ラジオ深夜便-「美瑛町」

今夜ご紹介するのは 北海道 美瑛町(びえいちょう)です。
”丘のまち・・びえい”と言われる一面麦畑の広がる美しい町で旭川と富良野の中間に位置します。
わたくしはJR富良野線でまいりました。
このJR美瑛駅は全国駅100選にも選ばれている美瑛町の石山の美瑛石で建築した名駅舎です。わたくしが以前訪ねましたのは真冬でございました。
旭川から美瑛、そして、あの富良野まで片道100キロの旅を致しました。
旅の目的のひとつは、私の大好きな風景写真家・前田真三さんの写真美術館を見たかったことと、南富良野にある映画「鉄道員」の舞台になった駅も見たかったからです。
その時は、降り積もる雪の真っ白い世界が永遠に続きそうな道を行きました。
行けども行けども雪。白銀の世界は、自分がどこにいるかを見失いそうになる様でした。
前田真三さんのフォトギャラリーは「拓真館」といいます。
この写真ギャラリーは廃校になった小学校の跡地で、地元・美瑛町の協力を得て開館。
上富良野町付近に広がる丘陵地帯に位置し、周囲は見渡すかぎりの丘です。
1万坪に及ぶ敷地には白樺の並木道やラベンダー園などがあり、今回は早咲きのラベンダーが風に揺れいい香りが漂っていました。これから8月上旬まで咲いているそうです。
「二人の丘・前田真三・前田昇作品集」にはポピー、ひまわり、カラシ菜、そして一面のラベンダーなど初夏の丘を彩る様々な花があり、目と心を楽しませてくれます。
今では、観賞用に、アロマテラピーにと日本にも定着した
ラベンダーは、地中海沿岸地方原産のハーブだそうですね。
上富良野では、1950年頃から栽培がはじまったそうです。
 
前田真三さんの作品の中で、私はやはり冬の世界が好きです。
雪の原が永遠に続きそうな風景の中に、整然と林立する落葉樹。
自然の見事さに感動しました。
なかでも私が好きな作品は「落日の詩」という、淡い夕日が地平線に落ちていく風景。雪ぐもりの中に太陽が煙った光であたりを包み込む、なんともいえない詩情あふれる作品す。
今は2階に展示されています。
写真集の年譜に今は亡き前田真三さんの生涯が綴られていました。前田さんは大正11年生まれ。14歳のときに初めて、当時人気のカメラ、ベビーパールを手にして夢中で野鳥を撮っていました。
戦争の時代を経て戦後、サラリーマンに。
やがて結婚し、お子さんが生まれてから写真を撮り始め、どんどんのめり込んで・・・。
42歳でプロの道を選択します。
「二人の丘」のあとがきに、ご子息である前田昇さんは、こう仰っておられます。「風景写真は技術ではない」というのが父の心情であったから、私自身写真について教わった記憶は、一度もない。
ただ長年撮影現場に立ち会った中で、父から学んだことが、ひとつある。
それは「ものの見方」である・・・と。
「風景の見方」「写真の見方」さまざまな「事物の見方」を学んだと思っている。
前田先生のご本を見ていましたら、こうありました。
ずいぶん時間をかけて撮るんでしょうね。と、言われることがある。が、私の写真は基本的に待つことはしない。出会った瞬間に撮っていくのが身上だ。しかしながら、 「長い時間をかけるかどうか」について聞かれれば、長い時間がかかっていますよ。私の人生と同じだけのと答えることにしている。・・・そして、こうもありました。
 「風景はただ眺めていても見えてこない。」
積極的に風景に働きかけて、やがて風景を見出すことができ、出会いの瞬間がある。
ステキな言葉だと思いませんか。
風景を見る目、それは私たちひとりひとりの人生そのものが関わっているのですね。人生を重ねることは、ものの見方を学ぶことでもありますね。
風景がそこにあるのでなく、自分なりに風景を見出すのだと前田先生は写真を通して教えてくださいます。
写真美術館で、ラベンダー園で、五感を刺激される旅でした。
「拓真館」は入場無料・年中無休   
開館時間・5~10月まで、午前9時~午後5時
11~4月  午前10時~午後4時
車の場合は国道237号線から入ります。
美瑛駅からタクシーで10分ほど。
スポットは四季の塔から地上32、4mの十勝岳連峰に広がる丘の町美瑛が楽しめます。
郷土資料館では、開拓時の農業器具や石器、昭和初期の生活と風俗や商店開拓画なども見られます。
お時間のある方は美瑛から42キロで富良野へ。
さらに30キロ走って、やっと南富良野です。
高倉健さん主演の「鉄道員」はご覧になりました?
浅田二郎原作、降幡康男監督。
あの最後のシーンが忘れられません。そうなんです。映画のクライマックスはなんといっても最後のシーン。そのシーンは根室本線の幾寅駅
この駅が「幌舞駅」となって、ラストシーンが撮影されたそうです。幾寅駅には今も幌舞駅の看板がかかげられているそうです。
私は雪の舞う中で、健さんのようにホームにジッと立ち尽くしましたが、20秒くらいで駅の中に逃げ込みました。
もう凍ると思ったのです。
健さんは零下30度の外のシーンで30分、立ちすくんで、完璧にそのシーンを撮り終えたそうです。
想像を絶します。
高倉健さんの役者魂を見た思いでした。
待合室はあのまんま。そんな寒さの中で町の人たちは、男爵芋をゆでてつぶして、少し澱粉をはたいてこねて、芋饅頭にして油で焼いて、健さんに差し入れしたそうです。健さんは大層喜んでくださったそうです。
駅は、思い出を紡ぐ場所です。
私にも忘れられない駅があります。
それは、初めてひとりで行ったローマの駅、テルミニ。
私は17歳。憧れと好奇心とをバッグに入れて、自分探しの旅に出たものです。
その駅を舞台にした映画、「終着駅」は1953年、アメリカとイタリアの共同制作でした。
監督=ビットリオ・デシーカー、主演=ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト。
テルミニ駅でアメリカ女性とイタリア青年の叶わぬ恋が描かれます。
情感あふるるその映画に、私は夢中になりました。
17歳の自分にどうしてそんな感情があふれ出たのかわかりませんが・・・。
そこが「駅」だったからかしら。
私が大人になっていく途上の駅。まだ恋愛も知らない17歳の頃の駅の思い出です。
こうして、深夜皆さまとお話していると美瑛駅から、テルミニ駅までが繋がってまいります。
故郷、出逢い、別れ・・・。そんな大切な思い出のつまった「駅」が皆さまそれぞれの心の中に一つはあることと思います。
旅っていいですね。
おやすみなさい。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド」

今回は、能登半島をご紹介させていただきました。
東京から金沢へは、新幹線越後湯沢乗換えも、米原乗り換えもございますが、私は時間がある時は上野から寝台特急「北陸号」で7時間半かけて参ります。
仲間達とワインを持ち込んでおしゃべりしながらの長旅も楽しいものです。
早朝6時に到着後市場に直行。市場の中の食堂で朝食を頂くのです。
刺身定食、煮付け定食など・・・どれもこれも美味。
その土地の活気と旬を味わえるのでどこへ旅しても市場は大好きです。
 
さて、右の親指を反らして、能登半島に見立てますと、その付け根の所が加賀市橋立町です。
私が初めて橋立を訪ねたのは、日本女性として初めて単独でヨットによる太平洋横断に成功した、小林則子さんとご一緒の旅でした。
「北前船の海を行く」をテーマに旅をなさっておられましたので、同じ興味を持つ者として胸が高鳴りました。
北を目ざした男達、船底一枚下は地獄という荒れた海に乗り出す男と、それを見送る女たちのドラマが、時を越えて目の前の海に見えるような気がいたしました。
橋立には往時の北前船のあとがそこここにみられます。
氏神の出水(いずみ)神社には北前船主らが寄進した鳥居や灯篭、こま犬など、絵馬堂には14枚の船絵馬、いずれも航海の無事を祈ってのものです。この町の中には堂々たる風格の船主の屋敷が目につきますが、その中の一軒が現在の「北前船の里資料館」です。
まさに明日資料館へとご自宅を手放す前日に、私達は酒谷さんのお宅にお邪魔いたしました。大きな土塀、広壮なお屋敷の中に静かに佇む酒谷さんがお部屋をご案内くださいました。玄関を入ると上がり框、柱、梁は総ケヤキ。天井にはすす竹が一面にはりめぐらされています。
たくさんの旅をしながら思うのです。
旅は未来であり、過去であり、そして今であり・・・何百年の歴史を持ち、今もそれを色濃く漂わせる場所に出会うと、自分が異次元からやってきたタイムトラベラーになった気がするのです。
その地で出会うおばあちゃん達は、いつも旅立ちの案内人でした。たくさんのことを学んできました。
この港町で出逢ったその方からも貴重なお話を伺いました。
この地方独特の習慣では、家に御仏壇が二つあるのだそうです。男達が、三月梅の頃から船に乗り、年の瀬近くに帰ってくるまで、大きい仏壇は扉をしめておきます。
小さいほうは、夏用のご仏壇といって、留守を守る女たちの仏壇。
男たちが帰って、航海の無事を先祖に報告するときに、初めて大きいほうをあけるのです。
「船がついたぞ!」という声が聞こえると、腰に紐をまいた女たちが、あっちこっちの家々から港へ向かって一斉に走り出すんです。その輝くような顔を今でも忘れられないそうです。
北前船の表むきの仕事を支えていたのは女たちです。
「でも、過去帳に、女の名前はございませんね」そうつぶやく、おばあちゃんの一言が私の胸に響きました。
そして、北上していくと、富来町(とぎまち)があります。
羽咋(はくい)駅からバスで50分、富来駅下車、福浦港行き10分。
この福浦港も大好きな港町です。
日本最古の木製の石垣を含めると約5mの高さがある旧福浦灯台。
三層になった内部。ここから見事な夕日が一望できます。
日本海に面し、能登金剛の名で知られる断崖、荒々しい海岸線は絶景です。
そして、私の大好きなお地蔵様があります。
「腰巻地蔵」です。
旅立つ船員にかなわぬ恋をした遊女が、地蔵に腰巻をかけたところ海がしけ、出航できなかったというロマンティックなエピソードを持つお地蔵様です。そんな昔話に思いをめぐらせながらの、のんびりとした旅の仕方も「大人の旅」ならではではないでしょうか。
この辺りは日本海が一望できるホテルや旅館もございます。
最後になりましたが、この度の災害から一生懸命復興に頑張っておられます、輪島には、私も職人さんや民宿の仲間がおります。大好きなまち輪島は、またの機会にラジオ深夜便でご案内いたします。

やまぼうし

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箱根の山々の緑が日一日と、濃くなっています
とご挨拶してからちょうど一年がたちました。
我が家の庭の”やまぼうし”の白、ピンクの花が美しく咲いています。
この季節は箱根の山々の緑も濃く、早朝の山歩きをしておりますと、
何とも言えない緑の匂いが心地よく山暮らしの幸せを実感いたします。
”やまぼうしの花咲いた”を出版したのは昭和57年の今頃の季節。
箱根の山が
ふんわりと山法師の花で
おおわれる初夏
見事な開花は
十年に一度とか
結婚して四人生んで
たちまち流れた十年の歳月
私は山法師のように
咲きたいのです
箱根の森の中に家を建てて、三十年になろうとしています。
ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような時計に支配されているよう感覚があります。
樹々の色味の変化で春の訪れを感じ、台所から見える富士山も、刻一刻と変化します。
思い出がたくさんつまった台所も、巣立っていった四人の子供たちの台所から、”私のための”台所にリホームしよう・・・と思いたち山法師の花ではないのですが、10年一区切り・・・と思いきりました。
私には何十年に一度こういうことがあるのです。
”ああ、ほんとうに親としてひとつの役が終わった”
63歳になり、人生のしまい方を少しずつ、考えはじめたのかもしれない
とも、感じます。
思い出や家族と暮らした豊かな時間は、私の中でしっかりと刻まれているから・・・
役目を終えたものを処分し、身軽になる。
そこからまた新しい自分が見えてくる。
時間に迫られて、ゆったりと木々と語れなかった時代から今又
こうして、山法師の花を見ていると、忙しさの中で落としてきてしまった
ことも見えてきます。
まだまだ旅の下、これからも素敵な出逢いがあるでしょう。
多分終の棲家になるはずの我が家で、
「私らしく生きるために、現実としっかり向き合うことが必要なのかも・・・」
と、そんなことを思っております。
爽やかな緑の風を仕事場から感じ、
思わず”カンパリグレープ”をつくり”やまぼうし”の樹の下で飲みました。
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ラジオ深夜便 第2回

5月16日深夜0時半からNHKラジオ深夜便に出演いたしました。
「大人の旅ガイド~日本のふるさとを歩く」の第2回目です。
今回ご紹介致しましたのは、宮崎県の北部、高千穂の美郷町、北郷区”椎野集落”です。
この集落は「あじさいロード」として知られている村なんです。
アクセスは宮崎市内からですと日豊本線日向市駅下車、宮崎交通バスで北郷支所前下車{所要時間1時間}そこから車で20分ほど。
私は昨年、晩秋の頃、高千穂町を抜けてはいりたかったので、車で、「熊本インター」から国道57号、325号、218号を通り集落にはいりました。おおよそ、3時間半。細い道をぬいながらの道中はそれはそれは美しく、素晴らしいドライブでした。
椎野集落のあじさいロードの見ごろは6月中旬から、7月初旬ころまで。見ごろの時期には全長7㎞に渡って約3万本のあじさいが咲き誇るとの事。1万人の観光客で賑わうそうです。
北郷町の人口はわずか2000名、椎野地区は全部で9戸。
この小さな集落は、全国花の町コンクールで特別賞も受賞しています。
そして、あじさいロードを管理しているのは高齢者の方々です。何より素敵なことは、この集落には本当の意味での”もてなしの心”があるということです。
約20年前、集落近くに観光名所ができ、往来するお客さんの目を少しでも楽しませよう!と「あじさい」を道路に植栽し始め、その活動が徐々に集落全体へ浸透していきました。ここも、高齢化、過疎化が進む村ですが、村人が生きがいをもち、「人を何かでもてなしたい」「村を通る人がきれいだな」と思ってくれたら嬉しい・・・そんな気持ちからの活動なんですね。
皆さまご存知でしょうか。あじさいの手入れは水やり、剪定などなど、重労働なんですよ。
「みんなが喜んでくれるから、がんばれる。花の季節に、村を訪ねてくる人から笑顔をもらっているんですよ・・・」と笑顔で語るお年寄り。すばらしいことですよね。中々出来ることではありません。
自然は寂しい
しかし人の手が加わると暖かくなる
その暖かなものを求めて歩いてみよう
                         宮本常一
都心の再開発が話題です。立派な建物ときらめくネオンもいいでしょう。
しかし本当の豊かさってなんだろう・・・。と考えさせられました。
その日はとても寒く小雨も降っておりましたが、集落から眼下に広がる山々の何と神々しいことか。
炭火で沸かしたお湯でお茶を淹れて頂き、心がほっこりあたたかくなりました。
ポンと移植したあじさいだけなら、人びとの心は動きません。
暮らしを見つめ、そこに自信をみいだし、村を愛し、その良さを他の人にも伝えたい・・・そんな思いがあったからこそ、たくさんの人々の心を動かしたのだと思います。
近ごろ、日本の美しさが話題になることが増えましたが、暮らしの延長線上にある
“もてなしの心”のような美意識にもまた、光があたるような社会であってほしいと切に思います。
農業の傍らのあじさいの手入れは大変です。高齢化もさらに進んでいます。
“サポーターができればいいな”・・・・と仰っておられました。
この町、集落は、あじさいの季節以外も春夏秋冬 それぞれ美しい表情を
みせてくれます。
チャンスがございましたら旅をしてください。

ラジオ深夜便 第1回

月に一度、NHKラジオ深夜便の「大人の旅ガイド」のコーナーに出演させていただくことになりました。深夜11時20分から早朝までゆったりとしたテンポで大人のやすらぎ時間を感じることの出来る番組内の0時半から約10分間のコーナーです。
4月18日の回では、新潟県柏崎市高柳町(たかやなぎちょう)をご紹介させていただきました。高柳町は、新潟のほぼ中央、十日町と柏崎の中間に位置する山間地域です。平成17年5月1日に高柳町と西山町が合併し新しい柏崎市が誕生しました。
私が初めて高柳町を訪ねたのは15年ほど前のことです。「じょんのび村」とも言われるこの町は、「じょんのび」というお国言葉、「ゆったり、のんびりして芯から心地がいい」が表す通りの場所でした。
茅葺環状集落である荻の島集落は、私の大好きな場所です。山や林、中央の田んぼが一体となってまるでひとつの生命体のようです。四季折々の美しい風景とそよぐ風、そして、美味しいコシヒカリ。お水が美味しいからでしょう、お豆腐も美味。ほんの数日の滞在でも故郷に帰ったようなそんな気持ちにさせてくれます。その美しい景観は「棚田百選」にも選ばれています。この美しい地域には「農」を営む機能と豪雪を克服する知恵がたくさん詰まっているのです。
「なんていい風が吹いているの」と思ったのが第一印象です。当時経済優先から生活優先へ、さらに生活の質の向上を目指して、町民が一丸となってまちづくりに励んでおられました。町民が、この町に生まれ、住み続けていることを誇りに思っている。豊かな自然や生活文化の伝承が根付いているからでしょうか、「住んでよし・訪れてよし」の町づくりを感じるのです。
高柳町内にある門出(かどいで)和紙(わし)工房(こうぼう)「高志(こし)の生紙(きがみ)工房」では、今からおよそ450年前、信州から伝わったとされる門出(かどいで)和紙を漉くだけでなく原料のコウゾの栽培もしています。見学だけでなく事前に申し込みをすれば、体験することも出来ます。
からむしギャラリー、風(かぜ)の座(くら)、ブナ林など、他にも訪れたいところはたくさんあります。
お泊りのお宿は、じょんのび温泉で。ゆったりとした里山風景を満喫できる農村リゾートです。
東京からは、上越新幹線・越後湯沢から上越線・まつだい駅。
上越新幹線・長岡から信越本線・柏崎駅。
また、東京から柏崎間は高速バスも出ています。そこからは、路線バスで高柳町まで。
柏崎では、木村茶道美術館もおすすめです。情緒漂う日本庭園「松雲山荘」の中にあり国宝級の展示品でお薄をいただくことが出来るのです。
紅葉の名所としても知られていますので、私も次回は紅葉の時期に伺ってみたいと思っております。
次回は、5月16日の深夜0時半頃出演予定です。宮崎県の美しいあじさいの里をご紹介いたします。週の真ん中、静かな夜をご一緒出来れば嬉しいです。

今につながる芸術の不思議

ゴッホの「馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人びと」を見たのは、初めてヨーロッパに旅したときだった。16歳でデビューし、順調に仕事を続けていたものの、女優という職業になじめず、ひとり、旅に出たオランダの美術館で出会ったのである。
暗く抑えた色調、けれどテーブルの上は明るく、温かい家庭を感じさせる。貧しくはあっても、自らが作った作物を、家族とともに食す喜び。そこに光を当てた絵を前にして、私は胸がいっぱいになった。そしてもう少し、がんばってみようという気持ちが、自然に沸き上がってきた。18歳だった。
すぐれた芸術は総じて、人に生きる力を与えてくれるものではないだろうか。人生の岐路にあるときなど、私が美術館を訪ねたくなるのはそのためだろう。様々な芸術品が私の心を慰め、明日に一歩踏み出そうとする力を与えてくれた。
芸術作品の何が心に響くのか言語化することもなく、作品の前にたたずみ、その力に抱かれる幸せを、ただただ味わっていた私だったが、23年前にはNHK「日曜美術館」のキャスターを務め、さらに美術は身近になった。先日、広島で「NHK日曜美術館30年展」を見る機会を得、番組のユニークさを改めて感じた。「私と○○」というスタイルで美術を語り、作家の交友関係や知られざるエピソードを紹介する中で、人と美術の間に垣根はないと教えられた。
私はその後女優を卒業し、農業や暮らしの美をテーマに文章を書くなどして現在に至っている。後になって「ファン・ゴッホの手紙」を読み、ゴッホが農民画家たらんことを欲し、「馬鈴薯を食べる人びと」には大地を掘り起こす手の労働やまっとうな報酬を得る生き方への強い思いがこめられていたことを知った。体に電流が走ったような衝撃だった。それは私がまさに求め続けてきた世界だったからだ。芸術のことなど何もわからなかった18歳の私はあの絵を見て、今の私へとつながる種子のようなものを自らの中に発見したのか。芸術の不思議さを思わずにはいられない。
(朝日新聞4月25日掲載)

タウトが再発見した日本の美

ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938)は、ナチスを逃れて33年に来日。わずか2年半の日本滞在の間に京都の桂離宮など、日本の美を世界に伝えたことで知られている。
日本の美を再発見したともいえる彼は、民芸の柳宗悦やバーナード・リーチとも交友があった。柳がタウトを自邸に招いたときには、民芸の本質について論議も重ね、話は深夜にまで及んだという。互いの考えにひかれつつも、両者は後にそれぞれ批判も行っている。
けれど私はタウトの著作を読み、桂離宮や伊勢神宮、そして飛騨の白川郷や秋田の民家、かまくらの風景にまで、彼が強く心を動かされたのを知り、柳とタウト、両者が求める美の本質はやはり非常に近いのではないかと常々感じていた。
先日、「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」(ワタリウム美術館)を見る機会を得た。集合住宅やグラスハウスなど初期の作品から、来日後の工芸作品まで、幅広い展示がなされた濃い内容で、非常に興味深かった。
日常生活、社会生活、純粋な精神生活という3要素を融合させたとき初めて完全な世界となるという彼のユートピア思想、また日本で出会った美が彼の思想をどのように発展させていったかを、私は肌で感じとることができた。
「……素朴な農民の手によって何の底意もなくいわば天真自然に作られたときにのみ、真に独創的な従ってまた適正な質をもち得るのである。これに反して、鋭い芸術的感覚と豊かな教養を具(そな)えた芸術家がここに様式の根底を求めようとするならば、結局外形に拘泥し……」(鈴木久雄著「ブルーノ・タウトへの旅」からタウトの小論文より抜粋)。
タウトのこの思いは柳と同じではなかったか。異邦人であったタウトが再発見した日本の原風景や日本の美。自らのうちにある美を再発見し、さらに朝鮮の美をも見いだした柳宗悦。それぞれ違いはあっても、自然との融合といった本質や、異なる文化風土に根ざした美をも理解し、感じ取るまなざしの確かさは、共通していたのではないかと思うのだ。
(朝日新聞4月18日掲載)

浅川巧の功績をたどる

民芸運動の創始者である柳宗悦に朝鮮の器や道具類の美しさを紹介し、「用の美」への目を開かせたのは、浅川巧(1891~1931)だといわれる。私が巧を知ったのは12年前のことだった。
朝鮮総督府の技師であった巧は、緑化運動に成果を上げるかたわら、朝鮮民族文化の美を見いだし、朝鮮陶磁器の研究家である兄・伯教(のりたか・1884~1964)と共に朝鮮半島の何百もの窯跡を調査した。そして「朝鮮陶磁名考」といった本を著し、日本に紹介した。さらに、朝鮮工芸品の保存の必要性を感じた兄弟と柳らは、私財を投じて収集を重ね、24年に現在のソウルの地に300点を超える工芸品が展示・保存された美術館を開設した。
巧と同様、朝鮮の白磁に強くひかれている私は、その後、韓国の友人の助けを借りて、彼の足跡をたどり始めた。
巧がそうであったように、韓国の暮らしを体験してみたいと、友人の家の一室を借りて2年間通ったこともある。オンドルの部屋で眠り、下町の銭湯に通い、市場では韓国のお母さんたちに混じって買い物をした。そして巧が見たであろう山や川を目に焼きつけ、風のにおいを感じた。偶然にも、友人の家が、巧が眠る忘憂里(マンウリ)の丘からすぐだったため、しばしば巧のお墓参りもさせていただいた。
ひとつ思ったことがある。それは朝鮮の美は民族の歴史と無縁ではないということ。何度も戦いにさらされてきた朝鮮の人々は、そのたびに辛く激しい感情を味わっただろう。その激しさが昇華して心の中に現れる静けさ。それが李朝の家具や白の清廉の美につながったのではないか。
李朝白磁のつぼがかたどられた巧の墓の傍らに「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮らして生きた日本人。ここ韓国の土となる」とハングル文字で刻まれている。民族の美はその民族固有のものであるが、国境を越え、その美を味わい、敬愛することはできるのだ。美というものは、変わることなき、人類の共通言語だと感じる。
(朝日新聞4月11日掲載)

隣国で出会った「用の美」

韓国の友人が新聞の切り抜き記事とその翻訳を送ってくれたのがきっかけで、この2月末、私はソウルを訪ねた。
それはイルミン美術館で「文化的記憶 柳宗悦が発見した朝鮮と日本」展が同月まで会期延長され、非常に盛況であると伝えるもので、私はそれを読むなり、飛行機に飛び乗ってしまったのだ。
柳宗悦(1889~1961)は、暮らしの中で使われてきた民器の中に「用の美」を見いだした民芸運動の創始者である。無名の人が作る道具や工芸品の中にも美しさがあることを発見し、日本の近代工芸の発展に大きな功績を残した。私は、中学生のときに柳の本と出会い、その考え方に心奪われた。私が約30年間にわたって古民家を再生した箱根の家での暮らしを楽しんでいるのも柳との出会いがあったからだろうと思う。
柳はまた、日韓併合下の朝鮮で、焼き物と出会い、その美を見いだし、人々や芸術を強く擁護した。柳が朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したことが見下す意識からだと問題提起されたこともあったが、この会場で私は胸が熱くなるのを覚えた。
東京・駒場にある日本民芸館の協力のもと、朝鮮の陶磁器だけでなく、生活に密着した美しい朝鮮と日本の民芸品、民芸運動を進めたバーナード・リーチや富本憲吉、棟方志功などの作品が一堂に展示されていた。すべての作品に温かな人のぬくもりと、力強さが感じられた。そして「これほど大切に保たれているとは」「こうして里帰りするなんて素晴らしい」と、集った人々が口々に語るのを、この耳で聞くことができたのだった。
美は、ひと握りの選ばれた人たちだけのものではない、と柳宗悦は私たちに語りかける。感覚を研ぎ澄ませれば、誰もが本物の美しさに出会えるのだ、と。柳に出会った幸せを感じると共に、彼の足跡を追ううちに、私もまた美を求めて旅をせずにはいられなくなってしまったことに気がついた。
美の懐の深さ、温かさだけでなく、現場に赴き発見する喜びをも、柳は私に教えてくれたのだろうと思う。
(朝日新聞4月4日掲載)

ラジオな日々 (文化放送4月15日放送分)

今回ご紹介させていただくのは、脚本家で作家の藤井青銅さんの最新刊「ラジオな日々」です。会社員時代に「星新一ショートショートコンテスト」に入選したことをきっかけにラジオの放送作家として大活躍することとなる藤井さんの自伝的な小説であり、大変素敵なゲストをお迎えすることができました。
-80’s RADIO DAYS-
サブタイトルにもあるように80年代はラジオ全盛の時代でした。放送作家出身の作家や文化人が綺羅星の如く顔を揃えており、ラジオは多くの人にとって憧れであり、青春そのものでした。そんなラジオの世界の真っ只中にいらしたのが藤井さんです。
「夜のドラマハウス」「オールナイトニッポン」あの時代を共有する世代にはドキドキするほど懐かしい響きです。当時のラジオは、手作りでした。喫茶店を転々としながら手書きで原稿を仕上げ、それをラジオ局に持ち込んで番組が作られていく様子が生き生きと描かれています。IT化が進んだ現在では考えられないような暖かい空気感がそこにはありました。IT化により双方向型のコミュニケーション手段が発達したと言われますが、電波の先には、たくさんのリスナーがいて、その声がハガキや電話で帰って来ます。ハガキや電話の声には豊かな表情がぎっしり詰まっているのです。
私もそれを日々感じながら、長年ラジオの仕事を続けさせていただいています。そして、それを支えてくださっている、放送作家をはじめ、スタッフの方々の奮闘を見ると、その精神はあの頃と変わらない。そう嬉しく感じるのです。これからも、それを忘れずにいようと思うのです。

ラジオな日々 ラジオな日々
藤井 青銅

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