猛暑が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。避暑地としても知られるここ箱根も例外ではなく、強い日差し、突然の大雨や激しい稲光に、地球の変化を感じずにはいられません。
けれど、8月になり、空が少しだけ高くなったような気がします。青空をゆっくりと移動する白い雲を見ていると、懐かしい人の顔が次々に浮かんでくるのは、人を忍ぶ季節でもあるからでしょうか。
これまでに多くの友人、先輩を見送りました。それぞれの人が、私にとってかけがえのない存在でした。
その中で「私はあの人の生き方に近づいているだろうか」と、折に触れ、思い出す女性がいます。私の人生の指針であるといっていい女性、村田ユリさん。大正元年生まれの素敵なマダムでした。
出会ったのは私が30代のときのこと。当時、私は四人の子どもたちの子育てと仕事の合間を縫って、長野に車で通っていました。長野の美しい自然に強く魅せられていたのです。
ある日、国道から続く小径に、何気なくハンドルを切りました。しばらくして目にした風景を、信じられませんでした。まるでヨーロッパの田舎に迷い込んだのではないかと思うほど、花が咲き乱れ、緑が風にそよぐ美しい田園がそこに広がっていました。思わず車をとめ、外に出ると、私の全身を柔らかな風とハーブの香りが包みました。
その田園の持ち主がユリおばさまでした。
ご紹介くださる人がいて、はじめてお目にかかったのは、夏の終わりでした。突然お訪ねしたのに「よくいらっしゃいましたね。どうぞ、お入りください」と輝く笑顔で快く招いてくださり、以来、素顔の私をそのまま受け入れ、慈しんでくれました。
おばさまは、昼は農作業に励み、夕暮れになるとシャワーを浴びて、ゆっくり寛ぐ、穏やかな日々を過ごされていました。親しくなるにつれ、おばさまがかつてヨーロッパで長く暮らし、東京にインターナショナルスクールを設立し、東宮御所の植物や花の御相談役も務められていたことを知りました。
何度、お訪ねしたことでしょう。いつしか、おばさまの家は、私の隠れ家、癒しの家となりました。ゆっくりお風呂に入り、自家製の美味しい野菜ときりっと冷えたワインをいただき、ひとしきりおしゃべりをして、夜は、枕の下にフレッシュ―ハーブをしたためたベッドで休ませていただきました。朝は、おばさまの弾くピアノの音色で目覚め、あたたかなプレーンオムレツをいただきました。
私の悩みを察して、ご自身の経験からそっとアドバイスをくださることもありました。決して踏み込み過ぎない距離感の見事さ。人を思う言葉が慈雨さながら、心にしみこむようでした。
ヨーロッパでの暮らしや、今の暮らしの楽しみを話してくれることもありました。さりげない言葉のはしばしから、おばさまが何を大切にし、どう決断し、いかに生きて来たのかをうかがい知り、大人の女性のやさしさとしなやかな強さに胸をうたれることもたびたびでした。
玉村豊男さんの妻・抄恵子さんとの出会いをいただいたのも、おばさまの畑でした。ある朝、抄恵子さんが畑に遊びに来て、ふたりしておばさまの農作業を手伝い、すっかり親しくなったのです。しっかり者の抄恵子さんがおばさまの長女、私が次女と、ふたりで自称するようにもなりました。本当は私が年上なのに。
おばさまの生き方、暮らし方は私の憧れでした。
おばさまは1996年の夏、亡くなりました。その翌日、私におばさまから手紙が届きました。
「あなたは、旅の下にいらっしゃるのかしら。あなたが送ってくださった贈り物が、あなたの居場所を知らせてくれます。あなたのことを思うと幸せになれます。しみじみ、人のことを思うと、自分も幸せになれます」
私が旅先から送ったものへの自筆の御礼状でした。消印は、亡くなったその日でした。
それから長いときが流れました。
年齢を重ねるたびに、若い友人に出会うたびに、私はおばさまのように生きているかと、いつしか自分に問いかけるようになりました。おばさまに学び、おばさまからいただいたものを、一生懸命がんばっている、かつての自分のような若い女性たちにお返ししたい、と。
そして今、あのときのあんなに親身になってくださったおばさまの気持ちが少しだけ分かったような気がします。誰かのために生きること、それが生きる喜びになるのだ、と、おばさまからまたひとつ教えていただいた気がしています。
ユリおばさま。夏の似合う、凛と美しい女性でした。
人と巡り合う奇跡とご縁に、感謝する季節です。
