ばして、体を前に傾けて、目で耳で一心にその世界を堪能させていただいて・・・・。扇子を持つ姿、お茶の飲み方などのしぐさにも、胸がキュンとしたりして。
こんなふうに思いっきり”好き”っていえる人がいるって、本当に幸せ。”恋?”そうね。もうこれは「恋」なのかもしれません。
そこで、ご案内です。この度 落語研究会 「柳家小三治」全集 のDVDがTBS・小学館から発売
されました。10枚組みのDVDと写真集・インタビュー記事・・・「追っかけ」にとっては、まさに「宝物」・・・。
これからの人生、舞台とDVDで甘い夢がみられます。

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日本酒で乾杯推進会議・フォーラム

“乾杯三態・日本のかたち 日本の心”が10月2日に開催され全国から多くの方が参集されました。
この会は平成16年に発足し、代表に国立民族学博物館名誉教授・石毛直道氏、歌舞伎俳優・市川団十郎氏はじめ各界からのメンバーで構成され、「100人委員会」が中心となり、「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていこうというものです。
私も今年から100人会のメンバーに入れて頂き、先日のフォーラムになりました。今回のフォーラムはホストに民族学者の神埼宣武氏、銀山温泉藤屋女将・藤ジニーさん。
ゲストは歌舞伎俳優 中村富十郎氏、塩川正十朗氏、そして私、浜美枝でした。
中村富十郎氏からは、歌舞伎のなかでの飲酒の演じ方などをご紹介して頂き、塩川さんからは、酒宴の席に出られる機会の多い中で、どのような乾杯、献杯の形があるのか・・・・又神埼さんからは乾杯の歴史などの興味深いお話がありました。
私には全国を旅する中でどのような日本酒とのかかわりがあるのか・・・好きな酒器は?というようなご質問がございました。
そこで、こんな話をさせて頂きました。
日本酒は、私にとってほかのお酒とは一線を画す、特別なものという気がいたします。成人式に初めて飲む日本酒。結婚式の三三九度。家を新築するときに建て前の儀式の前に飲み交わすお酒。日本人の慶事になくてはならないのが、日本酒だと感じます。
と同時に、お神酒とよばれるように、日本酒は聖なるものという意識が私には強くあるんですね。
私は、古民家12軒を譲り受け、その材料を使って作った箱根の家に住んで30年になります。今でこそ、古民家作りは静かなブームになっていますが、当時はそんなノウハウはなく、設計から施工にいたるまで、すべて手探りの家なのです。
私も工事前から箱根の家の近くにアパートを借りて、そこに寝泊りし、とにかくできる限りのことをしました。施工に入る前に、古い柱や梁の一本一本を、自分の手で磨きました。そして、土地の神様である箱根神社のお神酒で一本一本、清めました。
日本酒で清める事で、土地の神様に守っていただけるような気がいたしました。
私は、今朝も箱根の山を約1時間歩いてきたのですが、その道筋にある箱根神社九頭龍神社の分院には、いつもお神酒が置かれています。日本酒が聖なるものであり、聖なる者にささげるものだという思いが、今も脈々と受け継がれているのを感じずにはいられません。
また、私は40年にわたって、日本全国を旅してきたのですが、旅をすると、いつもいろいろな方がお迎えくださって、地元のお酒で乾杯となります。
一期一会の出会いに、そしてその地を訪ねることができたことに感謝して、私も「乾杯」させていただきますが、そのときのお酒はまるで賜りもののような気がいたします。
美味しく場を楽しいものにしてくれるだけでなく、人生の句読点にもなる場に必ず登場し、杯を合わせる日本酒は、私にとっても非常に重要な意味を持つものであると、改めて感じます。
「日本酒で乾杯推進会議趣意書」の中にこのように書かれております。
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“最近のニッポン人には日本が足りない”と多くの心ある日本人は、今日の日本、明日の日本に危惧の念を抱いているのではないでしょうか。
日本が誇りとすべき伝統的な食文化や伝統芸能、伝承していく作法や風習もグローバルスタンダードとか高度情報化社会というものの表面的な形にとらわれて次第に失われていこうとしています。
私たち日本人は集まって食事をするとき乾杯します。「みなさまのご発展とご健勝を祈念して」何に向かって祈るのでしょうか。
神様、仏様を対象とする特別の宗教心ではありません。
我々の人知や人間の力を超えたものすべてに対して謙虚に祈るのではないでしょうか。
「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていくことが今程必要な時はありません。
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私自身、和服をさりげなく着て箱根の我が家で囲炉裏を囲み日本酒で”乾杯!”と言いながら仲間たちと酌み交わす時間は至福のひとときです。

韓国 食アメの旅

昨年同様、9月初旬に、コスモスの花が美しく咲く韓国に行ってまいりました。
“食アメニティーを考える会14回・韓国で農村女性グループと交流する会”
総勢40名です。毎年一度、ヨーロッパでグリーンツーリズムを学ぶ会を12回行い、昨年から韓国のパルタン地域、華川郡トゴミ村の自然学校、龍湖里(ヨンホリ)村では農家民泊・・と4泊5日の旅です。
私は、これまで40年にわたり、日本の農山漁村を歩いてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
日本の民藝運動の創始者である柳宗悦先生が書かれた本に、中学時代に出会いました。無名の人が作った道具に美を感じる・・・用の美の世界に惹かれ、感動し、以来、人々の暮らし、そして道具というものに、ずっと興味を持ち、その思いを育んできました。
「あちらに古い美しい道具があるよ」
「あそこのお蔵を見せてくださるそうだよ」と誘われれば、仕事の合間を縫って駆けつけました。
日本の古く美しい道具を見たいと始めた旅の行き先は、もっぱら日本の農山漁村でした。やがて私は、そこでごく自然に、農や食の現実に触れることになりました。
「今、農業は大変でね」とか、「国の政策がこうだから」とか、「跡継ぎがいなくて」 等々。おしんこをご馳走になりながら、サツマイモをいただきながら、農家のおばあちゃんや おかあさん、おじいちゃんや、おとうさんから、胸の内をお聞きするにつけ農の厳しさ、又楽しさ、ときには政治に左右される農のありようなどを、実感するようになったのです。
縁あって農政ジャーナリストの会の会員となり、政府の各種審議会の委員も務めさせて頂きました。
現場を歩くうちに農山漁村の女性たちとたくさんの出会いを重ねてきました。それは、私にとって、女性たちの強さ、優しさ、未来へとつなげていくしなやかな力を、改めて再認識する日々でもありました。
そこで生まれたのが「食アメニティーコンテスト」であり、研修旅行で知り合った人たちとの「ネットワークの会」です。
私は会の会長をさせていただいておりますが、横の連帯を大切に、 ”農業をもっと元気にしたい” “食を正面から取り組みたい”など思いを同じにする全国の女性達の交流の場となっています。
「浜さん、私、この会で一生つきあえる友人と出会えたのよ」
「ひとりでは淋しいときもあるけれど、同じ思いの友がいる。自分の味方になって励ましてくれる友がいる」などという声を聞くことが出来ます。
自然発生的に生まれた会も今や全国で活動する女性たちをつなぐ線の役割を果たしているのではないかと自負しております。
前置きが長くなりましたが、そんな仲間との韓国の旅でした。
台風9号が上陸する朝、羽田からの出発となりました。秋風が立ち、美しい韓国の農村地帯が私達を迎えてくれました。大好きなコスモスが一面に咲き、韓国の美しい季節です。
今日は韓国の「親(しん)環境農業」についてお話いたします。
パルタン地域は、ソウル市民の飲み水となる川、ハンガンの上流にあたります。ハンガンの水はソウル市、周辺都市に住む2000万人の飲み水となります。この地域では、ハンガンの水質を守るために、環境を守るための農業が1994年から行われてきました。
農薬や化学肥料の使用抑制、糞尿の排出禁止などの規制強化をきっかけに、最初は12軒の農家が「環境を保護し、水質を保全しながら自分たちも生計を立てられる方法」をめざし、パルタン上水源有機運動本部を設立、今では生産者会員が100軒という組織になりました。
日本ではまだあまり知られていないのですが、韓国では有機農産物をはじめとする親環境農業による農産物の生産、そして有機農産物の消費拡大のため活動など、実に積極的に行われているんですね。
日本では、2001年4月から有機認証制度が始まりました。しかし、販売価格に反映されにくいため、マーケットの広がりは思ったほど進んではいません。
韓国では、国家主導の下、生産者へのバックアップが充実しています。その追い風をうけ、消費者の認識も近年、目をみはるほど向上してきました。特に、パルタン地域の親環境農業は、ソウルに住む都市の消費者を巻き込む
形で推進していて、特に市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり一戸あたり月約360円負担します。
町で出会った若者に、この負担金、パルタンのことを聞いてみました。「もちろん知っていますよ」。「ソウルに住む主婦でパルタンのこと、知らない女性はいませんよ」との事。市民の信頼を得ての農業、環境保全が行われているのですね。
長年、日本の農業に携わってきた私にとっては、羨ましいような思いがございました。
安全な農産物を食べるためには、農村の環境を守ることが不可欠だということ、その底流に流れているのは、消費者の理解なしの農業の未来はない・・・ということ。それをあらためて認識した旅でした。
自然学校内の食堂で韓国のオモニにキムチ作りも体験させて頂きました。本場の冷麺の美味しかったこと。
最後の日の夕ご飯はサムゲタンとチジミで、韓国の食も満喫。南大門市場で粉唐辛子などどっさりおみやげを買って家路につきました。

敬老の日に思うこと

私には全国、いえ外国にも20人から30人のおばあちゃんがいます。
あちらこちらのおばあちゃんを訪ねるのが楽しいし、旅の途中で、さまざまな温もりもいただいた、忘れられないおばあちゃんがたくさんいらっしゃいます。
もう、だいぶ前、私は「日本人再発見の旅」という企画で全国各地のおばあちゃんをお訪ねしました。その企画は「おばあちゃんの宝もの」といいまして、おばあちゃんの人生で大切にしてきたコトやモノ、思い出でを聞かせていただくというものでした。
その中から、忘れられないひとりのおばあちゃんのお話をさせて頂きます。
今は亡き松崎せいさんは、島根県の松江にお住まいでした。
松崎さんの宝物は姉様人形。
松崎さんが嫁いだ家が傾いたとき、この家のおばあさまが内職として紙人形作りに取り組みました。
松崎さんが嫁いだ家には、松平家の奥女中として高い教養と行儀作法を身につけたおばあさまがいて、その方が姉様人形の作り方を教えてくださったのでした。
子供、娘、女の紙人形がひとつの箱におさめられています。女の一生がお下げと桃割れと島田、三つの髪型で表現されていていました。古裂れと綿を和紙にくるんで頭を作り、これに鼻をつけて上張りし、その上に胡粉を塗って顔ができます。
髪は半紙に墨を塗り、かつらを作ります。使うノリはご飯を練ったもの。それは可愛い紙人形でした。お会いしたとき、松崎さんは84歳でしたが、肩凝りしらず、目もよく見えて、細かい手仕事を器用にこなしていらっしゃいました。
「人形作りで、自分も作られたかもしれません」と語ってくださいました。
私がお年寄りにひかれるのには、ある原体験というか、原風景があります。
幼児期を過ごした川崎の下町で私は近所のおばあちゃんに育てられたのではないかと思います。母は仕立て仕事で忙しかったのです。ワタナベのおばあちゃんは、いつも私の長い髪を手のひらですいてくれ、キレイにお下げに結ってくれました。志村のおばあちゃんは、夜に宿題を見てくれました。
母が忙しかった分、私は町内のおばあちゃんに育てられたも同然です。55年の歳月が過ぎても、私の後頭部から両サイドの髪の毛にキレイにキュキュとお下げに結ってくれたおばあちゃんの手のあとを感じることができるのです。
感触の記憶は確かです。
おばあちゃんになるのも、悪くはないなと思う、この頃です。

広島のこと

夏の照りつける太陽の中、8月末広島を訪ねました。
“広島市民文化大学”のお招きを頂きました。
昭和18年生まれの私にとって、広島、長崎は特別な場所です。
当日は広島記念公園内の広島国際会議場フェニックスホールで1500名の方々が待っていてくださいました。
思わずこんな言葉からお話をさせて頂きました。
本日、こちらに着きまして、気がついたら、空を見上げておりました。私は、この地、広島に、夏にお伺いすると、夏空を見上げずにはいられないんです。
まぁるく広がる青い空、もくもくと浮かんだ入道雲。そしてその下に広がる家並み、ビル。人々の活気あふれる表情。
そうした風景を目に焼きつけ、安堵すると同時に、62年前のことを思わずにいられません。時を経ても、決して風化することのない痛みを、この土地は経験してきたからです。
私は今、63歳です。終戦のときは1歳。戦争の記憶をたどるには幼すぎる年齢です。でも、なぜか強烈に覚えているというか、私の心に戦争の悲惨さが深く刻まれているのは、おそらく次のような体験を経ているからでしょう。
終戦の年の3月、東京は東京大空襲にあいました。我が家は、その空襲に襲われたまさに、下町にありました。私の家では、ダンボール工場を営んでいたのですが、すべてを失いました。家も、道具も、わずかな写真も、一つ残らず灰になってしまったのです。
 
でも、空襲の前日に、我が家は親戚の家に疎開して、家族の命が助かりました。下町では大勢の人がなくなったというのに、我が家は全員、無事だったんです。
物心ついたころから、母や祖母から、その話を何度も何度も繰り返し聞かされました。また、「私たちの命は、もらった命よ」と、母はことあるごとに、私たち子供にいってきかせてくれました。
祖母も「なくなった人たちに申し訳ない」と繰り返していました。
 
そのためでしょうか。私が実際に経験したわけではないのに、下町の空襲や近所の人々との永遠の別れのことまで、まるで見てきたことのように記憶されてしまったのです。
 
そしてここ、広島の土地に立つと、私も母や祖母と同じことを思わずにはいられません。自分の命がもらった命である、と。そして、自分の胸に問わずにはいられません。亡くなった多くの人たちに申し訳ないと思うような生き方をしてはいないか、と。

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やまぼうし

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箱根の山々の緑が日一日と、濃くなっています
とご挨拶してからちょうど一年がたちました。
我が家の庭の”やまぼうし”の白、ピンクの花が美しく咲いています。
この季節は箱根の山々の緑も濃く、早朝の山歩きをしておりますと、
何とも言えない緑の匂いが心地よく山暮らしの幸せを実感いたします。
”やまぼうしの花咲いた”を出版したのは昭和57年の今頃の季節。
箱根の山が
ふんわりと山法師の花で
おおわれる初夏
見事な開花は
十年に一度とか
結婚して四人生んで
たちまち流れた十年の歳月
私は山法師のように
咲きたいのです
箱根の森の中に家を建てて、三十年になろうとしています。
ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような時計に支配されているよう感覚があります。
樹々の色味の変化で春の訪れを感じ、台所から見える富士山も、刻一刻と変化します。
思い出がたくさんつまった台所も、巣立っていった四人の子供たちの台所から、”私のための”台所にリホームしよう・・・と思いたち山法師の花ではないのですが、10年一区切り・・・と思いきりました。
私には何十年に一度こういうことがあるのです。
”ああ、ほんとうに親としてひとつの役が終わった”
63歳になり、人生のしまい方を少しずつ、考えはじめたのかもしれない
とも、感じます。
思い出や家族と暮らした豊かな時間は、私の中でしっかりと刻まれているから・・・
役目を終えたものを処分し、身軽になる。
そこからまた新しい自分が見えてくる。
時間に迫られて、ゆったりと木々と語れなかった時代から今又
こうして、山法師の花を見ていると、忙しさの中で落としてきてしまった
ことも見えてきます。
まだまだ旅の下、これからも素敵な出逢いがあるでしょう。
多分終の棲家になるはずの我が家で、
「私らしく生きるために、現実としっかり向き合うことが必要なのかも・・・」
と、そんなことを思っております。
爽やかな緑の風を仕事場から感じ、
思わず”カンパリグレープ”をつくり”やまぼうし”の樹の下で飲みました。
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植木等さん追悼

 3月27日、植木等さんが亡くなられました。私は、10代の終わりから20代の半ばにかけての7年間に、植木さんの14本の映画にご一緒させていただきました。植木さんの訃報を聞き、いろいろな思いが胸にこみあげてきました。
 
 植木さんと初めてご一緒させていただいたのは、東宝入社3年目、18歳のときのことでした。テレビの「シャボン玉ホリデー」で活躍され、「スーダラ節」が大ヒットし、映画「ニッポン無責任時代」でスターとしての地位を確立した植木さん。
 
 しかし、その素顔は違いました。私は仕事場での植木さんしか存じませんが、植木さんは他の俳優やスタッフとお酒や食事を共にすることもなく、撮影が終わった「じゃ、また明日」とさっと家路につく人でした。また撮影の合間には、撮影所のセットの片隅ですっと背筋を伸ばし、腕組みをしたまま、目を閉じて静かに佇んでいらっしゃいました。その姿を見て、ふと仏像に似ていると、感じたこともありました。無責任男が「動」ならば、素の植木等は「静」だったのです。
 
 ときどき、植木さんは目を開けて「浜ちゃん」と新人女優だった私に声をかけてくださいました。決して言葉数は多くはなかったのですが、そのひとことひとことに心にしみるような滋味がありました。私がいただいたギャラで、お釈迦さまの生涯を辿るためにインドを旅した話をすると、植木さんは驚いたように目を開き、「お釈迦様もそんな風に旅をして歩いたんだよね。仏教とは難解な思想じゃなく、とても人間的なものなんだよ」とうなずいてくださいました。そして仏教の教えや生命に対する考え方を、小さな声で、まるでひとり言葉をかみしめるように、語ってくださいました。
 
 植木さんは三重県の浄土真宗のお寺の生まれで、お父様は平和や差別解消を説かれ、投獄されたこともあったほどの信念の人物だということを後に知りました。植木さんが口癖のように私に何度もおっしゃったのが、まさにそのことでした。「浜ちゃん、人間はね、心が自由じゃなければいけないよ」 今、この原稿を書きながら、あのときの植木さんの声が聞こえるような気がします。
 
 そんな植木さんでしたが、監督の「よーい、スタート!」でカメラが回りはじめたとたん、軽妙なしぐさと高笑いで無責任男を演じられるのでした。その変わりようは天才的でした。当時の東宝では、黒沢明さんや成瀬巳喜男さんといった巨匠が活躍しておられ、大ヒットしていても娯楽作品は格下に見られるような傾向がありましたが、そのことについても植木さんは私に「やっていることはばかばかしくても、それで他人様が喜んでくれるなら、いいじゃないか」といって、私を励ましてくださいました。つたない演技ではありましたが、これらの映画に出演させていただいたことを今、私は心から誇りに思えるのは、植木さんのあのときの言葉もあってのことだと感じます。「多くの方に喜ばれ、大声で笑ってもらう。それもいいじゃないか」 植木さんの言葉に、私はどれだけ勇気づけられたでしょう。
 
 最後に植木さんにお会いしたのは数年前、私がパーソナリティをつとめるラジオにお招きしたときでした。「やぁ、浜ちゃん、元気?」とスタジオに入ってこられて、近況を穏やかな口調でお話くださいました。素敵に年齢を重ねてこられた姿に胸が熱くなりました。そして収録が終わると「それじゃぁ、またね」とおっしゃって、植木さんはすっとスタジオを出られました。かつてとまったく変わりませんでした。
 人は生まれ、いずれ去っていきます。これはどうしようもないこと。それでも寂しさを感じる気持ちは心の奥底から湧き上がってきます。
 植木等さん、ありがとうございました。
 植木さんに会って教えていただいたことが、私の人生に豊かさをもたらしてくれました。これからも多くの言葉を心に刻み、歩んで行きたいと思います。
                       

山歩きと地球温暖化

この冬は、箱根も雪が少なく、快晴の日が続いています。おかげさまで、ツンツンと地面から飛び出した霜柱をシャキッシャキッと踏みしめながら、毎朝、山歩きも楽しんでいます。真っ白に雪化粧した富士山もそれはそれは美しく見えます。
以前は1時間歩くと、たっぷり歩いたという気持ちになったのに、このごろではもっと歩きたいと思う自分がいることに、嬉しい驚きも。毎日続けていくうちに、体に力ができてきたのかもしれません。いくつになっても、筋肉は鍛えられるといいますが、本当にそうなんだわ、と感じます。
でも、こうも暖かいと、地球が変わり始めているという事実を、つきつけられているようで、やはり、不安を感じずにはいられません。
先日、アメリカの元・副大統領で大統領候補でもあったアル・ゴア氏のドキュメンタリー映画「不都合な真実 (An Inconvenient Truth)」を見てきました。この映画は、ゴア氏の講演活動を追い、具体的なデータとともに地球温暖化対策の必要性を訴えたものです。 二酸化炭素などの温室効果ガスが増えたために、地球の気温が上がる地球温暖化現象。地球温暖化は、海面の上昇や異常気象、生態系の変化といった事態を引き起こし、やがては植物や動物、そして人類は危機的な状況という事態に……。
環境のために、そして地球のために、この日このときから、私たちは自分たちがやれることをやっていかなくてはならない。それが、スクリーンを通してひしひしと伝わってきました。映画のエンドロールにもあったように、「変わる勇気を持つ」ことが、何より大切なのではないかしら。
時間にゆとりがあるときには、私も小田原から我が家までタクシーではなくバスを利用するようになりました。タクシーなら30分で着くところを、バスは1時間以上もかけて登っていきます。過ぎ行く風景をのんびりと眺めたり、途中のバス停で乗降するおばあさんやおじいさんの様子を垣間見たり。それもなかなか楽しいんです。部屋の暖房の設定温度もさらに一度、下げました。箱根の冬は、そうはいっても寒いけれども、あったかいソックスとセーターがありますもの、大丈夫。

不都合な真実 不都合な真実
アル・ゴア 枝廣 淳子

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