12月に思うこと

赤ん坊を前抱きにしている若いお父さんを、町でよく見かけるようになりました。小学校の入学式や運動会に揃って出席するご夫婦も増えています。

男性が外で働き、女性は専業主婦として家庭を守るという家庭のモデルは、「男女雇用機会均等法」(1985年)、「男女共同参画社会基本法」(1999年)など法制度の整備にも支えられ、劇的に変化しました。共働き世帯が増加し、育児休業の取得や女性管理職の登用なども進んでいます。子育てをしながら働く環境がちゃくちゃくと整えられつつある現代。本当にいい時代になったとしみじみ感じます。

私は25歳で結婚し、四人の子どもに恵まれました。あのころ、女優が出産どころか、結婚することさえ珍しかったのですが、私は自分のキャリアだけでなく、切に自分の家庭がほしかったのです。大きなお腹でワイドショーのキャスターを続けていたときには、応援してくれる人もたくさんいましたが、こんな姿で人前に出た女優ははじめてだといわれたりもしました。実際、そうだったのだと思います。

子育てに夫の手助けは期待できませんでした。それは私に限ったことではなく、「家のことに支障がないようにできるなら働いてもいいよ」といってくれるのが、理解のある夫といわれた時代でした。

仕事が終われば、冷蔵庫に残っているものを思い浮かべ、夕飯は何にしようかと考え、車を走らせ、駐車場に車をとめるやいなや走って台所に飛び込み、着替えもせずに、ガスに鍋をかけ、とりあえずお湯を沸かす……。実の両親や面倒見のいい長女の助けを借り、何より子どもたちの笑顔に励まされながら、なんとか乗り切った日々。母子ともに丈夫で幸いでした。

子どもたちとは忘れられない時間をたくさん過ごしました。

うちに迎える古民家を探しているときには、車に布団も積み込み、中でお昼寝をさせながら、日本中を走り回りました。岩手の遠野に連れて行ったときには、語り部のおばあさんが、河童や座敷童がでてくる民話を次から次に聞かせてくれ、子どもたちは目を輝かせてその世界を味わって……夢中で聞き入る子どもたちの姿にも、私の胸が熱くなりました。

ダムに沈む新潟県の北部・奥三面の夏も、子どもたちと一緒に過ごしました。この村の暮らしを映像記録に残そうとした姫田忠義先生に同行させていただき、私も3年間22回通った奥三面の最後の夏でした。清らかな谷川で子どもたちが若鮎のように泳ぎ、はしゃぎ、あっという間に真っ黒に日焼けして。村のおばあさんおじいさんには自分の孫のようにかわいがっていただきました。村の最後の夏。四人の子どもたちのおかげでにぎやかでよかったといっていただいたことも忘れられません。

箱根の家を建ててからも、子どもたちがいたからこそ、楽しくおもしろい時間を過ごすことができました。ガスがなかなか通じず、キャンプのような暮らしが続いたこともありました。寝袋で寝たり、外でご飯を炊いたり。息子が釣ってきたブラックバスをどうにかして美味しく食べ切ろうと、みんなで奮闘したことも。

子どもたちに伝えたいと、我が家ならではの四季の行事も大切にしてきました。たとえば大晦日、おせち料理のお煮しめを作り終えると、急いで人数分の巻き寿司を作って、家族そろって一本ずつ食べるという習慣。伊勢出身の母によると、この太巻きを食べることで、その年の厄払いをして、新たな福を呼び込むことができるといういい伝えがあるのだとか。

日が変わるころに、家の電気を消し、和蝋燭を灯し、囲炉裏の神様に感謝を捧げ、火種に灰をかぶせ、新年を迎えると、飛騨から取り寄せた豆ガラに火を移し、「今年もマメで元気で暮らせますように、不滅の火のように頑張れますように」と願うのも、我が家流です。箱根の家に暮らしはじめて数年後の大晦日の晩に停電になって、その深い闇に驚き、以来、1年に1度、大晦日の晩の数十分を、電気を消し蝋燭の灯りで過ごすことにしたのでした。

ひたすら仕事に没頭しつつも、精一杯やれることはやってきたとは思います。それでも振り返ると、子どもたちには寂しい思いをさせたのではないか、もっとしてやれることがあったのではないかという思いは消えません。

年の瀬は、これまでの日々を反芻する季節なのでしょうか。

12月は、家族や支えてくれる人を思う月なのでしょうか。

年を重ねていく私を、今は子どもたちがさりげなく見守ってくれています。そのあたたかなまなざしに包まれていることがわかるから、老いの階段をのぼるのも怖くないのかもしれません。

今年もありがとうございました。

家族に、そして私を支えてくださるすべてのみなさまに、心より感謝いたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA