ばっちゃんからの贈り物

大切なものは、土と太陽の匂いがする
ばっちゃん・・・ふるさとだよりの品々が届きましたよ!
栗の渋皮煮、豆糖(みそ味)手づくりジャム、凍りもち(ついた餅を寒風で乾燥させ、砂糖醤油で味付けしたもの)おたっしゃ豆(まめで達者での願いを込めて)にんにく醤油・・・そして、おみ漬け(山形名物のつけ物・青菜の浅漬けは、納豆を混ぜたりお茶漬けでも美味しいとか)


先日、山形県西村山郡大江町に伺ってまいりました。
県のほぼ中央に位置する村山盆地。
柏倉吉代さん(74歳)、横山みつよさん(77歳)、JA高取部長さんをはじめ30代・40代の女性達「JAさがえ西村山」のみなさまの活動を知ることができました。
加工所がある18才(じゅうはっさい)という集落名は、月布川に注ぐ十八番目の沢「十八沢」に由来したとも言われていますが、ばっちゃん達はまさに18歳!そのもの。
28年前にはじめた「もったいない、無駄なく」との思いはまさに今、求められていること。
地域の伝統を大切にし、大江町らしさをだした女性ならではの知恵と技によって、「我が家に伝わる秘伝の味」「子や孫に食べさせたい味」をモットーに受け継がれてきたのです。
“おみ漬け”・・・のなんと美味しいこと。
山形青菜はボカシ肥をいれた土づくりを条件にしているそうです。

「土」が総てを知っています。
私は40年にわたり、日本の農山漁村を訪ねてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
やがて、農山漁村の現場を知ることになりました。
第一次生産者が誇りをもって農業・漁業・酪農などに従事できるように、そして消費者が確かな目を育てられるように、ひいては「安らぎの食卓」を支える安全な食品を誰もが当り前に手に入れるようになればと、私なりに情報を発信し、提案を重ねてきたつもりでおりました。
ですから、近年続出した食をめぐる数々の事故・事件は衝撃そのものです。「損得」でビジネスを考えるのではなく、「善悪」という視点から捉え、信頼で生産者と販売者と消費者が互いに切磋琢磨できる関係を作り上げる。
「体に悪いものは作らない・売らない・買わない」という関係をつくりましょうよ。
けっして夢物語ではありません。
だって”ばっちゃんの贈り物”が証明してくれていますもの・・・。
全国には、こうした”正直な味”がたくさんあります。

成人の日によせて・・・ “どんぐりに乾杯”

我が家の子ども達はとうに巣立っていきました。
次女が成人の日を迎えた時の写真が仕事部屋に飾ってあります。
そう、あれはその頃の話です。
森を歩くことは人生を歩むことに似ていると、その日もしみじみ思ったことでした。軽井沢の野鳥の森で馬場さんという森の先生にお会いしました。野鳥の名前や習性や木々のはなし・・・。うかがいながら歩く森は、生き生きと生きる森。なかでもドングリの話は、本当に感動的でした。
ドングリの実って、ほら、先がつんととんがって、まあるく台座にのっかっていますね。あの形にはワケがあるのだそうです。
馬場さんのお話によると、こうです。
「ドングリが地面におちるときが種の旅立ちです。どうおちるかで、種の生存、繁栄が約束されます。もしドングリがただまんまるというのでは、溝やくぼみにはまって枯れてしまう。まんまるではないことで、ドングリは遠くへころがっていけるのです。親木の下にいたのでは、葉が繁ってくると成長できません。できるだけ遠くへ飛んでいくことで、ドングリはぐんぐん成長できるのです」
すごい話だと思いませんか。
“親は永遠に思い続ける”
子育てには、3つの段階があるのではないでしょうか。
おなかに命を宿してから、小学校に入るくらいまでは、親にとって子どもは守ってあげなければならない存在です。そして、小学校2~3年生から17~18歳までは親子が共に育っていく時期。子どもは反抗期などを経験しながら自分自身を発見していく時期であり、親はそうした子どもと正面からぶつかり合うことが求められるのではないでしょうか。それから、20~22・3歳までは、子どもが自立して大人になるのを、親は陰ながら見守る時期だと思うのです。
これら「肉体・精神そのすべてを守る→共に育つ→精神的に見守る」という3段階を通して、親は子どもを社会に送り出すことを、私は4人の子育てを通して学びました。そうはいっても、子育ては1本の道ではありませんから、悩んだり苦しんだり、ときには立ち止まったりしました。
子育てを通して、自分の至らなさも見えました。子どもが自立して親の元を離れていくのが、寂しいという人がいますが、私の場合はむしろ安堵感のほうがはるかに大きかった感じがします。そう思えるのは、子どもが巣立っても、母親としての役目は完全に終わるわけではないと思っているからかもしれません。
永遠に親は親であり、子どもの幸せを願い続けるものなのでしょう。
“成人の日”
親は、遠くから「がんばって」と祈るだけでいいのではないでしょうか。それ以上の親の介入は、子どもにとって障壁になりかねないものではないでしょうか。 ”ドングリの世界のように”

謹賀新年

2009年、新春のお慶びを申し上げます。
みなさまはどのような新年をお迎えでしょうか。

年の初めというものは自分自身の進むべき道をいつになく真面目に考えて、希望がわき上がる反面、心が揺れたり理由もなく不安になったりするもの。そんな癖は、私だけのことでしょうか。
子どもたちが巣立った後に、これからは思いきり自分自身のための人生に出発しなければ・・・この辺でもう一度自分をみつめ直さなければいけないな・・・とそんなことを考えつづけてきた年の初め。
今は亡き「松本民芸家具」の創始者である、池田三四郎先生のことを思いだします。先生にお会いしてたっぷりとお話をうかがうと、いつも魔法をかけられたように元気になって箱根の山に戻ることができました。
ある晴れたお正月、新宿から「あずさ号」に飛び乗り松本まで。
駅前の喫茶店に入り、クラッシックを聴きながら香ばしいコーヒーの香りを楽しみ、心のウオーミングアップをするのです。
富山県八尾の入母屋造りの大きな農家を移築して、昭和44年に建った家。
私はよく先生のお伴をして周辺の山々が見渡せる丘に登ります。
民藝運動の創始者、柳宗悦も、また、宗悦に心酔していた版画家の棟方志功も同じ丘に登っては、ただじっと一点をみつめたまま「自然というのは、仏か、仏でないか」、「自然以上の自然が描けたら、それが、まさに芸術と呼ぶに値するものだろうなあ」と繰り返していたといいます。
秀れた先人たちは皆、自然に対して深い畏敬の念を抱きながら、大自然を父として、母として生きてきたのです。
そして池田三四郎先生はそのご著書のなかでこう書かれています。
「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的に究め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。自然に対する人間の勝利とは虚妄の勝利であったのではないか。近代精神のもたらしたものは人間の傲慢であった。その傲慢さの故に、自己の創った科学文明のために自分自身が復讐されつつあるとは言えないか・・・」と。
しかし、目の前の先生はストーブに薪をくべながら
「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得しているかどうかなんだ」
と淡々と語られました。
私は、年の始めに自分自身の過去と未来を見つめ直しているうちに、この先どういう場所に身を置くべきかを考えます。
いたずらに過ぎてしまった過去や未知の未来を思い慕うよりも、
いま自分の手にしている現在を、いま身の回りにあるものを真摯にみつめて、それらを大切に暮らしていきたいと思います。

世界中から、戦争がなくなりますように・・・。
人々の暮らしが穏やかでいられる世の中でありますように・・・。
そんなことを願った新年です。
2009年がみなさまにとって良き年になりますように。

“ゆうゆう読者”とのクリスマス

年の終わりに。
みなさまにとって今年はどんな年だったでしょうか。
私は今朝も、箱根の山を1時間たっぷり歩いてきました。
初冬の凛とした空気の中での山歩きが日課になって3年近くになりました。杉の木立の道、杉の枝の間から朝の光が差し込み、とても気持ちがよいのです。空気は冴え冴えと冷たく真っ白に雪化粧をした富士山。
以前は、ただ美しいとだけ思っていた風景が、年々深く心にしみるようになりました。
この度、4年間連載してきた雑誌”ゆうゆう”を本にまとめ、等身大の自分と向き合うことができました。
このまま、50代のスピードで走り続けていくことが私にとって幸せなのか・・・
明日もまた、今日と同じような日々が続く・・・それが当たり前だと心のどこかで思っていました。しかし、65歳になり山歩きをしながら、箱根の山のエネルギーをもらい、お気に入りの木に触って「おはよう!」と声をかけ、絶景ポイントで、ストレッチをやって・・・歩いているうちに、心からはよけいな澱みのようなものがはがれ落ち、やがて心も体も軽くなってくるのです。
今年もたくさんの旅にでました。
素敵な出会いもいただきました。
自分を見つめ、心の荷物を整理することができました。

そして、今夜はクリスマスイブ

先日、ゆうゆうの読者の皆さんと「箱根のクリスマス」を楽しみました。
今年も大勢の方々がご参加くださり、同世代・ちょっと下の世代の方・・・女同士のおしゃべりを楽しみました。夜のパーティーではこんなご質問も。
「浜さんの健康の秘訣はなんですか?」・・・と。
私は「まず、歩くこと。歩いて新鮮な空気と”気”を取り入れること。あとは、くよくよしない!今日嫌なことがあっても、明日にはきれいに忘れることですね」と申し上げました。
今年は暗いニュースが多かった中、日々の生活を大切にし、一歩一歩、前に進んで参りましょう。

みなさま・・・どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

【写真提供:主婦の友社 ゆうゆう

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~宮城県 大崎市 鬼首」

今夜ご紹介するところは、宮城県大崎市(旧鳴子町)鬼首(おにこうべ)です。
鳴子ダムの奥に位置し、なだらかな裾野がひろがる山麓の中に三十以上の源泉が湧く温泉郷です。神秘的な景観、山間に湧き出す豊富な湯、周辺一帯にはブナの原生林も姿を残し、大柴山、矢楯山、水沢森など、1,000m級の山々が連なっています。
一帯はカルデラ地帯で、須金岳、禿岳に囲まれ、私の訪ねた6月の上旬も12月の上旬も美しい姿を見せてくれました。今頃は小雪が舞っているそうです。間もなく本格的なスキーシーズンを迎えることでしょう。
鬼首(おにこうべ)、珍しい地名ですね。いろいろな伝説がありますが、はっきりしたことは分かっておりません。かつては鬼切辺(おにきるべ)とも呼ばれていたとか・・・。
アイヌ語的に考えると、荒湯(あらゆ)は壮美な硫黄質温泉、荒湯大神はアラユオンカムイ、オンは大、カムイは神、鬼首はオンネカムイの訳、オンネが鬼と転じ、それを知らずに鬼伝説が起き、いつしか鬼切部・・・鬼首(おにこうべ)になったのでは・・という説もあり、いずれにしても、いかにも古戦場にふさわしい地名です。
地獄谷遊歩道は約600mにわたって小さなかんけつ泉が足元から噴きあげ、渓谷に沿ってあちこちで見られます(約20分ごとに15m以上もの高さまで熱湯を吹き上げ、足止めをくいます。)
6月には珍しい白雲木の美しい白い花を見ることができました。
荒雄川神社には鬼首が生んだ名馬「金華山号」が祭られています。

さて、今回鬼首の温泉、雄大な自然もそうですが、すばらしいここでの活動をご紹介したいと思います。
鬼首は「食の宝庫」です。
春一番雪解けを待って出てくるフキノトウ、川ふちにスノハ(イタドリの一種)ヨモギを摘みヨモギ餅、桜が咲く頃にはウド、ワラビ、コゴミ等など山菜の宝庫。鬼首では、ゼンマイは、食用ではなく、かつては換金するものだったそうです。
今回も、フキの煮付けやら漬物、自家製の味噌で、きのこいっぱいの味噌汁。そして・・・美味しい美味しい、”おむすび”。冷めても、もちもち感ののこる「ゆきむすび」をご馳走になりました。

かつては、この一体は人が住めるところではないと言われ、そんな原野に入り開墾をしてきたのです。
生活の中心となった囲炉裏で魚を焼き、餅や芋などを焼き、鉄瓶、鉄鍋を下げて煮炊きをし、馬をとても大切にしていたので、母屋の中に厩(うまや)があったそうです。
ここ鬼頭には、少しづつの変化を経ながらも、自然と共にある、自然に生かされた、はるか遠い昔から続けてきた暮らしが今も残っています。

さて、今回ご紹介するのは 「鳴子の米プロジェクト」です。
農水省は07年、4ヘクタール以上の大規模農家に集中し補助金をだすという政策を出しました。しかし、鬼首のような山間の地域は対象外になり、農業の継続が難しくなってしまいます。
「食」をめぐる偽装や、輸入食品の安全問題など、今、「食」がゆらいでいます。
作る人、食べる人、みんなの力で地域の農を守りたい。そんな思いで生まれたのがこのプロジェクトです。「食」を人任せにせず、作り手と食べ手が手を繋ぎ、大切な「食」を守り、地域の活性化へ繋げようと立ち上がったのです。今や日本の山間地の美しい田園風景が大きく変化する中で、このような官民一体となった取り組みに胸を打たれました。
そしてこのプロジェクトは、NHK仙台 開局80周年記念としてドラマ化されました。
タイトルは、「おコメの涙」。
来年1月2日BS2で再放送されます。
始めは、ほんの三反部から始まった鳴子の米づくり、「東北181号」は名前を変えて「ゆきむすび」となりました。人と人を結ぶにはふさわしい名前ですね。「生産者・消費者」ではなく「作る人・食べる人」になると、グンと距離が縮まる気がします。
二年前からはじまった「田んぼ湯治」・・・「種まき湯治」から始まり「田植え・稲刈り・稲こぎ・」そして収穫祭を迎え、人々の笑顔が目に浮かびます。
今年収穫された”ゆきむすび”も完売とか。
農村に新しい風がふいてきました。

【旅の足】
東北新幹線で古川まで。そこから陸羽東線で鳴子温泉下車
バスで鬼首まで約20分。
今回、私は”リゾートみのり”に乗りたくて乗車。
ゆったりとしたリクライニング・シート。
伊達政宗の兜をイメージした「アンティックゴールド」を装飾した力強い車両で、のんびり秋の田園風景を楽しみました。

12月以降の運転日は時刻表などで確認してください。

宮城の旅

宮城を旅してまいりました。
今年、6月7,8日と「食アメ」の皆さんと鳴子を旅し、地元の方々との素晴らしい出会いの場がありました。
それから1週間後の14日8時43分ころ、岩手、宮城で震度6強の地震が発生。その後が気になっていましたが、12月26日に仙台で開催されるイベントのため、宮城を一巡り・・・というチャンスに恵まれ伺ってまいりました。鳴子温泉・鬼首(おにこうべ)の方々との再会は逆に私が勇気づけられるほどのものでした。
鬼首の取り組みについては来週「NHKラジオ深夜便」で詳しくお話いたします。
東京から”はやて”で古川へ。
そこから陸羽東線リゾート列車で晩秋の柔らかな日射しの中を鳴子温泉へと向かいます。現代の湯治について熱く語る大沼さんと、これからの湯治について語り合い、農家レストラン「土風里」ではどぶろくと地元野菜の料理を堪能。ここにも豊な食材と笑顔の美しい女性たち、そして、海の豊かさを育む人たちとの出会いがあります。

美味しい牡蠣を作るために、志津川では漁師が山に木を植えています。
“森の栄養が川や海の命を育てる”
「森は海の恋人」という素敵な本に出会ったのは20年ほど前のこと。
主人公は、唐桑町在住の牡蠣養殖業者・畠山重篤さん。畠山さんは、父から継いだ牡蠣やホタテ貝の養殖をしているのですが、1965年頃から、目に見えて海の力が衰えてきたことに気がついたそうです。
「なぜ、海がこんなに力を失ってしまったのだろう」と考えた畠山さんの脳裏に浮かんできたのが、かつて視察で訪ねたフランスのブルターニュ地方の風景だったそうです。ロワール川の河口には、見事な牡蠣が育っています。干潟にはカニや小エビ、ナマコがたわむれていました。その海を見たとき、畠山さんは「これはかつての宮城の海だ!」と感激したそうです。
それから一心に考えました。宮城の海とブルターニュの海と、一体、何が違うか。
“それは、森”
ブルターニュの山々は広葉樹の森が広がっています。
海の源は川であり、川の源は森ではないのか。
もう一度、宮城の海を生き返らせよう、そのために山の森を再生しようという運動を始め「牡蠣の森を慕う会」が生まれ、気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に集い、広葉樹の植林を行ってきました。
その村は岩手県の室根村でした。
その思いが志津川の漁師たちにも受け継がれているのです。
現代の日本は、林業という産業が成り立ちにくい社会になっています。
森の豊富な栄養分が水に溶け、川を通って海に注がれ、海の生物たちを育てていくのです。農村の山々の自然が、海の自然に大きく影響していくのです。水は流れ、地球を循環していくということを、私達は忘れてはならないのです。
森、山、川、海、生物の命、そして私たちの命。そのすべてが連鎖しています。
宮城の美しい海がいつまでも守られますように・・・と願いました。
採れたての牡蠣・アワビを船上で食べ、「美味しい!」と思わず叫んでしまいました。

塩竈では”ひがしもの”(塩竈のブランドメバチマグロ)談義。
美味しいネタとは新鮮なだけではなく、寿司屋とマグロを選ぶ「目利き」の仲買人の存在が大きいことを知りました。地酒とひがしもの・・・ごちそうさまでした!

12月26日は杜の都「仙台」を”伊達”に演出するイベント「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン・ファイナルイベント」に参加いたします。

「凛として、箱根暮らし」

これまであまりプライベートについて語ってこなかった私ですが、働く女性として感じたことや子育てをしながら感じてきたこと、あるいは母でも妻でも女優でもない、ひとりの人間として感じたことなど、等身大の私を、これまで雑誌「ゆうゆう」で連載してきました。その連載を「凛として、箱根暮らし」(写真:大倉舜二氏)として一冊の本にまとめ、その作業を通して、自分に真摯に向き合うことができました。
またこの本の出版を契機に、私の愛する箱根の家に新たな風を呼び込むような活動をスタートさせたいと強く思い始めました。今後は農と食の仕事を続けながら、日々の暮らしを豊にする様々な提案を箱根の家から行っていくつもりです。
私の10代は、生きるために何かをつかまなければと必死になった時代。
20代は自分の居場所を作ろうともがいていた時代。
そして30代は、仕事や家族のことなど、このままでいいのかと思いつつ、体力気力で何とか乗り切った時代。
40代は家族との関係も変化し、同時に次々に4人の子供たちが思春期を迎え、時に立ちつくしたりもした時代。
50代はそれまでの心の整理をしたりして、元気を取り戻した時代。
ひとつ山を乗り越えたとホッとして、顔を上げると、また別の山が前に控えているような人生を私も送ってきました。けれど連載を通して自分を振り返ることで、私自身、しっかりリセットできたように思います。
「ゆうゆう」の連載をしている4年の間に私も60歳から秋に65歳になりました。時は過ぎゆくのだとしみじみ感じます。私も、思い出が鮮やかさを増す年齢に入ったのでしょう。
いつしか孤独を感じる自分をいとしい・・・と思うことができるようになりました。その裏に、私がこうして今、生きていることに感謝する気持ちが隠れていることにも気づかされました。
これからも私らしく。
10年後の光を目指して、身の丈の暮らしをもとめてまいりたいと思います。
本日12月5日から 書店に並びます。
発行 主婦の友社 「凛として、箱根暮らし

美の里づくりコンクール~岐阜県下呂市

私は、「美の里づくりコンクール」~景観を育み、生かす農村アメニティー~の審査委員として全国各地にお訪ねしております。
物質生活水準がある程度達成された今日、私たちの価値観は経済優先から生活充実優先へ、成長思考から安定志向へ、さらに物の豊かさから心の充実へと大きくシフトしてきました。量的な満足感から、より良い質を求める暮らしへと変化してきたのではないでしょうか。
現在、さまざまな景気の揺れによって多少の傾きはあるものの、暮らしの質への追求はさらに先鋭化していくでしょう。
やすらぎや快適な空間享受の経験は、私たちが手放したくないアメニティーの一つです。緑の環境下で暮らすこと、ゆとりや心地よさは誰もが願う事です。都市生活者の土離れが顕著であるのに対して、農村のアメニティー=居住快適性はより大きな暮らしの価値観になっています。
このコンクールは、農村の快適居住性を評価するものであり、当然その評価の中に住民の自主的努力が環境の保全ならびに新たな形成の動きも示していて、この表彰事業が継続されています。この20年あまりの調査において、その概念の理解とそれへ向けての努力の足跡は目をみはるものがあります。
ひるがえって見れば、都市部においてそのような、暮らしの改善や工夫、よりクリエイティブなアメニティーへの取り組みがどの位あったでしょうか。
幾多の山並みと清流の織り成す自然環境に恵まれ、先人から受け継がれてきた歴史的に価値ある文化遺産が多く残されている、そんな集落の数々をお訪ねしてきました。
岐阜県下呂市・・・馬瀬(ませ)地域。
人口1、545人、地域の95%が森林で占められています。平成8年には「馬瀬川エコリバーシステムによる清流文化創造の村づくり構想」を策定し、「山村景観」や「自然環境」の保全を展開してきたところです。
馬瀬は下呂温泉郷から、15キロ山間に入ったところ。
平成19年9月には、全国の清流の鮎の質を競う品評会「全国利き鮎会スペシャル」が東京において開催され、馬瀬川上流の鮎がグランドチャンピオン(日本一)に輝きました。観光客は釣りの4万人から30万人に急増したそうです。都会からの子どもも含め地元の子供達の夏の川遊びが脅かされつつあるといっていいかもしれません。
「日本で最も美しい村」連合に加わる馬瀬地域・西村地区では住民らが「ホタル同好会」を結成し、蛍の餌になるカワニナ保護活動も始めたそうです。
【馬瀬地方自然公園・住民憲法】も策定され、住民が一丸となって美しい環境保全に取り組んでいる姿に私は胸が熱くなる思いがいたしました。
“森が魚を育て、川が郷(むら)を興す。
旅人は静かに・・静かに・・訪ねてください。

NHKラジオ深夜便「大人の旅ガイド~東京都庭園美術館」

「1930年代・東京」アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代
  2008年10月25日(土)~2009年1月12日(月・祝)
今夜ご紹介するのは、東京・白金台の「東京都庭園美術館」です。
私は、映画も落語も、ショッピングも美術館も、もっぱら「お一人さま」。たまに気の合う友人とご一緒しますが、ひとりなら自分のペースで気ままに行動できます。
遠出の旅も素敵ですが、私がおすすめしたいのが近場の美術館。介護で疲れているとか、なんとなく鬱々している時など、ぜひ、美術館に一人で行くことをおすすめいたします。美術館は一人でいても誰も不審に思いません。しかも、そこに作品が飾られていれば、心を和ませてくれる力があるはずです。人の少ない平日の午前中がお進めです。
私は以前、NHKの「日曜美術館」のキャスターをつとめたこともあり、お気に入りの美術館をいくつも心のリストに持っています。東京都庭園美術館もそのひとつ。
この美術館はもと、朝香宮邸として昭和8年に建てられたものです。戦後の一時期には、外務大臣公邸、迎賓館としても使われていました。それから半世紀たった昭和58年に美術館に生まれ変わったのだそうです。ラリックのガラスのレリーフや壁面を覆うアンリ・ラパンの油彩画、壁や天井、階段の手すりなどのモチーフのおもしろさ、照明器具の見事さ、窓の美しい曲線など東京の真ん中にいるのを忘れてしまいます。
そもそも、国立科学博物館付属自然教育園の中に建つ美術館ですから、いかに緑に包まれているかがお分かりでしょう。大きな木がたくさん茂っている庭です。木々の間を抜けてくる風に吹かれながら、本当に贅沢な時間が味わえます。
今回は「1930年代・東京~アール・デコの館(朝香宮邸)が生まれた時代」が開催されていました。私が訪れた日は、空が綺麗に晴れ渡り、気温も湿度もバランスの良いお天気でした。
旅から旅へと動き続けた日々、ちょっとひと休み。晴れ渡った空に誘われて、私は思い立って、白金台の庭園美術館まで出かけてまいりました。陽はまぶしいほどなのに、カラリとした空気はひんやりとして、かといって決して寒くなく、こんなバランスのいいお天気はそうそうありません。暖かすぎる秋が長かったせいか、本当に秋らしいおしゃれが楽しめなかった・・・と思いませんか。「早く晩秋のおしゃれがしたいわ」と、東京の友だちは嘆いていたくらいですもの。
早速、私はちょっとおしゃれをして、そこに行きたいと考えました。なぜかと言いますと、ドレスコード割引「紳士淑女の帽子スタイル」・・・帽子をかぶってご来館されたお客さまは、団体料金でご入場いただけます。と、あったからです。なんとも肌ざわりのいいフカッとしたセーターに、ロングスカートは細身の黒、裾にちょっとスリットが入っています。この場合、靴はどうしましょう。ハイヒールでは疲れるので私はスニーカーを選びました。ちょっと粋なスニーカー。私のお気に入りです。そして帽子をかぶって。目黒駅から歩いて7、8分。イチョウの葉で黄色一色の絨毯です。
東京都庭園美術館は今年、開館25周年を迎えるのだそうです。先の20周年では「アール・デコ様式・朝香宮が見たパリ」展が開催され、やはり、その時にもまいりました。オートクチュルの最盛期から現代までの変化をたどった服飾展「パリ・モード1870~1960年・華麗なる夜会の時代」を見ました。パリ・モードは、いつの時代も女性たちの夢を紡いでくれました。私達が見たこともない時代であってもドキドキするほど美しいのです。
女性がただひたすら美しく優雅であることを求められた時代、ウエストの細さは女性が自我を押し込めた狭い空間そのものだったのかもしれません。20世紀初頭には、ガラっと変わるのです。女性の近代化は服の変化とともに、急激に軽やかになっていきます。シャネルは、服で女性解放を果たしたといわれます。私が始めてシャネルの服を買ったのは、イギリスで007を撮っていた時。週末に出る給料をおし抱いて、白黒の千鳥格子のスーツを買った思い出があります。

さて、今回開催されている「1930年代・東京」。私は1943年生まれです。1923年の関東大震災により、東京は壊滅的な被害を受け、1930年には特別都市計画法が作られ、なんとか帝都復興が関されたそうです。
「大東京の出発・1930」で、評論家・作家の海野弘さんは、「1930年に東京は『大東京』になった。東京市は15区で、渋谷、目黒、品川などはまだ区外であった」と書かれています。30年代はまだまだ世界的に暗い時代を想像してしまいますが、今回の展覧会を見て驚きの連続でした。なんとモダンな大東京なのでしょうか・・・。
東京駅を中心に丸の内界隈、銀座など、生まれ変わった(復興した)東京の姿を絵画、写真、彫刻、工芸、書籍、ポスター、絵葉書などから読み取ることができます。近代的な建物が立ち並び、モダンな意匠がそこここに見られます。空の玄関口、羽田国際飛行場が開港されたのもこの時代。カフェ、ダンスホール、劇場、デパートなど、私が10代の頃に憧れていた世界が、今に続くのです。1930年代は、日本が戦争へと傾いていった時代でもありました。
そんな目で改めて都会の風景や、空、人々の暮らしを見つめると、日本のモダニズムから、和洋の融合がみてとれ、胸がキュンとしてくるのは、1943年生まれのせいでしょうか。
余韻に浸りたくて、美術館の庭園の椅子に座り、しばしぼーっとしておりましたら、中年の女性2人はお弁当持参で、楽しい語らいをしておられました。庭には黄色や赤色のバラが咲き、晩秋の一日を楽しみました。
12月6日に記念講演が開催されます。
「アール・デコの東京~震災復興の時代と建築」
松葉一清氏(武蔵野美術大学教授)
午後2時~3時30分 定員250名(先着順・無料)
住所 東京都港区白金台 5-21-9
最寄駅 目黒 白金台
TEL 03-3443-0201
FAX 03-3443-3228
休館日 毎月第2・第4水曜日(祝祭日の場合は開館し翌日休館)、年末年始

紅葉が深まる箱根にて

12軒の古民家を譲り受け、1本の木も無駄にしないようにと、作り上げた箱根の家。
この家に住み始めてから、30年以上の年月が流れました。4人の子どもたちも、それぞれ自分が生きる道を求め、社会に巣立っていきました。
今、箱根の家は、大人だけの静かな空間になり、また新たな表情を見せてくれています。
2年前からは、長年親しくさせていただいている京都「ギャルリー田澤」主催の展覧会も大広間で開催するようになりました。それらの会を重ねるたびに、「他にはない、この家をもっと活用して欲しい」「人々が集えるサロンを開いて欲しい」という声が、驚くほど多く寄せられました。
皆さまの声に背中を押され、振り返ってみますと、確かに、箱根の家は、家族が暮らすためというだけではなく、当時、壊され消えていくだけだった古民家がしのびなく、その美しさを何とかとどめ、次世代につないでいくことができないかという思いで建てた家であったことに、改めて気がつきました。
同時に、この箱根の家をこれからもっと活用することが、私に与えられたもうひとつの役目のような気がしてきました。
来年の春に向け、少しずつ始動していきたいと考えています。
明日に向かう力を呼び込むような、あるいは日常に彩が戻ってくるような、素敵な企画が生まれましたら、ご案内させていただきます。
写真はとある旅企画でお越し頂いた皆さまと。多くの方とより上質で、有意義なひと時を過ごせれば、と思っております。