紅葉が深まる箱根にて

12軒の古民家を譲り受け、1本の木も無駄にしないようにと、作り上げた箱根の家。
この家に住み始めてから、30年以上の年月が流れました。4人の子どもたちも、それぞれ自分が生きる道を求め、社会に巣立っていきました。
今、箱根の家は、大人だけの静かな空間になり、また新たな表情を見せてくれています。
2年前からは、長年親しくさせていただいている京都「ギャルリー田澤」主催の展覧会も大広間で開催するようになりました。それらの会を重ねるたびに、「他にはない、この家をもっと活用して欲しい」「人々が集えるサロンを開いて欲しい」という声が、驚くほど多く寄せられました。
皆さまの声に背中を押され、振り返ってみますと、確かに、箱根の家は、家族が暮らすためというだけではなく、当時、壊され消えていくだけだった古民家がしのびなく、その美しさを何とかとどめ、次世代につないでいくことができないかという思いで建てた家であったことに、改めて気がつきました。
同時に、この箱根の家をこれからもっと活用することが、私に与えられたもうひとつの役目のような気がしてきました。
来年の春に向け、少しずつ始動していきたいと考えています。
明日に向かう力を呼び込むような、あるいは日常に彩が戻ってくるような、素敵な企画が生まれましたら、ご案内させていただきます。
写真はとある旅企画でお越し頂いた皆さまと。多くの方とより上質で、有意義なひと時を過ごせれば、と思っております。

若狭路

若狭路を旅してまいりました。

福井県大飯町三森に、私の家があります。
この家も取り壊される寸前に出くわし、譲っていただいたものです。
この家は別の場所にあったのですが、最初に借りた土地が、私の理想の立地だったんです。背後に竹林、前に田んぼと佐分利川。だから、家の方をこちらの土地によいしょ、よいしょと運んでもらいました。そうしたら、私が夢に描いた”日本の農家”が出現したというわけなんです。
浜さんはなぜ、農業や農家に感心があるのですか、という質問をたくさん頂きます。
最初は国土庁(現在は農林水産省)「農村アメニティー・コンテスト」、現在は「美の里づくりコンテスト」の審査委員を20年近くしております。
このコンテストは農村という限られた範囲だけを対象とするものではなく、この国の未来をも問う意味合いがあるんです。農業は食と、食は生命と結ばれています。農業のありようが、そこに住む人間に快適環境を与えているかを、問う審査なんです。
快適であるための基盤整備などハード面だけでなく、そこに生きる人々の生きるエネルギーのありようも含めて、つまりはその姿をアメニティーといいます。そのような政府の仕事にかかわる中で、私自身が大いに触発され、勉強しながら、自分なりにできることから始めてみようとしました。
若狭・三森の家、ここで、まず、米を作ろう、そう決心しました。
「10年はやってみよう」
凝り性の私ですから、米作りは地元のベテラン専業農家の松井栄治さんのおかげで、素人の私も田植えから収穫までの農業を知ることができました。土と水と苗、それを支配する天候。見守る人間。こういう営みの繰り返しで人類は生き延びてきたことを思うと、やはり田植えは神聖な行事だなぁと思います。
(現在は松井さんご夫妻におまかせ・・。ブランド名は「浜美枝のひとめぼれ」)
なぜ、若狭だったのか・・・。
初めはもちろん旅人としてここを訪れました。
2、3度目だったか、小浜の冬の市場に行ったことがありました。日本海の魚のおいしさに感動し、その時いただいたお酒が「濱小町」という銘柄だったんです。(残念ながら現在は造られていません)
あ、これは私のお酒、自分の酒、つまり自酒。
そのお酒とあらゆる魚の美味にうたれて、すっかり若狭フアンになったのが、最初だったと思います。若狭の新鮮な魚はもちろん美味しいのですが、この地の魚加工の歴史と技術は日本一だと思います。

若狭は京都の台所でもあります。一塩に加工されたカレイやカマスなど絶品です。鯖街道もありました。今回も市場で魚や若狭カレイの干物などを我が家に送り、私は市場の食堂で早朝、焼きさば定食(900円)を食べました。
旅から始まり、食に感動し、そして家にたどりつき、田んぼまで。
私の旅はこうして農業にたどりついたのです。
ちょうど、そのころ農村のお母さんたちとヨーロッパの農村を訪ねる旅にでていました。そこで視察したのは、農村女性たちによる”グリーンツーリズム”でした。
都会に住む人に農村でゆっくり休暇をとってもらい、農家は現金収入を得る。EU諸国は各国とも、”グリーンツーリズム”を提唱しています。20年ほど前のことです。
私も農家のミセスたちともそんなことを話しておりました。
ようやく、世の中はファーマーズ・マーケット、農家レストラン、農家民宿へと感心がよせられる時代になり良かった!・・と思います。
片道七時間はかかる若狭までの道のりを、なんの苦もなくせっせと通っていた時代。
やっぱり若かった・・・のですね。
御食国(みけつくに)小浜は「とらふぐ王国」、昨日からズワイガニが解禁になり、浜焼きさば・鯖寿司・冬の若狭かき・・・と美味満載。

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする”お水送り”国宝めぐりも素晴らしいです。
今回の旅で私は、真言宗御室派・「明通寺」にお参りしてまいりました。静寂な中、ひとり静かに本堂でお坊さまのご説明を受けました。ゆずり木を切って、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体。国宝建造物の中はまさに旅の醍醐味を味わう空間でもありました。

帰りは小浜線に乗り家路つきました。

「食・農・環境フォーラム、地産地消を考える in 沖縄」

先日、沖縄に行ってまいりました。
「食・農・環境フォーラム、地産地消を考える」に参加いたしました。
(主催:琉球大学農学部、琉球新報社)
フォーラムは、全国の国立大学農学部長会議の沖縄開催を契機に、市民向けの食・農・環境を考えるフォーラムを開催し、食の安全や地産地消、地元食材の見直し、環境破壊の元凶とも指摘される農業の環境対策などを議論する・・といった趣旨でした。
私の基調講演は「おいしい!を育てる食卓」
パネルディスカッションはパネリストとして琉球大学の先生方と那覇高校2年の学生さん2名。JAおきなわの方。コーディネーターは前泊琉球新報社論説副委員長。
活発な議論がおこなわれそれぞれの専門分野のお話、現場の声としてJAおきなわ経営管理委員の発言など、大変勉強になりました。また若い高校生の率直な意見に、会場も大きくうなずいておられました。

会場には40名の那覇高校の1年生が、私の講演を「家庭科」の授業として聞いてくださるとのこと。大変緊張いたしました。
私も4人の子供の母親です。
人が生きていくときに必要不可欠なものとして、衣食住があげられますが、
中でも食がもっとも大切なものではないでしょうか。
食べ物で人は作られ、育まれていきます。
今、沖縄の食が揺れています。
高校生はそのような現状をどのように捉えてくれるでしょうか。
沖縄料理は豚肉を中心に肉類をヘルシーにしっかり摂取して、緑黄野菜、豆腐に代表される豆類、海草類をたっぷりと取るバランスの取れたまさに「長寿食」。そうした食生活が沖縄の健康と長寿を支えてきたのです。
しかし、残念ながら男性は過去形になってしまいました。男性の全国平均寿命は2000年には26位になり沖縄クライシスと呼ばれました。データを見ると、沖縄の長寿を支えているのは65歳以上の男性と女性で、中年以下の男性は短命化の傾向にあり、高齢者が伝統的な沖縄の食文化を維持しているのに比べて、中年より若い人たちは、欧米型食生活、肉が飛びぬけて多く、野菜類は伝統食に比べてぐっと少ない。炭水化物も少ない。こうした食生活を続けると、高血圧や糖尿病といった生活習慣病を引き起こしてしまいます。
これは大人だけの病気ではなく、心配されているのは子どもの肥満。運動不足、ジャンクフードが好きだから、三大栄養素は取り過ぎになり、副栄養素が不足してしまっているのです。
また、食事の在り方も問題になっています。
最近の食卓の実態を表すのに「こ食」という言葉があります。
まず孤独の「孤食」。
家族バラバラに食事を取ることが多い。
沖縄でも大家族から核家族化が進んでいます。
二番目は個人の「個食」。
家族で別々のメニューを食べる食事が増えている。家族が同じメニューを食べるのは、精神的に食育の面でも、とても大切だと私は思います。同じ釜の飯、という言葉がありますが、同じものを食べることで、家族の絆はより固く育てていくことができますし、また、子どもはいろいろな味を覚えることができます。味覚というのも、学習なんです。小さい頃、苦いものやえぐいもの、辛いものなどが苦手でもある年齢を経た時に、しみじみ、ああ・・美味しいとおもえるようになったりします。
記憶の積み重ねは大切です。
そして、三番目は固定的の「固食」。
「お母さん、休め」とか「ハハキトク」とか言われますが、聞いたことありますか?
オムレツ・カレー・サンドイッチ、焼きそば、スパゲッティー、目玉焼きの頭文字をとって「お母さん休め」。
ハンバーグ、ハムエッグ、ギョーザ、トースト、クリームシチューの頭文字をとって「ハハキトク」。
べつにカレーやハンバーグ自体が悪いというわけではなく、子どもの好きな、同じものだけを、つまり固定的なもの「ばっかり食べ」が問題なのです。

子どもの頃に本物の味の原体験を与えて、バラエティーに富んだ食品に親しむことの重要性を私たち大人は、真剣に考えなくてはならないところまできているということなのです。
では、単に昔の食生活に返ればいいのかというと、現実問題、それはなかなか難しい話。大切なことは、現代の食生活に日本伝統食の知恵を上手に取り入れて、バランスの良い食事を取り戻すこと。
そのためには、子どもたちに、食事が自分達にとってどれほど大切なものかということを教えることが大切。
“私たちのからだと心はつながっています”
食の良し悪しを判断できる力をつけてもらいたいと思います。
どう教えればいいのか。私は、「地産地消」がひとつの指針になるのではないかと思っています。地域で取れた物を地域で消費するのが食の基本です。それが、自然の摂理にかなっているのです。
最近、汚染米の不正転売問題が大きな社会問題になっていますけれど、誰がどこでどんな風に作って、どうゆう経路をたどってきたのか、それさえわかれば、汚染米が食用にまさか転用されることなどなかったはずです。
これが、トレーサビリティです。
農業には産業としての面だけではなく、自然環境を保全する役割もあります。
フードマイレージや食料を生産する過程で消費されるバーチャルウオーターの輸入を減らすことで、他国の水資源を消費し、北アフリカや中東を中心とする貧しい23カ国20億人以上の人たちが、生きるための水が足りない「水ストレス」を少しは解消できるはずです。
世界中で今も水不足が起きているのに、さらに今後、その不足状態が進む可能性が指摘されているのに、日本だけがこのまま水を買い集めていいわけがありません。
自分達の安全安心のためにも、日本農業のためにも、地産地消が理にかなっているというわけです。地産地消は古いどころか、地球上で求められている理想の食であることが分かってもらえると思います。
日本の食糧自給率は今や40%ですが、沖縄は99年までは40%を維持していましたが、2000年には33%に急落、04年からは30%も割り込み、今や28%であり、ワースト14位となっています。 とはいっても、お米やさつまいもなどの主食の低さが実は大きく影響していて、野菜は半分程度、肉類や水産物はほぼ足りているんですけれど。
この数字をこれ以上、悪くしてはいけません。
毎日のお買い物で、お母さんが必ず沖縄のものを選び、その度に「あ、沖縄のだから、これにしよう」と子供達に語りかけてください。
食べ物という身近なものから、子供達とともに農業や世界環境、自分の暮らし方を考え、そして行動していってほしいのです。
食べることは生きることであり、食べ物は命そのものであるということ。食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしい行為であり、食べ物によって私たちの体はつくられるということ。
そのことをぜひ、お母さんさちはお子さんの心と体に刻んでいただきたいのです。そうして育てられた子供たちは食べ物にたいしては、もっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合えるようになります。
私は、沖縄の人たちは、きっと、地産地消のことや食べ物の大切さを知る子どもにと育て上げられると、実は、安心しているのです。
なぜならば、沖縄に通いはじめて40年がたちますが、沖縄の人々の底力を知っているからです。
・・・とこんな話をさせて頂きました。
那覇高校の皆さん、”ありがとう”
真剣な眼差しで一緒に考えてくださいましたね。
あなたたち世代が、これからの沖縄を担ってくださるのです。拙い話でしたが、熱心に聞いてくださり感謝いたします。そして、会場に足を運んでくださった市民のみなさま、ありがとうございました。

そして公設市場のみなさま!また、直ぐ戻ってまいります。あの時買った皮つき三枚肉、泡盛で美味しく”ラフテー”をつくりました。ノコギリガサミの味噌汁も最高でした!

日本酒で乾杯推進会議フォーラム

「乾杯の心・日本のかたち・日本の心」
先日、石毛直道代表(国立民族学博物館名誉教授)のもとフォーラムが開催され民族学者の神崎宣武さんのホスト、私は先生のアシスタントで参加させて頂きました。
「日本酒で乾杯推進会議」100人委員会には各界の方々がご参加なさっています。
昨年は歌舞伎俳優の中村富十郎さん・塩川正十郎さん、そして私がゲスト。今年は小笠原流三十一世家元 小笠原清忠さん、西舘好子さん、民族学者のクライナー・ヨーゼフさんがゲストとしてご参加くださいました。
この会から「日本酒からの手紙」というのがございます。
ニッポン人には日本が足りない、と言われています。
「和服をさりげなく着こなしてみたい」
「ほどよく美しい言葉で語りかけたい」
この国で育まれてきたよき日本文化の数々。私たちがほんの少し心がけるだけで、まだそれが取りもどせそうです。
日本酒を粋に飲んでみたいと思いませんか。
日本酒は、長い歴史の中でしなやかな感性とすぐれた技術で磨きあげられてきました。
甘くて辛い「妙味の酒」特定の料理を選ぶことなく、心身を癒し、ご縁をつなぎ、和(なごみ)に酔うお酒です。
あらたまった礼講からにぎやかな無礼講に移るとき、私たちは乾杯します。
「みなさまのご発展とご健勝を祈念して・・・」
何に向って祈るのでしょうか。カミ様?ホトケ様?ご先祖様?
ニッポン人の心の奥底に宿るものとふれあうとき、新たな力が生まれずはずです。
これからの人生をますます豊なものにするために・・・日本酒で乾杯!
そんな思いをこめての「乾杯の心・日本のかたち・日本のこころ」のフォーラムでした。

小笠原流家元からは椅子に座っての本来の座礼の作法を再現していただきました。今日的な乾杯は、明治期におけるイギリス海軍の影響を受けて習俗化したそうです。
「上野に於ける東郷大将歓迎会及小笠原流古式凱旋式の図」風俗画報第三二八号(明治三十八十一月号)「乾杯の文化史」神崎宣武より
このように見てみますと乾杯のかたちには世界中いろいろあり興味がわきます。
クライナーさんからは、ワイン文化圏とビール文化圏の違いなど。ビールグラスを掲げて、声高らかに、というのは学生達がグラスをギャチャンとぶつけながら・・・正式な作法とは違うもの。
「祈念して」という発声がきわめて日本的であること。当たり前に発していたことでも、ずいぶん違うのですね。
西舘さんには着物で乾杯の美しいかたちなど。
私たちはどういう乾杯の作法を伝えていくか、が昨年来の宿題でもありました。
会員の皆さまからのご意見ご提案もいただきました。
内館牧子さんは「乾杯は、おめでとう、うれしいの心、盃を高々と揚げようが目元までであろうが、揚げるという意識があれば常識的に形はたもたれるもの」
伏木亨さんは「参加者の健康や幸福のみを祈るのではなく、草木虫魚獣山川海すべてに捧げたい。その目線で乾杯!」
「祈念して」は「感謝して」「ありがとう」ととらえる方が多くいらっしゃいました。
ひとつの作法にまとめることはできませんけれど、やはり、目線で乾杯のかたちは、祈念なり感謝なりの心がこもった、しかも、美しくみえるのがいちばん素敵です。
鏡開きの音頭で会場の皆さまと乾杯!
日本人のもつ美しい、こうした文化は継承していきたいと願った一日でしたし、日本人であることに幸せを感じた一日でした。
輪島からはこの日のために素晴らしい漆器・お屠蘇の作品を仕上げていただきました。日本の工芸品の奥深さ、技に感激いたしました。

楠目ちづさん

先日素敵な華展にお邪魔してまいりました。
横浜の港が見えるホテルで一日だけの会でした。
“第十八回いけばなむらさき会華展” 家元 楠目ちづ

楠目先生は 95歳 大正二年のお生まれ。
相変わらず美しいお姿。初めてお会いしたのは今から21年前。
楠目先生の名を人づてに耳にするたび憧れはふくらむばかり。
花という、それ自体が天によって造られた物をさらに自らの手と感性で造形していく・・・しかも景気に走らず茶室の空間にピンと張りを感じさせるものに生けていく・・・そんなお仕事を続けられる先生に一度おめにかかりたいと念じておりました。
逢いたいと強く念じれば必ず会えるというのが私の信念です。
楠目先生とお逢いして初めてとは思えなかったのも、あまりにも多くの知己ある人々が先生と私の間に介在していたのです。
それもこれも花のご縁。
  日本の美しさを花で表そう
  自分自身を花で表そう
  おしゃれを花で表そう・・・
  満足できない茶花です
美そのものを幾世代もしみこませた気品と威厳を合わせもった方だと思いました。
楠目先生は母上と二人、小倉から逗子へ転居します。
絶対安静を必要とするほど病が進んでいたので気候も温暖な海辺の家に引越したのです。
はじめてお邪魔した楠目邸の玄関。
ハッと息をのむような静寂があり、そこには花はなく、花の気配だけが漂う壷が待っていてくれたのです。
部屋には古い常滑の鉢に庭のかえでを手折って生けてあります。
晩秋の陽がさしこんで美しい影をつくっていました。
空間全体が一枚の絵のようです。
「小さな茶室に入りますとそこは俗世とは一線を画した小宇宙です。静かに爐にはお湯が煮え、仄かに湯気がたなびいて風の気配を知り、ふと生けられた花に目がとまります。古い瓢箪掛に吾亦紅と女郎花、茶室に秋がふっと舞い降りたような景色です。利休の言葉”花は野にあるように”の真意に茶花の精神がかくされています。野に咲く花の真実をとらえなさい・・とでもいうのでしょうか。この解釈と実践に修業のすべてがあるという茶花」・・・とおっしゃる楠目ちづさん。
私などにはその極意など分かりません。
「茶室に生ける茶花の姿は二時間余りの存在です。心が洗われるひとときと共にあり、終わりと共に永遠に消えてしまう。はかなさと哀れさ。そこに花の美しさのすべてがあります」
先生は植物という自然と向き合うときたくさんの距離をもっていると思いました。接近してみる。手元で見る。かざしてみる。離れて、ぐーんと離してみる。遠くに見る。茶花の精神は花材の最も美しいところを引き出すこと、だからでしょうか。
私は野歩き、山歩きが好きでよく歩きまわります。
早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ最も美しいと思います。花一輪、枝一本、これは神様がお造りになったもの。
それらが天から授かった美を生かすように・・・。
3年前雑誌「いきいき」で先生はわざわざ箱根の我が家にお越しくださり、私の好きな器にそれはそれは素敵に花を生けてくださいました。

「どうしたら美しいかたちができるかと、今でも毎日悩むのですよ。そして、自分を表現できるようにならなくては、人まねでは、こころ打つものはできません。繰り返し悩み失敗する。そうして感覚は身につくものです」・・・と。
久しぶりにお逢いした楠目先生。透明なまなざしと優しい笑顔が白いおぐしにはえて本当に美しいのです。
30年先を歩んでいらっしゃる先生のお姿に、勇気づけられる思いでした。
私はこれから30年あります。
まだこれからたくさんの経験を積んで先生のように背筋を伸ばして生きていきたいと思います。

家の光 JA食・農オープンフォーラム in ぎふ

家の光 JA食・農オープンフォーラムinぎふ
 「食のたいせつさ!農のすばらしさ」
が9月23日岐阜市内で開催されました。
今回が5回目で全国を回っております。
このフォーラムの趣旨は生産者と消費者という枠組みを取り払い、「食と農」に心を寄せる「生活者」が集い、お互いに学びあい、語り合い、刺激しあって交流を図ることが目的です。
私、浜美枝が第1回からコーディネーターをつとめゲストをお迎えし、語りあいます。

今回は俳優の永島敏行さん。
永島さんは大変農業に強い関心を持ち自ら実践し、子供達の「食育」にも積極的に取り組んでおられます。今回は「なぜ食料自給と地産地消が大切なのか」について話し合いました。
ご存知のように食料自給率は先進国のなかでも最低の40%。(カロリーベース)1965年には73%あったのにです。
戦後工業分野を発展させ、食料を世界中から安く買い上げてきたこと、食生活の変化など様々な要因があげられます。産地偽装や汚染米の不正転売などで、食が大きく揺れています。
「表示さえ信頼するにたるものでなくなった。一体、何を信じて判断すればいいのか」子どもに安全なものを食べさせたいと思う親たちの切実な声が全国から聞こえてきます。
日本の農業と食は、もうぎりぎりのところまで来ています。
けれど絶望するわけにはいきません。問題意識をもち私たち一人ひとりが変えていく以外には道は開けません。
会場を埋め尽くした方々からのご質問も多く寄せられました。
〇 子供達に安心できる食べ物をどのように選べばよいか?
〇 観光と農業は両立可能か?
〇 農業生産者をどのようにサポートできるか?
〇 日本で消費しきれないものを発展途上国の人たちに寄付できないか?
〇 今の日本では農業だけで生きていくことはできません。
   このことに対して何ができるか?
等など・・・活発なご意見を伺いました。
永島さんも丁寧にお答えくださいましたし、私も思うことをお話させて頂きました。
生産者からのスピーチ。岐阜県JA女性連絡協議会の会長からは地元小中学校や保育園の給食に、手作りの味噌の供給「みそ玉一玉運動」など、食育のお話。広島県の校長先生が取り組まれた「ほんとうの食育」のお話など。
不要なもの、害するものを食べつづけたら、体が悲鳴をあげます。
体と心はつながっています。
体がほんとうにほしがっているものを食べていたら体も心も安心して、健やかに成長していくことができます。だから、お母さんには、子どもたちのために、何がよくて何を避けたほうがいいか、食の良し悪しを見分ける目を持ってほしいと思います。
食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしいものです。
食べ物によって私たちの体はつくられ、食べることは生きることであり、食べ物は命そのものです。食べ物にたいしては、もっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合いたいと思います。
そんな思いを強くもったフォーラムでした。
フォーラムの後は地産地消ミニパティーが開かれ、永島さん・私の岐阜の食材によるレシピを岐阜グランドホテルのシェフが料理してくださり、またシェフのメニューもだされ皆さん大満足してくださったようです。

私のレシピは、「ドライトマト、ナス、菌床シイタケのキッシュ」「贅沢!飛騨牛のコロッケ」「ダイコンたっぷり炊き込みごはん」。
お腹もいっぱい・・・心も満たされ、生産者、消費者といった垣根を飛び越え、日ごろ感じていることはもちろん、食や農を巡る問題にも、生活者の視点から語り合えたと思います。
     すべてに答えがでないかもしれません。
     でも、問題を私たちが共有することで、
     いつか必ず、灯りが見えてくると、私は信じます。
食と農のこれからに、希望が見出せますように、子どもたちに、本当の意味で美しく豊な未来をてわたせますように。
このフォーラムはそのような思いで開催しております。
次回は12月20日奈良で開催されます。

フォーラムの前に産地直売所”おんさい広場”に行きました。
岐阜市産の採れたて野菜農産物・花・米粉のパン・果物、地元大豆のこだわり豆腐など、朝採れたての野菜の美味しそうなこと!大勢のお客さんで賑わっていました。
「地産地消」は顔の見える関係・・・。
これからはこの安心感が大事ですね。

アンニョンハセヨ

韓国から帰国いたしました。
福岡・熊本・関西空港・中部空港・羽田からと総勢40名の女性達がソウルに集合いたしました。

この研修旅行も今年で15回目。
12回はヨーロッパでの民泊・グリーンツーリズム研修。
そして、韓国では農村女性グループとの交流を目的に、農家民宿やキムチ作り体験など盛り沢山の内容で、3年目の今年はさらに絆が深まりました。
澄みきった秋空の下、 コスモスの花が沿道に咲くなかソウルからバスで約1時間の場所にある八堂(パルタン)に向かいました。この八堂はソウル市民の飲み水となる川の水質を守るために有機農業が行われています。漢江(ハンガン)の上流域に位置しています。

車窓の景色はビル郡から農村風景へと変化し、ビニールハウス、緑の山々。
「わぁ~うちの故郷の風景に良く似ているわ」・・・との声も聞こえてきます。
私はこの八堂での「親環境農業」という言葉に興味を覚えました。
「新」ではなく「親環境」・・つまり環境に親しむってどういうこと?
一同を出迎えてくれた組合長「八堂 生命 暮らし」の代表は有機農業の団体と30年来交流を続け、日本にもしばしば訪れているとのお話。
農薬の使用を減らすため、土づくりからしっかり取り組み、堆肥を多く施用し、「農村の環境を守ることが消費者の安全」につながるとの思いから「親環境農業」に取り組んでいます。(生産者会員・約90農家 消費者会員・約1800人)
彼らの生産する有機農産物はソウル市内のスーパーで販売されています。
韓国もソウル市への一極集中で経済発展を遂げ、農家の高齢化も日本以上に深刻です。
そんななかで八堂には新規就農者も徐々に増えてきました。
「都会で仕事をしてきましたが、ストレスもあり、今は自分達の生きがいを見出し幸せに過ごしています」と語ってくれたのは30代後半のご夫妻。昨年は奥さんのお腹に赤ちゃんが。今回は可愛い女の子を抱っこしていました。
ここまで来るのは大変な道のりでした。
それを支えているのが、都会の人たちです。ソウル市民は八堂の農産物を買い支えているだけではありません。市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり、水源地域の農業を支援するために使用されます。だいたい一戸あたり月に三千ウォン(300円)、農家が堆肥など購入する費用にあてられます。
私は市内の市場のおばちゃん、学生さん、若い女の子にも聞いてみました。
「八堂の活動って知っている?」と。
「知っているよ、私達の飲み水を守ってくれているんだ」・・・と。
八堂にダムができたのは、1973年。間もなく、行政によって周辺に住む農家に農薬や科学肥料の使用が規制され、八堂周辺の農家とソウル市には軋轢もあったと聞きました。
何が成功へと導いたのでしょう。
「都市の消費者との交流で農村が元気になり誇りがもてたこと」と組合長は語ります。
この気持ちが市民の信頼を得、また健康志向も背中をおしてくれているのでしょう。このような考え方は、日本も参考にしてすすめていくべきテーマではないでしょうか。
ソウル支庁前で「ろうそく集会」が行われたのは5月初旬からでした。米国産牛肉の輸入規制緩和策に抗議する人々の中には幼い小学生まで参加していました。
ソウル市民は国産、地場産にドライになりつつある・・と言われる中で「親環境農業」が今後さらに国民的に認知され韓国の「農・食」を守ってほしいと願いました。
八堂で栽培された有機農産物を使った料理は美味でした。
昼食後「冬のソナタ」のロケにも使われた美しい景観の南怡島を見学し、華川郡のトゴミ村では廃校になった小学校に宿泊。ここでは地元のお母さんたちが結婚式等の祭事に出される料理を作ってくださいました。

キムチ作りを体験し、昼食は村の食堂で冷麺を。北に近いからでしょうか、これが美味しいのです。ソウル市内では食べられない味。

そして、ユ・チョン村へと移動し、各民家へ別れての宿泊。食事をしながら韓国伝統芸能「サムルノリ」太鼓を打ちながら農家のお母さんたちが見せてくれました。お返しに日本からは浴衣を着ての盆踊り。素晴らしい交流がもてました。

農村滞在を終え市内に戻り、昼食は石焼ビビンバ。景福宮、仁寺洞など見学し、最後の夕食はサムゲタンとチジミでお別れパーティーを。

わずか5日間の旅なのに、農の問題に真剣に取り組んでいるという連帯感がベースにあったからでしょうか、さながら懐かしい同級会の旅のようでした。
「浜さん、私、この旅で一生つきあえる友人とであえたのよ」
「ひとりではやっぱり淋しいときがあるけれど、自分と同じ思いでいる友がいる。いつだって自分の味方になって励ましてくれる友がいてくれる」・・・そんな声も聞こえてきました。
日本の農業と食は、もうぎりぎりのところまできているといわれますが、彼女たちと一緒にいると、日本の農業と食が壊れるわけがないと思えるのです。
“この笑顔があるのだもの、日本は捨てたものじゃない”・・・心の中でそうつぶやいていた私です。
「食アメニティーを考える会」を立ち上げて18年。海外研修(15回)
食べるという行為は、人間にとって、本来、もっとも愛おしいものではないでしょうか。
食べ物によってわたしたちの身体はつくられます。
食べることは生きることであり、食べ物は命そのものです。
自分の身体にたいするように、食べ物に対してはもっと謙虚に、もっと愛情をもって向き合わなくてはならないのではないでしょうか。
生産者と消費者、そして流通に関わるすべての人々がともに同じ思いで食べ物を大切に思う時代こそ、”豊かさ”という言葉がふさわしいのではないかと私は思います。

韓国の旅

「食アメニティーを考える会」の第15回「韓国で農村女性グループと交流する研修旅行に9月4日から8日まで行ってまいります。ヨーロッパを12回、韓国は3回目です。
共通点の多い日韓の農業・もっとも近い国で、文化の共通点も多くあります。帰国したらご報告いたします。
私が韓国に通い始めて15年がたつでしょうか。
きっかけは津田塾大学の高崎宗司先生のご著書「朝鮮の土となった日本人」(草風館)を読ませていただいて、淺川巧の偉業を知ることができたのです。
このご本は民藝ばかりか、人はどう生きるべきかを知らされる本として、心に響きました。
韓国の山と民藝に身を捧げた日本人、淺川巧の足跡をわずかでもたどりたい・・・との思いから始まった旅です。最初はコスモスの咲くころでした。
旅先で知り合った、巧の墓をお守りしてくださる方、韓(はん)さんにお話をうかがいました。
「私は淺川巧とは会っていませんが、彼がいかに朝鮮を愛し、朝鮮人ばかりか、朝鮮の美術、言葉、生活、文化のあらゆることを大切にした人だったとゆうことは、みんな知っています。いろいろなお話を大人から聞いているからです。たとえば、韓国では人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があります。淺川巧が亡くなった日、大勢の方々が見送りにきてくださったために、ソウル中の煎餅がなくなったという話は、未だに語り草です」
お墓を守っていてくださる韓さんは、この話をお父さんから聞いたそうです。
それほど、朝鮮の人々に敬愛された日本人がいたことを、私は書物で知って以来、気になり旅が続いております。
朝鮮白磁の美しさを目にして、まあ、キレイというのは簡単ですが、その美しさに秘められたものをたどっていくと、そこに関わった人間が現れてくるのです。
韓国は、確かに不況なんだなあと、目に見える様子も見えますが、日本だって同じようなもの。
生活は待ったなし。庶民は日韓ともども、いろいろな工夫でどんどん新しくなっているんですね。
ソウルの町には、新しいセンスのいい店がふえたなあと、思います。
ときには泣きたくなるほど、完璧なカタチを与えられた壷の前では言葉を失います。感動のあまり、動けないことさえあります。ソウルの美術館で、あるいはさりげない骨董屋の前で、最近できたと思われる道具屋さんでも、すぐれたカタチに会えます。
韓国、そして韓国の人々も元気いっぱい。日本も負けてはいられません。
暮らしの変化がいろいろ起きていますが、”美しく暮らす”気持ちだけは捨てたくないですね。
不況でも、”美の国”の文化はしなやかに健全”であってほしい・・・と願います。
今回は総勢40名の旅です。
トゴミ村、ヨンホリ村の皆さんが待っていてくれる・・・村の市場で真っ赤な唐辛子の粉を買いましょう。キムチの漬けかたも教えていただきましょう。
おみやげ話を楽しみにしていてくださいね。

「第4回東北サミット」

読売新聞東京本社主催の「第4回東北サミット」が19日、秋田県横手市で開催されました。
今年のテーマは
「発信!東北ブランド」。
約700人の来場者。6県の知事によるパネルディスカッション。
そして私は「東北―農の王国」をテーマに1時間の講演を致しました。
東京の蒸し暑さと比べて、やはり空気はおいしく、空は広く高く、遠くに見える山々の深い緑は爽やかでした。そうした東北ならではの、澄んだ環境が空気を循環し、浄化してくれるのでしょうね。
本論に入ります前に、先日の岩手・宮城内陸地震で被災なさった皆さまにお見舞いを申し上げました。土砂崩れで全壊したハウス、地震で隆起・沈降し傾いてしまった水田、畜産農家ではバルククーラー自動給餌機が破損したところもあると聞きました。それでもJA女性部の方々が避難所で自ら炊き出しを行い、地域の人を心身ともに元気づけてくださったそうです。
私はそのことを知り胸がいっぱいになりました。今、日本から失われつつある地域共同体が、こうした人々の手でしっかりと引き継がれているのだと感じさせられました。
農業は、太陽、水、土など自然のすべてがうまく調和してはじめてなりたつ生業です。
それだからこそ、地震で大きな被害をこうむってしまったのですが、自然の力を知っているからこそ、きっと、これからたくましく復興してくださるでしょう。
この困難を乗り越え、もう一度日本の農業のためにも立ち上がってください。
皆さま、がんばってください。
以下が読売新聞秋田版・地域欄に掲載された講演内容・要旨です。
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国際的な穀物高騰や中国の冷凍ギョーザ中毒事件などの影響もあり、東北の農業に対する期待はますます高まっている。東北は食料基地にほかならないからだ。
東北に、おいしくて豊かな食文化があることは、共通認識。例えば、青森ではリンゴやニンニクが有名だが、長芋もおいしいし、ゴボウやサクランボもある。東北にたくさんあるそうした特産品をもっと多くの人に知ってもらうには、ブランド化することが必要だ。
ブランド化の条件として、三つのポイントがある。まず、地域で長年愛された名産品であること。次に生活の中で日常的に使えるものであること。実際に使うために「どう調理したらおいしいか」などの情報も届けてほしい。最後に、一定の生産量があり、安定供給できること。
首都圏をターゲットにするのも大切だが、同時に、地元でブランドを確立することにも力をそそいでいただきたい。地元の人がこぞって選んで食べ、太鼓判をおすことこそが力になる。
東北には、美しくて懐かしい村や町が残っているが、住んでいる人たちは自分たちの暮らしの素晴らしさに気付かないもの。まず、「ここにこんな素敵な場所がある!」と声を上げて全国に知らせてほしい。
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このような話をさせて頂きました。
今やマーケットのカギを握るのは女性です。
車、家電、インテリア・・・これまでは男性が決定権を持っていたといわれるものまで、今や女性の意思をないがしろできない時代となりました。
ましてや、食卓に何を乗せるかという決定権を持っているのは女性です。
女性のことは女性に聞くのがベストです。
さらに、女性ならではのきめ細やかな視点が、ブランドを作る意味でも不可欠だと、私は思います。これまでも、長年、農村女性たちと語りあってきました。そうした農業に携わる女性たちと話すと、いつも感激することがあります。
それは彼女たちが、命の輝きを暖かく見守るような優しさで農業や食のことを考えているということ。
女性という性は、命をはぐくむ性だからでしょうか。
自分自身が家族に安心して食べさせたいと思うような、確かなものを、作って、販売したいという気持ちが・・・男性にこういっては申し訳ないのですが、女性のほうが強く思っているような気がします。
そして・・・
グローバルに考えることはもちろんですけれど、大切なことは、足元をきちんとみることです。
いってみればグローバルに考え、ローカルに、ドメスティックに行動することだと思います。
それが、ブランド化するために必要不可欠なことだと、私は思います。
困難なことも多いでしょうが、あせらずたゆまず、一歩一歩、大地をふみしめるように歩んでゆきましょう!
横手から奥羽本線にのり大曲、新幹線に乗り換え箱根の山に戻り、皆さまの真剣なお顔を思い出しました。
「食べることは生きることにつながる」心にとめておきたいですね。
尚、本日(29日)の読売新聞全国版にも掲載されております。

“もう一度 お逢いしたい”・・・貴女に。

立秋もすぎ暦の上ではもう秋。
雨かと思えばカッと晴れ間がきたり、突然の大雨で被害が出た地域もありで・・・。被害が出た地域の皆さまにはお見舞い申し上げます。
お盆を迎えると、ふと、あの人を思い出します。
ああ。あの人にもうお手紙を書く住所はないんだわ。そんな思いが唐突に私をおそって・・・。なぜか、ものすごく悲しくなります。
その人は、森瑤子さん。
現代の女性を魅了した作家・森瑤子さんは1993年夏に亡くなって、15年も経つんですね。
あの日、東京・四谷の聖イグナチオ教会の裏側の小部屋の棺に安置され、あのいつものあでやかな瑤子さんとは違い、お化粧もなく、少女のような透明な肌にモナリザのような穏やかな笑みを浮かべた瑤子さんの最期は、いえ最期というより、私には始まりではないかと、そんなふうにも見えたのです。
たった数分間のお別れでしたのに、たくさんの思い出が頭の中を駆け巡り、いくつかの旅を思いだしました。
瑤子さんはいつも口癖のように、出会いって不思議ね、と仰っていました。
「人はいつも会うべくして会うのよ、偶然じゃないわ。あなたとだって、きっと今日、こうして会うように定められていたのだから、出会いを大切にしましょう」そうおっしゃって、お会いしたその瞬間から、もう何年来ものお友達のように接してくださったのです。
私にとって忘れられないのは、瑤子さんの与論島の別荘をお訪ねしたときのこと。
瑤子さんはお仕事をかかえていて、一日遅れで与論にいらっしゃるとのことでした。私と作家のC・W・ニコルさんご夫婦とで先に与論島に行きました。与論島の海の青さはそれはそれは美しく、引き込まれそうになるくらい魅力的です。二コルさんが先に潜り、私も水深7~8メートルほど潜ったとき、私はその海の中に見つけたのです。
誰かが、彫刻を置いていったのではないかと思ったほどの、2メートルはあろうかという女性の胸像に似た岩を。その横顔がなんとも瑶子さんにそっくりだったのです。翌日、瑤子さんにそのお話をすると、瑤子さんは「まったくしらないわ」とびっくりされて「一度見たいものね」とおっしゃいましたが、再び海中のその地点に私は戻ることができないと思いました。
その次の夜。
彼女の別荘の続きにあるプライベートビーチで、真夜中。月が煌々とあたりを照らす海で泳ぎました。水着をつけず。
瑤子さんはキレイなクロールで静かに水をかき分け、ときおり肩や背中が月明かりを受け輝いて見えたのが、未だ私の目の中に残っています。
海から上がり、夜更けまで二人でぽつりぽつりとお話をしました。瑤子さんは自分のことはさておいて、必ず「あなた、どお?」とまず、こちらにホコ先を向けます。つい甘えて、おしゃべりして、じゃあ、もうやすみましょうとなるのです。
ふと気づくと、私は何も瑤子さんのお話を聞いてさしあげられなかった、後悔したものでした。繊細で感受性に富んだ感性の人であったし、揺るぎない人という認識でしたから、彼女の内心に抱える苦悩など思い至らなかったのでした。
今なら・・・少しは大人になれた私なのに。
優しさのかたまりのような森瑤子さんでした。
私が、自分探しのエッセイ「花織の記」という本を書き上げたとき、瑤子さんにあとがきをお願いしたことがありました。お忙しい売れっ子作家にあとがきをお願いするのはためらわれましたが、ふたつ返事で書いてくださることになりました。締め切りぎりぎりの真夜中、我が家のファックスがカタカタと鳴り、瑤子さんからのファックスが届きました。
瑤子さんはワープロを使いません。特徴のある太字の万年筆で原稿用紙の升目からはみ出るようではみ出ない、躍るようなその文字が原稿から立ち上がるような気がしました。
その文章を引用させていただきます。
時に私は、講演会などで一時間半も人前で喋ると、身も心も空になり、魂の抜けた人のように茫然自失してしまうことがある。あるいは一冊の長編を書き上げた直後の虚脱感の中に取り残されてしまうことがある。そんな時、私が渇望するのは、ひたすら慰めに満ちた暖かい他人の腕。その腕でしっかりと抱きしめてもらえたらどんなに心の泡立ちが静まるだろうかという思い。
けれども、そのように慰めに満ちた腕などどこにも存在しないのだ。そこで私は自分自身の腕を胸の前で交錯して、自分で自分自身を抱きしめて、その場に立ちすくんでしまうのだ。
おそらく、美枝さんも、しばしばそのように自分で自分を抱きしめてきたのではないかと、私は想像する。今度もし、そんな場面にいきあたったら、美枝さん、私があなたを抱きしめてあげる。もし、そういう場面にいきあったら。
私にとって、この文章がお別れの文章になりました。
15年がたつのですね。
もう一度、お逢いしたい・・貴女に。
今でも町でお帽子をかぶった女性を見かけると、ハッとします。帽子が似合う人でしたから・・・