映画『秋がくるとき』に思う。

『私たちは高齢者を聖人化し、理想化しがちですが、彼らもまた複雑な人生を生きてきた存在なのです。彼らにも若いころがあり、性的な存在であり、無意識の思考や欲望を持っています。……この映画の冒頭を、美しい田舎で暮らす80歳の女性の日常から始めることは、私にとって重要なことでした。彼女は菜園の世話をし、教会へ行き、友人を車に乗せ、ひとりで食事をする……。彼女の時間は静寂に満ちています。多くの場面で、本来なら語られたかもしれないことが語られません。ミシェルはどこか用心深い人物です。彼女は自分なりの「真実」を作り出しますが、それは決して計算や策略ではなく、彼女の生存戦略なのです』

    (『秋がくるとき』パンフレット内フランソワ・オゾン監督インタビューより)

この映画を見終えて一か月もたつのに、紅葉に彩られた秋の美しい風景とともに、主人公ミシェルの生き方が、今も私に何かを問いかけ続けています。これほど余韻の深い映画に、久しぶりに出会いました。

フランソワ・オゾン監督の本作『秋がくるとき』の舞台は、ワインの産地として知られるブルゴーニュの小さな田舎町。人生の秋を迎えた女性ミシェルのもとに、パリに住む娘と孫息子が遊びにやってきて、事件が起こります。母娘の葛藤、過去の傷と沈黙の記憶などが少しずつあぶりだされ、取り返しのつかない喪失へとつながっていきます。

やがてミシェルは孫と静かな日々を過ごすことを選び、親友の死、親友の息子との一見奇妙にも見える複雑な関係をも受け入れていきます。庭を耕し、孫に優しいまなざしを向け、料理をし、ときには髪をおろしてダンスをし……。さらに年月はたち、ミシェルは大切な人々と入った森の奥で、シダの葉に囲まれながらひとり静かに横たわり、まるで大地へと還るかのように旅立ちます。

監督の言葉にあるように、作中では多くのことが明言されません。それは観客ひとりひとりが想像を膨らませ、ミシェルをはじめとした登場人物を解釈しなければならないということ。「あなたなら、どうする?」「どうふるまう?」「何と言う?」「正しさとはなに?」「過ちとは?」「何を手放し、何を守る?」など、多くのことが胸につきつけられます。

中で最も印象に残ったのは、「その人のまま老いる」ミシェルの強さとしなやかさでしょうか。老いても、たくさんの屈折を抱えていても、自分が自分であることをあきらめない。自分のままで在り続けるために、自分の人生を自分で選び、誰より自分が自分を赦し、過去も現在もこれからをも含めた人生を肯定し受け入れていく。その姿に感銘を受けずにいられませんでした。「良かれと思うことが大事」という彼女の言葉も、強く心に残りました。自分をあるいは他者を赦す鍵はここにあるのではないか、と。

                                                                                                                                                                人生を振り返れば、したくてもできなかったことや、いたらなかったことばかりだと、感じる人が大半ではないでしょうか。私もそのひとりです。

けれど、ミシェルの「私たちはできる限りのことをしたわ」と語ります。この言葉に、力をもらうのは私だけではないはず。完璧には程遠くても、私も今、「精いっぱいやってきたと思う」とだけは言えるような気がします。これも、この映画のもたらす生への肯定、そして赦しなのかもしれません。

5月末に封切りになった本作品、今も全国で上映が続いています。お近くに上映館がありましたら、ぜひ足をお運びください。

どこかひりひりしつつも、温かなものが、静かに力強く、心に満ちてくるのを感じていただけるのではないかと思います。

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