アンチエイジング医学を学ぶ

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先日”健康長寿を目指して”アンチエイジング医学を学ぶ”という市民公開講座が東京三田でNPO法人「日本抗加齢協会」の主宰で開催され私も招かれ伺いました。
アンチエイジング医学とは?       講師  米井壽一氏  
健康で豊かな骨を守るために       講師  鈴木敦詞氏
アンチエイジングのための栄養と食事 講師  白澤卓二氏
お三方の先生の後、私は私のアンチエイジング生活~「明日を素敵に生きる」をテーマにお話させて頂きました。
会場は専門分野の方、若い方々、そして私達世代。熱心にお聴きになられておりました。その時の内容を記します。
このたび、ここでお話させていただくにあたりまして、改めて、自分の生き方を振り返り、年を重ねること、いつまでも若々しくあることなど、様々なことを考えてみました。
若々しくありたいというのは、女性のみならず、多くの人が望まずにはいられないことでしょう。一方、年を重ねることの豊かさも、みなさま、お感じになっているのではないでしょうか。
実は、あさってが、私の誕生日で、……64歳になるんですね。20代のころ、60代の先輩方を見ると、雲の上の年齢という感じがしましたが、いまや、私もその年齢になっているわけです。
でも、それは、私にとって、決して、悲しいことでもさびしいことでも、ないんですね。若いときには見えなかったことが見えてくる、本当にそういうありがたいことが、たくさんあるんですね。
若い頃に比べて、気持ちのコントロールも上手になりましたし、自分が必要としているもの、していないもの、興味を持つもの、もたないもの、楽しいこと、楽しめないことが、年を重ねるごとにわかってきたようにも、感じます。
経験を重ね、考えを深めてきて、自分の輪郭というものが、くっきりとしてきたと言い換えてもいいかもしれません。そして、自分というものがわかってくると同時に、若いときよりも、もっと優しくなれるような気がします。
たとえば人の気持ちを慮ることもできるようになってきたような気がしませんか。若い頃は私を含めみなさん、自分のことでいっぱいいっぱいで、人のことまでなかなか気が回らないでしょう。そういう余裕がないのが、若さの一面だと思うんです。
でも、辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、たくさんの経験を重ね、そのたびに、考えを深め、人間として弾力をそなえて、自分自身のことも少しずつ見えてくると、人は、他の人にも自然に素直に心を開くことができるようになるのではないでしょうか。
でも、年を重ねるということには、身体が老いてくるという誰もが避けられない厳しい一面もあるんですよね。あ、身体も心も変わったな、と私が始めて意識したのは、40代前半のころだったと思います。
今は、夫婦で協力して子育てを行う時代になりましたが、当時は、子育てと家事は女性の役目。男性ばかりではなく、女性も、もちろん、私もそれを当たり前のこととして思っていました。けれど、4人の子どもを育てながら、女優の仕事を両立させるのは、実際には並大抵のことではありませんでした。
私は実の両親に同居してもらい、子育てを手伝ってもらったのですが、それでも、次には何をして、その次には何をして……という具合に、しなくてはならないことと、時間においまくられることが続いていたんです。その疲労が、40代の前半に、ピークを迎えてしまったのだろうと思います。
もちろん、そこには私の個人的な状況もあると思うんですね。体がふたつ欲しいような日常だけれど、この幸せは絶対に手離してはならないと、私はすごく強く思っていたんです。ですから、心にも身体にも相当、力が入りすぎていたのかもしれません。
その上、私は不器用なくせに、完璧をめざしたがるところがあって、しかも、あのころの私は今よりもずっと融通がきかなかったんですね。いいわ、もうここまでにするわ、ということができなかった。
ピンとはりつめていてばかりでは疲れてしまうのがわかっていても、自分を緩めることができなかったんです。そのために、忙しさの中で、自分自身が磨耗してしまったのでしょう。
それまでずっと前に向かって走り続けてきた私が、ある日、立ち止まり、一歩も進めないような状態になってしまったのです。身体に鉛が入ったようで、動くことさえ辛く、お日様が大好きだったのに、外にも出て行きたくなくなりました。
子どもたちの話を聞くことも辛くなってしまったのですね。
たぶん、今にして思えば、欝っぽくなっていたのでしょう。それでも、仕事はありますし、子どもたちには待ったなしでご飯を作って食べさせなくてはならない。それが仕事を持っているということであり、母親なんですね。
夜、倒れこむようにベッドにたどり着いたり、子どもたちが眠った後、女友達の家に車を飛ばして、少し休ませてもらったりもし……思えば、数ヶ月のことなのですが、長く暗いトンネルの中を手探りで歩いているような気がしました。幸いなことに、すべてを受け入れてくれる年上の女友達がいてくれたおかげで、少しずつ元気を取り戻すことができました。
女性の身体は40歳を過ぎる頃から、女性特有の精神的、肉体的変化を左右するふたつのホルモン、エストロゲンと呼ばれる卵胞ホルモンと、プロゲステロンと呼ばれる黄体ホルモンの分泌が変化するために、微妙な変化を感ずるようになるということを、私はその後になってしりました。
40歳を過ぎる頃から、徐々に排卵をしなくなると、エストロゲンの生産が次第に減少し、黄体の形成もなくなり、黄体ホルモンの分泌もやがてなくなっていくのですね。けれど、エストロゲンと黄体ホルモンの分泌を司る脳下垂体前葉は、従来どおり、機能が減退してきた卵巣に対して、よりいっそうの刺激を与え、機能を回復せよと命じるんです。
脳下垂体前葉は自立神経中枢とも密接な関係を持っていますから、そのために自律神経の働きに狂いが生じて、様々な、私が味わったような症状に悩まされてしまうこともおきうるのだということも、知りました。
まさに疲労がピークに達したその時期に、身体のほうにも変化が訪れたというダブルパンチだったわけです。そのために、40代前半で私はうつうつと悩んでしまったというわけなんですね。
悩んでいる真っ最中のあのとき、そうしたサジェスチョンがあったら、少しはラクになれたのかと思いますと、ちょっと残念なんですね。自分の身体に何が起きているか、それを知るだけでも、心構えが違うではありませんか。
原因がわからないと、こんな風に鬱々してしまうのは、自分が悪いからではないかと、さらに自分をせめたりもしがちですよね。いや、そうではなくて、身体に変化が起きているために、心のコントロールがうまくいっていかないのだと、わかれば、それなりに別の対処があったと思うんです。
最近になって、女性の身体の変化、特に40代以降の身体の変化についての、研究と情報開示が進み、私、本当によかったと思っているんです。今、更年期という言葉を、なんのてらいもなく口にすることができる女性たちが増えてきていますよね。
私たちの時代は、まるで「生理がなくなると女も終わり」みたいな風潮があって、更年期などとは、とても口にだせなかったんですもの。今、そんなこと思う女性は少しずつ、少なくなっているのではありませんか。
更年期は女性なら必ず通らなければならない生理的変化の過程ですが、それは同時に、女性に与えられたすばらしい、女の一生の中でもっとも華やかな時期でもあるという認識が、だんだん広がっているんですね。
それは、その年齢の女性に対する社会的偏見、医学知識の誤解などを今、きれいに払拭しつつあるからだと思うんです。
そして今、女性としての自信、社会人として自信が、更年期以降の女性を生き生きと輝かせ、年齢を超えたその人独特の人間的魅力になるという考え方に変わってきているのではないでしょうか。
老化に対する考え方も変わってきているように思います。対処法を知っていれば、無駄な心配をしなくてすむからでしょう。
仕事でおつきあいのあるたとえば女性誌の編集者などは、「私、更年期で、ホットフラッシュがひどいんですよ。そろそろホルモン療法を始めようかしら」と、なんでもない表情でおっしゃるんですよ。
すると隣にいる同年輩の女性たちと「あら、私も」「どこの医者にかかっている?」「いい先生、いる?」という具合に、話がはずんだりもするんです。
そういう女性たちの姿を見るにつけ、自分の身体の状態を的確に把握し、それに対して対処するすべを知っているということが、いかに大切かということを考えさせられます。と同時に、医学の情報を精査して、きちんとキャッチしておくことが、本当に重要だなぁと思うんですね。
少し、私の個人的なことをお話させていただきます。
私が、老いを最初に意識したのは、50歳を超えたあたりだったでしょうか。まず、私は目に異常を感じました。「緑内障」の初期だったんです。幸い、点眼薬で治ったのですが、目に不安があるというのは、非常に精神的に重いものがのしかかったようなものだと感じました。
そこで、いろいろ考えまして、それを機に、車の運転をやめることにいたしました。私は、こう見えましても、運転にはちょっと自信があったんです。我が家は箱根ですので、箱根から箱根新道をとおり、東名を飛ばして、仕事に毎日行っていたんですね。
また我が家は12件の古民家を譲り受けて作り上げたものなのですが、古民家を訪ね歩いていた時期には、地方に古いぼろぼろのマークⅡをおいておき、それに乗って、どんな山道も走り歩きました。それが出来なくなるという寂しさ、足回りが悪くなり、世界が縮んでしまうような怖さもありましたが、私は私ひとりの身体ではないんですよね。
何より先に子どもたちの母親であり、子どもたち4人が社会人となり、独り立ちをするまで見守っていかなければならないわけです。その役割を果たすためにも、安全第一をとったわけなんです。
それからもいろいろありました。中でも、ショックだったのが、60歳になって、転倒しまして、背骨を骨折してしまったことです。あの日、私は会合がありまして、ピンヒールの高い靴を履いていたんです。ちょうど、雨上がりで、建物の床が濡れていたんですね。
そのときに、何かの拍子にバランスを崩してしまったんです。しかも転んだ後、すぐに病院に行けなかったんです。背中が痛くて、本当に辛かったのですが、講演の仕事がずっと詰まっていまして、しかもそれが地方だったんです。私たちの仕事は代わりがないものですから、穴をあけるわけにはいきません。
飛行機で地方に飛び、それから今度は電車で別の地方に向かい、それぞれのところで仕事をし、それからまた飛行機に乗って帰ってまいりました。それから病院に直行しますと、即、入院といわれました。「すぐ入院してください! 安静です!」と。
最初に無理をしたのと、年齢的に骨がもろくなる時期だったのが重なって、なかなか骨がくっつかず、完治まで長くかかりました。そのときに、骨粗しょう症にならないために、できるだけのことをしようと、決心しました。
女性は、ホルモンのバランスが大きく変化する閉経後、骨の量が急激に減るため、骨粗しょう症になる人の割合が高くなるそういう知識は、持っていたのですが、まさか、自分がそのために準備をしなくてはならないなんて、思わなかったんです。
けれど、背中を痛めて、それが現実味を帯びて、迫ってきました。骨粗しょう症(骨粗鬆症)とは、皆さん、ご存知だと思いますが、骨がスカスカになり骨折しやすくなる病気です。骨全体が弱まってしまうため、骨折してしまうと、折れてしまった骨が元に戻るまでにさらにさらに時間がかかるようになってしまうのだそうです。
また、骨折が原因で日常生活行動(ADL)の低下を起こしたり、さらには寝たきりになってしまうことが、今や大きな社会問題となっているんですね。お年寄りが、転んで、足の骨を折ったのがきっかけで、寝たきりになって、痴呆が進んでしまったという例を耳にしたことはありませんか。そういう例が、本当に多いのだそうです。
背中を痛めたのを機に、私がはじめたのが、毎朝の山歩きです。箱根の山を私は、箱根にいる限り、毎朝、1時間から1時間半、歩いているんですね。山ですから、アップダウンもあり、足元も平らではなく、最初は1時間歩くと、へとへとだったのですが、今ではもっと歩きたいと思うほど、体力が戻ってきました。
自然に抱かれて、きれいな山の空気を呼吸する喜びもしみじみと感じられるようになりました骨折が直った直後は、もうヒールの高い靴をはくのはよしましょうと思ったのですが、体力の回復と共に、そうしたお洒落心もまた目覚めてきました。
街を歩くときには歩きやすい靴をはいていますが、パーティや会合などには、私の好きなピンヒールの靴に履き替えて出ることも、このごろではたびたびです。
人生、塞翁が馬(さいおうがうま)といいますが、まさに、私は、骨折のおかげで、骨の老化に気づき、それをストップするべく、早めに手をうてたのではないかと思います。また、50代で車をやめたことも、むしろ、私にとってはよかったと思うんです。
車では通り過ぎてしまう風景を見ることができるようになりましたし、電車やバスを楽しむ喜びも改めて味わっています。
この会のテーマは「アンチ・エイジング」ですが、やはり、年をとれば失うものもあるんですね。
それを認めないのではなく、むしろ老いをもしっかり受け止め、その上で、カバーしていく手段を講じて、いつまでも生き生きと生きていくことが大切ではないかと、私は思います。
それには心の健康と、正しい情報と、ホームドクターの存在が、絶対に必要だと思うんです。
私には、信頼するウィメンズクリニックの先生と、整形外科の先生がおりまして、おふたりに会うだけで、私はホッとするようなところがあるんです。特に、ウィメンズクリニックの先生とは20年来のお付き合いで、私の体のことなら、私よりもよくわかっていらしてくださるんです。
その先生のところには、3週間に1度、伺いまして、チェックしていただいています。身体の悩みから心の状態まで、お話しすることもありますし、同じ女性の先輩でもあるその先生から、これからの女性の身体の変化を実体験としてうかがうこともあります。
何も変調がなくても、そんな風に私は通い続けているわけです。病気になってから病院へ行くというのが、これまでの常識でしたが、私の場合は、病気にならないために、病院に通っているという感じです。状態をひどくしないために、先生に対処法を教えていただいていると、いいかえてもいいかもしれません。
ホームドクターからはもちろんですが、私は雑誌や本を通しても、新しい医学情報を積極的に取り入れようとしています。
40代のあのとき、自分の身体の状況がわからなかったために、症状を重くしてしまったのではないかという、反省があるからなんです。また、私は仕事柄、たとえば肌の状態などにとても敏感にならざるをえないところがあるのですが、そのおかげと申しましょうか、心の健康と身体は密接につながっていると、日々、感じさせられるんですね。
撮影の前に、仕事や家庭でごたごたしたときなどは、肌がたちまちつやを失ってしまいます。夜更かしや、不摂生も、端的に肌の状態に表れます。そうかと思いますと、何か楽しいことを控えて、心が明るく踊っているようなときには、肌は生き生きと輝き始めるんです。
今は美肌ブームで、洗顔やマッサージの重要性が指摘されない日はありませんが、もちろん、ご興味のある方はそれをしっかりやっていただいて、でもそれだけに気を使うのではなく、心の持ち方に留意することも必要ではないでしょうか。
ありあまる物質、過剰な情報、あおられる競争意識……現代は、このようにめまぐるしく、非常にストレスの多い生活環境であることは事実です。人と比較することなく、自分のペースで、自分流に生き、瑣末なことは「気にしない」ようにして、そして「謙虚である」ことを大切にするスタンスが、この現代を明るく生きていくために、私は必要だと思っています。
また、食も大切です。
私は、農と食を今の自分のテーマにしているのですが、ときに「女優なのになぜ、農と食がテーマなのですが?」と聞かれることがあります。それは、食べたもので人は作られるからなんですね。農と食は、私たちの命と密接に結びついているものだからなんです。
若々しく美しく生きるために、私がもっとも大切にしているのは、食といって過言ではないかもしれません。そして、食べるということは、人生最大の楽しみのひとつでもありますよね。
今は、これが美容食だ、健康食だという情報がテレビをはじめとしたマスメディアから流れっぱなしの時代ですから、多くの人がそれに翻弄されている面もあると思うんです。
でも、ちょっと後になって、それが断片的な知識に過ぎず、それだけ食べるのはむしろ弊害が多いことがわかったりもします。何十年も食べてきたもので、私たちの身体は作られているわけで、劇的に変化させようというほうが、無理があるんですね。
大事なのは、もっと当たり前の普通の食事ではないでしょうか。野菜をたっぷり、精製された、たとえば砂糖などは少なめにする、そして栄養バランスの取れた食事こそが王道だと思うんです。
そして、野菜なら、なるべくケミカルを使わずに素直に栽培されたものを、食べたい。そしてみなさんにも、ぜひ、それをおすすめしたいんです。
それから睡眠。年齢を重ね、無理がきかなくなり、疲れやすくなったら、ちゃんと睡眠をとり、身体をやすめてあげることが本当に大切だと思います。
そして若々しくあるために、もっとも大切なのは、限りある人生を一生懸命に真剣に、前向きに生きていこうという意欲を持つことではないでしょうか。そういう意欲を持っていれば、身体の不快、心の不快に対しても、いち早く、懸命な対策をたてて実行して、自分の生きる内外の環境を整えようとするのではないでしょうか。
先ほど申し上げたように、私はもうすぐ64歳ですが、今が本当の意味での青春だと思っているんですよ。人から見たら、足りないところがまだまだたくさんあるでしょうけれど、20代よりはるかに今のほうが理解力、応用力、判断力があると実感できますし、身の丈を知っているので、無理をせず、自分のペースで進んでいけます。
この青春は、数々の人生経験が培ってくれた贈り物、あるいはご褒美のように感じます。今の青春を、これからも私は一生懸命、歩いていきたい。そういう仲間がどんどん増えて欲しいと思っております。
みなさん、これからも一生懸命、前向きに一歩一歩、歩いていきましょう。

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会

第20回 東海道シンポジューム箱根宿大会が私の住む箱根で開催されました。私もお招きを受け「東海道箱根宿」について話をさせて頂きました。
箱根に住むようになり、30年になりました。子育てをしながら、女優の仕事を続けていましたし、普通に考えますと、東京都心に住むほうがずっと便利でした。
でも、箱根に住んではどうだろうか。そう、思い始めたら、箱根が私にぴったりの場所に思えてきたのです。山から小田原に下りれば、新幹線で東京まですぐですし、箱根は自然環境に恵まれ、ゆっくりと子育てができる場所でもあります。 
美しい山々に囲まれ、湖もあり、温泉もある箱根は、癒しの場所であり、10代の頃の私の趣味のひとつであった水上スキーもできるリゾートでもあります。しかも、箱根は古くからの宿場町だからでしょうか。人が訪ね、人が帰っていく。そういう風通しのよさが、町の中にどこか感じられました。
歴史ある町でありながら、その歴史ゆえに、他のところから来る、よそものに対してもどこか開かれているように、私は感じていました。もしかしたら、箱根に居を定めた最大の理由は、箱根が古くから「宿場町」だったからかもしれません。
旧東海道の杉並木の道は私の毎朝の散歩コース。人生のほぼ半分を私は箱根で過ごし、今ではすっかり箱根人になりました。
さて、東海道の歴史は古く、律令時代から、東海道は諸国の国分を駅路で結ぶ道であったといわれます。箱根路は、800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって開かれたものなのですね。でも、箱根路は、距離は短くても、ご存知のように天下の剣。急峻ですから、足柄路が復興され、ともに街道筋として利用されたそうです。
源頼朝が鎌倉に政権を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになりました。そして、江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となりました。
江戸時代の東海道は、日本人にとって憧憬をかきたてずにはおかない存在ではないでしょうか。私も、江戸時代の東海道に惹かれるひとりです。
その理由のひとつに、浮世絵の風景があるのではないかと思います。初代、歌川広重が描いた東海道の各宿場の風景画です。これらのシリーズは、広重が描いた作品のなかでも有名なものですが、爆発的な売れ行きで、以後、「狂歌入り東海道」「行書東海道」「豆版東海道」などが次々刊行されたといいます。
そして、これらの浮世絵の流行によって、人々の間に、旅や東海道そのものに対する感心がいっそう高まったのでしょうね。実際、その絵を見ていますと、四季の移ろい、気象の変化、各地の風物が伝わってくると同時に、旅する人たちやそれを迎える地元の人たちの様子も伝わってきて、江戸時代の庶民が絵を通して、旅に憧れを抱くのが、わかるなあ・・という気がいたします。
そして、江戸時代といえば落語。
中でも柳家小三治師匠の高座は特別。江戸時代、庶民の生活は大変だったですよね。でも、生活は大変でも、笑い飛ばしてしまう庶民の力強さがあるんです。それが落語の中に感じられる。
それから、江戸の人々の遊び上手なこと。ものはなくとも、精神がとても豊かな面もあるんですよね。
落語をきいていると、文化の成熟ってなんだろうと、考えさせられることも少なくありません。落語の中に、旅ものが多くあるんですね。小田原や箱根近辺が舞台のものですと、町内の面々がそろって大山参りにいくことになって起きる騒動を語る「大山詣り」、仲のいい三人が旅に出て、小田原の宿・鶴屋善兵衛に泊まる「三人旅」やはり小田原の宿が舞台の「抜けすずめ」「竹の水仙」・・。
さらに「御神酒徳利」。大磯が舞台の「西行」そして箱根、箱根山がでてくる「盃の殿様」あげればキリがないほどです。
落語の「旅もの」は、江戸庶民にとって、憧れの旅へのいざないでもあったわけですが、現代に生きる私たちにとっても、江戸時代の旅にいざなってくれるものなのですね。
私も小さな旅を含めたら、1年の半分は旅しているといっていいほど、今も旅に出ることが多いのですが、それほど旅好きな人間なのですが、落語を聴いていると、とても羨ましくなったりするのです。何にうらやましさを感じるかというと、それは、やはり、“歩いて移動する旅”という点なんです。
歩くことで見えてくる・・・・。
歴史ある町には、その歴史が、文化ある町にはその文化が、目には見えなくても、しっかり刻まれていて、それは歩くことによってのみ、感じ取ることができるのです。
町の匂い、町の佇まい、町の奥行き、町の存在感といったものが歩くと発見できるのです。  私は、それを町の記憶と、ひそかに呼んでいます。
たとえば箱根の町に、私が感じる町の記憶はと申しますと、箱根は後世に「天下の剣」といわれた箱根山の往来は、困難を極めたところです。車だとすぐですが、ちょっと歩くだけでも、その一端がうかがいしれます。
笠をかぶり、杖をつき、わらじをはいて、荷物をかつぎ、旅した人たちの大変さ。それでも前へ前へと進もうとする人の姿。ときに、足を止め、富士山の美しさにため息をつき、芦ノ湖の静かな水面に心慰める・・・そんな、当時の旅人の気持ちに近づける・・・。
歩いた後はぜひ、温泉に肩までつかり、お湯のよさと、「一夜湯治」の贅沢を味わってもらいたいと思います。江戸時代から、何万人という人が歩いて旅した記憶というのは、日本の記憶でもあるんですね。
東海道という道は、それだけの重さと豊かさを持ったものなんです。
自分の住む町や村に誇りを持つということで、歴史を知り、文化を知り、そこで営まれてきた人々の暮らしを知り、今と繋がっていることを認識してはじめて、自分の住む土地が好きだといえるのではないでしょうか。
私は、箱根人として、旧東海道の杉並木が残されていることを誇りに思います。
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私の信仰と円空上人

先週に続き「円空さん」についてお話いたします。
私にたったひとつ、信仰があります。
それは木。
木に何か人知を超えた天空の意志を感じるのです。
太古に通じる水脈から命を得、時空を越えて屹立する木、その精に。円空が彫り、極めた果てに見出したものに心ひかれます。木に刻まれた平穏の深さと無垢、無音の歓喜。それこそ木の精霊との出逢い。円空の会心の笑みをみる思いがします。
円空上人は今から三00年ほど前の漂泊の僧でした。1632年に美濃に生まれ、大飢饉のさなかに少年期を過ごし、母を早く亡くしたこともあり、幼くして、寺に奉公したのですが、32歳にして出家。
岐阜、志摩、東北、北海道までも、巡礼の旅を歩きました。どこえいっても厳しい迫害にあったそうです。それでも彼は12万体造仏祈願という途方もない仕事を自らに課し、全国各地でたくさんの木彫りの仏像を残したのです。
辺境の地や離れ島、山間の地などに住む人々の病苦や貧困を救おうとして造仏だったのかもしれません。
また、円空さんは、白山信仰、観音信仰にも帰依しました。
岐阜県美並村(現郡上市)の洞泉寺にあったのは、円空さんの手になる「庚申座像」でした。この仏さまは横座りをして、小首をちょっとかしげて微笑んでいらっしゃる。お顔には幾重にもシワが刻まれていますが、それがなんとも優しいこと。前に立った人がみな、ふっと笑顔に変わるのです。
「比丘尼(びくに)像というのが、ありますがその方が、円空が恋した女性ではないかという節があります。青年円空の人間くさい一面を想像させて、私はあれこれと思いを巡らすのです。
そして、飛騨路の旅の宝物。千光寺の「お賓頭盧さん(おびんずるさん)」
無病息災を願う千光寺のなで仏です。表情の優しさは人の心を抱きしめるような安らぎに満ちています。
多くの人がこの仏さまをなで、心の平安を祈ったことでしょう
私の大好きな仏像です。
千光寺を最初に訪れたのは、NHKの日曜日美術館で円空を取り上げたときでした。坂道の途中に天然記念物の五本杉がそびえ立ち樹齢1000年の木とか。
この木に聞けば、円空さんってどんな人?ここでどう過ごしたの、と、みんな聞けそうな気がしました。あの時も全山、紅葉にもえ、晩秋の飛騨路の夕暮れは早く、さっきまで真紅に燃えていた紅葉があっという間に暮れなずんできました。
“また、おびんずるさん撫でにきます”
円空さんの造仏の鉈の音を感じながら千光寺をあとにしました。
旅先で出逢う宝物。木の仏像
円空上人の旅のあと。
これからも、円空さんの歩いた道を旅したいと思います。

古川への旅

旅の空の下に友がいます。私を待っていてくれる人が・・・
今週末は飛騨、古川に行ってまいりました。
“古き日本の美”を感じる旅。
NHK朝ドラマ「さくら」の舞台となった飛騨の匠の街、飛騨古川は風情の漂うレトロな街。そこで、朝日新聞の読者の方々22名と「和ろうそく懐石の夕べ」をご一緒いたしました。
宴席は宮川沿いの老舗割烹宿。郷土料理を味わいながらの楽しい宴でした。
そして、クライマックスは友人所有の「円空さん」を抱かせていただいた事。
 
今年の飛騨の紅葉は遅れており残念ながら「息を呑むような素晴らしさ」とはいきませんでしたが、それでも秋の日差しを浴び萩や薄が遠来の客を迎えてくれましたし、奥飛騨から少しずつ紅葉が街におりてきておりました。
私と古川のご縁はもう30年近くなります。
これで飛騨古川を訪ねるのは何度目になるでしょう。
高山本線古川駅はいつも私を下車させてしまうんです。
私の心の故郷と呼べる土地がいくつもあるのですが、飛騨古川もそのひとつです。引き寄せられるように、何十回とこの町を訪れ、今では、この町に着くと、「帰ってきた」という感慨が胸に染み渡るまでになりました。
「浜さん、僕たち、映画を作りたいのですが、どうやって作ったらいいのか分かりません。相談にのってください」唐突に話しかけられたあの日から、古川の青年たちは私の大切な友になったのです。
当時、青年。いま、みんな中年の仲間。
題して、「ふるさとに愛と誇りを」という1時間30分ものフイルムでした。
大層みごとなものでした。彼らが生まれ育った町がくっきりみえてくる大作・・。
あなたは持てますか?ふるさとに愛と誇りを。
端正な町並み、人々の優しい振る舞いややわらかな言葉、美味しい山の幸の数々。水の清らかさ。町を流れる川には鯉が泳ぎ、遠くを見れば御岳山、乗鞍岳、さらに日本アルプスの山々が町の背景に悠々とそびえています。
木々の間をぬう風は凛と澄み切って、そこにいるだけで心身が浄化されるような町なのです。
私はこの町にいる間中、山や木に守られている・・・という、いわくいいがたい安心感に包まれ、心が素直になっていくのを感じます。以前、この飛騨古川への旅路で、円空仏に出逢ったとき、自分でも思いがけないほど感動したものです。
その”円空さん”をしっかりと抱かせていただけたのです。
ろうそくの灯りのもとで。
町の飛騨市美術館では「円空仏展」も開催されていました。
円空上人については、次回ゆっくりお話をしたいと思います。
昨年は胸にしみるような紅、光を封じ込めたような黄色、しかも葉の色は刻々と変化して・・・どこを見回しても錦絵さながらの風景が広がり、四季のある国に生まれた幸せを思わずにはいられませんでした。きっと、11月半ばか下旬にはこのような風景に出逢えるでしょう。
もう一度戻ってきたい古川を後にいたしました。
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柳家小三治師匠

“これはもう「恋」なのかもしれません”
雑誌「ゆうゆう」にそう告白してから、4年がたつでしょうか。
友人に寄席に連れていってもらい、柳家小三治師匠の落語を聴き、すっかり感激し、魅せられ夢中になってしまいました。足しげく寄席に通い、気がつくと「追っかけ」に夢中です。
先日も上野の鈴本演芸場のトリを聴きに着物を着て出かけてまいりました。演目は「お茶汲み」でした。
独演会はもちろん出来るかぎり参ります。大変人気があるかたですから、チケットを取るのも至難の業です。
前売り券があるときはとにかく電話。気合でとります。立ち見で聴くことも。
だいたい、私はひとつのことにのめり込むたちなのですが、これほど胸をときめかせるものに出会ったのは、正直初めてかもしれません。
落語家は舞台の上に、しゃべりとしぐさだけで、ドラマの世界を作りあげるのですが、何が素敵かって、師匠の場合、そのドラマのふくらみが・・・ああ、言葉が見つからない・・・本当に素晴らしいの。豊かなの。
たとえば師匠がある人物の言葉を話すでしょう。すると、その言葉だけでなく、当の人物が持つ空気感というのかしら。そういうものまで、じんわりと、伝わってくるのです。
その人物像、時代背景、場所の雰囲気、人々の息遣いまで感じ取れるのです。
それから何といっても、師匠の人間性なんでしょうね、芸に品格も感じられるのは。
落語の本編が始まる前の”まくら”も楽しみです。師匠の横顔がのぞけて、フアン心理をも存分に満足させていただけるのです。
気がつくと首を伸ばして、体を前に傾けて、目で耳で一心にその世界を堪能させていただいて・・・・。扇子を持つ姿、お茶の飲み方などのしぐさにも、胸がキュンとしたりして。
こんなふうに思いっきり”好き”っていえる人がいるって、本当に幸せ。”恋?”そうね。もうこれは「恋」なのかもしれません。
そこで、ご案内です。この度 落語研究会 「柳家小三治」全集 のDVDがTBS・小学館から発売
されました。10枚組みのDVDと写真集・インタビュー記事・・・「追っかけ」にとっては、まさに「宝物」・・・。
これからの人生、舞台とDVDで甘い夢がみられます。

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日本酒で乾杯推進会議・フォーラム

“乾杯三態・日本のかたち 日本の心”が10月2日に開催され全国から多くの方が参集されました。
この会は平成16年に発足し、代表に国立民族学博物館名誉教授・石毛直道氏、歌舞伎俳優・市川団十郎氏はじめ各界からのメンバーで構成され、「100人委員会」が中心となり、「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていこうというものです。
私も今年から100人会のメンバーに入れて頂き、先日のフォーラムになりました。今回のフォーラムはホストに民族学者の神埼宣武氏、銀山温泉藤屋女将・藤ジニーさん。
ゲストは歌舞伎俳優 中村富十郎氏、塩川正十朗氏、そして私、浜美枝でした。
中村富十郎氏からは、歌舞伎のなかでの飲酒の演じ方などをご紹介して頂き、塩川さんからは、酒宴の席に出られる機会の多い中で、どのような乾杯、献杯の形があるのか・・・・又神埼さんからは乾杯の歴史などの興味深いお話がありました。
私には全国を旅する中でどのような日本酒とのかかわりがあるのか・・・好きな酒器は?というようなご質問がございました。
そこで、こんな話をさせて頂きました。
日本酒は、私にとってほかのお酒とは一線を画す、特別なものという気がいたします。成人式に初めて飲む日本酒。結婚式の三三九度。家を新築するときに建て前の儀式の前に飲み交わすお酒。日本人の慶事になくてはならないのが、日本酒だと感じます。
と同時に、お神酒とよばれるように、日本酒は聖なるものという意識が私には強くあるんですね。
私は、古民家12軒を譲り受け、その材料を使って作った箱根の家に住んで30年になります。今でこそ、古民家作りは静かなブームになっていますが、当時はそんなノウハウはなく、設計から施工にいたるまで、すべて手探りの家なのです。
私も工事前から箱根の家の近くにアパートを借りて、そこに寝泊りし、とにかくできる限りのことをしました。施工に入る前に、古い柱や梁の一本一本を、自分の手で磨きました。そして、土地の神様である箱根神社のお神酒で一本一本、清めました。
日本酒で清める事で、土地の神様に守っていただけるような気がいたしました。
私は、今朝も箱根の山を約1時間歩いてきたのですが、その道筋にある箱根神社九頭龍神社の分院には、いつもお神酒が置かれています。日本酒が聖なるものであり、聖なる者にささげるものだという思いが、今も脈々と受け継がれているのを感じずにはいられません。
また、私は40年にわたって、日本全国を旅してきたのですが、旅をすると、いつもいろいろな方がお迎えくださって、地元のお酒で乾杯となります。
一期一会の出会いに、そしてその地を訪ねることができたことに感謝して、私も「乾杯」させていただきますが、そのときのお酒はまるで賜りもののような気がいたします。
美味しく場を楽しいものにしてくれるだけでなく、人生の句読点にもなる場に必ず登場し、杯を合わせる日本酒は、私にとっても非常に重要な意味を持つものであると、改めて感じます。
「日本酒で乾杯推進会議趣意書」の中にこのように書かれております。
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“最近のニッポン人には日本が足りない”と多くの心ある日本人は、今日の日本、明日の日本に危惧の念を抱いているのではないでしょうか。
日本が誇りとすべき伝統的な食文化や伝統芸能、伝承していく作法や風習もグローバルスタンダードとか高度情報化社会というものの表面的な形にとらわれて次第に失われていこうとしています。
私たち日本人は集まって食事をするとき乾杯します。「みなさまのご発展とご健勝を祈念して」何に向かって祈るのでしょうか。
神様、仏様を対象とする特別の宗教心ではありません。
我々の人知や人間の力を超えたものすべてに対して謙虚に祈るのではないでしょうか。
「日本酒で乾杯!」という言葉を象徴にし、日本の文化のよいところを広く啓蒙していく活動を進めていくことが今程必要な時はありません。
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私自身、和服をさりげなく着て箱根の我が家で囲炉裏を囲み日本酒で”乾杯!”と言いながら仲間たちと酌み交わす時間は至福のひとときです。
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韓国 食アメの旅

昨年同様、9月初旬に、コスモスの花が美しく咲く韓国に行ってまいりました。
“食アメニティーを考える会14回・韓国で農村女性グループと交流する会”
総勢40名です。毎年一度、ヨーロッパでグリーンツーリズムを学ぶ会を12回行い、昨年から韓国のパルタン地域、華川郡トゴミ村の自然学校、龍湖里(ヨンホリ)村では農家民泊・・と4泊5日の旅です。
私は、これまで40年にわたり、日本の農山漁村を歩いてきました。
最初は民藝に惹かれての旅でした。
日本の民藝運動の創始者である柳宗悦先生が書かれた本に、中学時代に出会いました。無名の人が作った道具に美を感じる・・・用の美の世界に惹かれ、感動し、以来、人々の暮らし、そして道具というものに、ずっと興味を持ち、その思いを育んできました。
「あちらに古い美しい道具があるよ」
「あそこのお蔵を見せてくださるそうだよ」と誘われれば、仕事の合間を縫って駆けつけました。
日本の古く美しい道具を見たいと始めた旅の行き先は、もっぱら日本の農山漁村でした。やがて私は、そこでごく自然に、農や食の現実に触れることになりました。
「今、農業は大変でね」とか、「国の政策がこうだから」とか、「跡継ぎがいなくて」 等々。おしんこをご馳走になりながら、サツマイモをいただきながら、農家のおばあちゃんや おかあさん、おじいちゃんや、おとうさんから、胸の内をお聞きするにつけ農の厳しさ、又楽しさ、ときには政治に左右される農のありようなどを、実感するようになったのです。
縁あって農政ジャーナリストの会の会員となり、政府の各種審議会の委員も務めさせて頂きました。
現場を歩くうちに農山漁村の女性たちとたくさんの出会いを重ねてきました。それは、私にとって、女性たちの強さ、優しさ、未来へとつなげていくしなやかな力を、改めて再認識する日々でもありました。
そこで生まれたのが「食アメニティーコンテスト」であり、研修旅行で知り合った人たちとの「ネットワークの会」です。
私は会の会長をさせていただいておりますが、横の連帯を大切に、 ”農業をもっと元気にしたい” “食を正面から取り組みたい”など思いを同じにする全国の女性達の交流の場となっています。
「浜さん、私、この会で一生つきあえる友人と出会えたのよ」
「ひとりでは淋しいときもあるけれど、同じ思いの友がいる。自分の味方になって励ましてくれる友がいる」などという声を聞くことが出来ます。
自然発生的に生まれた会も今や全国で活動する女性たちをつなぐ線の役割を果たしているのではないかと自負しております。
前置きが長くなりましたが、そんな仲間との韓国の旅でした。
台風9号が上陸する朝、羽田からの出発となりました。秋風が立ち、美しい韓国の農村地帯が私達を迎えてくれました。大好きなコスモスが一面に咲き、韓国の美しい季節です。
今日は韓国の「親(しん)環境農業」についてお話いたします。
パルタン地域は、ソウル市民の飲み水となる川、ハンガンの上流にあたります。ハンガンの水はソウル市、周辺都市に住む2000万人の飲み水となります。この地域では、ハンガンの水質を守るために、環境を守るための農業が1994年から行われてきました。
農薬や化学肥料の使用抑制、糞尿の排出禁止などの規制強化をきっかけに、最初は12軒の農家が「環境を保護し、水質を保全しながら自分たちも生計を立てられる方法」をめざし、パルタン上水源有機運動本部を設立、今では生産者会員が100軒という組織になりました。
日本ではまだあまり知られていないのですが、韓国では有機農産物をはじめとする親環境農業による農産物の生産、そして有機農産物の消費拡大のため活動など、実に積極的に行われているんですね。
日本では、2001年4月から有機認証制度が始まりました。しかし、販売価格に反映されにくいため、マーケットの広がりは思ったほど進んではいません。
韓国では、国家主導の下、生産者へのバックアップが充実しています。その追い風をうけ、消費者の認識も近年、目をみはるほど向上してきました。特に、パルタン地域の親環境農業は、ソウルに住む都市の消費者を巻き込む
形で推進していて、特に市民が負担する水道代には、「水利用負担金」という項目があり一戸あたり月約360円負担します。
町で出会った若者に、この負担金、パルタンのことを聞いてみました。「もちろん知っていますよ」。「ソウルに住む主婦でパルタンのこと、知らない女性はいませんよ」との事。市民の信頼を得ての農業、環境保全が行われているのですね。
長年、日本の農業に携わってきた私にとっては、羨ましいような思いがございました。
安全な農産物を食べるためには、農村の環境を守ることが不可欠だということ、その底流に流れているのは、消費者の理解なしの農業の未来はない・・・ということ。それをあらためて認識した旅でした。
自然学校内の食堂で韓国のオモニにキムチ作りも体験させて頂きました。本場の冷麺の美味しかったこと。
最後の日の夕ご飯はサムゲタンとチジミで、韓国の食も満喫。南大門市場で粉唐辛子などどっさりおみやげを買って家路につきました。
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敬老の日に思うこと

私には全国、いえ外国にも20人から30人のおばあちゃんがいます。
あちらこちらのおばあちゃんを訪ねるのが楽しいし、旅の途中で、さまざまな温もりもいただいた、忘れられないおばあちゃんがたくさんいらっしゃいます。
もう、だいぶ前、私は「日本人再発見の旅」という企画で全国各地のおばあちゃんをお訪ねしました。その企画は「おばあちゃんの宝もの」といいまして、おばあちゃんの人生で大切にしてきたコトやモノ、思い出でを聞かせていただくというものでした。
その中から、忘れられないひとりのおばあちゃんのお話をさせて頂きます。
今は亡き松崎せいさんは、島根県の松江にお住まいでした。
松崎さんの宝物は姉様人形。
松崎さんが嫁いだ家が傾いたとき、この家のおばあさまが内職として紙人形作りに取り組みました。
松崎さんが嫁いだ家には、松平家の奥女中として高い教養と行儀作法を身につけたおばあさまがいて、その方が姉様人形の作り方を教えてくださったのでした。
子供、娘、女の紙人形がひとつの箱におさめられています。女の一生がお下げと桃割れと島田、三つの髪型で表現されていていました。古裂れと綿を和紙にくるんで頭を作り、これに鼻をつけて上張りし、その上に胡粉を塗って顔ができます。
髪は半紙に墨を塗り、かつらを作ります。使うノリはご飯を練ったもの。それは可愛い紙人形でした。お会いしたとき、松崎さんは84歳でしたが、肩凝りしらず、目もよく見えて、細かい手仕事を器用にこなしていらっしゃいました。
「人形作りで、自分も作られたかもしれません」と語ってくださいました。
私がお年寄りにひかれるのには、ある原体験というか、原風景があります。
幼児期を過ごした川崎の下町で私は近所のおばあちゃんに育てられたのではないかと思います。母は仕立て仕事で忙しかったのです。ワタナベのおばあちゃんは、いつも私の長い髪を手のひらですいてくれ、キレイにお下げに結ってくれました。志村のおばあちゃんは、夜に宿題を見てくれました。
母が忙しかった分、私は町内のおばあちゃんに育てられたも同然です。55年の歳月が過ぎても、私の後頭部から両サイドの髪の毛にキレイにキュキュとお下げに結ってくれたおばあちゃんの手のあとを感じることができるのです。
感触の記憶は確かです。
おばあちゃんになるのも、悪くはないなと思う、この頃です。

広島のこと

夏の照りつける太陽の中、8月末広島を訪ねました。
“広島市民文化大学”のお招きを頂きました。
昭和18年生まれの私にとって、広島、長崎は特別な場所です。
当日は広島記念公園内の広島国際会議場フェニックスホールで1500名の方々が待っていてくださいました。
思わずこんな言葉からお話をさせて頂きました。
本日、こちらに着きまして、気がついたら、空を見上げておりました。私は、この地、広島に、夏にお伺いすると、夏空を見上げずにはいられないんです。
まぁるく広がる青い空、もくもくと浮かんだ入道雲。そしてその下に広がる家並み、ビル。人々の活気あふれる表情。
そうした風景を目に焼きつけ、安堵すると同時に、62年前のことを思わずにいられません。時を経ても、決して風化することのない痛みを、この土地は経験してきたからです。
私は今、63歳です。終戦のときは1歳。戦争の記憶をたどるには幼すぎる年齢です。でも、なぜか強烈に覚えているというか、私の心に戦争の悲惨さが深く刻まれているのは、おそらく次のような体験を経ているからでしょう。
終戦の年の3月、東京は東京大空襲にあいました。我が家は、その空襲に襲われたまさに、下町にありました。私の家では、ダンボール工場を営んでいたのですが、すべてを失いました。家も、道具も、わずかな写真も、一つ残らず灰になってしまったのです。
 
でも、空襲の前日に、我が家は親戚の家に疎開して、家族の命が助かりました。下町では大勢の人がなくなったというのに、我が家は全員、無事だったんです。
物心ついたころから、母や祖母から、その話を何度も何度も繰り返し聞かされました。また、「私たちの命は、もらった命よ」と、母はことあるごとに、私たち子供にいってきかせてくれました。
祖母も「なくなった人たちに申し訳ない」と繰り返していました。
 
そのためでしょうか。私が実際に経験したわけではないのに、下町の空襲や近所の人々との永遠の別れのことまで、まるで見てきたことのように記憶されてしまったのです。
 
そしてここ、広島の土地に立つと、私も母や祖母と同じことを思わずにはいられません。自分の命がもらった命である、と。そして、自分の胸に問わずにはいられません。亡くなった多くの人たちに申し訳ないと思うような生き方をしてはいないか、と。

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やまぼうし

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箱根の山々の緑が日一日と、濃くなっています
とご挨拶してからちょうど一年がたちました。
我が家の庭の”やまぼうし”の白、ピンクの花が美しく咲いています。
この季節は箱根の山々の緑も濃く、早朝の山歩きをしておりますと、
何とも言えない緑の匂いが心地よく山暮らしの幸せを実感いたします。
”やまぼうしの花咲いた”を出版したのは昭和57年の今頃の季節。
箱根の山が
ふんわりと山法師の花で
おおわれる初夏
見事な開花は
十年に一度とか
結婚して四人生んで
たちまち流れた十年の歳月
私は山法師のように
咲きたいのです
箱根の森の中に家を建てて、三十年になろうとしています。
ここでは日時計がなくて、年時計があって、春が来るたびにひとまわりするような時計に支配されているよう感覚があります。
樹々の色味の変化で春の訪れを感じ、台所から見える富士山も、刻一刻と変化します。
思い出がたくさんつまった台所も、巣立っていった四人の子供たちの台所から、”私のための”台所にリホームしよう・・・と思いたち山法師の花ではないのですが、10年一区切り・・・と思いきりました。
私には何十年に一度こういうことがあるのです。
”ああ、ほんとうに親としてひとつの役が終わった”
63歳になり、人生のしまい方を少しずつ、考えはじめたのかもしれない
とも、感じます。
思い出や家族と暮らした豊かな時間は、私の中でしっかりと刻まれているから・・・
役目を終えたものを処分し、身軽になる。
そこからまた新しい自分が見えてくる。
時間に迫られて、ゆったりと木々と語れなかった時代から今又
こうして、山法師の花を見ていると、忙しさの中で落としてきてしまった
ことも見えてきます。
まだまだ旅の下、これからも素敵な出逢いがあるでしょう。
多分終の棲家になるはずの我が家で、
「私らしく生きるために、現実としっかり向き合うことが必要なのかも・・・」
と、そんなことを思っております。
爽やかな緑の風を仕事場から感じ、
思わず”カンパリグレープ”をつくり”やまぼうし”の樹の下で飲みました。
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