石川梵写真展 「人の惑星」

素晴らしい写真展に行ってまいりました。
石川梵写真展「人の惑星(ほし)」です。


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石川さんには以前に文化放送「浜美枝のいつかあなたと」にもご出演いただき素晴らしいお話をうかがいました。
石川さんは1960年のお生まれ。
AFP通信社、東京支局のカメラマンを経た後、フリーランスになります。辺境の民と、その祈りの世界をライフワークにこれまで撮影してきた国々は60ヶ国以上。「ライフ」や「パリマッチ」をはじめ、国内外の主要誌で作品を発表しています。
1997年に発表した写真集「海人(あま)ザ・ラストホエール・ハンターズ」では、日本写真協会新人賞。2012年度日本写真協会賞作家賞を受賞なさいました。
また、インドネシア・レバンタ島の村人が銛(もり)一本で鯨を仕留める姿を綴った「鯨人」を去年出版され、読者を(私も)興奮の世界にいざなうと評判を呼びました。石川さんが19年もかけて取材した、インドネシアの東にあるレバンタ島は、日本から5000キロも離れていて、到着するのに最短でも3日かかるとか。島の大きさは沖縄本島くらいだそうです。そこのラマレラ村で暮らす人々が、銛一本で鯨を仕留め古くからの生活を守っています。そしてクジラ漁の撮影に成功してから「クジラの心」を撮りわすれていたことに気付き、また村へと出かけます。命がけの取材だったそうです。
そして、石川さんは、去年の東日本大震災で、震災の翌日から現地に入り2ヶ月間取材を行いました。
「THE DAYS AFTER」では、「いったい何でこんなことになったのか。神の怒りか、自然のきまぐれか、地球の怖さをだれよりも知っている自分が、目の前で繰り広げられた光景を受け止めることができなかった。」と語っております。
ニュースカメラマンではなく、ジャーナリストとして「静かに永く、この出来事を後世に伝えたい」と今でも現場に通っています。
今回の展覧会は「人の惑星(ほし)」です。
魂が揺さぶられるような、心をわしずかみにされるような・・・しかし心が温かくなるような写真展です。石川さんはおっしゃいます。
「荒ぶる地球と、それに対峙し、生きてきた人間。実はそれは、今回の震災にも通じるものです。地球とはどんなに恐ろしく、優しく、人間は自然に翻弄されつつも、こんなに強い生き物か、その先にある祈りの心まで一緒に見つめてほしい。そんな願いを込めた今回の写真展です」と。
『石川梵写真展「人の惑星(ほし)』
2012年5月8日(火)~6月13日(水)
キャノンギャラリーS
開館10時~17時30分
休館・日曜・祝日
入場無料
品川駅から港南口に出て右手に真っ直ぐ進み徒歩
約8分ほど、右手のキャノンビルの1Fです。

嬉しい初夏の贈りもの

皆さまはゴールデンウイークをどのようにお過ごしですか。
私は4月28日が今期初めての近畿大学の講義だったので大阪へ。
新たな学生、昨年講義を受けてくれた学生たちとの再会・・・と素敵な出会いがありました。そして帰りに、新緑の美しい京都へ寄り道をして箱根の山に戻ってきました。
『初夏の訪れ』を感じさせてくれる美味しい、野の味、山の味がどっさり届いておりました。
美しい山と書く地、美山からの贈りものです。
女性たちが元気で美しい山間の町です。
こちらの農村女性たちとのお付き合いももう随分と長い年月が経ちます。
食や暮らしや環境に興味のある女性たちと、ヨーロッパ研修に出かけ出逢った方々です。
岐阜県美山町は、美山町、高富町、伊自良村の三町村が合併し山縣市になりました。
美山は品と豊かさとセンスのある町です。
以前にも訪ねておりますが、、古代から美濃森下紙が漉かれ、貴族や寺院に尊ばれたという町。自然豊かで、その地に初めて降り立ったとき、町のみなさんの笑顔があちらこちらから私を包んでくれたこと・・・今でも忘れられません。
『ふれあいバザール』の女性たち。
生産から加工まで幅広く行い、そして食堂でいただく手打ちそばや天ぷらなどの美味しいこと・・・愛情たっぷりの味は忘れられません。
そんな彼女たちが季節毎にそれはそれは美しく、美味しいモノを送ってくださいます。手打ちそば、桑の木豆みそ、蕗みそ、クッキー・・・そして旬の新鮮な野菜の豊かさに感動します。テンプラの多彩さにもびっくり。
「つくし」はハカマをしっかり取り、卵とじや佃煮風に煮ました。
『あ~~幸せ!』とつぶやいてしまいました。
バザールの皆さま、”ごちそうさまでした!”
6月14日に一泊で伺いますね。
その時にはまた美味しい「おふくろの味」を楽しみにしております。

美の里づくりコンクール

ものの豊かさが貨幣価値のみで測れないことを知ることが文化ではないでしょうか。私は仕事がら日本中の農村や漁村、山村を訪ね歩いてきました。
多くの深訪から、ものの豊かさは、生産・消費されたものの貨幣価値のみでは測れない・・・と気づかされます。
旧国土庁が主催した「農村アメニティーコンクール」から、現在では農林水産省、農村開発企画委員会主催の「美の里コンクール」の審査委員を続ける中で、農村地域の活性化と農村の快適環境を保全し形成するという運動を応援し続けてまいりました。やがて25年がたちます。
現在、さまざまな景気の影響によって多小の傾きはあるものの、暮らしの質への追求はこれからさらに進んでいくでしょう。
今、自分たちが手にしているこの土や緑を大切に暮らしながら、自分たちの町や村を愛して、そこに未来の可能性を見出していこう・・・そんな気運が感じられます。
過疎化や後継者問題、たくさんの悩み、問題山積しているのも事実ですが、地方の皆さんのお顔が輝いています。地域住民の熱心な村・町おこし運動によって見事に再生している事例を、尊敬と感動のうちに拝見しています。
今年入賞した中から優秀な3事例をご紹介いたします。
『山形県 白鷹町』 いきいき深山郷づくり

集落78戸、深山地区では全戸が「深山活き生き行きたくなる郷」をめざして~のどかな暮らしと風景づくり~に取り組んでいます。地区に残る自然や景観、伝統や技術、農業や食など、日常の暮らしに磨きをかけ来訪者との出逢いの場をつくり、まず住民が気持ちよく暮らし続ける環境を整備し、その魅力を外部に発信しています。
「深山の色」を決めよう!と考え美しい集落となっています。
○ 地区内の環境整備
○ 石仏の調査復元
○ 深山和紙の伝承保存
○ 農家民宿の運営
○ 耕作放棄地対策
○ 国重要文化財「深山観音堂」の保存
など等、様々な取り組みが行われています。
この地域ほど少子高齢化という課題をうまく解消した地域はありません。
現在78戸の世帯に対して30戸が後継者と同居し、内17戸が三世代同居。
大きな理由として、同世代の仲間が地域に残ったり戻ったりしていること。
暮らしやすい環境に努力しているのでしょう。
のどかな風景を維持管理するのは大変なことです。
「標識がひとつも無い自慢をまもれるか」
これは集落、皆さんの大変な努力です。
田植えが終わったあとの棚田の田んぼもさぞ美しいことでしょう。
『奈良県・明日香村』

石舞台古墳の背後の高台からの眺めがまさに「美しい日本の郷」です。
古代史の舞台となった明日香村の景観を修復・保全することを目的に内外のボランティアが活動しています。6集落で計21ヶ所の景観を修復・保全しこの10年間で延べ2,300人が参加し、歴史ある郷を守ってくれています。
「国際作業キャンプ」が見事に成功しています。
この目的は、英国ナショナル・トラストの作業キャンプ(ワーキング・ホリデー)のように、歴史的文化遺産のある風光明媚な場所で、ちょっぴり汗をかきながら、古代ロマンに思いをはせつつ、泊り込みで作業し、景観保全・修復に貢献する。そうした達成感は素晴らしいことですね。
日本人の心の故郷・・・明日香。
川沿いの草刈、雑木の伐採、清掃、荒廃した竹林を伐採して山桜を植え・・・とこうした活動なくして”ふる里”は守れません。この村の方々はオープン・マインドで外からの方々を暖かく向い入れ、お互いに文化財を守っているのでしょうね。素敵な活動です。
『北海道 鶴居村(つるいむら)』

鶴居村は、道東の太平洋の釧路市の北西部40キロに位置し、南部は釧路湿原です。酪農を基幹産業とし美しい村です。村の名前が示すとうり、特別天然記念物タンチョウの生息繁殖地で、普通にタンチョウの飛来を見ることができます。村民一丸となって「クリーン作戦」にも取り組み美しい村づくりに積極的です。

何といっても”美味しい村”です。
「鶴居のむらレシピ」を見ると、わあ~食べたい・美味しそう!と思わずゴクリ。じゃがいも、キャベツ、玉ねぎ、人参、ズッキーニ・・・畑でとれたての野菜に牛乳、そして大好きなチーズ。カボチャのリゾットや、ミルクチーズフォンデュ、デザートには牧草ロールケーキ・・と牧草地に大きな布を敷いてピクニック。
ここには日本有数の広大な自然環境があり、丘陵地帯が織りなす景観は、フランスの田舎を旅しているような気分になります。
鶴居村は2600人の小さな村です。
一人ひとりがこだわりを持ち活動しているのです。
欧州にも引けを取らない牧歌的酪農郷です。
たまには長期休暇をとって、のんびり観光ではない滞在をしたいですね。
そんなことを思わせてくれる理想郷です。
この3例だけではありません。
日本全土に、美しく心やすまる”故郷”がたくさんあります。
そんな故郷を守っている地域の方々のご苦労を思う時、心から感謝いたします。

韓国への旅

3泊4日の旅でした。

明日4月7日(土)、全国ロードショーにさきがけ、池袋コミュニティ・カレッジで映画『道~白磁の人~』(監督・高橋伴明)を観ながら、淺川巧の話しをいたします。ナビゲーターは近衛はなさん、私はゲストとして出演いたします。
変革の今が求める”真のグローバリズム”淺川巧。
歴史に秘められたヒューマンストーリーが、明かされる!とあります。
何度も何度も通い続けた韓国。
7年前、コスモスの季節にも韓国に行き、ソウルのインチョム空港から東に80キロ、忘憂里(マウーリィー)の丘にある淺川巧の墓に詣でました。
朝鮮人を愛し、朝鮮人に愛された人・浅川巧。
朝鮮の土となった日本人」(高崎宗司著)を読み、どうしてもお墓参りがしたかったのです。巧は1931年4月2日、40歳(1891~1931)の若さで世を去ります。
民芸の創始者である柳宗悦に朝鮮の器や鉢、そして白磁の美しさを紹介し、「用の美」に対する目を開かせたのは、淺川巧だといわれています。
朝鮮総監府の技手であった巧は、緑化運動に成果を上げるかたわら朝鮮民族文化の美を見出し、朝鮮陶磁器の研究家である兄伯教と共に朝鮮半島の何百もの窯跡を調査し「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁器名考」といった本を著し、日本に紹介しました。
私は、美しい暮らしに惹かれ、道具を愛するひとりにすぎません。
しかしこれらの体験の中で、ひとつ思ったことは、朝鮮の美はやはり民族の歴史と無縁ではないということ。巧は、普段から朝鮮服を身につけ、朝鮮料理を食べ、朝鮮語をマスターすることにより朝鮮の人からも慕われ、時には朝鮮人と間違われることもあったそうです。巧は荒廃した山野に植林をし、山林を緑化復元し、わずかの給料から貧しい子供たちに与え学校に通わせました。
7年前に訪ねた林業試験場。
住んでいた家の前でお話を伺ったり、真冬の零下15、6度の寒空の下で偶然出会った淺川巧の墓守をしている韓さんからのお話。あちらでは人が亡くなったとき、三角形のお煎餅を配る習慣があるのですが、巧の葬儀の日、大勢の人々が見送りにきてくださり、ソウル中の煎餅がすっかりなくなったという逸話を聞きました。それほどまでに人々に愛された人でした。
私が韓国を訪ねる際にまず行くところは下町の「銭湯と市場」です。
私が子供時代に銭湯に行くと、母が娘の、娘が母の背中を流す姿を目にしました。その光景が今の韓国にはそのまま残っているのです。
懐かしさと暖かさで心がいっぱいになります。

市場では元気なお母さん達に出会い、屋台で欲しいものを指さし、いただく・・・
大満足です。

かつて景福宮の中にあった「朝鮮民族美術館」は現在「韓国民族博物館」として内外の人々が多く訪れます。蒐集された「陶磁器」などは「国立博物館」へと移されていました。
懐かしいソウルにに出会いたくて「北村韓国村」(プッチョン・ハンオクマウル)を歩き、韓国刺繍を展示する私設博物館や食堂で韓国のり巻きを食べたり・・・と巧ゆかりの土地を訪ね、彼がみたであろう山や川を目に焼きつけ、風の匂いを感じました。かつて彼が通った林業試験場はテニスコートになっておりました・・・。

命日の前日、巧が眠る忘憂里の丘でお墓参りができました。
李朝白磁の壷がかたどられて巧の墓の傍らに『韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮らして生きて去った日本人。ここ韓国の土になりました。』とハングル文字で刻まれています。
墓には韓国の人が献花されていました。
民族の美はその民族固有のものですが、国境を越え、厳しい政治状況さえ超えてその美を味わい、敬愛することはできるのですね。
美というものは、変わることなき人類の共通言語だと感じることのできた旅でした。

原発と若狭 水上勉の一滴

日本経済新聞 3月5日の「時流 地流」に「原発と若狭 水上勉の一滴」
という記事があり、その中で水上作品の挿絵や本の装丁を手がけた地元在住の画家・渡辺淳(すなお)さん(80)の企画展が開かれていることが書かれていました。
京都に行くたびに時刻表を見ては湖西線へ飛び乗り、若狭に通い始めたのはもう24、5年前のことです。
それは不思議なご縁からの始まりでした。
三月のある日、信州野尻湖湖畔は、夭折の画家・野田英夫の記念碑建立の
式典で賑わっていました。
そろそろ春の兆しもみえようという頃なのに、一夜にして白銀の冬へ逆
戻り。信じられないほどの美しい雪の舞い方で、降りしきる雪が地に舞い
下りる寸前、氷片となって枝々に付着し、木という木が季節のフィナーレを祝う飾りをつけたかのような輝きをみせていた夜でした。
今は亡き松永伍一先生、「ハラスのいた日々」で読み知っていた(?)中野孝治先生、そして水上勉先生・・・居並ぶ先生たちと同席させていただくことに恐縮しましたが、その話題のあまりに興味深く、尽きない面白さに、しんみりしたり笑いころげたり、心に深く感じること大で、ついつい夜更けまで座に加えていただきました。
美しい若狭に原発ができたこと、水上先生の故郷に「若州一滴文庫」が設立されていること・・・等などお話を伺い「行ってみたい」・・・と即座に思いました。
当時私は800年も続いた集落がダム建設のために水中深く沈む。そのために村を捨てざるを得ないおばあさまと最後の日を共にしたことなどを思い出していました。
人間はなぜ人間の力で抗いえない巨大な文明を持ってしまったのだろう。
一滴文庫へ向かう前にまず、原発へ立ち寄ります。中へ入ることはできませんからゲートまで。あたりの、あまりにも美しい海とのどかな漁村の風景に息をのんでしまいました。
それから私の若狭通いがはじまります。
そんな時に出逢ったのが渡辺淳さんです。
結局、その若狭の地に古民家を移築し、田んぼをお借りして、専業農家の方にお手伝いをお願いしてのお米作りもいたしました。様々なことを経験し、感じ、考えてきました。
都会で働いている時とはまったく別の時計を持ちたくて、若狭という田舎に家を持つことにしたのです。
渡辺淳さんは郵便配達をしながら、炭焼きをしながら絵を描き続けてこられました。若狭の自然を友として暮らしながらいつも素晴らしい絵を描いていらっしゃる渡辺淳さんは、川の魚や虫や、木や草の一本一本と親しく語り合うことのできる人です。現在は子供たちに優しく絵の指導もなさっておられます。
縁側に座り淳さんとのおしゃべりの時間は至福のひとときです。
私たちは今回の福島第一原発の事故に大きなショックをうけました。
新聞記事には「先を急ぐように文明の開発に明け暮れる現代。今こそ足元を見つめ直さなければならない」と語られておられます。そして、杉野記者に別れ際、こんな言葉をかけられたそうです。
『この谷の この土を喰(く)い この風に吹かれて 生きたい』・・・と。
久しぶりに淳先生とおしゃべりをいたしました。
「まだまだ雪の残る若狭、早く蕗の薹の顔がみたいですね」と。
東日本大震災の復興計画が一日も早く前へ進むことを祈っております。

今和次郎~採集講義展

パナソニック汐留ミュージアムで素晴らしい展覧会を見てまいりました。
東日本大震災被災地の復興が急がれているなかで、考えさせられる展覧会でした。
今和次郎の名前を知ったのは40年ほど前のことでしょうか。
民藝運動の創始者・柳宗悦の足跡を訪ねての旅の途中でした。
14歳の時に、図書館で著書「用の美」という民藝の考え方に魅了されました。
気がつくと、各地の伝統工芸を伝承する人々を訪ね歩き、後の私のライフワークのひとつになっていました。
当然各地の民家を訪ねるわけです。
そこで「今和次郎」の名前を知るのです。
民家研究の第一人者で、当時、すでに失われつつあった民家を克明に調査スケッチしていたのです。しかも、そこに暮らす人々の行動、暮らしぶり、モノをなど私が知りたいことが全て記されていました。
調査・・・という視点ではなく「そこに暮らす人々とともに、同じ目線」で問題点やこれからの暮らし方を提案していました。
『考現学』の創始者であり・画家・建築・デザイン・・・に優れた才能の持ち主ということは後に知りました。
『考古学』にたいして『考現学』という概念です。
今和次郎は1888年(明治21年)青森県弘前の生まれ。
18歳で上京し、24歳で東京美術学校を卒業。
26歳で早稲田大学の講師となった後、助教授となり定年退職するまでの46年余りの間、デッサン・造園・建築デザイン、住居学、工芸、服飾、舞台美術、映画など様々な分野に携わりました。また、テレビの草創期に自ら出演し建築についてわかりやすく解説したりもしていました。
代表的著作『日本の民家』では民家のデッサンだけではなく周りの景観、道具、台所で働く農村女性の姿、また小さな部屋での暮らし方など、北国生まれの今ならでの暖かな視線を感じます。
最初は柳田國男たちと一緒に民家研究の旅を続けていたといわれていますが、今和次郎は、柳田國男から破門されたといいます。何故・・・と当時思いましたが、私にはすぐに納得がいきました。柳田の民俗調査と今の調査では異なるからではないでしょうか。
民家探訪地図を見ると、北海道から九州の南まで68ヶ所をくまなくスケッチしています。一人で全国の農山漁村に出向いています。
今回災害に遭った三陸地方にも足をはこんでいます。
朝鮮半島の民家も訪ねています。
『日本の民家』を刊行した翌年、関東大震災があり、彼自身が被災者となり焼け跡に立つのです。「東京の土の上に、じっと立ってみた」と言います。
全てを失いこれからの新たな生活再建を焼け跡から考えました。
それが「バラック装飾社」の表現活動へと続いていくわけです。
全てを失い新たな生活を立て直そう・・・と人々は一歩一歩と歩み始める姿を記録しています。あくまでも『人間の生活』が主体です。
今回の展覧会で改めて考えました。
自然の猛威の前には人間はあまりにも無力であることをしらされます。
復興計画には行政・国の感覚、計画と、そこで暮らしてきた人々の歴史文化、暮らしそのものへの思いが両立するのだろうか・・・と。
もし、現在ここに『今和次郎』がいてくれたら、どんな復興計画をたててくれるだろうか・・・。
人々に寄り添い復興に力をかしてくれるだろうか・・・。
きっと彼なら「美しい日本」への道に光りをあててくれるだろう・・・そう思いました。
3月11日を迎えるにあたり
人びとが大切にしてきた美しいものを次世代に伝えるために私たちはどうすればいいのか。
若い人に心を受け継いでもらうために何が必要か。
そんなことを考えながらの展覧会鑑賞でした。

『森は海の恋人』

畠山重篤さん、この度の「フォーレストヒーローズ(森の英雄たち)賞」の受賞おめでとうございます。
気仙沼のカキ養殖家・畠山さんに国連賞が授与されたのです。
『森は海の恋人』(北斗出版)という素敵な本にであったのは20年ほど前でしょうか。この本は、宮城県の唐桑町と岩手県の室根村を舞台に、海の美しさを取り戻すべく立ち上がった地元の人々の運動を描いたものです。
主人公は畠山重篤さん。
父親から継いだ牡蠣やホタテ貝の養殖をしていたのですが、昭和40年頃から、目に見えて海の力が衰えてきたことに気がついたそうです。魚の漁獲高が減り、貝の成長も悪くなり、多くの生命を育む海の力がすっかり衰退してしまったのです。
「直接お話を伺いたい」・・・そんな思いで文化放送にご出演いただきました。
それ以来何度かシンポジウムでもお話を伺ってきました。
「なぜ、海がこんなに力を失ってしまったのだろう」と考えた畠山さんの脳裏に浮かんできたのが、かつて牡蠣の養殖の視察で訪ねたフランスのブルターニュ地方の風景でした。
ブルターニュ地方には、フランス最長の河川であるロワール川が流れています。そのロワール川の河口には、見事な牡蠣が育っています。干潟にはカニや小エビ、ナマコがたわむれていました。その海を見たとき、畠山さんは「これはかつての宮城の海だ!」ととても感激したのだそうです。
畠山さんはそれから一心に考えました。
宮城の海と、一体、何が違うのか。
そして、ひとつのことに思いあたったのです。
“それは、森”・・・と。
海の源は川であり、川の源は森ではないのか。
宮城の海を生き返らせよう、そのために山の森を再生しようという運動が始まりました。「牡蠣の森を慕う会」が生まれ、気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に集い、広葉樹の植林を行ってきました。その村こそ、岩手県の室根村でした。海を取り戻そうと、海で働く人々が山に登り、木を植え始め、今や全国から人々が集まり植林をしています。
私も実際にその森を見に伺いました。広葉樹の木々でした。これらの木々の1本1本が、森となり、土を育て、水を育て、その水が川に、そして海に注がれていくのだと思ったとき、胸が震えたのをよく覚えています。
3月11日、東日本大震災がおきました。
畠山さんは震災でお母さまを亡くされ、養殖施設も失いました。
震災3ヶ月後に東京で行われたシンポジウムには駆けつけ、私たちの前で『大丈夫、海は生きています』と力強く語られました。『恨んでなんかいませんよ』・・・とも。
毎年6月に行われる植樹祭には約1200人が参加し、港や養殖施設の復興にも多くのボランティアが駆けつけてくれているそうです。
『森の栄養が川や海の命を育てる』と教えてくれたのは畠山さんです。
畠山重篤さん この度の受賞まことにおめでとうございます。
そして、困難のなかこれからも頑張ってください。

イギリスへの旅

イギリスを旅してまいりました。
今回の旅の目的はヨーロッパ最大のアンティークフェア。
「やまぼうし」のスタッフに同行してきました。
昨年はイベントの時などにアンティークショップをオープンしておりましたが、この春からはネットショップもオープンする予定ですのでどうぞご期待ください。詳細はHPにてお知らせ致します。

ロンドンから北へ約250キロ。初日は小雪舞う寒い日でしたが、朝は8時半からゲートに並んでの入場です。素敵な商品の数々に出会えました。
45年ほど前に「007は二度死ぬ」の撮影で半年近くロンドンに滞在していました。週末になると市内の骨董市巡りが楽しみのひとつでもありました。「西洋骨董」と呼ばれるアンティークからもっと身近な「生活骨董」にいたるまで、とても奥の深い世界です。私たちが買ってきたものは日常に使えるアンティークばかりです。
かねがね不思議に思っていたことは「よくこれだけのものが残っているわね・・・」ということです。枯渇しないのかしら。でも会場に来る人たちを見ているとよく分かります。イギリス人は本当にアンティークが好きなのです。
日常の台所まわり。椅子やテーブル、絵画、そしてアクセサリーなどなど、多くのものが人から人へと代々受け継がれていきます。そして、歴史的にはさすがかつての大英帝国、供給される品の量が豊富です。

そして最終日はロンドンから150キロほど離れたところにある「ライ」の街に行きました。
その途中で、私がどうしても訪ねたかった「ピーターシャムナーサリー」に寄りました。ここはもとは温室だった所をレストランにかえた場所。足元は土のまま、雑貨も置いてあります。可愛らしい長靴もあったのですが、持ち帰るのに大変なので諦めました。ロンドンから30分ほどのところで、予約を取るのが難しいレストランです。私たちはオープンに合わせて訪れ、カフェで紅茶だけをいただきました。
いつか余裕のあるときに、ここでシャンパンでも飲みながらランチをするのが私の夢です。

イギリスの食事は「美味しくない」と言われていますが、私はそう思いません。ロンドンでは「オーガニックレストラン」が根付いていますし、地方のレストランでも美味しい料理が食べられます。あの安くて、しかもボリューム満点のフィッシュ&チップスも良い油を使っているレストランで食べれば絶品です。美味しい・・・イギリス滞在中には必ず一度は食べます。
英国の伝統と異文化の融合で、美味しいイギリスを味わえます。
そして念願だった「ライ」に到着。
この街は2度目ですが、可愛らしいショップがいくつもあり、石畳の美しい街です。
あっという間の8日間でしたが、イギリス人の「日々、丁寧に暮らすことが心豊かなこと」だとも教えられたような気がする旅でした。
これまで暮らしの技や知恵を教えていただくために世界中を旅してきました。箱根に古民家を建て、子育てをし、そして今こうして美しいモノ達を「やまぼうし」を通して皆さまと共有できる幸せをかみしめております。

風にそよぐ草

神保町の岩波ホールで映画を観てきました。
開演30分前から列が出来ていて満席でした。
アラン・レネ監督の「風にそよぐ草」
レネ監督といえば、私がまだ女優になりたての頃のヌーベルバーグ全盛時代に数々の作品が発表されましたが、若い私には哲学的すぎ、難解でよく理解できませんでした。
それが、今年86歳で撮った作品「風にそよぐ草」のなんと瑞々しく軽快で、モダンで、イキで「大人のための恋愛喜劇」と書かれています。
ヒロインのマグリット演じるサビーヌ・アゼマは1946年パリ出身。
私生活では、アラン・レネ監督のパートナーでもあります。
相手役の初老の紳士ジョルジュを演じるのはアンドレ・デュソリエ。
1946年仏・アヌシー出身。
アスファルトの亀裂に生えている雑草が風になびく様子がバックにクレジットタイトルが流れ、人々の足・足、足音。
中年の歯科医。
彼女はパリの街角でひったくりにあいバックを盗まれてしまいます。
捨てられた彼女の財布を拾う初老の紳士。
ストーリーはそこから始まります。
財布に入っていた飛行機操縦免許の彼女の写真を見て恋に落ちます。
美術、照明、なによりも中年女性の美しさ、艶やかさのクローズアップを見事に映し出すカメラワーク。
私は「なぜひび割れたアスファルトから草がそよいでいるのかしら?」と思い続けて映画を観ていました。
分かりました、ラストシーンで。
制作意欲は衰えず、すでに最新作の撮影も終えているとか。
軽やかで、艶やかで、ウイットにとんだ大人の映画。
『人生の終わり方』・・・は「生きる処方箋」とでもいうのでしょうか。
久しぶりに観た大人の恋愛喜劇でした。
アラン・ レネ監督は人生のパートナー、サビーヌ・アゼマに最大の愛を告白したように私には思えました。
“映画ってやはり素敵です”

新潟フレンズパーティー

都内のホテルで開催されたパーティーに出席してまいりました。
新潟市は市長をはじめ、住民が一体となりさまざまな企画をたて魅力ある都市づくりに取り組んでいます。
当日は「開港都市にいがた・『水と土の芸術2012』での鼎談」を聞きました。
そしてパーティーでは「のっぺ汁」をはじめ、新潟の豊かな食材をふんだんに取り入れた料理のかずかずを堪能させていただきました。今が旬の長芋をつかった「スモークサーモンとながいものロール仕立て」や、そしてなんといっても「おむすび」の美味しかったこと。
これからの新潟は東アジアへ、いえ世界へ向けて発信し、着実に拠点都市として歩を進めています。それには都市住民とその地に暮らす人との対流が重要です。北前船で栄えた港。歴史や文化の見直しと新たな芸術が融合し、地方が「心の豊かさ」を提供してくれます。
私もこの40年、民族学者の宮本常一、民芸運動創始者の柳宗悦の足跡を訪ね新潟に足繁く通っています。ダム建設のために湖底に沈む村にもずいぶんと通いました。佐渡には素晴らしい文化が残されています。
北国は冬が一番素敵です。
“旨いお酒・料理”
「にいがたの冬・食の陣」に出向いてみては如何でしょう。
詳しくはHPで。
新潟の冬の魅力に出逢いませんか?
新潟市公式観光情報サイト