浜美枝のいつかあなたと ~ 小倉美惠子さん

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時半~11時)
素敵なお客さまをお迎えいたしました。
『オオカミの護符』(新潮社)の著者・小倉美惠子さんです。
今話題の本で12月15日に発売し、現在3刷だそうです。
小倉さんは1963年、神奈川県・川崎のお生まれ。
シンクタンク勤務などを経て、2000年から、自らの生まれ育った町「土橋(つちはし)」の調査を開始。
2008年、「土橋」の映像記録を映画化した「オオカミの護符~里びとと山びとのあわいに」をプロデュース。文化庁の文化記録映画優秀賞などを受賞しました。
発売中の本は映画と同じく、地元・土橋に伝えられた信仰や生活について記された一冊です。
小倉さんは古くからの農家のご出身。
かつては50戸ほどの寒村だったそうです。
その人々によって守られてきたのが「オオカミ信仰」。
まず驚いたことは現在の田園都市線、「鷺沼」と「たまプラーザ」の中間あたりにある「土橋」にいまだに「オオカミ信仰」が脈々と受け継がれていることです。
関東地方に多く見られるというオオカミ信仰。地元の人は「オイヌ様」ともいうそうですが、小倉さん自身も御嶽講の代表者と一緒に、御嶽山詣りをし、「オイヌさま」を追って旅を続けます。
小倉さんはおっしゃいます。
「今でこそ人は山を離れ都市へと向かうが、かつては山は人々を惹きつけて止まない場所であった」と。
「お百姓」は単なる「農民」ではありません。「素朴な農民の手によって何の底意もなくいわば天真自然に作られたときのみ、真に独創的な従ってまた適な質をもち得る」と語ったのは「日本の美を発見」したドイツの建築家ブルーノ・タウトでした。
小倉さんは、お百姓をしていた、おじいさま、あばあさまに大きな影響を受けられたそうです。そんな子供時代のお話も伺いました。
なぜ、この本がこれほど注目を浴びているのでしょか。小倉さんは、高度経済成長期の時代に「何か大切なものを置き忘れてきたかもしれない」とおっしゃいます。
今では行政や専門業者に任せてしまう私たちの暮らし。もう一度足元を見つめなおしたい・・・と思う人々がこの本を手にしているのでしょうか。
じっくりラジオをお聴きください。(放送・2月19日(日曜・10時半~11時)
小倉さんのお話を伺いながら民族学者の宮本常一の言葉を思い出しました。
「人が歩いた後を歩いてもやることは必ずある」

風にそよぐ草

神保町の岩波ホールで映画を観てきました。
開演30分前から列が出来ていて満席でした。
アラン・レネ監督の「風にそよぐ草」
レネ監督といえば、私がまだ女優になりたての頃のヌーベルバーグ全盛時代に数々の作品が発表されましたが、若い私には哲学的すぎ、難解でよく理解できませんでした。
それが、今年86歳で撮った作品「風にそよぐ草」のなんと瑞々しく軽快で、モダンで、イキで「大人のための恋愛喜劇」と書かれています。
ヒロインのマグリット演じるサビーヌ・アゼマは1946年パリ出身。
私生活では、アラン・レネ監督のパートナーでもあります。
相手役の初老の紳士ジョルジュを演じるのはアンドレ・デュソリエ。
1946年仏・アヌシー出身。
アスファルトの亀裂に生えている雑草が風になびく様子がバックにクレジットタイトルが流れ、人々の足・足、足音。
中年の歯科医。
彼女はパリの街角でひったくりにあいバックを盗まれてしまいます。
捨てられた彼女の財布を拾う初老の紳士。
ストーリーはそこから始まります。
財布に入っていた飛行機操縦免許の彼女の写真を見て恋に落ちます。
美術、照明、なによりも中年女性の美しさ、艶やかさのクローズアップを見事に映し出すカメラワーク。
私は「なぜひび割れたアスファルトから草がそよいでいるのかしら?」と思い続けて映画を観ていました。
分かりました、ラストシーンで。
制作意欲は衰えず、すでに最新作の撮影も終えているとか。
軽やかで、艶やかで、ウイットにとんだ大人の映画。
『人生の終わり方』・・・は「生きる処方箋」とでもいうのでしょうか。
久しぶりに観た大人の恋愛喜劇でした。
アラン・ レネ監督は人生のパートナー、サビーヌ・アゼマに最大の愛を告白したように私には思えました。
“映画ってやはり素敵です”

新潟フレンズパーティー

都内のホテルで開催されたパーティーに出席してまいりました。
新潟市は市長をはじめ、住民が一体となりさまざまな企画をたて魅力ある都市づくりに取り組んでいます。
当日は「開港都市にいがた・『水と土の芸術2012』での鼎談」を聞きました。
そしてパーティーでは「のっぺ汁」をはじめ、新潟の豊かな食材をふんだんに取り入れた料理のかずかずを堪能させていただきました。今が旬の長芋をつかった「スモークサーモンとながいものロール仕立て」や、そしてなんといっても「おむすび」の美味しかったこと。
これからの新潟は東アジアへ、いえ世界へ向けて発信し、着実に拠点都市として歩を進めています。それには都市住民とその地に暮らす人との対流が重要です。北前船で栄えた港。歴史や文化の見直しと新たな芸術が融合し、地方が「心の豊かさ」を提供してくれます。
私もこの40年、民族学者の宮本常一、民芸運動創始者の柳宗悦の足跡を訪ね新潟に足繁く通っています。ダム建設のために湖底に沈む村にもずいぶんと通いました。佐渡には素晴らしい文化が残されています。
北国は冬が一番素敵です。
“旨いお酒・料理”
「にいがたの冬・食の陣」に出向いてみては如何でしょう。
詳しくはHPで。
新潟の冬の魅力に出逢いませんか?
新潟市公式観光情報サイト

浜美枝のいつかあなたと ~ 笹公人さん

『浜 美枝のいつかあなたと』 文化放送(日曜10:30~11:00)
1月1日・元旦に放送した番組のお客様は短歌作者・笹公人さんです。
笹公人さんは1975年、東京のお生まれ。
高校生の頃から短歌の創作を始められ、2003年に初めての歌集『念力家族』を発表。斬新な内容で注目を集めました。これまで書かれた本には歌集『叙情の奇妙な冒険』、イラストレーターの和田誠さんとの「連句」作品集『連句遊戯』などがあります。
まったく短歌には疎い私ですが、笹さんからお話を伺っていると日本人のDNAには『短歌』の感覚が誰にでもある・・・と思わせてくれます。
日本人のお正月と短歌は昔から深い関係がありますよね。
上の句を聞いて、下の句をとる「百人一首」。
子供の頃を思い出します。
「百人一首」はなぜお正月に遊ぶかも伺いました。
百人一首は鎌倉時代の藤原定家が私撰したもの。
木版技術が発達した江戸時代に庶民に広がり「遊び」として定着し、お正月の遊びとして親しまれたそうです。
宮中の「歌会始」も鎌倉時代中期にはすでに記録があるとか。
日本人は恋愛、戦(いくさ)、亡き人への回顧、そのほかさまざまな「思い」を短歌に託してきました。
笹さんに百人一首の中でお好きな短歌をご紹介していただきました。
『これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関』(蝉丸)
『人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける』(紀貫之)
またご自身の歌もご披露してくださいました。
『鳥占の鳥を逃した老師いてきらめく正月の中華街』
『春雨に濡れながらゆく青年もとりもどせない景色のひとつ』(原発事故)
お正月はこのように歌が詠めたら素晴らしいですね。
そこで、今回ご一緒してくださっている寺島尚正アナウンサーが詠んでくださました!
『末吉の末の横棒書き換えて 未来の吉と思い込む僕』
なかなか素敵ですよね。
私?・・・う~ん。
来年にはご紹介できるよう勉強いたします。

私のお正月

1月1日、元旦の早朝夜明け前に箱根神社への初詣で私の新年は始まります。真夜中より人も比較的静かでお参りができます。
2011年は多難な年でした。
今もなお終息していない原発事故・・・その爪痕の深さを思うと、体が震えます。東日本の痛みは私たち日本人の痛みです。恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早くきますように、と祈願いたしました。そして、家族や友人達の健康も。
穏やかな年の始め、神社から芦ノ湖の湖畔を歩きながら、また樹木の中を歩きながら考えました。かつては人々の暮らしの中に当たり前のようにあった文化や、自然の理に適った習慣、四季の移ろいによって美しく変化する国の景観など・・・そうしたものこそが尊く、人々の心の拠りどころであったはずなのに、私たちは知らぬ間にそれらを軽んじてきたのではないか・・・と。
私たち世代は「美しい日本の暮らし」の片鱗を、幼いころに経験してきました。それを次世代に受け継ぐべき大事な使命を担っているのではないかしら。そんなことを思いながらの元旦でした。

2日はいよいよ『箱根駅伝』のスタートです。
私の住む箱根町は往路ゴール、復路のスタート地点です。
大手町からこの箱根町まで。駅伝には毎年ドラマが生まれます。
圧倒的に強かった東洋大学。
新・山の神、柏原竜二選手が自らの区間記録を29秒更新しました。
1年生の時にはゴールし、初々しく笑顔満面の顔が、今年は引き締まり、まさに「山の神」の風格がありました。「昨年のくやしさがあるので嬉しい」(21秒差で2位)と酒井監督は語っています。チームワークの素晴らしさ。”くやしさ”からこの1年の努力は並大抵の事ではなかったはずです。
若者のひたむきさに涙がでます。
3日は早朝、夜が明け始めた6時半ころには町に下りていきます。
もう各大学の応援団が懸命に応援しています。
やはり東京農業大学の姿が際立っています。
昔は「ダイコン」を持っての応援でしたが。
湖畔の観光船の部屋が東洋大学の控え室になります。
監督がインタビューに答えたり、復路を走る選手達が調整したり、キャプテンの柏原選手が皆んなに声をかけている姿を見ながらスタートを待ちます。
そして、8時花火が打ち上げられ選手たちはスタートしていきます。私はいつも交差点のところで応援します。斜め前には文化放送のクルーが実況放送しているので声が聞けます。そして、家でゴールまでを楽しみます。
“今年も感動をありがとう”
4日は恒例の上野「鈴本演芸場」へ。
平成24年正月初席・吉例落語協会初顔見世特別公演『新春爆笑特別興行』。第三部のトリは大ファンの柳家小三治師匠。お正月らしい風情を堪能いたしました。
お正月は『笑門来福』
つらいことがあっても、”笑う門には福来る”
皆さま・・・みんなで乗り越えたいですね、今年を。
そして、佳い年にいたしましょう!

謹んで新春のご挨拶を申し上げます

今年も私は「農・食・美しい暮らし」をテーマに活動いたします。
農は命。
未来を拓く農家の人々と共に歩んでいこうと決意を新たにしています。
また、近畿大学の客員教授として3年目を迎えました。
若い力を信じ、フィールドワークの大切さをさらに伝えていきます。
皆さまのおかげでカルチャーの発信地として根づき始めた箱根の
「やまぼうし」も新たな企画をたくさん用意しています。
どうぞお楽しみに。
そして何より、多くの人に笑顔が戻る、希望にあふれた佳き年で
ありますようにと、祈り続けてまいりたいと思います。
2012年1月1日 浜 美枝

沖縄への旅

沖縄へ通い始めてかれこれ45年がたとうとしております。
きっかけは『沖縄こそが民芸のふるさと』と、柳宗悦の本に書かれていたからです。民芸はもちろんのこと、なぜ私がこんなに沖縄に魅力を感じ、沖縄を訪ねると第二の故郷に戻ってきたかのような安堵感を覚えるのでしょう。
その理由は人だと思うのです。
特に沖縄の女性たちの、辛いことがあっても空を見上げてスクッと立ち続ける明るさとたくましさ。面倒見が良くて、働き者で健康的な気質。そのすべてに強くひきつけられているのです。
12月も押し迫り、明日はクリスマスイブ。
沖縄タイムス「タイムス女性倶楽部」の会に招かれ講演を24日にいたします。
今年は沖縄にとっても政治に翻弄された大変な年でした。
同じ日本人として、心から申し訳なく思います。
沖縄の痛みは私たち日本人全員の痛みです。
沖縄に住む人々が恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早く来ることを願っております。そうしていかなければならないと念じております。
沖縄は食文化の宝庫でもあります。
沖縄料理の世界は深く優しいです。
たとえば、うちなーぐちの「くすいむん」や「ぬちぐすい」という言葉がありますが、私はこのふたつの言葉を口ずさむと、すっと背が伸びるような気持ちになります。この言葉は、生きることの根っこに食べることがあるということを教えてくれます。そこには感謝の気持ちも含まれています。
生きるために食べる。大切に食べる。命を大事にする。
沖縄が昔から暮らしの基本として守り伝えてきた、こうした言葉を、そして、言葉の奥に秘められた謙虚な生き方を大切に守り、次の世代につなげていかなくてはならないと思います。
沖縄調理師専門学校校長である新島正子先生に、以前、沖縄の食文化についてお聞きしたことがありました。
「苦闘の歴史を経てなお、人々の記憶の底に郷土の味が残っていた。
文化は滅びない。占領されない」との新島先生の言葉は忘れられません。
沖縄には4日間の滞在です。
私を温かく迎えてくれる
美しい島(チュラジマ)
沖縄の(ウチナーヌゥ)
ネーネー。アンマァ。オバァ。
待っていてくださいね。

お逢いしたいです、ユリさん

おばさまが亡くなられてあと少しで13回忌ですね。
とても、とてもお逢いしたくて早朝、箱根の山を下って長野の御代田に向かいました。その日は朝から富士山が美しく、早朝の旅を見つめていてくれました。
あれは25年ほど前のことになるでしょうか。
林道、農道、さまざまな小径に分け入り、とにかく走り続けたあの日。
秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしていました。
柔らかなモスグリーン、ベージュ、柿色。
日本の秋の色彩の美しさのすべてが目に広がったのです。
そこで日本とは思えない風景がまぎれこんでいる一角に出逢いました。
それがユリさんの農場でした。
お会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。
ユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときは、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。
村田ユリさんは、知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろいろな分野の方から慕われていた方です。
ドイツをはじめ、ヨーロッパに長くいらっしゃったとのこと。
戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてこられた方なのです。

何よりも日本の自然が破壊されていく過程を憂えていらっしゃいました。
あるとき、疲れ果てて夜遅くユリさんの家に着いた時があります。
そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。
こまやかな心遣いが嬉しくて、涙がでるほど感激しました。
ひたすら疲れ果て、ただただ眠りたかったのです。
私は、私たちが出会った頃のユリさんと同じ年齢になりました。
人のために自分の空間と時間をすっと人に差し出せる豊かさなど持ち合わせていません。そうなりたいと願っているのですが・・・。
寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだりおしゃべりをしたり。そんな時ご近所に住む玉村豊男さん、奥さまの抄恵子さんと出会いました。豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。
ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着を着て、手は土にまみれ、額に汗を光らせていました。夕方、シャワーを浴びて宮古上布か芭蕉布か、サックリした風合いの上布の襟を合わせ、背筋をのばして・・・とても美しかったです。
とてもとても、ユリさんにお逢いしたくなり、抄恵子さんにお願いしてしまいました。「おばさまのお家に連れていって」・・・と。そして、ユリさんのスケッチブックをいただいてきました。

夜は玉村さんの家に泊めていただき豊男さんの料理、そしてご自身で丹精込めて作られたワインをいただきました。
嬉しかったです。
ありがとうございました。
ユリさん、『もう一度お逢いしたいです。』

地域活性化に向けた食と農のあり方

先日、山口県周南市で第23回全国農村アメニティー・シンポジウムが開催されました。私は『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』と題してお話をさせて頂きました。その後はシンポジウムにも参加いたしました。
ふれあいセンターに着くと、地元のお母さんたちが温かく迎えてくださり、彼女たちの手づくりの美味しい料理の数々が並び「浜さ~ん!久しぶり!」と声をかけられ嬉しかったです。

この20年近く、私は地域で活躍する農村の女性達を応援してまいりました。私の役割は、生産者である農山漁村の人々に「がんばってください!」とエールを送ることであり、また消費者である都会の人々とのパイプ役になることだと思っております。
「食は命」であり、暮らしの原点であり、文化です。
女性はその担い手であり、守り手といえるのではないでしょうか。
日本のさまざまな場所で女性たちが、それぞれひたむきに活動してきました。
郷土料理の復活、地域の食材を子供たちの給食へ、老人センターや地域の病院から委託を受け、加工品を納入したり、また都市との交流・活性化にむけファーマーズ・マーケット運営など20年前には考えられないほどです。
女性の繋がりは縦ではなく、横の関係です。
「この指とまれ!」方式です。
「こう思うのだけれど」
「それ、いいわね」
「こっちはどう?」
平等な位置関係で思い思いに話しを進めていきます。
けっして声高に語られることはありません。
自然と向き合いながら、彼女たちは作るものに惜しげもなく手間ひまをかけます。無理に背伸びをしない、身の丈にあった等身大の活動です。だから私は尊敬できるのです。
私たちにとって、もっとも大切な「食」が、今、揺れています。
TPPはどのような方向に行くのでしょうか。
30年、50年先、いえ100年先を見すえて議論してほしいと思います。


今回のテーマである『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』という観点で考えると、村おこし、町おこし運動は、上の人から押し付けられるものではなく、その村、町が再生するための「宝」は人、風景、事象も含めて今自分たちの暮らしているその「場」にあると思います。
自分達の生まれ育った地域を深く愛し、「この村、町を滅ぼさせない」・・・という強い目的があれば必ずその「宝」は見つけられると思っています。そんな話をさせて頂き、素晴らしい町づくりをしてきた全国10ヶ所を、写真をお見せしながらご紹介しました。

最後にご紹介したところは福島県飯館(いいたて)村でした。
この村は「魅力ある人が行う農業は、魅力ある農業を育む」という信念のもと、他とは違う快適な農村環境の中で「愛情」と「信頼」で結ばれ、活力ある村づくりを長年なさっていらした村です。私は何度もお訪ねしました。
ご承知のように東日本を襲った最大の地震。
そして、福島第一原発事故で、村が計画的避難区域に指定されました。地域共同体は今もしっかり生きていますが、故郷を離れざるを得ない村民の方々の現実。かけがえのない多くの人命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、数十万もの人々が被災しました。今までのご苦労を思う時、胸がはりさけそうになります。
今回のシンポジウムでは山口からの発信として素晴らしい活動をしている周南市の事例も伺い、改めて「食・農」のあり方を考えました。
「美しい日本の暮らし」を求め、私の旅は続きます。

『訪ねちまった中也の故郷』

日経新聞夕刊(11月2日)に詩人・中原中也のことが掲載されていました。
かねがね訪ねたかった「中原中也記念館」
先週小倉での仕事の後、また”寄り道”をして私も「訪ねちまった」のです。
新山口からJR山口線に乗り湯田温泉で下車。
記念館は中也生誕地にありました。
中也の生家は広い敷地をもつ大きな医院だったそうですが、火事で茶室と蔵を残して焼失してしまい、記念館はその生家の敷地の一部に建っています。
入り口には中原家の庭にあった木が残されていました。

小雨降る日でしたから、かえって落ち着いて拝見できました。
バッグの中に「私はその日人生に、椅子を失くした」をしのばせていました。
(鑑賞解説・高橋順子/小学館)
傷つきやすい魂は、中也節とよばれる。
独特のリズムに乗って、喪失の海をさまよう。
やさしく、やるせなく、時に残酷に。
と書かれています。
記念館には中也の遺稿や遺品を中心にさまざまな貴重な資料があります。
繊細すぎる心と体。30歳の若さで世を去ります。
中也自筆原稿を読み、ようやく私の中の中也が浮かびあがってきました。
かねがね不思議に思っていたことがあります。
中也が眠る中原家の墓石の文字を中学2年の中也が書いたと言われています。
「なぜ中学生の中也が書いたのかしら?」
それも分かりました。
資料館にある中也の文字の美しさ。
きっと大人より美しい文字を中也は書いていたのでしょう。
『帰郷』も好きな詩です。
ああ、おまえはなにをしてきたのだと・・・
吹き来る風が私に云う

記念館を後にし、中也の眠る墓に行きました。
車で10分ほど行くと  「中原家累代之墓」がありました。
お参りをすませ竹林のある小道を歩いていると手押し車のおばあちゃんとすれ違いました。
中也の故郷・・・をからだごと感じた”寄り道”でした。