我が心のふるさと・湖水地方を旅して

イギリスの湖水地方に魅惑されたのは、中学生のときでした。ベアトリクス・ポターの本『ピーター・ラビット』に出会い、いたずらうさぎのピーター・ラビットもさることながら、そこに描かれた美しい水彩の風景に心奪われたのでした。

山々が連なる丘陵地帯、深い森、緑の丘、鏡のような湖面、優しい色合いの草花の生い茂る間のかわいらしい小道、小さな美しい家……。それから、湖水地方は憬れの地になりました。

最初にお訪ねしたのは、映画『007は二度死ぬ』の撮影中でした。それも日帰りというものでしたが、私が求めていたものがここにあると深く感じました。そして、人生最後の旅の目的地は湖水地方だと、いつしか思うようになりました。

この6月、その思いを実現するために、思い切ってイギリスに行ってまいりました。ロシア上空を飛べないので、ロンドンまで飛行機で16時間。それから湖水地方へ。イギリス在住の長男家族と、同行した長女とともに、一軒家を借り、そこに暮らすようにゆっくり過ごしてきました。

6月のイギリスはもっとも美しいといわれます。
湖水地方全体がバラの香りに包まれているような季節でした。

毎日、2時間以上、その中をひたすら歩きました。

静寂に包まれた大自然を感じながら、起伏に富んだ小道を歩き、羊たちが草を食んでいる牧草地を横切り、かつて氷河が大地を削って生まれた湖を眺め、牧草地に点在する石を積み上げた灰色の石壁や石造りの古い家を味わい……、

そこに広がっていたのは、絵本そのものの世界。
100年前のイギリスの原風景でした。

散歩の後の紅茶の美味しかったこと。

ポターの家もお訪ねしました。昔ながらの素敵な一軒家です。つつましく、こぢんまりしていて、とても居心地がいい。作家の素顔がうかがわれるような気がしました。

ポターは絵本がヒットした後、ロンドンから移り、自然の残るこの湖水地方でずっと暮らしました。豊富な資源を狙って、湖水地方にも開発の手が伸びかけていた時期でした。そこでポターは、湖水地方の美しい景観を開発から守るために行動を起こします。大ヒットしたピーター・ラビットの印税で、農場や土地を少しずつ購入しました。守るために、所有することを選んだのです。こうして湖水地方の広大な土地がそのまま維持されることになりました。

1943年にポターが亡くなってからは、遺言により、土地や農場、牧草地の羊などはすべてナショナルトラストに寄贈されました。ナショナルトラストは観光地として運用しつつ、湖水地方の景観を守り続けています。

(湖水地方から1時間ほど足を伸ばすと、そこにも歴史ある美しい館がありました)

2017年、湖水地方は、イギリスの世界文化遺産として登録されました。自然遺産ではなく、自然と牧羊など古代から続く人の営み、それらが織り成す湖水地方の「文化的景観」が認められたのです。

現在、湖水地方には年間、何千万人という観光客が訪れます。観光客をひきつけるのは単なるノスタルジーだけではなく、そこに人が求める普遍的な美しさがあるからではないでしょうか。

芦ノ湖の見える地に、私が家を建てたのは、箱根に湖水地方に通じるものを感じたからでした。古いものを大切にし、身の丈の暮らしをする美しい暮らしを求めてきたのは、民芸の考え方とものの見方に、身震いするような感動を覚えたからです。そしてポターの生き方を知り、勇気をいただき、「日本の美」を私なりに見つけようと、これまで歩んできました。

湖水地方に身をおき、今までの人生を振り返るような時を持つことができました。二度目の湖水地方への旅は、何もかもが心に染み渡るような最高の時間でした。

日本にも、湖水地方に負けない、残したい景観がたくさんあります。
日本の美しさを残そうと奮闘する若者も、各地に現れつつあります。

ようやく、私が待っていた時代が日本でもはじまろうとしています。

まだ間に合う。そう信じて、これからは彼らにエールを送る、小さな旅に出たいと思っています。