
生きることは ひとすじがよし 寒椿
五所平之助
新しい年を迎えました。
いかがお過ごしでしょうか。
人々が安心して暮らせる一年になりますように。
子どもたちの笑顔があふれる一年となりますように。
そう願い今年も箱根神社に手をあわせてまいりました。
今年は昭和101年にあたります。
生まれて二年後に終戦を迎えた私は、あの戦争が経て、世界は変わっていくと思っていました。人々が知恵を出し合い、互いへの理解を深めていけば、やがて争いは減り、平和な世界を築くことがきっとできるだろう、と。
けれど、世界では今も多くの対立が残り、人々が苦しんでいます。多様な人種・価値観を持つ人々との間に生まれた断絶、意見が異なる相手を悪とみなすことで深まる社会的亀裂、各地で起きた戦争や武力衝突により多くの都市が破壊され、犠牲者と避難民が急増し、深刻な人道危機が続いています。いかに文明が進んでも、人の心が追いつかなければ、人々の声を聞こうとしなければ、争いはなくならないのかもしれません。
そんな思いで心がざわざわしたとき、民藝研究家であり思想家であり宗教家でもあった柳宗悦先生の言葉が、私の耳の奥に響くのです。
『ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国を作ろう』
中学二年生になったばかりの放課後、いつものように図書館に行き、手に取った一冊。今では題名さえ定かには覚えていないのですが、その本の中に柳先生のこの言葉がありました。
家が貧しく高校への進学が許されなかった私は、心の芯となるものを懸命に探していたのかもしれません。柳先生のこの言葉がひたひたと胸に広がり、私を満たしてくれるかのようでした。以来、この言葉は私の生きる指針となりました。
人々ひとりひとりが美しい暮らしを志せば、きっと美しい世界、美の国を作ることができる――。 82歳になった今も、私はそう信じています。
先日、久しぶりに駒場の『日本民藝館』に行ってきました。日本民藝館は1936年に柳先生によって創設された、民藝運動の拠点となる美術館です。何十回と通い、そのたびにすみからすみまで見てきた、私にとっては懐かしい場所でもあります。
いつものように、階段をあがったところにある長い腰かけに座って、美しい道具が存在する温もりのある空間を味わいながら、柳先生は、私を導いてくれた大切な心の師であると、改めて感じいりました。
私が、民芸をめぐる旅に出るようになったのは、20代に入ってまもなくのことでした。それから民芸がつないでくれた、言い尽くせないほど多くの、かけがえのない出会いがあり、たくさんの学びがありました。
『沖縄こそが日本の民芸のふるさと』という先生の言葉に導かれ、まだパスポートが必要な沖縄にも通いました。焼きもの、織物など、用の美の美しさに触れ、作り手や使い手のお話を聞き、そこで終生の手本と仰ぐことができる与那嶺貞さんにも出会うことができました。
与那嶺さんは、かつて琉球王府の御用布であったにもかかわらず近代化や戦争により、技法は失われ、幻の織物となっていた『読谷山花織』を復元させた女性です。貞さんは夫を第二次大戦で失い、三人の子とともに戦火の沖縄をなんとか生き延び、55歳で民族の誇りである花織の復元に着手。見事に花織を再興し、後継者の育成も行い、国の無形文化財にも指定されました。
「浜さん、女の人生はザリガナ(もつれた糸のようなもの)よ。でも丹念にほぐしていけば、美しい花のヤシラギ(布)をウイルサビル(織ることができる)」
美しい琉球言葉で歌うように語ってくれたこの言葉に、私は何度、励まされたことでしょう。
柳先生と浅川巧氏の、朝鮮の民衆工芸をめぐる深い共鳴と友情に感動し、朝鮮の人々の暮らしに深く入り込み、生活者としてその美を体感した浅川氏にならいたいと、韓国にアパートを借り、市場で買い物をし、地元の人とともに銭湯に通いながら、浅川氏の足跡を追ったこともありました。日本と韓国を10年往復しながら、浅川氏の墓を詣で、浅川氏を今も慕う人々と出会い、貴重な話を聞かせてもらうこともできました。朝鮮の美と、人々の暮らしの結びつきをも肌で感じることができた貴重な体験でもありました。李朝の美を愛する彼の地の友人もでき、今も家族ぐるみのおつきあいを続けています。
長年、民芸に私なりに携わってきて、思うことがあります。
歴史も文化もそれぞれの国で異なっても、人は互いの美を認め合うことができるということ。美しいと感じることで、心が開かれるということ。こうしたささやかなことの積み重ねで、人は理解を深めていくことができるということ。
日本民藝館には日本人のみならず、多くの国の人が訪れていました。 美しいものを通して、人の心にたくさんの美の種がまかれ、美の国が少しでも広がっていきますようにと、願わずにはいられません。





















