私のお正月

1月1日、元旦の早朝夜明け前に箱根神社への初詣で私の新年は始まります。真夜中より人も比較的静かでお参りができます。
2011年は多難な年でした。
今もなお終息していない原発事故・・・その爪痕の深さを思うと、体が震えます。東日本の痛みは私たち日本人の痛みです。恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早くきますように、と祈願いたしました。そして、家族や友人達の健康も。
穏やかな年の始め、神社から芦ノ湖の湖畔を歩きながら、また樹木の中を歩きながら考えました。かつては人々の暮らしの中に当たり前のようにあった文化や、自然の理に適った習慣、四季の移ろいによって美しく変化する国の景観など・・・そうしたものこそが尊く、人々の心の拠りどころであったはずなのに、私たちは知らぬ間にそれらを軽んじてきたのではないか・・・と。
私たち世代は「美しい日本の暮らし」の片鱗を、幼いころに経験してきました。それを次世代に受け継ぐべき大事な使命を担っているのではないかしら。そんなことを思いながらの元旦でした。

2日はいよいよ『箱根駅伝』のスタートです。
私の住む箱根町は往路ゴール、復路のスタート地点です。
大手町からこの箱根町まで。駅伝には毎年ドラマが生まれます。
圧倒的に強かった東洋大学。
新・山の神、柏原竜二選手が自らの区間記録を29秒更新しました。
1年生の時にはゴールし、初々しく笑顔満面の顔が、今年は引き締まり、まさに「山の神」の風格がありました。「昨年のくやしさがあるので嬉しい」(21秒差で2位)と酒井監督は語っています。チームワークの素晴らしさ。”くやしさ”からこの1年の努力は並大抵の事ではなかったはずです。
若者のひたむきさに涙がでます。
3日は早朝、夜が明け始めた6時半ころには町に下りていきます。
もう各大学の応援団が懸命に応援しています。
やはり東京農業大学の姿が際立っています。
昔は「ダイコン」を持っての応援でしたが。
湖畔の観光船の部屋が東洋大学の控え室になります。
監督がインタビューに答えたり、復路を走る選手達が調整したり、キャプテンの柏原選手が皆んなに声をかけている姿を見ながらスタートを待ちます。
そして、8時花火が打ち上げられ選手たちはスタートしていきます。私はいつも交差点のところで応援します。斜め前には文化放送のクルーが実況放送しているので声が聞けます。そして、家でゴールまでを楽しみます。
“今年も感動をありがとう”
4日は恒例の上野「鈴本演芸場」へ。
平成24年正月初席・吉例落語協会初顔見世特別公演『新春爆笑特別興行』。第三部のトリは大ファンの柳家小三治師匠。お正月らしい風情を堪能いたしました。
お正月は『笑門来福』
つらいことがあっても、”笑う門には福来る”
皆さま・・・みんなで乗り越えたいですね、今年を。
そして、佳い年にいたしましょう!

沖縄への旅

沖縄へ通い始めてかれこれ45年がたとうとしております。
きっかけは『沖縄こそが民芸のふるさと』と、柳宗悦の本に書かれていたからです。民芸はもちろんのこと、なぜ私がこんなに沖縄に魅力を感じ、沖縄を訪ねると第二の故郷に戻ってきたかのような安堵感を覚えるのでしょう。
その理由は人だと思うのです。
特に沖縄の女性たちの、辛いことがあっても空を見上げてスクッと立ち続ける明るさとたくましさ。面倒見が良くて、働き者で健康的な気質。そのすべてに強くひきつけられているのです。
12月も押し迫り、明日はクリスマスイブ。
沖縄タイムス「タイムス女性倶楽部」の会に招かれ講演を24日にいたします。
今年は沖縄にとっても政治に翻弄された大変な年でした。
同じ日本人として、心から申し訳なく思います。
沖縄の痛みは私たち日本人全員の痛みです。
沖縄に住む人々が恐怖や苦しみを味わうことなく、平和に暮らせる日が早く来ることを願っております。そうしていかなければならないと念じております。
沖縄は食文化の宝庫でもあります。
沖縄料理の世界は深く優しいです。
たとえば、うちなーぐちの「くすいむん」や「ぬちぐすい」という言葉がありますが、私はこのふたつの言葉を口ずさむと、すっと背が伸びるような気持ちになります。この言葉は、生きることの根っこに食べることがあるということを教えてくれます。そこには感謝の気持ちも含まれています。
生きるために食べる。大切に食べる。命を大事にする。
沖縄が昔から暮らしの基本として守り伝えてきた、こうした言葉を、そして、言葉の奥に秘められた謙虚な生き方を大切に守り、次の世代につなげていかなくてはならないと思います。
沖縄調理師専門学校校長である新島正子先生に、以前、沖縄の食文化についてお聞きしたことがありました。
「苦闘の歴史を経てなお、人々の記憶の底に郷土の味が残っていた。
文化は滅びない。占領されない」との新島先生の言葉は忘れられません。
沖縄には4日間の滞在です。
私を温かく迎えてくれる
美しい島(チュラジマ)
沖縄の(ウチナーヌゥ)
ネーネー。アンマァ。オバァ。
待っていてくださいね。

お逢いしたいです、ユリさん

おばさまが亡くなられてあと少しで13回忌ですね。
とても、とてもお逢いしたくて早朝、箱根の山を下って長野の御代田に向かいました。その日は朝から富士山が美しく、早朝の旅を見つめていてくれました。
あれは25年ほど前のことになるでしょうか。
林道、農道、さまざまな小径に分け入り、とにかく走り続けたあの日。
秋の始まりの信州は、私の大好きな色合いをしていました。
柔らかなモスグリーン、ベージュ、柿色。
日本の秋の色彩の美しさのすべてが目に広がったのです。
そこで日本とは思えない風景がまぎれこんでいる一角に出逢いました。
それがユリさんの農場でした。
お会いした瞬間、私はこの方をずっと知っていたような気がしました。
ユリさんからのお手紙が置いてあるのをみたときは、ラブレターをもらったときよりも喜んでいる自分に気がつきます。
村田ユリさんは、知る人ぞ知る植物の研究家であり、マスコミにはお出にならないけれど、いろいろな分野の方から慕われていた方です。
ドイツをはじめ、ヨーロッパに長くいらっしゃったとのこと。
戦中、戦後の大変な時代を背筋を伸ばして生きてこられた方なのです。

何よりも日本の自然が破壊されていく過程を憂えていらっしゃいました。
あるとき、疲れ果てて夜遅くユリさんの家に着いた時があります。
そのときユリさんは、ご自分の庭で採れたハーブを木綿の袋につめ、それをお風呂に入れて「気持ちいいわよ。お入りなさい」とすすめてくれました。
こまやかな心遣いが嬉しくて、涙がでるほど感激しました。
ひたすら疲れ果て、ただただ眠りたかったのです。
私は、私たちが出会った頃のユリさんと同じ年齢になりました。
人のために自分の空間と時間をすっと人に差し出せる豊かさなど持ち合わせていません。そうなりたいと願っているのですが・・・。
寒い夜、暖炉に薪をくべ、暖かい火に一緒にあたりながら、ワインを飲んだりおしゃべりをしたり。そんな時ご近所に住む玉村豊男さん、奥さまの抄恵子さんと出会いました。豊男さんが腕を奮ってくださった料理をいただく機会にも恵まれました。
ユリさんは昼間はほとんどの時間を、長靴をはいてシャツと作業着を着て、手は土にまみれ、額に汗を光らせていました。夕方、シャワーを浴びて宮古上布か芭蕉布か、サックリした風合いの上布の襟を合わせ、背筋をのばして・・・とても美しかったです。
とてもとても、ユリさんにお逢いしたくなり、抄恵子さんにお願いしてしまいました。「おばさまのお家に連れていって」・・・と。そして、ユリさんのスケッチブックをいただいてきました。

夜は玉村さんの家に泊めていただき豊男さんの料理、そしてご自身で丹精込めて作られたワインをいただきました。
嬉しかったです。
ありがとうございました。
ユリさん、『もう一度お逢いしたいです。』

地域活性化に向けた食と農のあり方

先日、山口県周南市で第23回全国農村アメニティー・シンポジウムが開催されました。私は『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』と題してお話をさせて頂きました。その後はシンポジウムにも参加いたしました。
ふれあいセンターに着くと、地元のお母さんたちが温かく迎えてくださり、彼女たちの手づくりの美味しい料理の数々が並び「浜さ~ん!久しぶり!」と声をかけられ嬉しかったです。

この20年近く、私は地域で活躍する農村の女性達を応援してまいりました。私の役割は、生産者である農山漁村の人々に「がんばってください!」とエールを送ることであり、また消費者である都会の人々とのパイプ役になることだと思っております。
「食は命」であり、暮らしの原点であり、文化です。
女性はその担い手であり、守り手といえるのではないでしょうか。
日本のさまざまな場所で女性たちが、それぞれひたむきに活動してきました。
郷土料理の復活、地域の食材を子供たちの給食へ、老人センターや地域の病院から委託を受け、加工品を納入したり、また都市との交流・活性化にむけファーマーズ・マーケット運営など20年前には考えられないほどです。
女性の繋がりは縦ではなく、横の関係です。
「この指とまれ!」方式です。
「こう思うのだけれど」
「それ、いいわね」
「こっちはどう?」
平等な位置関係で思い思いに話しを進めていきます。
けっして声高に語られることはありません。
自然と向き合いながら、彼女たちは作るものに惜しげもなく手間ひまをかけます。無理に背伸びをしない、身の丈にあった等身大の活動です。だから私は尊敬できるのです。
私たちにとって、もっとも大切な「食」が、今、揺れています。
TPPはどのような方向に行くのでしょうか。
30年、50年先、いえ100年先を見すえて議論してほしいと思います。


今回のテーマである『土地ごとの暮らしと知恵を見直して』という観点で考えると、村おこし、町おこし運動は、上の人から押し付けられるものではなく、その村、町が再生するための「宝」は人、風景、事象も含めて今自分たちの暮らしているその「場」にあると思います。
自分達の生まれ育った地域を深く愛し、「この村、町を滅ぼさせない」・・・という強い目的があれば必ずその「宝」は見つけられると思っています。そんな話をさせて頂き、素晴らしい町づくりをしてきた全国10ヶ所を、写真をお見せしながらご紹介しました。

最後にご紹介したところは福島県飯館(いいたて)村でした。
この村は「魅力ある人が行う農業は、魅力ある農業を育む」という信念のもと、他とは違う快適な農村環境の中で「愛情」と「信頼」で結ばれ、活力ある村づくりを長年なさっていらした村です。私は何度もお訪ねしました。
ご承知のように東日本を襲った最大の地震。
そして、福島第一原発事故で、村が計画的避難区域に指定されました。地域共同体は今もしっかり生きていますが、故郷を離れざるを得ない村民の方々の現実。かけがえのない多くの人命と営々と築きあげた暮らしが一瞬にして失われ、数十万もの人々が被災しました。今までのご苦労を思う時、胸がはりさけそうになります。
今回のシンポジウムでは山口からの発信として素晴らしい活動をしている周南市の事例も伺い、改めて「食・農」のあり方を考えました。
「美しい日本の暮らし」を求め、私の旅は続きます。

『訪ねちまった中也の故郷』

日経新聞夕刊(11月2日)に詩人・中原中也のことが掲載されていました。
かねがね訪ねたかった「中原中也記念館」
先週小倉での仕事の後、また”寄り道”をして私も「訪ねちまった」のです。
新山口からJR山口線に乗り湯田温泉で下車。
記念館は中也生誕地にありました。
中也の生家は広い敷地をもつ大きな医院だったそうですが、火事で茶室と蔵を残して焼失してしまい、記念館はその生家の敷地の一部に建っています。
入り口には中原家の庭にあった木が残されていました。

小雨降る日でしたから、かえって落ち着いて拝見できました。
バッグの中に「私はその日人生に、椅子を失くした」をしのばせていました。
(鑑賞解説・高橋順子/小学館)
傷つきやすい魂は、中也節とよばれる。
独特のリズムに乗って、喪失の海をさまよう。
やさしく、やるせなく、時に残酷に。
と書かれています。
記念館には中也の遺稿や遺品を中心にさまざまな貴重な資料があります。
繊細すぎる心と体。30歳の若さで世を去ります。
中也自筆原稿を読み、ようやく私の中の中也が浮かびあがってきました。
かねがね不思議に思っていたことがあります。
中也が眠る中原家の墓石の文字を中学2年の中也が書いたと言われています。
「なぜ中学生の中也が書いたのかしら?」
それも分かりました。
資料館にある中也の文字の美しさ。
きっと大人より美しい文字を中也は書いていたのでしょう。
『帰郷』も好きな詩です。
ああ、おまえはなにをしてきたのだと・・・
吹き来る風が私に云う

記念館を後にし、中也の眠る墓に行きました。
車で10分ほど行くと  「中原家累代之墓」がありました。
お参りをすませ竹林のある小道を歩いていると手押し車のおばあちゃんとすれ違いました。
中也の故郷・・・をからだごと感じた”寄り道”でした。

九州私立保育園研究大会

先日、「九州私立保育園研究大会」が小倉で開催され、
お招きをいただき講演がありました。
大会テーマは「生命(いのち)のつながり 家族の絆」
   ~誰がまもる 子どものいのち~
九州・沖縄から1100名の方々が集まり、分科会に別れさまざまなテーマで議論がなされました。
私は「生命のつながり~今、私たちにできること~」と題し、
農や食を通しての子供たちの環境や、私たち大人に何が
出来るかなどについて話しました。
『子どもは国の宝』
国の未来の宝である子どもの豊かな育ちを支えることが、とても難しい環境にあることも学ばせていただきました。専門職集団の現場の声を伺い、利益を優先させる市場化、産業化の中での子育ては難しいとも思いました。
この度の「東日本大震災」では保育関係者の方々が命がけで子どもたちの命を守り、そして今も大変困難な状況の中で懸命に保育を継続してくださっています。
あらためて「人の絆・そしてコミュニティー」のありようを考えさせられました。
かつてのように地域での子育て、大家族ではない中での子育て。
子育て中のお母さんたち”がんばって”・・・とエールを送ります。
そして、日々、保育に携わる先生方に改めて敬意を表します。
北九州での素敵なご縁に感謝申し上げます。

直島・瀬戸内アートに暮らす人々

10月初旬、雑誌「サライ」の「瀬戸内の国宝と美術を巡る旅」(11月10日発売)の2泊3日の撮影の際に「直島」にも行ったのですが、「地中美術館」だけのわずかな滞在で、どうしてももう一度直島に行きたく、仕事で岡山に行った帰りに足をのばしました。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島、直島。
現代美術と自然、そこに暮らす人々がアートしているのです。
高齢化、過疎に苦しむ島々が多いなかで、ここの人々(特にお年寄り)が元気なのです。
岡山駅からバスで宇野港まで約50分、そこから船に20分乗ると直島に着きます。驚いたことに海外からの人が多く、アメリカ・フランス・オーストラリアとむしろ海外に良く知られているのかもしれません。若い人たちもガイドブック片手に島内を散策しています。

企業(ベネッセ)がこのようなカタチでこの島を見直し「直島にしかない作品」、「観ている人にすべてを委ねたい」との思いでつくられた美術館。
建物はすべて地中に埋まっています。(建築・安藤忠雄)
クロード・モネはじめ現代アート作家の作品の数々。
そして、心に残った「オープン・スカイ」。
きり取られた空は自然の状態で見ることができます。
天候によっては雨が落ちてくるでしょう。
ナイトプログラムで、刻々と変化する雲を45分観ていました。
日没には、壁が光りで染められていきます。
ただただ・・・空を眺めていました。

島のバスに乗り島内を回り、若い人がやっている民家を改装したハンバーガ店でビールを飲み、お年寄りと道端でのおしゃべりをする、そう、皆さん”もてなしの心”があるのです。
人工的に作られた町づくりではなく「人間優先」の島、それが直島でした。自然を大切にしながら現代アートと人が共存する島。こうした環境に配慮した町づくりがこれからは求められていくでしょう。なによりもお年寄りが元気・・・は素敵です。
また、ゆっくりお邪魔し、犬島や豊島にも次回はまわりたいです。
日本列島は本当に美しいです。
その分、「東日本のこれから」に思いを馳せた旅でもありました。

大地の恵み

札幌に住む友人から「じゃが芋」が届きました。男爵&メークイン。
“わ~ぁ美味しそう”・・・と蓋を開けたら、北海道帯広市・美栄町外山農場からのじゃが芋でした。
まず目に入ったのが「ゴムの手袋」!でした。
まあなんて、ご親切に、でもなぜ?
「大地の恵みに添えて 2011 晩秋」と書かれたお便りが同封されていました。
「本格的な収穫期を迎えた9月上旬から長雨に始まり、雨、また雨、そして台風15号とおもうように畑に入れず、収穫作業に苦戦を強いられました。乾いた土から堀り起こすじゃが芋とは異なり、土付きの多い産物となり誠に恐縮ですが、同封の手袋をはめ、箱の中でよく土を取り除いてください。来年は、じゃがいもの磨き機を導入し、お手数をおかけしないようにしますのでご了承ください。」
と書かれていました。
有機物やミネラルのバランスの良い土作りをされているご様子。
生産者の方の愛情と大地の恵みを有難くいただく私たち、土は付いていて当たり前です。生産者にそんなご苦労を私たち消費者は強いているのかしら。じゃが芋の磨き機の出費をお願いしなければならないのでしょうか?
貯蔵の方法なども丁寧に記されていました。
なんと優しい外山農場の方々。
皆さまはどう思われますか?
私たちは少し土から遠のいておりませんか?
台所が汚れるからかしら。
手が汚れてしまうからかしら?
コロッケ・肉じゃが・ポテトサラダ・グラタン・・・など美味しくいただきました。
外山農場の皆さま!大地の恵みをありがとうございました。

『瀬戸内の”国宝と美術”を巡る旅』

雑誌「サライ」(小学館)の撮影で瀬戸内を2泊3日の旅をしてまいりました。
このごろは時間が許す限り飛行機よりも新幹線。
新幹線よりも在来線で・・・が多くなりました。
“寄り道”の旅が心地よいですし、車内での時間が至福のひとときです。
スタッフとは広島で合流し宮島口からフェリーで厳島神社へと向かいます。
海を渡る風が心地よく、旅の始まりの素晴らしい予感がいたします。

何度も訪れているのに発見はありますね。
前回は、裏の路地のちいさな”もみじ饅頭”のお店を見つけて一休み。外国人も何人かご一緒でした。
旅の発見は裏道にあり・・・が私のモットーです。
今回は、牡蠣のおいしそうな焼ける匂いに誘われて見つけたお店。
さっそく入り白ワインと焼いた牡蠣で乾杯!
なんて・・・国宝の厳島神社のことは「サライ」を是非お読みください。

尾道では、国宝の寺「浄土寺」へ。
ここは映画「東京物語」のロケ地にもなっています。
目の前を山陽本線が走っています。


直島の「直島・地中美術館」
この美術館はかねてから訪れたい・・・と思い続けていた場所です。
自然と融合した、島の人とアートが一体となり、訪ねた人を迎え入れてくれます。現代アートも自然光に優しく包まれていました。
いつか、夢ですがこの島にしばらく滞在し心置きなくこの空間に身をあずけたいと思いました。
美術館の屋外には、草木や睡蓮が浮かぶがモネの庭をイメージして作られていました。約200種類以上の草花が一年中咲き誇っているとのこと。パリ郊外のモネのアトリエも訪ねましたが、直島も素敵です。

倉敷の「大原美術館」
ここにはたくさんの思い出があります。
10代のころからどれほど訪ねたでしょうか。
今回も「エル・グレコの受胎告知」に出逢えました。
悲しいこと、辛くて耐えられないほどの悩みを抱えていた時、幸せに胸を震わせていたころ・・・この絵に支えられました。
最後は道後温泉。「正岡子規記念博物館」へ。
ここは30年ほど前、オープンの時におじゃまして以来、何度か訪ねています。
漱石と子規がどんな会話を交わしていたのでしょうか、座敷に座り想像します。
平安時代に想いを馳せ、また美しい美術に魅せられ、美味しい料理とお酒を堪能。素敵な旅ができました。
詳しくは是非「サライ」をご覧ください。11月10日発売です。

柳家小三治師匠

皆さまは三連休はいかがお過ごしでしたか。
私は日曜日に上野・鈴本演芸場に落語を聴きに行きました。
柳家小三治師匠の追っかけを始めて12年になります。
連休の真ん中、箱根の山から下りるのはさぞ混んでいるのではと思い、新道経由のバスで早めに小田原に向かったのですが、意外にスイスイと着き、新幹線に乗り、東京駅で時間まで少々のビールと一緒に遅いランチをいたしました。
地下鉄に乗り、上野広小路駅の階段を上ると、演芸場の前の道にはすでに長蛇の列。でも、30分並んで座れて聴くことができました。立ち見も出る満員御礼。
鈴本演芸場、新宿末廣亭、独演会にも、可能な限り駆けつけます。
前売り券は電話をひっきりなしにかけ続け、気合でとります。
立ち見で聴くこともありますし、当日券を求めて今回のように窓口に並ぶこともあります。
人生半ばを過ぎてから、これほど胸をときめかせることに出会えるとは思いませんでした。
なぜ、これほど小三治師匠に惹きつけられるのかしら。
心が震わせられてしまうのかしら。
これまで何度も自問してきました。
師匠が登場しただけで、さっとその場の空気の色さえ変わってしまいます。
派手なしぐさもありませんし、見せ場を強調することもありません。
気がつくと落語の世界に心地よく誘われ、そこに人々の姿が生き生きと見えてくるのです。
そしてすするお茶の熱さや風の冷たさまで肌で感じ、人々の暮らしのさんざめきを聞き、夕餉の匂いまで胸いっぱい吸い込んでいるような・・・。
橘連二さんの写真集『柳家小三治 』(河出書房新社)を開いた途端、その答えが改めてわかったという気がしました。
ため息がもれそうに美しく神々しいといいたくなるほどです。
後姿や、膝の上で握られた手の写真に、胸をつかれました。
そう、人間・柳家小三治師匠の深い魅力がにじみでているのです。
だからこそ、その横顔がふっとのぞける”まくら”にも私は魅了されるのでしょう。
たった12年の落語愛好家にすぎない私には難しいことはわかりません。
いえることはただひとつ。
これからも小三治師匠の追いかけはずっと続けるということ。
写真集ご覧になってください。
きっと私のこの想いを分かってくださるはずです。
そして、寄席でお逢いできたら嬉しいですね。
幕が下りるまで、頭を下げ続けていらした姿が目に焼きついております。
美しい日本人の姿、カタチ・・・
素敵な休日でした。
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