輝く農山漁村の女性たち

輝く農山漁村の女性たち
~こだわりの地域特産品はこうして生まれる~
というテーマで、山口県からお招きを頂きうかがってまいりました。
第1部は”農の風景~輝く農山漁村女性たちへのエール~”と題して私がお話をさせていただきました。
第2部は現場で活躍している女性たちとのトークセッション”こだわりの地域特産品はこうして生まれる!” こんなお話を私はさせていただき、また活躍している地元のジャム屋さんをご紹介させていただきました。


山口県は、豊かな自然環境に恵まれ様々な地域資源が溢れています。ある意味恵まれすぎているかもしれません。山の幸、海の幸、温暖な自然環境。暮らしの中で培った知恵や技、そして地域資源を活かした特産品づくりを進めています。
私はこれまで40年近く農村漁村にお邪魔し女性たちと語りあってきました。歩いていると、農業の半分は女性が支えているのに、「自分の銀行口座」もなく、家族に遠慮して暮らしている・・・と思えることもありました。”もっと光をあててほしい!”と「食アメニティー」を立ち上げ、国にも協力していただき、農山漁村の伝統食など「食」によって経済的自立をはかろうとする女性たちを応援してまいりました。
確かに日本の農業・漁業は高齢化、担い手不足という側面もあります。TPPでの合意で、はたして日本の環境に即した生産ができるのか、安い生産物が輸入されて、確かに消費者としては嬉しいのですが、「食料」は工業品ではありません。海外からの輸入がストップした場合、担い手はすぐにはできません。広大な敷地を持つアメリカやオーストラリアとは違います。そして、世界中たとえばフランスもイタリアも「農業国」です。大型化してできる限界も日本の場合いはあります。何よりも、この美しい日本の景観は何で生まれているのでしょうか。外国からの観光客は何に魅力を感じて旅をしてくれるのでしょうか。そんなことを思いながらの40年でした。
『これからは、生産だけで食べていけない時代がくる!』と思い農村女性たちとヨーロッパへ”グリーンツーリズム”の勉強に13年通い学んできました。いまではあたり前のような「農家民泊・農家レストラン」。そこに女性の活躍の場があります。
女性たちには底力があります。「命を育む」という意味がよくわかります。今回のテーマである「六次産業化」は生産、加工、販売すべて完結いたします。地域に根ざしたやり方で、勢いを失いつつある・・・と言われた時代から、新たな「農業のあり方」を考えはじめ行動に起こしています。
食を取り巻く状況は確実に変化しています。ファーマーズマーケットでの食堂経営など、六次産業化は日本全国で大きなうねりになってきました。大量に生産し、市場に流す、一過性のイベントに頼るのではなく、新たなムーブメントが生まれてきました。
地域の食材を生かした加工品や料理を生み出すことで、地域内に人と人のつながりが生まれ雇用や起業を促進するレストランやカフェが生まれます。そこに都会の人が訪れ、生産者と消費者をつなぐ・・・そのような役割に「女性の活躍」が大きいのです。


ご紹介した地元、山口県周防大島のジャム屋さんです。
この周防大島は民俗学者、宮本常一のふるさと。私も何度か資料館にはお邪魔しております。
最初にこのジャム屋さんを知ったのは、地元の方からではなく東京でした。「知っている?山口の島で作っているジャム、フレッシュですご~く美味しいのよ」という話でした。私は毎朝、ヨーグルトにジャムは欠かせません。気になってある時訪ねました。
正直言ってジャムは日本全国のどの農村でもよく作られています。果実を栽培する地域では、誰もが真っ先に思いつくのがジャムです。イチゴの産地、りんごの産地、桃、梨、ぶどう・・・果実の産地に行けば必ずジャムを作っています。
「周防大島のジャム」はどこが違い、都会の人も興味をおぼえるのか。
松嶋匡史さんと奥さんの智明さん。ご主人は京都出身の元サラリーマン。奥さんの故郷での開業は新鮮な果物が入手しやすいということで始めたそうです。新婚旅行でパリに行き、たまたまジャム専門店に入ったとき、作り方、売り方が違っていたそうです。
高齢化率日本一の島に現れたジャム屋さん。ここまでくるのは大変なご苦労があったと拝察いたします。ジャムの主原料は、島特産のミカンを中心に契約農家から買い入れること。契約農家は52軒にのぼり、かつては加工用ミカンでは1キロ、10円ほどしかならなかったのが、ジャムづくりに適した果実を栽培してもらい、キロ100円で買いとるとのこと。お店で試食もできます。パンにつけて食べる焼きジャム。季節の新鮮なジャム。年間120種類。生産量は10万個。店頭で半分売り、ネット販売が2割、卸やパン店への販売が3割。広島のパン屋さんとのコラボ。パテシエの雇用。
「こだわったジャムにはブランド価値がある。お客さんもこだわりのもの作りに価値を感じて買ってくださる」とおっしゃいます。均一化され、どこにでもある物ではなく「つくり手も買い手も喜ぶ」大切なことだと思います。
トークセッションでは、それぞれのゲストの方の事例発表を伺い、地域に根ざしたすばらしい活動をなさっておられました。それを地域の豊かさにどう繋げていくのか・・・大変興味があります。
六次産業化については国が支援し、各自治体で積極的に推進されています。現実的にはまだまだです。販売先の開拓、メニュー開発など六次産業化には問題が山積しています。やはり「無理のない等身大」のところから進み、ひたむきに、愛情をもって、そして消費者のニーズをしっかりリサーチする経営努力も大切でしょう。
ご一緒した方々は何よりも、ご自分の暮らす故郷を愛しておられます。
山口にはまだまだ眠っている宝が山のようにあると感じました。
『輝く農山漁村の女性たち』に参加させていただき、会場の皆さまとご一緒に日本の未来・山口の未来について考えました。次回伺うときには「新たな宝」を教えてくださいね。
皆さま、貴重なときをありがとうございました。

映画「FOUJITA」

10年ぶりに小栗康平監督の最新作 「FOUJITA」が上映されます。
今から100年ほど前にフランスで活躍した画家・藤田嗣治、フジタが主人公です。
パリが愛した日本人、フジタ
エコール・ド・パリの寵児にして社交界の人気者だったフジタ
戦後の日本で”戦争協力画”を描いて日本美術界の重鎮にのぼりつめて行く
このように書かれています。
タイトルの『FOJITA』は、フジタのフランス語表記。
小栗康平監督は1945年生まれ。
1981年「泥の河」で監督デビュー。1984年の「伽倻子のために」、1990年の「死の棘」はいずれも海外で高い評価を受け、小栗監督の戦後3部作と位置づけられています。1996年には「眠る男」でモントリオール映画祭・審査員特別大賞を受賞。
その小栗監督の最新作は、画家・藤田嗣治の物語です。日本とフランスの合作です。大変興味があり封切は11月14日なのですが、事前の試写会で拝見いたしました。
私は一昨年、フジタが人に会うことを避け、パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルで亡くなるまで過ごしたという家を訪ねました。小さな村の一瞬「これがフジタの家?」と思わせる質素でありながらも実にフジタらしい家。夫人と二人きりの隠遁生活で病に冒されたフジタはなぜかとても気になる画家でした。
梁の落書き、ミシン(このミシンが映画では象徴的に描かれています)、筆を洗うシンク、髭剃り用の鏡。すべてがフジタの手づくりなのです。
その画家・藤田嗣治を小栗監督はどのように描くのか・・・と大変興味がありました。
1920年にフジタがパリで「乳白色の裸婦」を日本画的な手法で描いて絶賛された一方、戦時下の日本でフジタは陰影の濃い西洋の歴史画のような絵を描きます。
フジタは”フーフー”というお調子者を意味する愛称で呼ばれ、夜毎にカフェ・ロトンドに繰り出しパリ時代だけでも三人の女性と結婚し、華やかな日々を過ごした画家です。
第二次世界大戦。1940年、フジタはパリがドイツ軍の手に落ちる寸前に帰国し、戦時の日本ではそれまでの裸婦とは異なる”戦争協力画”を描いていくのです。
そこにどのようなフジタの心の葛藤が内包されているのか・・・。
小栗監督はどのように描写するのか。
映画はある意味、そのような先入観念を裏切ります。
これまでの藤田嗣治のイメージとは異なる人物像が描かれ、従来の映像美をしのぐ美しさが全体に広がっています。隅々まで厳しく計算されつくされたワンショット、ワンショット。
『静謐で圧倒的に美しい。絵画と映画とが融合してフジタの知られざる世界が現出した。これはフジタのいわゆる伝記映画ではない』と書かれています。
正直最初は戸惑いました。
『これはやはり監督から直接お話を伺いたい!』そんな思いでラジオのゲストにお越しいただきました。
監督はおっしゃいます。
『フジタが生きた二つの時代、二つの文化の差異。パリの裸婦は日本画的といってよく、反対に日本での”戦争協力画”はベラスケス、ドラクロワなどを手本としてきた西洋クラシックの歴史画に近いものだ。これを、ねじれととるか、したたかさととるか。ともあれ、一人の人間が一心に生きようとした、その一つのものだったのか、を問いたい』と。
主演はオダギリジョー。
資料はざっと読み、早く事実から離れた。映画は独自の時間の中で成立するもの。物語は歴史に縛られがちだが、感情は歴史的事実からは自由であるもの。

そして合作ならではのご苦労や、逆に映画を国民的に文化と捉える風土。映画論。など等、大変興味深いお話が伺えました。
戦後70年という節目に上映されることについても伺いました。
封切は11月14日(土)から、角川シネマ有楽町や新宿武蔵野館はじめ、全国各地で上映されます。
ラジオ放送は
文化放送 11月8日 日曜日
「浜 美枝のいつかあなたと」
10時半~11時
ぜひお聴きください。
私は封切られたらもう一度、大きなスクリーンで愉しみます。
映画の公式サイト http://foujita.info/

秘島図鑑

皆さまは「ひとう」というと温泉かな、という響きがございますでしょ。
今日のお話は「秘島」です。
私は青春時代、”島”にかぎりない興味と愛着をもって、旅を続けた時代がございます。遠い島は、鹿児島県のトカラ列島。何しろ50年ほど前にはたしか10日に1回、運行されている村営船のフェリーのみでした。今は週2回運行されている「フェリーとしま」があるそうですが。鹿児島を出港したフェリーは、口乃島、中ノ島、諏訪乃瀬、小宝島と向かいます。その小宝島では最後の小学生の卒業式があると聞き、「小宝島・子宝島」とのイメージで12時間ちかくかかって行くのです。
まったく、よくそのようなエネルギーがあったものです。デッキから見る島々には何かロマンを感じ、うっすらとした島には興味がわきます。
沖縄の島々はもちろんのこと、海外の島まで足を延ばしました。
今年の四月、天皇皇后両陛下が、元日本の植民地で太平洋戦争の激戦地だったパラオ共和国を訪問し、元日本兵や遺族も見守る中、日本の慰霊碑だけではなく、アメリカ軍の慰霊碑にも献花されました。そのときの「このパラオの地において、私どもは、先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた困難の道をしのびたいと思います」というお言葉を聞き、思わず胸が熱くなりました。
私がパラオへの旅をしたのはまだ10代のころです。美しい海、砂浜、夜は星が輝き、ホテルもない島での滞在はアメリカ軍の官舎のような建物に宿泊ができました。女性はまだ腰に布を巻くだけ。外国人は私とアメリカからの20代の女性だけ。グアムから週2便ある飛行機で行きました。その前にはサイパンにも何度か訪ね、チャモロ人、カナカ人の友人もできました。深い戦争の爪痕も残っていました。
パラオの周りには美しい島々があります。マップ・ヤップ島。小船で連れて行っていただきました。夜になると村の長老が焚き火をおこし、かつて自分たちの先祖が星明かりをたよりにカヌーで島に渡ってきたこと・・・などを語り聞かせてくれるのです。涙がでるほどの美しさです。そして、朝、澄んだ向こうに見える無人島を眺めていると『あ~この先の島にも行きたいな!』と思ったものです。
そんな思い出の島々。今回『秘島図鑑』(河出書房新社)をお書きになった清水浩史さんは、それを実現なさっておられるのです。帯には「本邦初の”行けない島”ガイドブック」遠く離れた小さな島々から、今の日本が見えてくる!!と書かれています。
清水さんは、1971年生まれ。早稲田大学在学中は、早大水中クラブに所属。ダイビングインストラクター免許を取得し、今も国内外の海と島の旅を続けています。テレビ局勤務を経て、東京大学院(環境学)博士課程中退。現在は編集者、ライターとして活躍しておられます。
「私の行けない秘島」のお話を伺いたい!とラジオのゲストにお招きいたしました。数々の文献を読み込み、美しい部分だけではない、南亜黄島など漂流して生き抜いた人や、アホウドリ捕獲のため撲殺があり環境破壊してしまって無人島になってしまった島。沖大東島(ラサ島)は、60年近く米軍の射爆撃場になっていたこと。その歴史や生活、かつて営まれていた人々のドラマ。清水さんが「秘島図鑑」で掘りおこしてくれました。
西乃島は、噴火で今なお成長中。見守りたくなります。 『地球』という星に生きている私たち。地球という星が生き物であり、今も変化し続けています。 そのことをふまえて「秘島」を見ると、旅の愉しみもさらに深くなるのでしょうね。
『この先にはもう行けない!でも行きたい!』そんな55年近く前の思いを叶えてくれた一冊でした。
放送日10月18日(日曜)10時半~11時文化放送「浜美枝のいつかあなたと」

「箱根やまぼうし」からのお知らせ

箱根の芦ノ湖のそばに居を定めてから37年の月日が経ちました。
12軒分の古民家を再生し、子育てが終わってからは、アートスペースとして皆さまの憩いの場として、多くのアーティストの方々とのコラボで、展覧会やコンサート、ワークショップなどを開催いたしております。
今月に開催する2つの催事のご案内です。


10月17日開催 『静かな森のまあるい音楽会』
ピアノとギターが奏でる優しい音色が空間に広がるとき、梁や柱も喜んでくれているような気がいたします。
ウフのお二人のコンサートは過去にも数回開催していただいておりますが、クラシカルな曲から映画音楽、それにラテン音楽とジャンルを問わず素晴らしい楽曲の数々をお楽しみいただけます。
ウフはフランス語で「卵」を意味するそうです。
「この卵から何が生まれてくるんだろう?」というワクワク感と同様に皆さんの心を動かす素敵な音楽の「卵」をお贈りしたいとウフのお二人はおっしゃいます。
http://www.mies-living.jp/events/2015/oeuf1017.html
そして24日からは毎年恒例となった箱根寄木細工の展覧会です。


『露木清高 箱根寄木細工の伝統と未来 ~世界の寄木とともに~』
清高さんの寄木との出会いは箱根ラリック美術館でした。ラリックがかつて箱根で生まれた寄木細工を見たであろうことを感じる作品とのコラボで、私が知っていた今までの寄木細工の印象とはかなり違う作品でした。代々の伝統を踏襲しつつ、現代の暮らしにマッチした作品に魅せられてしまい、それから我が家の「やまぼうし」で展覧会を行っていただいております。
そして、今回はNefer Galleryの金田理恵さんが世界中から集められた寄木細工や象嵌細工なども展示してくださり、箱根の寄木のルーツを知ることの出来る展覧会です。
10月24日(土)は露木清高さんと私のギャラリートークがございます。
日頃なかなか作家さんから直接お話を伺うことはないと思いますので、この機会にぜひご来場ください。
また期中はカフェをオープンいたします。行楽の秋のたけなわ、美しい紅葉で彩られる秋の山にお越しになってください。澄んだ秋空が皆さまのお越しをお待ち申し上げております。
http://www.mies-living.jp/events/2015/yosegi.html
土と生き、風に身をさらし、大気にふるえ、太陽のぬくもりをたっぷりと含んだ木の家で、ときの匂いを感じてください。

片岡鶴太郎 四季彩花

片岡鶴太郎さんの展覧会がパナソニックの空間演出ソリューション特別展が汐留ミュージアムで開催されています。
先日拝見しに行ってまいりました。
画業20周年を迎えられた鶴太郎さんは、絵画だけではなく陶器、ガラス器、染色・・・とそれぞれの分野で制作を続けておられます。今回の展覧会は、美しい日本の四季への思いが込められた作品の数々。そして、今回は初めての試み、最先端のテクノロジーによって4Kを含む各種映像・照明、その空間演出は今までの個展とは異なり、新たな世界が広がる素晴らしい展覧会でした。
鶴太郎さんは高校卒業後、片岡鶴八に弟子入り。3年後、東宝名人会、浅草演芸場に出演し。その後、バラエティー番組を足掛かりに大衆の人気者になり、現在は幅広いキャラクターを演じられ役者としても活躍中です。
あれは、7年前のことでした。我が家で対談をさせて頂いたのが始めての出会いでした。なぜか、とても気になる存在でした。展覧会で作品を拝見して、「どういう心の移り変わりがあったのかしら・どのようにしてこの世界にお入りになったのかしら」など等。
『40歳で始めて絵を発表したものですから、40歳というのは、僕にとって人生の区切りであり、新たな始まりでした。恵まれた芸能生活もある時、40歳の手前で、同時に全部無くなり、引き潮の中でポツンと取り残されたような、何ともいえない、無常観がたまらなく悲しかった。これからの人生、何を頼りに、何を求めて生きていったらいいのか・・・人生の中にポツンと置かれた孤独感と焦り、そんな時2月の寒い朝、ロケで家を出る時に、何か視線を感じ振り返ると、お隣の庭に朱赤の椿が咲いていたのです。”花という命”と始めて語り合えた・・・「この花を描ける人になりたい」そう思ったのがきっかけです』と。
不思議なご縁を感じました。
私も40歳の時に演じるという女優業を卒業いたしました。
そして、人生のギアーテェンジをいたしました。17歳で始めて出会った古信楽”蹲”には寒椿を生けます。
鶴太郎さんと偶然新幹線の中でお会いし、おしゃべりをしていたら共通の画家が好きで、思わず私は鶴太郎さんに「我が家のスペースで展覧会をしてください。生活空間の中で鶴太郎さんの絵を拝見したいのです」と、申し上げておりました。描く絵は野に咲く花であったり、野菜や魚、そこには私は専門的なことは分かりませんが、細密画ではなく、深いところを見ていながら、どこかで思い切って省く・・・そこに見る側を優しさで包み込むようなそんな絵。
それから我が家”やまぼうし”の空間で5回の展覧会をさせていただきました。
2015年3月、書の芥川賞といわれる「第10回手島右卿賞」を受賞されました。
絵画だけではなく書も魅力的な展覧会です。
人は人生の中で何度か壁に阻まれます。
その時に救われるのが芸術なのではないでしょうか。
今回の展覧会はそんな優しさに満ちた会場でした。
2015年9月17日~10月18日(日)まで。
パナソニック汐留ミュージアムにて開催中。
☆新橋駅から歩いて5~6分です。
http://panasonic.co.jp/es/museum/shikisaika/

「青春18きっぷ・ポスター紀行」  飛騨路への旅

待っていた一冊の本がやっと届きました。
JR「青春18きっぷ」ポスター紀行(講談社)
25年分のポスターが一挙に掲載!されているのです。
皆さんは旅をなさる時、もちろん新幹線や飛行機が多いでしょうね。
私も使いますが、時間が許せば普通列車でのんびり旅がいいですね。
とくに無人駅のようなローカル線に乗り、お互い旅人同士、目があい挨拶を交わす・・・列車がホームに入り、その列車もどこか遠くから旅してきたようなそんな感じ。駅や渡り廊下に貼ってあるポスターに旅情をかきたてられてずい分旅をしてきました。
青春18きっぷ
本を眺めていたら、高山本線も出てきました。


「そうだ、飛騨に行こう!」と思い立ち2泊3日で行ってまいりました。
小田原から名古屋までは新幹線で。そして高山本線で高山まで。沿線の景色をぼ~と眺めながら。7割は外国の方には驚きました。奥飛騨から乗鞍のほうまで足をのばすのでしょうか。


「円空さん」に逢いたくて、高山の街のはずれ車で20分ほどの千光寺に向かいます。旅先には宝ものがあります。その宝物に逢いに行く旅もあると思います。飛騨路の旅の宝物は円空さん。飛騨びとの心に住む円空仏は、まさに木から生まれた仏さま。人々はエンクさんエンクさんといって親しんでいます。
円空さんは1632年、岐阜の羽島の生まれといいます。少年期は大飢饉のさなかであったり、美濃の洪水にみまわれて母を亡くしたりで大変不幸でした。幼くして寺に奉公を余儀なくされたのもそんな事情が重なったのでしょう。その寺を後に出奔するのですが、恋愛がからんでいたという説もあります。そのあたりが青年円空の人間くさい一面を想像させえて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
生涯12万体の仏像を全国で彫ったといわれています。辺境の地、離れ島、山間僻地・・・人々の貧困、病苦を救おうと一心に彫りつづけました。想像を絶する旅を続けて、村を訪ね、人と出逢い、交流の中で仏の教えを説いたのでしょう。素朴な仏像はおもちゃとして用いられたかもしれません。
千光寺の宝物殿には円空が立木に梯子をかけてそのままオノをふるって造仏したとされる「立木仁王像」。そして、私の大好きな「おびんずるさん」無病息災を願う千光寺のなで仏。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。そうなのですね・・・旅の先には宝ものがあります。ここ千光寺の円空さんに会う他に、こちらの住職さんも会いたい人なのです。端正なお顔立ちと良い声の持ち主で、大下住職は12歳のときにこの寺に入られ修行をつんでこられた方。
以前伺ったことがあります。
『人は一生のうち三度ほど生命の無常を感じます。私は12歳のときに死について考えました。つまり生について考えるということです。それが仏門に入ったきっかけです。寺から中学に通い、やがて高野山へ修業にでました。』
今回もお話を伺うだけで何だかとても心が落ち着きました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”と心の中でつぶやき千光寺を後にしました。
そして、旅の空の下には友がいます。私を待っていてくれる人が・・・。
秋の陽射しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれます。


私には心の故郷と呼べる土地がいくつかありますが、この飛騨古川の街に引き寄せられるように、何十回とこの街を訪れ、今ではこの町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染みわたります。
地方創生・・・という言葉さえない時代に若者たちとの町づくりに夢中になり40年が経ち、若者へとバトンタッチされています。
『ふるさとに愛と誇りを』という8ミリ映画が完成して40年。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
『青春18きっぷ』から半世紀がたっても心は変わりません。
「旅情は距離がつくる」と書かれています。
旅先で自分の過去の記憶が現在いまこうして暮らしている私の心を刺激してくれます。
やっぱり旅は素敵です。

朝が来る

辻村深月さんの「朝が来る」(文藝春秋)を拝読し、ぜひ、お会いしお話を直接伺いたいと、ラジオのゲストにお招きいたしました。
家族のあり方、子どもを持つこと、また子を産みたくとも産めない女性、子供を手放した女性。異なる立場の2人を軸に物語は展開されていきます。
日本ではまだ養子縁組がさほどポピュラーにはなっていません。そして、不妊治療も夫婦にとっては大変です。まして女性の場合、仕事をしながらの通院は負担が大きく大変です。
家族3人で穏やかに暮らしていたものの、ある日、自宅マンションに若い女性が訪ねてきます。ここから先は是非、実際に読んでいただきたいです。
直木賞作家、辻村深月さんは1980年、山梨県生まれです。
2004年、「冷たい校舎の時は止まる」で文学新人賞を受賞し、作家デビュー。
2011年、「ツナグ」で吉川英治文学新人賞受賞。
2012年、「鍵のない夢を見る」で直木賞を受賞なさいました。
作家デビューしてからも6年間はふる里、山梨でOL生活をしていました。
「その間の経験はとても大切な時間でした」とおっしゃいます。
私は辻村さんのミステリー、ファンタジー、青春もの・・・などコンスタントに、いろいろなジャンルの小説を発表する原点と書き続けられる理由を知りたいと思っていました。幼い頃から、読書が好きで、絵本、漫画・・・なんと小学3年生で小説(ホラー)を発表しているのです。
スタジオにいらした辻村さんは妊娠8ヶ月目。第2子を妊娠中でした。「子どもは育てている、というより”育てさせてもらっている”という感じです」と笑顔で語られる姿がとても清々しいです。きっと大変なことも沢山おありでしょう。
女性として、働き方や生き方が問われる時代。
30代の辻村さんの生き方、考え方を知りたく思いました。
そして、今なぜ今回のようなテーマを選ばれたのか。
息切れせずに、いい作品を書き続けることが出来る源は何なのでしょう。
小説のラストシーンがとても素晴らしいのです。
考えさせられる素晴らしい小説でした。
お話はぜひラジオをお聴きください。
2週にわたり放送いたします。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日 10時半~11時まで。
9月27日と10月4日放送です。


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『いい人みつけた』

先週の水曜日、TBSラジオの「大沢悠里のゆうゆうワイド」に生出演させていただきました。
もう30年続いている番組です。そんな 「ゆうゆうワイド」にゆかりの人がその週は交代でゲスト出演致しました。私は20年前まで13年間、その中で10分の帯番組を月曜~金曜日に出演いたしました。
浜美枝の「いい人みつけた」というタイトルで、ゲストをお招きしお話を伺いました。最初の1年間だけでも、そうそうたる方をお招きしているのですね。文園社から『ただいまラジオで放送中 浜 美枝の「いい人みつけた」』という本を昭和59年12月1日に初版で出しております。
淡谷のり子・安野光雅・内海桂子・大塚末子・大貫栄子・佐藤直子・篠田正浩・妹尾河童・高石ともや・中山あい子・姫田忠義・柳家小三治・村松友視・・・さんなど、素晴らしいゲストの方々です。
亡くなられた方もおられます。
走馬灯のように、当時のことが蘇えります。
ブルースの女王とよばれる淡谷のり子さんがスタジオにお越しくださったのは”花曇”の日でした。(ノートにその日の天候と印象に残る言葉を綴っておりました)薄曇で生暖かいその日、もうすぐ桜の花の咲く季節。
“クラッシックをもう一ぺん勉強したい。それが私の夢なの・・・”とおっしゃるスタジオには、すごくいい香りがしたのです。黒水仙」とか。フランスにたった一軒あるんですって売っているお店が。淡谷さんらしい素敵な香りでした。
「音大出て、世の中に出ました。クラッシックやってましたけど、レコーディングすることになって、もちろん流行歌ですが、、レコード会社で少しまとまったお金をいただいたのでまず買ったのが香水なの。」
19歳と17歳のご両親の結婚。すぐに生まれたのが淡谷さん。ご苦労されたお母さまについて「あんなできた母っていないですね。こどものときから勉強しろって一度も言わないの、でも読んでいた本は、新しい女のいく道。平塚らいてうさんだとか、ああいう方たちの本をかくして読んでいましたよ。」
「あの母があったから私がいるんだと思いましたね。今でもそう思っています。」
歌に燃えて、歌いつづけて54年。
「戦時中には警官と軍隊に、ずいぶん始末書書いたり・・・慰問にいくのに、モンペはいてクラッシックとか、そんなみっともない姿でステー出られませんから。ちゃんとイブニングドレスで。最後まで何を言われても。非国民だとかいわれてね。」
若輩の私は先輩の仕事をもつ女性としての男性観、結婚観にも興味がありました。一度淡谷さんは結婚したことがあります。
「私ああいうこと嫌い、結婚は。自分が一番大切なの、私は。歌が大切なの。私には主婦の才能がないのよ、あれは才能がいるのよ、みそ汁つくったり、ご飯炊いたり・・・なんてできない。それでね、私はちょっと自分だけが大切・・・それではいけないかと思うんですけどね、自分だけを大事にしたみたいで。ところがね、私は歌い手になったんだから、やっていかなきゃいけないでしょ。私は大体男を追い回すほうなの。追い回している間が楽しいの。今になってみれば、アラ探しをするのがイヤだったのね、きっと。」
・・・・・女性として今まで生きてこられて幸せでしたか・・・・・と伺ってしまいました。
「女であってよかったと思います。男でなくてよかったと思いますね。女だからこうやって歌を歌って生きていかれるのですもの。女性はきれいに生きていける、美しく年をとりたいの、私は。」
39歳だった私には淡谷さんが出された「生きること」を読んでもほんとうのところ、奥深くまでは理解できていなかったでしょう。「生きることは愛すること。全てを愛せるということは、幸せだと思うんですよ。」
肌は白く、艶があって、シワがないのです。天性の美しさに加えて、毎日のお手入れ。女性としての先輩、淡谷さんに大敬服するとともに、その美しさへのひたむきな努力と歌にかける情熱のかけらを、私なりに頂戴したいなと思いました。
淡谷さんの歌 『恋人』。いまだに耳の底に残っています。
歳月を超え、世代を越え、男も女も超えて、一人の女性の人生を通して歌われる歌の大きさ、深さに、ようやく私自身が意味を理解できるようになってきたのかも知れません。
  ゆで玉子むけばかがやく花曇    中村汀女
こうして、先週はたまたま昔の自分自身を知るきっかけをいただきました。
この秋には72歳になる私。
淡谷さんのように背筋を伸ばして、ひたむきに生きていきたいものです。

伊藤若沖

江戸中期に京都で活躍した絵師『若沖』
没後200年だった2000年(平成12年)、京都博物館で開催された大回顧展で観て以来、夢中になったのですが、いまひとつ謎の部分が多くよく人物像がわかりませんでした。
この度、作家の澤田瞳子さんが『若冲』(文藝春秋)をお書きになりました。
夢中で読みました。もちろん小説ですからフィクションですが、その大胆な発想は「若沖」の人物像が変化した」ことが執筆の動機になったそうです。
澤田さんに是非ともお会いしたくラジオのゲストにお招きいたしました。
澤田さんは、1977年、京都生まれ、現在も京都にお住まいです。
同志社大学文学部・文化史学専攻卒業。
時代小説 アンソロジー(作品集)の編集などに携わったのち、2010年、『孤鷹の天』で小説家デビュー。翌年、第17回中山義秀文学賞を最年少で受賞しました。
2012年、『満つる月の如し、仏師・定朝』で本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。翌年、新田次郎文学賞を受賞。その他『泣くな道真』など、精力的に時代小説を発表しています。
日本美術の人気背景に、女性作家の江戸時代に活躍した絵師を題材にした作品が次々に発表されています。男性作家の描き方とは違うスケール、社会や歴史にも切り込んだ、そして直木賞候補にもなった澤田さんの『若冲』のように絵のもつ奇抜で強烈な印象をさらに”人間若沖”が読み取れ興味深く読みました。
澤田さんは京都暮らしなので子どものころから若沖の絵に親しんでいたそうです。歌手なら、路上ライブからいきなり日本武道館でのデビュー!的なブレーク。
小説を書くにあたって、過去帳などの資料を読み込み、そこに若沖の絵に「翳り」を感じたともおっしゃいます。書かれた記録が少ない中、私など素人は「どうしてこんなお話が生まれるのかしら・・・」まるで若沖そのまんま!のようなストーリー展開なのです。
京都錦市場の老舗青物問屋の長男として生まれますが、家業は2人の弟に任せて、絵を描くことに没頭。84歳で亡くなるまでが謎でしたが、この小説に描かれている『若沖』で小説ですが私自身は納得できる、そして魅力ある内容のお話が伺えました。2週にわたり放送いたしますので、ぜひ澤田さんのお話を楽しみにお聴きください。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜10時半~11時まで。
9月13日、20日放送。


流れ星


初秋の夜半は一年の中で流れ星が一番見られる季節です。
箱根の森に住み40年近くがたちます。
流れ星は、探してもなかなかみつかりません。
でも、ふっと夜中目が覚め、庭に出て星空を眺めていると一時間もしないうちに見つけられます。
夜空を一瞬流れ飛ぶ「流れ星」。
「流れている間に願いごとをすれば必ず叶う」と聞いたことがあります。
下の息子がまだ赤ちゃんの頃、夜泣きが収まらず、おんぶして庭に出て、「ほら、お星さまキレイね」と背中に語りかけてみると、もうスヤスヤ寝ているのです。あのときも流れ星をみたように思います。
今はひとり、夜半の星空をひとり占めできます。
澄んだ夜空は心地よいのです。
ずい分以前のことですが、詩人でエッセイストの今は亡き松永伍一さんと教育雑誌で「子どもの個性を育てる」をテーマに対談をしたことがございます。自然のふところに親と子が立ち、そんな環境の中での子育てを願ってのことでした。
先生はおっしゃいまいた。
「自然によっていのちが生かされていることを、あまり論理的に言ってしまうと、逆に子どもの物差しが自然に目盛をつけてしまうから、流れ星を見て「流れ星って素敵ね」と子どもが言ったら「ほんとにいいね。でも宇宙の中であれも大変なドラマだよね」というぐらいで止めておくことが大切です。すると、それを受けて子どもは、自分なりに論理づけをしていきます。そうやって子どもが少し論理的に言ってきたら、ようやくこちらも論理的に対応するという「待ちの姿勢」が大事なのです。大人はせっかちに「こうあってほしい」「こうしなさい」と親の願望と命令形で目線が下を向いて言葉が出てきているんです。なるべく、親として子どもと目線を同じ高さにしなくてはいけませんね。」
こんなお話をしてくださいました。
『自然を相手にすると待たされるものです。』
子育てもそうでした。
今のお母さんたちは大変です。
情報はふんだんにあるし、物差しもたくさんあります。
おんぶして「お星さまきれいね」・・・というくらいのゆとりを差し上げたいですね。