「日経新聞-あすへの話題」

日本経済新聞夕刊1面コラム「あすへの話題」の執筆がスタートいたしました。
2009年7~12月まで。毎週土曜日、計26回の予定です。
身辺雑記、来し方の思い出、仕事のエピソード、社会的な事象など、身近なことを記してまいりたいと思います。
今回は4日に掲載された分をご紹介致します。次回以降の話題はおいおいブログでご紹介してまいりたいと思います。
日本経済新聞7月4日掲載
「あすへの話題~箱根に暮らして」
箱根に家を構えてから30年の月日が流れた。30年前といえば日本列島改造のスローガンのもと何百年も人々の暮らしを見守ってきた古民家が次々に壊され、新建材の家に建て替えられた時代だった。
当時、民芸に魅せられて、日本各地を旅していた私は、そうした古民家がなぎ倒される、心痛む場面に、何度も遭遇した。そしてついにたまらなくなり、ある家の解体現場で「この家を私に譲ってください」といってしまったのだ。
そうして12軒の古民家の廃材をすべて買い取ったのだが、当時は、古民家再生の技術はおろか、その言葉さえなかった。正直、廃材を前に途方にくれたこともある。けれど縁あって箱根に土地を見つけることができ、大工さん、鳶職さんと手探りで、試行錯誤を繰り返しつつ何年もかけて建てたのが、今の箱根の我が家である。
40歳で女優の仕事を卒業し、以来、食と農の現場を訪ね続け、日本の農業のサポーターを自認している私の仕事は、旅も多い。「箱根が拠点だと不便ではないですか」とご心配いただくこともあるのだが、どんなに早く家を出なくてはならなくとも、遅くたどり着こうと、私にとって我が家は、心身を開放してくれる特別な場所である。
磨き上げた床、柱、好きで集めた西洋骨董、民芸の道具、子どもたちを育てた記憶…。すべてが渾然一体となって、家は私を包み、支えてくれる。窓に目をやれば、美しい箱根の自然が優しく心を慰めてくれる。自分でこの土地を見つけ、家を作ったように思っていたが、そうではなくむしろ私がこの土地やこの家に呼ばれ、導かれたのではないか。今は、そんな風に感じている。

浜美枝のいつかあなたと ~ 片岡鶴太郎さん

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
今回はお客さまに俳優・画家の片岡鶴太郎さんをスタジオにお招きいたしました。早くからテレビの世界で活躍され、やがて俳優としても数多くのテレビドラマ、映画に出演されてきた鶴太郎さん。
その一方、30代の後半からは絵の創作をはじめられ、95年には初の個展を開催。鶴太郎さんが創作された絵や書は多くの支持を集め、98年には草津に「片岡鶴太郎美術館」もオープンしました。
実は8月22日から30日まで箱根の我が家で、展覧会を催すことになりました。
「こころ色」と銘うって。
詳しくはホームページでご覧ください。
初めて鶴太郎さんと親しくお話をさせていただいたのは、新幹線の中でのことでした。全く偶然の出会いでしたが、我が家に飾っていた絵の話になり、それがご縁で後日、画集対談でお越しになられました。
鶴太郎さんの作品には、暖かな小さな命がふくふくと息づいています。
花、魚、果物・・・暮らしを美しく彩り、爽やかな風を空間に吹き込むような素晴らしい作品ばかりです。
「作品は人なり」と思わずにはいられません。
生きることにひたむきで、思いやりが深く、優しく、けれど決してやわではない。そんなお人柄が、どの作品からも感じられるのです。
ラジオの中で興味深いお話を伺いました。
全く絵にはふれたことのない鶴太郎さんが30代の終わりのある日・・・、2月の寒い朝5時頃のこと、ロケがあり家を出るときに、何か視線を感じたそうです。その視線の方を振り返ると、隣の庭に朱赤の椿が咲いていて(その頃は花の名前も知らなかったとのこと)
「うわぁ素敵だな、君はひとりで、誰も見てなくてもきちんと咲いているのか」
と思われたそうです。
当時、これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きたらいいのか・・・、人生の中にポツンと置かれた孤独感、焦り・・・、そんな日々が続いていたそうです。その時「この花を描ける人になりたいなぁ」と、心底思われたのだそうです。
ものまねでも、役者でも、ボクシングでも、この椿を見たこの感動は表現できない。それで、絵で表現できるようになりたい。美術学校に行って基礎を勉強していたら、もしかしたら感動がないまま絵の世界に入っていたかもしれないと。
私にはとてもよく分かるのです。そのお気持ちが。
私も40歳で演じる女優は卒業しました。あの時の孤独感は私に生きる力を与えてくれました。
お互いに「日本人の美」の本質を感じることができる自分になりたいですね。
話はつきることがありませんでした。
7月5日が放送です。ぜひお聴きください。
今回の展覧会はデパートでの展覧会と違い狭い我が家が会場です。普通に暮らす空間に鶴太郎さんの絵を飾ってみたい・・・との思いでからです。ぜひホームページへとアクセスしてみてください。
片岡鶴太郎展「こころ色」 8月22日~30日 箱根・浜美枝邸にて

CCS15周年アニバーサリーパーティー

先日、日曜日の夕暮れ帝国ホテルで素敵なパーティーに出席してまいりました。
NPO法人カクテル・コミニュンケーション・ソサイティー(C・C・S)
「15周年アニバーサリーパーティー」
会場ではジャズがながれ、全国からカクテルファンが集いました。そして銀座テンダーの上田和夫さん、モーリ・バーの毛利隆雄さん、福岡からは長友修一さん、大森のバー・テンダリーの宮崎優子さん他、全国から「カクテル・アーティスト」が勢揃いし、それぞれが得意のカクテルにシェーカーをふってくださいました。
サイドカー、マティーニ、モヒート、ジャックローズ、ダイキリ、ギムレット、マンハッタン、バンブー、同じバンブーでも上田さんのバンブーと女性の宮崎さんのバンブーでは微妙にニュアンスが違い両方とも楽しませていただきました。
カクテルについては昨年のブログに載せておりますのでお読みください。
カクテルは幸せなときには、そっと寄り添ってくれます。ちょっぴり寂しいとき、辛いとき、心がいたんでいる時は背中をほんの少しおしてくれます。
「大丈夫、そのままで」・・・と。
バーテンダーはアーティストです。31名のアーティストのカクテルをほんの少しずつ、梅雨の合間のひととき夕暮れ時を楽しんでまいりました。ほろ酔いかげんで箱根の山を上って家路につきました。
皆さん、ありがとうございました。
これからも大人のカクテルを期待しております。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~長野県・信州松本」

今回ご紹介するのは長野県信州松本です。
倉敷とともに、信州松本も私にとっては民芸の故郷です。
松本は安曇平の向こうに北アルプスが屏風のようにそびえ、昔ながらの城下町の面影が色濃く残る町です。松本市は平成17年に合併し、県下で最も広い面積の自治体となりました。
西に日本の屋根といわれる「北アルプス」、東に日本一高いとして名高い「美ヶ原高原」を望む大自然に囲まれた盆地です。安曇地区・奈川地区・梓川地区・四賀地区・旧松本市、豊な緑、澄んだ空気に恵まれた大変美しいところです。
今回は国宝松本城を中心に市内をご案内いたします。
国宝松本城は現存最古の天守閣・戦国時代の姿を残します。1593年頃に石川数正親子により造られました。五重六階の天守・渡櫓・乾小天守は現存する天守の中ではわが国最古のものです。天守閣からは美ヶ原高原・北アルプスなどが一望できます。
今回、松本をお訪ねしたのは「池田三四郎生誕100年~特別展示」を見るためです。
もともと松本は木工で栄えた町でした。特に家具製作は松本藩の商工業政策の一つとして奨励されました。日本有数の豊かな森林、伐採された木を運ぶことができる河川、材木を貯蔵したり自然乾燥するのに適した湿度など、自然条件も揃っていました。江戸末期には、家具に使用される鉄、金具類の飾り職や錠前職も増え、明治初期には町にそうした仕事場が数十軒も店を構えていたそうです。
しかし悲しいことに松本の家具作りは第二次世界大戦後に衰退します。そんな中で、かつての松本の家具作りの栄光を復活させようと力を注がれたのが、池田三四郎さんでした。その池田さんが生み出したのが松本民芸家具です。
池田さんは、欧米の家庭で使われていた家具のデザインを踏襲し、高度な和家具の技術を持つ松本の職人に、洋家具を作らせたのです。松本民芸家具は、美しく完成されたデザイン、確かな作り、年を経るごとに増す味わいで、長く愛されている家具です。
私は松本駅に降りると、いつも女鳥羽川沿いにある喫茶店「珈琲まるも」に伺います。私はこの喫茶店の落ち着いた雰囲気と家具が大好きです。珈琲が薫り高く美味しいことは言うまでもありませんが、この店の椅子に座ると、ほっと力が抜けるような気がします。

英国ウィンザー調のテーブルや椅子、美しい音楽と上等なコーヒー。その喫茶店はかつては松本深志高校(旧制松本高校)の青年たちが文学やロマンを熱っぽく語り合った場所とのこと。今でも店内の雰囲気に、そこはかとないインテリジェンスが漂っていて、ただ座っているだけで心が落ち着きます。以前、池田さんに「珈琲まるも」の椅子についてお聞きしたことがありました。
「あの椅子はね、私がウィンザー朝の椅子にのめりこんだ最初のころに作ったものです。五十数年のあいだに、浜さんも含めて十万人以上が座ったんじゃないかな。たくさん人に座ってもらって、自然に磨かれて、なかなかの味が出ているんですよ」
池田さんはにっこり笑って、そうおっしゃいました。
中学時代、図書館で出会ったのが柳宗悦さんの本でした。中学卒業後、女優としての実力も下地もないままに、ただ人形のように大人たちに言われるままに振舞うしかなかった時、私は自分の心の拠りどころを確認するかのように、柳宗悦の「民藝紀行」や「手仕事の日本」をくり返し読みました。
柳さんは、大正末期に興った「民芸運動」の推進者として知られる方です。柳さんも松本には何度も足を運ばれています。柳さんを師と仰ぎ民芸家具に打ち込んだ池田三四郎さん。池田さんとは30年あまりのお付き合いでした。お会いするだけで心が安らぐ、そんな懐の広い人でした。
心にふと迷いが出たとき、自分の生き方を見失いそうになったとき、私は列車に飛び乗り、松本に向かいます。
「よう、浜さん、来たかい」と笑顔で迎えてくださいました。
池田さんは、柳宗悦氏との出会いによって民芸の道にはいられた柳先生のお弟子さんでもあります。
「柳先生に私は、『その道に一生懸命、迷わず努めていれば、優れるものは優れるままに、劣れるものは劣れるままに、必ず救われることを確約する』と教えられたのですよ」・・・と。
池田先生はよく柳宗悦のお伴をして松本の町を歩かれたといいます。時々周辺の山々を見渡せる丘に登っては、ただじっと一点をみつめたまま長い間考え事にひたっている宗悦の横顔を思いだされると話してくださいました。
「あの頃の柳先生はいつも『自然というものは、仏か、仏でないか』と同じ言葉を呟いていらした」
そのエピソードに、いつも神の宿る自然というものに敬虔な気持ちを抱きながら、深い思索を繰り返していたであろう、ありし日の柳宗悦の姿がしのばれます。また同じく宗悦に心酔していた版画家の棟方志功は同じ丘にのぼりながら「自然以上の自然が描けたら、それがまさに芸術と呼ぶに値するものなのだろうなあ」と繰り返していたといいます。
私の目の前で、ストーブに薪をくべながら池田先生は、「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得しているかどうかなんだ」と淡々と語られました。何も問わずとも私の心の内を見抜かれているようでした。
平成11年12月15日。池田三四郎先生はその生涯の幕を閉じました。
松本の町にはそんな精神・文化が今なおしっかり受け継がれています。朝、喫茶店に入ると初老の方々が珈琲を飲んでいるお姿に「いい町!」と思わず呟いてしまいます。
松本市内は時間があれば、のんびり散策ができる広さです。国宝松本城へは松本駅から徒歩20分余り。その松本城二の丸跡にある博物館。途中昔の城下町の風情を残す縄手通りの商店街は千歳橋の左手女鳥羽川沿いに広がる古風な感じの商店街。お店は江戸時代風の建物で懐かしくそして楽しいお店が約40軒。白と黒のなまこ壁が美しい蔵造りの中町通り。ここは、かつて善光寺街道として大勢の人びとが往来した歴史ある道です。土蔵造りのノスタルジックな町並みが広がっていますが、モダンなカフェやクラフトのお店などもあり楽しいエリアです。

さすが、工藝の町です。そして故丸山太郎氏が、日常の生活用品にある逞しい美に魅せられて収集した民芸品が展示されている松本民芸館。駅からも近いアートミュージアム。城下町松本はこんこんと湧き出る名水の街。いたるところに名水が今も湧き出ています。
“われらの青春ここにありき”旧制高等学校記念館はあがたの森公園にあり懐かしい気分に浸れます。(国の重要文化財に指定されています)
明治9年に建てられた旧開智学校(昭和38年まで小学校として使われていた)。そして深志神社は暦応2年(1339年)の創建で古くからの由緒正しき神社。私が訪れた時は境内に真っ白なやまぼうしの花が満開でした。信州手打ちそばのお店もいろいろあります。
8月8日(土)には国宝松本城で薪能が開催。さぞかし幽玄な世界のことでしょう。また8 月22日(土)にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「武満徹メモリアルコンサート」が開催されます。
近くには「日本書紀」に登場する名湯・美ヶ原温泉、松本の奥座敷・浅間温泉、市内を巡るバスが松本駅バスターミナルを拠点に色々なコースがありとても便利です。(1乗車大人190円/1日券大人500円・小児半額)
街を歩いていると住民の方々が気軽に声をかけてくれます。そんな触れあいとやすらぎの街・・・松本をご紹介いたしました。
【旅の足】
《電車・JR松本駅》
東京(新宿)から中央東線(特急2時間30分)
名古屋から中央西線(特急2時間)
大阪から新幹線・中央西線(特急3時間10分)
《車》
中央自動車道経由→長野自動車松本IC
《飛行機》
大阪から55分
福岡から1時間35分
札幌から1時間35分

やねだん~人口300人、ボーナスが出る集落~

先日、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科主催の「やねだん学事始」のシンポジュームを聴講してまいりました。
鹿児島県鹿屋市の柳谷(やねだん)が今注目を浴びています。この柳谷を取材したドキュメンタリィー番組は南日本放送で放映され、数々の賞を受賞しました。韓・中・英語にも訳されています。私も選考委員をしております「農業ジャーナリスト賞」でも受賞されました。
日本中で問題になっている過疎集落。この集落は人口減に歯止めをかけ、独創的な地域再生を目指しました。行政の補助金に頼らず自立した集落再生を見事に描いています。
この日のパネリストは
リーダーの豊重哲郎氏 (鹿児島県鹿屋市柳谷自治公民館館長)
山縣由美子氏 (南日本放送キャスター、デレクター)
佐野眞一氏 (ノンフィクション作家)
椎川忍氏 (総務省地域力創造担当審議官)
コーディネーター
高橋紘士氏 (立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授)
製作者である山縣さんとは授賞式でもお話することができました。12年近く現場に足を運び、住民に寄り添うようにカメラを回し、痛快に!なによりも明るく、小さな取り組みを丹念にとらえています。
人口300人、うち65歳以上が4割。耕作放棄地も空き家・廃屋も目につく農村集落をボーナスが出るほどの集落へと導いたキッカケ、人々の思い。番組を上映し、それぞれのお立場からの発言は大変興味あるものでした。
これからの私たちが暮らす、この日本のあり方を再確認し、地域づくりの在りようを考えさせてくれるシンポジュームでした。
MBCからDVDが出ています。  《やねだん》3,000円

田植えとなんじゃもんじゃの花

先日久しぶりに若狭の我が家へ帰ってきました。
福井県大飯町三森に私の家があります。この家も箱根の家同様、壊される寸前に出くわし譲っていただいたものです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川が広がります。

この20年余り、都会に生きる消費者の一人として日本の農業というテーマに深い関心を抱き、あちこちの農村を訪ね歩くうち、私の中で少しずつ、生産に対する限りない憧れが募っていったのです。
私自身は生産者と呼ばれる者にはなれなくても、自分のこの手で無農薬米を作るという行為に挑戦してみたら、実際の米作りの苦労や喜びがもっと理解できるのではないか、農民の方々のお心に、もう少し近づけるのではないか・・・そんな思いが膨らんで、若狭の私のお米の先生・松井栄治さんの手ほどきで素人の私も田植えから収穫までの経験をさせていただきました。
10年間・10回の経験でした。
日本のふるさとの原風景そのものの若狭三森。松井さんの田んぼの田植えもほぼ終わりました。そして、まもなく、この田んぼや木々に蛍が見事な乱舞を披露してくれます。
帰り道、近くの集落で生まれた作家・水上勉さんの”若州一滴文庫”に寄ってまいりました。
「家には電灯もなかったので、本も読めなかった。ところが諸所を転々として、好きな文学の道に入って、本をよむことが出来、人生や夢を拾った。どうやら作家になれたのも、本のおかげだった。」と水上先生語っておられます。
この文庫には所蔵本・水上文学にゆかりの深い作家の絵画作品、水上作品に登場する人物の竹人形などが展示されています。
何度も通った場所です。今回は、新緑に映える「ヒトツバタゴ」別名「なんじゃもんじゃ」が満開です。まるで雪化粧のような美しい花。20年ほど前に植樹したそうです。「ヒトツバタゴ」はモクセイ科の落葉樹。中部地方や対馬地方に自生し、4つの花びらをつけます。
なぜ「なんじゃもんじゃ」なんて名前がついているのでしょうか。岐阜県瑞浪在住の方がわざわざ自動車に積んで、この花の苗木5本を一滴文庫に運んでくださったそうです。水上さんのエッセイにこのように書かれています。
「天然記念物の学名は、『ひとつ葉』となっているようですが、瑞浪市はみななんじゃもんじゃといっています。ある学者の説によりますと、冬が去って、春が逝き、ようやく青葉の頃がきたというのに、急にこの木にだけ雪がつもるようなので、これはなんじゃもんじゃ、と岐阜なまりでたまげることから生まれた名だときいています」と。
美濃の国では、おっ魂消(たまげ)た時に”なんじゃもんじゃ”というとか。

Mie’s Livingからのお知らせ~正直な作り手の味・第一弾

Mie’s Livingで紹介している「正直な作り手の味」の第一弾をようやく皆さまにお届けできることになりました。
記念すべき第一弾は伊豆にある間菜舎(まなしゃ)の高田啓冶さん・葉子さんご夫妻が心をこめて焙煎したコーヒー豆です。高田さんのコーヒーの恵みを、ブラジルから伊豆・松崎町経由で皆さまへお届けします。
私は毎朝の山歩きから帰ると、まず湯を沸かし間菜舎のコーヒーを飲みます。いい香り。このコーヒータイムが、このうえなく贅沢かつ優雅な時間に変わり、私の一日が始まります。
私はこれまでの30年間に渡り、日本全国の農山漁村を訪ね歩く旅を重ねています。それらの旅の中で数多くの生産者とお逢いすることができました。
「こだわり」をもってその味を作っている方々にお逢いすることができることは、私にとってとても幸運なことです。ただ単に味が美味しいだけではなく、作り手の誠実なお人柄、生きる姿勢、世界観や哲学までもがそれらの品々に垣間見ることができます。
それぞれの土地に根ざして生きる人々の「正直」を貫かれた味。その「正直な味」はとても尊く、美しく、そして美味しいと私は感じます。本当の意味での「豊かな食」とは、生産者は自分に正直に、そして安全なものを生産し、消費者がそれを買い支え、お互いに信頼し合うことの上に成り立つのではないでしょうか。
私が今まで出逢った日本全国の「正直な作り手の味」をこれから少しずつ皆さまにご紹介できればと思っています。
高田さんのコーヒー豆はじっくりと焙煎して頂くため、初回は50袋限定とさせて頂きます。詳しくはホームページをご覧下さい。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~日本の故郷を歩く」

今回ご紹介するところは、静岡県賀茂郡松崎町・石部地区です。
松崎町は人口8,200、戸数3,150の小さな町です。昭和10年以前に建造された外壁が海鼠壁(なまこかべ)の建物が200軒ほど現存しています。
伊豆半島西南部に位置し、三方を天城山稜に囲まれ、西に駿河湾を望み、
屈曲に富む海岸線は富士箱根伊豆国立公園に指定されるなど、豊かな自然は訪ねると心が安らぎます。その松崎町の中心部から5キロほど南下した場所に石部地区の集落が広がります。
この集落は、昭和30年頃まで約18haの棚田がありました。しかし、高齢化、
労働力不足、減反政策などにより耕作放棄地が進み、猿や猪などの有害鳥獣被害の拡大などもあり、荒れ放題となり山林原野化してしまったのです。
石部の棚田が歴史的文献に現れたのは文政7年(1824年)、今から185年前のことです。この年に大規模な山津波が石部の棚田を襲い、ほとんどの棚田が崩壊したと記録にあります。棚田の年貢は免除され、約20年もの長期に渡る過酷な作業により、現在の石積みの畦道を築きあげており、先人の努力や苦労がしのばれます。
「何とかしなくてはいけない・・・この棚田を守っていかなければ」との住民の思いが結集します。
ここまでくるのには並大抵なご苦労ではなかったはずです。反対もあったでしょう。しかし、地元区では「棚田保全推進委員会」が発足し草刈や石垣の補修などが行われ、平成12年5月には田植えを実施、実に十数年ぶりに棚田がよみがえりました。
「日本の原風景・棚田」が脚光を浴び、静岡県の「棚田等十選」に選ばれました。
この石部の棚田は「百笑の里」とよばれています。標高120m~210mのなだらかな傾斜地にあり、駿河湾を眺み、遠くには富士山や南アルプスの山並みを見ることができます。棚田一帯には、図鑑にでている草花や鳥や昆虫と身近に接することができます。
以前お邪魔した時にはなかった交流施設(休憩所・水車小屋など)ができていました。交流棟は松崎らしく、海鼠壁をいかした建築様式で棚田の風景にマッチし、電気はソーラーパネルと風力発電を利用し、環境も考慮した美しい建物です。囲炉裏を囲んでの会話はさぞかしはずむことでしょう。
平成14年からオーナー制度を開始し、現在105件の応募があり、
このオーナーによって、田植えや稲刈りが行われています。
私は知っています。
お米作りの大変さを。
ましてや棚田です。
一枚が小さく、機械が入らない田もあります。
私もかつて10年間、福井県若狭三森に古い農家を移築し、田んぼをお借りして、師匠の松井さんご夫妻に農業のイロハを手ほどきいただきました。私の田んぼはわずか7畝(1反弱)ですが、松井さんたちのおかげで、美味しいお米を育てることができました。
手植え、手刈り、はさかけ・・・。その間の水の管理、草取り、様々な作業があります。また米作りにともなう農村の営みと、折々の機微を教えていただきました。花一本、草一本、虫一匹にも役割があることを、しみじみ感じとれた経験でした。
今回も石部棚田保全推進委員会、代表の高橋周蔵さんにお会いしました。
この地域の活動のキャッチフレーズは
「子どもに夢を 老人に生きがいを」です。
「このような美しい棚田をよみがえらせたのは、静岡県内の学生さん、ボランティアの方々のおかげです。活動を通じ、地域住民も棚田を貴重な地域資源として、都市住民との交流をはかり楽しく守っていきたいです。」とおっしゃる周蔵さんのお顔は輝いていました。

地元民宿などの観光業と連携したグリーンツーリズム組織も整ったようです。6月に入ると沢沿いに蛍が舞いはじめ、夏にはカブトムシ、セミ等昆虫が捕り放題とのこと。子供にはたまりませんね。
棚田米は天城山からの伏流水と完熟堆肥により美味しいお米がつくられるのです。また、棚田の黒米を使った焼酎・うどん・パンなども作られています。
これからの美しい集落づくりは、ただ生産の場としてだけではなく、グリーンツーリズム、エコツーリズムの拠点として”みんなの財産”という概念が必要だと思います。
先日16日、17日の週末に田植えが行われました。小さなお子さんから大人まで105組総勢550人が集まり、田植えを楽しみました。田植えの後には地元の方々が美味しいおにぎりでもてなしてくださったそうです。夕日に染まる棚田、伊豆西海岸の夕日と棚田の風景は心の故郷です。

そして、松崎町は見どころいっぱいです。古き良き明治の街並みが楽しめます。海鼠壁の建物はよく見ると左官職人の見事な技を感じます。この技術の保存のため、「松崎夢の蔵(仮)”蔵つくり隊プロジェクト”」が発足し、後継者育成に取り組んでいます。タイムスリップしたような感覚になる街です。
那賀川沿いの時計塔と明治商家・中瀬邸はレトロなデザイン。
外観をそのままに室内は喫茶スペースとなっています。
国の重要文化財、岩科(いわしな)学校。
露天風呂・温泉健康施設(こちらは明治初期まで呉服屋を営んでいた旧商家が現在無料の休憩所として開放され、足湯も楽しめます)

今回は静岡県賀茂郡松崎町石部地区と松崎町をご案内いたしました。
【旅の足】
列車では
東京~熱海(新幹線55分)~蓮台寺(伊豆急1時間30分)~松崎(バス40分)
東京~蓮台寺(直通電車2時間50分)~松崎(バス40分、30分間隔)
東京~修善寺~松崎(バス1時間45分、40分間隔)
船では
清水港~土肥港(駿河港フェリー65分)~松崎(バス40分)
車では
東名沼津ICより三島経由国道136号。
松崎72km(下田より27km)
松崎から石部までは西伊豆東海バス
0558-42-1190
松崎町観光協会
0558-42-0745

ゆうゆうサロン

昨日(14日)雑誌”ゆうゆう”の読者の方々と、東京・目白の椿山荘で「旅とおしゃれと人生と」をテーマにお話をさせて頂きました。新緑の美しい庭の見える会場は、おしゃれをした女性たちでいっぱい。
第1部はスタイルスト石田純子さんの
“もっと楽しく、センスよく~大人の旅スタイル”
石田さんのアドバイスによって旅することが楽しくなりそうです。
第2部で私は”箱根の暮らしと旅での出会い”をテーマにしました。
“ゆうゆう”での4年間の連載を一冊の本にまとめてくださいました。
浜美枝 凛として、箱根暮らし
ゆうゆう読者は50歳代から60歳代。連載開始当時60歳になったばかりの私。読者の皆さんと共に身近な暮らしを見つめ直し、等身大の自分の気持ちを、ありのまま語らせていただきました。
これまであまりプライベートについて語ってこなかった私ですが、働く女性として感じたことや子育てをしながら感じてきたこと、あるいは母でも妻でも女優でもないひとりの人間として感じたことなど・・・。
ありのままを語ることは、とても新鮮であると同時に、厳しい作業でもありました。けれど、連載を通して自分を振り返ることで、私自身、しっかりリセットできたような気がします。
昨日は同世代、ちょっと下の世代、年齢を越えて同じ女性同士。とても楽しいおしゃべりができました。
私の女優時代。
「名優たちに囲まれていた60年代の東宝撮影所」。1961年の私は17歳、映画デビューの年でした。今思い出すと夢のような時代、まさにキラ星そろい・・・
スターの時代でした。
「銀座の恋人たち」
「キングコング対ゴジラ」
「クレージー作戦」
「無責任シリーズ」で植木等さんたちとの共演の時代もありました。
今のようにスタイリストの方がいるわけではなく、スタッフの方々と衣装を決めていました。当時の撮影所の雰囲気は忘れられません。映画のよき時代に仕事ができたことが、私にとって一番の収穫だったと思います。
私の憧れの中の憧れ、原節子さんを何度もお見かけしました。いつも背筋を伸ばし歩く姿が美しいのです。原さんの美しさは何かあたりをオーラで包むような「気」がありました。
そして旅の始まり。
イタリア映画に魅せられていた私は迷うことなくイタリアに向かいました。17歳のひとり旅。数々の名作を生んだチネチッタ撮影所、大フアンのマストロヤンニさんの芝居、見たい!一生懸命さが何より雄弁です。マストロヤンニさんの楽屋までたどりついたのですから。額に光る大粒の汗に、俳優の仕事の結晶のようなものをみたのです。
女優という仕事に、どこか徹底できていないでいた私の気持ちをふっきらせてくれたとでも申しましょうか。その時にご一緒に撮らせていただいた一枚の写真。私の宝ものです。

マストロヤンニさんの額の汗に当時の「私」は突き動かされたのでした。
それからたくさんの旅をしてきました。なぜ・・・旅をするのか。私自身にとって”旅”はいつも学校でした。塾であり、思索の場でした。
いつか教わったことがあるのですが、昔、旅という字は、今の旅行の旅ではなく「賜る」という字を書いて「賜ぶ(たぶ)」と読んだそうです。人の出会い、人から必ず恩を頂く。ちょっと”おしゃれをしてこれからも心賜る旅”を続けたいと思います。
そんなお話をさせて頂きました。読者の皆さまの日ごろの思いも語っていただき、和やかに会を終えました。
ゆうゆうは今年創刊7周年になります。これからも私達女性の身近で素敵な存在でいてくださいね。

「日本メキシコ友好400年記念特別企画・メキシコ音楽祭2009」

本日 5月8日紀尾井ホールでのコンサートが中止になりました。私も行く予定にしておりました。ご存知のように「新型インフルエンザ」の感染者数は、メキシコで1204人、死者44人 世界の24の国と地域で2400人を超える感染者が確認されました。これ以上感染が拡大しない事をただただ祈るばかりです。
今回のコンサートによせて帰国なさり準備に追われていたバイオリニストの黒沼ユリ子さんを文化放送「浜美枝のいつかあなたと」に1ヶ月ほど前お招きしお話を伺いました。
黒沼ユリ子さんは東京のお生まれ。
小学校在学中からバイオリンを始められ、高校1年生の時、日本音楽コンクール1位を受賞。1958年、プラハ音楽芸術アカデミーに進まれ、同校を主席で卒業されました。そこから世界的なバイオリニストの道を歩み始めます。ヨーロッパで考古学を学ぶメキシコ人男性と結婚。62年からはメキシコを本拠に世界各国で演奏活動を始められ、各地で多くの聴衆にバイオリン演奏の魅力を伝えてこられました。
2008年、メキシコ最高の音楽賞「モーツアルト・メダル」を受賞。
受賞理由のひとつとして、1980年から続けられている「子供達への音楽教育」があると伺いました。(80年に設立した「アカデミア・ユリコ」で子供達に音楽教育を行っていらっしゃいます)
1983年、ユリ子さんは日本全国に子供用のバイオリンの寄付を呼びかけました。メキシコには子供用のバイオリンがなく、大人用を使っていたそうです。日本の子どもたちから百丁のバイオリンがメキシコに届けられました。
1985年、学院の生徒たち12人が来日し、各地でお礼のコンサートを行いました。その半年後、メキシコは大地震に襲われます。
日本の子供達はさっそく義援金を集め、メキシコ大使館に贈ったそうです。
「今では、学院の卒業生は1,000人を超え、演奏者として活躍している人もいます」とユリ子さんは語られます。
ユリ子さんには「メキシコのわが家へようこそ」というご本があります。
メキシコの邸宅「カーサ・デル・ヴィオリン(バイオリンの家)」での暮らしを紹介されたご本です。メキシコの食材・食べ物がいかに豊かであるかが記されています。
「なんだか、昔、日本で食べた本物の味がするの・・パワーが貰える、というような、今風ではなく古風な味のままなの」と語られておられました。
今回の「メキシコ音楽祭2009」の副題に「400年前の人類愛記念」とあります。
今年は日本メキシコ友好400年。1609年、メキシコの帆船が千葉県御宿沖で座礁した時、地元民が総出で317名の遭難者を救出したのが友好の始まりです。
国や文化圏の違う人々の音楽祭でしたが、残念です。
友好の架け橋になっておられる黒沼ユリ子さん。
いつでも私たちはお待ちしております。
そして、これ以上「新型インフルエンザ」の感染が拡大しませんように。