NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・明治神宮」

六月の杜(もり)は花菖蒲が見事です。今夜ご紹介する場所は東京、原宿にある明治神宮です。
都会に緑がないなんてウソ、と、思えるくらい鬱蒼とした森が東京のど真ん中にあるんです。
私はこの森が大好き。ニューヨークのセントラルパークや、パリのブローニュに負けない、いや、勝っているかもしれない美しい森です。
先週、私は行ってまいりました。原宿駅に降り立ち、神宮橋を渡り、右手奥に第一鳥居が見えてきます。この鳥居をくぐると、もう一瞬のうちに森に抱かれる感じがして、心がゆったりとしてきます。椎の木、樫の木、楠の木などが、豊な葉をしげらせて私たちを迎えてくれます。
この明治神宮は、大正九年(1920年)今から88年前に、明治天皇と昭憲皇太后を祀るために造られた神宮です。面積約83、000平方メートル。当時、この辺は代々木御料地のあった所で武蔵野の一部だったそうです。
おしゃれの町、原宿も原宿村だったんですね。この辺り一帯は、農地や草地で林は少ししかなく、荘厳な神社を造るためには、林の造成が必要だったのですね。樹木の多くは全国の篤志家の献木だったそうです。
荘厳な森林というのは、すぐにできるわけではありません。神宮造園のために、当時の最先端の林学・農学・植物学者から造園家まで、多くの人々がこの神宮の森造りに参加しました。
テーマは「永遠の杜づくり」だったそうです。今でこそ車や電車、地下鉄で多くの人々が行き交う原宿ですが、その頃、この辺りは畑と雑木林の淋しい寒村だったといいます。農業を営む人もおりました。
庭園というより、もっと昔の森林の状態を再現する方向ではじまりました。植木の寄付というのが全国規模であったそうです。当時の資料によると、東京市の小学生児童の献木が五千件以上あったそうです。それらの樹木が、今の神宮の南北両参道に植えられたそうです。参道を歩いていると、88年前にここに木を植えてと、小さな手でこの造成現場に献木を持って行った小学生の姿が目に浮かびます。
今、鬱蒼たる樹木がこうしてあるのも、多くの人の献木のお陰なんですね。”昔、昔のみなさん、ありがとう”今、明治神宮の豊かな樹木を見ると、思わず大正時代の多くの先達に感謝したくなります。

六月はなんといっても菖蒲です。
ここの菖蒲は明治26年(1893)年、明治天皇の思し召しにより昭憲皇太后のために、植えられました。優秀な品種を集め、当時は、江戸系の48種だったそうですが、現在は150種にも増え、大株が1500株。今こそ見にいらしてください。
あまりの美しさに息を飲む、そんな感動が体験できます。
花菖蒲といっても一様ではなく、素敵な名前がついているんですよ。
王昭君(おうしょうくん)、立田川(たつたがわ)、九十九髪(つくもがみ)、鶴毛衣(つるのけころも)、五湖遊(ごこあそび)、(写生区域のところに植えられています)雨後の空(うごのそら)、小町娘、江戸自慢、加茂川、利根川、小豆島、酔美人(すいびじん)。この酔美人は、花は小さめですが、白と薄紫が楚々として美しく、私は大好きです。ほかに朝神楽とか大江戸、浦安の舞いなど。
日を追うほどに次々といろいろな菖蒲が咲き誇ります。この菖蒲園を管理し、あれこれお世話なさる方に、感謝したい見事に丹精された菖蒲園です。今週、来週にかけてが一番美しいと思います。私のお勧めタイムは、やはり朝。
私は箱根を早朝に出て開門と同時くらいに行きました。(菖蒲苑開門・8時半)静かでゆっくりお花を見ることができるでしょう。写真を撮る方、写生する方・・・皆さんの眼差しの優しいこと。

さて、明治神宮をお参りしてから、表参道をぶらりぶらり明治通り方向へ行くと。『浮世絵・太田記念美術館』の看板があります。その看板の所を左へ行くと左手にすぐ見つかります。
6月26日まで特別展「蜀山人 大田南畝(しょくさんじん おおたなんぼ)-大江戸マルチ文化人交遊録」が開催されています。
大田南畝は、狂歌師や戯作者、また学者として活躍した多彩な文化人。
絵師、戯曲者、狂歌師、詩人、歌舞伎役者など、さまざまな人々との交流関係が分かる素敵な展覧会です。午前10時半からですから、明治神宮で花菖蒲をゆっくりご鑑賞されてから、こちらに回るのも一興です。(広重も『名所江戸百景』浮世絵の堀切小高園の花菖蒲を描いておりますね)
旅の足
JR山の手線「原宿」駅「代々木駅」
小田急線「参宮橋駅」
地下鉄千代田線「明治神宮前駅」
大江戸線「代々木駅」

NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・小豆島」

香川県瀬戸内海に浮かぶ美しい島、小豆島
“小豆島”・・・といえば皆さま、どんなイメージを抱かれますか?
オリーブとそうめん、醤油、佃煮。そして二十四の瞳。
美味しいものがたくさん生産されていて、気候温暖な、けがれのない島・・・
多くの方がそういうイメージを抱かれるのではないでしょうか?
私にとっても、小豆島という響きは、とても優しいイメージの場所なのです。
そんな小豆島に先日お邪魔してまいりました。

「オリーブ植栽100周年」記念の行事に参加してまいりました。
小豆島のオリーブの起源は、苗木の試験栽培を始めた1908年、明治41年なのだそうです。それから数えて、なんと100年。当時、農商務省は小豆島だけではなく、三重県や鹿児島県などでも、アメリカから持ってきたオリーブの苗木を試験栽培行ったそうです。けれど、他の地域では、木の成長が思うようにはいかなかったそうです。小豆島の西村地区に植えたオリーブだけが順調に育ち、大正の初めには搾油が出来るほど実をつけるまでになったとか。
農業の現場を40年近く訪ね歩いてきた私には、わかります。こちらの島で実るオリーブの実は、多くの方々の努力と、苦労のたまものに他ならないと。
日本になかった植物を栽培するのは、並大抵のことではなかったはずです。文字通り、手探りで、一生懸命、試行錯誤を重ねて、今日があるのだと思います。そのご苦労を想像するだけで、胸が熱くなってしまいます。
私は緑の葉を茂らせているオリーブ園をお訪ねしてまいりました。

何千本と植えられたオリーブの緑の中を歩いてまいりました。木々の間からは美しい瀬戸内の海と青空が垣間見え、不思議な穏やかさに満ちていました。
オリーブの葉の中に、本来なら二枚になるはずの葉が一枚に融合し、ハートの形になるものがあって、それを「幸せのオリーブの葉」と呼ぶのだそうです。ご存知ですか?
さらにオリーブの緑の風に吹かれながら、歩いていますと、この一枚一枚のオリーブの葉に、傷を治し、肌を活性化する成分が含まれ、それゆえに、古代ギリシャ・ローマ時代から生命の象徴とされているということも、思いだしました。
オリーブ園の中には樹齢65年の木もありました。その姿に触発され、イタリアに行ったときに出会った樹齢1000年を越えるオリーブの老木を思い出したりもしました。
イタリアのその老木は、私が見たとき、本当にたわわに実を実らせていたんです。心にわいてくる様々な思いを反芻しながら、のんびり歩みを進めていると、いつしか、小豆島の穏やかな時間の流れになじんでいる自分に気づかされました。
オリーブはご存知のように、ヨーロッパでは、古くから、神様がくれた不思議な力を持つ果実の樹「聖なる木」とされ、平和と安らぎの象徴とされてきました。古代エジプトにおいては、オリーブの枝が、ファラオやツタンカーメンの胸元を飾り、オリーブオイルは清油として神事に用いられたとされています。
古代のオリンピック競技会では、優勝者に授ける冠は野性のオリーブの葉で作られたそうです。
その故事にのっとり、アテネオリンピックのマラソン優勝者には特別なオリーブの冠が贈られましたよね。女子マラソンで優勝した、野口みずきさんにはギリシャ・クレタ島のイエラペトラにある古いオリーブの木から作った冠が贈られたそうです。
「勝者たちは金品ではなく、高い精神性を表すクレタ島のオリーブの冠を得た」
と言われた古代オリンピックにのっとっていたんですね。
“オリーブ大好き”な私。太陽に愛された食卓・・・といわれるイタリア料理ですが、今回お訪ねしたレストランにも、色鮮やかな野菜、豆、新鮮な魚などにも、小豆島のオリーブが使われていました。
小豆島は、瀬戸内海からの島で2番目に大きな島であり、四国の港からも、本州の岡山からも船で渡れる、アクセスだって、とてもいいんです。フェリーも高速船もでています。土庄町、小豆島町どちらにも、ホテル・旅館・ユースホステル、国民宿舎もございます。
小豆島とれとれ市場や、ふれあい産直市場など”美味しいもん満載”の小豆島です。
あの名作「二十四の瞳」の舞台になったロケのためにつくられたオープンセットや壷井栄文学館もあります。
詳しくは、小豆島オリーブ百年祭 観光情報を「小豆島観光協会」にお問い合わせください。
0879-62-6256です。
旅の足は
関西方面からですと  大阪南港・姫路港~
岡山方面からですと  新岡山港・宇野港・日生港・・・等々
いろいろ小豆島へのアプローチはございますし、島内はレンタカー、レンターサイクル、バイク、定期観光バスなどを自由に選択できます。
私は今回、高松港から高速船で土庄港まで。およそ30分でした。
5月の下旬ころからオリーブの可憐な白い花がみられるとか・・・。美しい情景が目に焼きついております。
今夜は香川県小豆群小豆島をご案内いたしました。

NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・徳島県上勝町」

まだ、花冷えのする頃。日本の農山村を旅すると、ようやく目に若葉が萌え立ち、太陽の光が眩しく感じます。季節の変わり目に旅をすると、日本列島の形がなんていい感じに寝そべっているかが分かります。
一番早い桜を沖縄で見て、四国で見て、関西で見て、そして東京は満開の桜が散り始めました。
私の住む箱根の山桜の見ごろはゴールデンウイークの頃。
今夜ご紹介する町は徳島県上勝町です。
今、日本列島過疎化が進み、美しい村々が消えてゆく・・・・と言われますが、今夜は素敵に元気な町をご紹介いたします。「そうだ、葉っぱを売ろう!」で過疎の町が、どん底から再生したのです。
私が上勝町を訪れたのは、満開の山桜がぼんぼりのように、山々を彩っている、春でした。南天、桃、柚子・・・町のいたるところに、さまざまな花が咲き乱れていました。そして、お吸い物のなかで柚子の花が開く美しさを、私ははじめて体験したのでした。
上勝町が「彩り」という新しい産業を生み出し20数年。今や、上勝町は美しい盛り付けには欠かせないあしらいの産地として、全国に知られるようになりました。
急峻な中山間地域である上勝町が、高齢化と過疎の進む厳しい状況の中、若い農林業の後継者を得るために、経営的になりたつ農林業をめざすために、恵まれた豊かな自然を生かす花卉産業に着目したというところの素晴らしさを、改めて、思わずにはいられません。
村おこしや、ブランド野菜つくりといった取り組みは、今も全国津々浦々で行われていますが、どこかの町で成功した例を模倣してしまう例のいかに多いことか。しかし、上勝町では模倣ではなく、自分たちの地域の特性を知り、そこで働く人々の顔を思い出し、さらには、現代のニーズにどんなものがあるかということを考え、この新事業を起こしました。他に例のない、オリジナルな事業です。 
ある日1冊の本が私の元に送られてきました。徳島にある立木写真館が創立123年を記念して自費出版した「いろどり おばあちゃんたちの葉っぱビジネス」というムック本でした。そこにはおばあちゃんたちの、笑顔・笑顔・・・笑顔!
上勝町は徳島の山間地域にある。かつてはミカンの町でした。しかし、昭和56年の記録的な大寒波により町の主要産業だったミカンの木が全滅していまいました。いつもの年なら、4月、5月はみずみずしい新緑におおわれるはずのミカン畑は見るも無残な枯れ木の山になってしまいました。その後、高齢化と過疎化が進み、地域の活気は失われつつあったとか。
転機は昭和61年、農協{現JA}の営農指導員であった人が、大阪に出張した折、あるお寿司屋さんで食事をしていたら、ひとりの女の子が出てきた料理についている赤いモミジの葉っぱをつまみ上げて 「これ可愛い!きれいねー」「水に浮かべてみてもいいわねー」「持ってかえろー」・・とハンカチにそっと赤いモミジの葉っぱをしまう姿に「これ、可愛い?こんな葉っぱが?」
こんな葉っぱ上勝の山に行ったらいくらでもあるのに・・・。
そこでひらめいたそうです。「そうだ、葉っぱだ!葉っぱがあった!葉っぱを売ろう!」
売れる葉っぱと売れない葉っぱの違いの研究、見栄えのいいパッキングの工夫など、上勝町のおばあちゃんを中心に理解を深め、技術向上に努め、その一方で販路も積極的に開拓していきました。「彩」を立ち上げ忙しくなってくると、上勝の町の様子は変わっていきます。
年金暮らしだったお年よりは「彩」で収入ができて所得税を収めるようになり、毎日のように行っていた診療所やデイサービスも、忙しくてもう、それどころではありません。笑顔が満載されている本を眺めながら、自分が必要とされるときに、人は内なる自信を見出し、心の底から笑うことができるのだなぁと感じずいられない現役の笑顔です。
今では商品のメニューは200を越したといわれます。
自分たちの足元を見つめ、地域の特徴を生かした、産業を見つけ出したのです。地に足のついた、無理の生じない、新産業の発見といっていいでしょう。
だからでしょうか。私が町に伺って、感じたのは、”この町はどの世代も、男女を問わず、はつらつと元気いっぱい暮らしていらっしゃる”ということでした。
上勝町で、ふと思い出した言葉がありました。
美術教育で知られる山本鼎の言葉です。
「自分が直接 感じたものが尊い、そこから種々の仕事が生まれてくるものでなければならない」
上勝町には美しい景観が保たれています。
百間滝・・・間近まで歩道が続いていて、春の新緑と流れ落ちる水のコントラストが美しい
殿川内渓谷・・・清らかな渓流と流れに沿って新緑のなかでの渓流釣り棚田の美しさは急峻な山上まで石積みがなされ、先祖の英知が感じられます。
慈眼寺・・・四国霊場20番目鶴林寺の奥の院。お寺の周辺は桜・ツツジ・紅葉の名所として、巡礼者がたえることがありません。
地元の人にとっては見慣れた日常の風景でも私たち旅人にとっては、美しい農村景観は宝です。しかし、その農村の景観は営農を通してつくられる四季折々の景観です。都市生活にちょっと疲れたら、しばしの休息。
そこにそぐわない看板や耕作放棄地、ミニ都市化は宝を失うことですもの・・・旅人は心して、旅をしたいですね。都市と農村がもっと交流することで、”日本のふるさと”はまもられると思うのです。
旅の足
 徳島空港~徳島駅  バスで約30分{430円}
 徳島駅~上勝町   バスで約1時間半
 車の方は
 徳島駅から国道55号~県道16号、新坂本トンネルを抜け上勝町へ。
 バスご利用の方は
 徳島駅前発{徳島バス}横瀬西行
 横瀬西より{町営バス}乗り換え役場本庁前下車。
 町内はフリーバスです。

ラジオ深夜便―若狭から美山茅葺の里へ

たくさんの旅をしながらいつも思うのです。
旅は未来であり、過去であり、そして今であり・・・日常の生活時間とは全く違う時間と空間の中に飛び込むと、私という旅人は、現実の私から旅立ったもう一人の自分として旅しているのに気づきます。
旅する先が、何百年もの歴史のあとをひいた町で、しかも過去の歴史が現在も色濃く漂う場所に立つと、私はタイムマシーンにのってやってきたトラベラーという感じになります。
日本海・福井県若狭湾・小浜の町に出会ったのは20年以上前のことです。
今夜は若狭から、京都府美山町までの旅のお話です。
2月下旬友人3人と私・・・冬の日本海から小雪舞う茅葺の里美山町へ。冬の日本海は、美味の宝庫です。ありとあらゆる魚たちが寒流に身をおどらせ、その肉は海の滋養を存分にたくわえて、漁師の網の中に落ちるのです。
20数年前、始めて小浜の冬の市場は、凍てつくような寒さとは別の熱気が充満していました。前夜、宿で飲んだ濱小町という地酒との出逢いに気をよくした私。
濱小町、これを私の酒=自酒にしようなどと一人ぎめし、いつもより少し飲みすぎて{といってもお銚子2本くらい}ぐっすり寝込んでいました。
なのに、夜明け前。ガバッと飛び起き「なんとしても、市場に行こう」食いしん坊の私はまだ暗い朝の町を駆け出しました。
霧笛が俺を呼んでいる、どころじゃなく、塩焼きの匂いが私を呼んでいるのです。
セリ場のかたわらには、何本ものドラム缶に火がたかれ、商いを終えた漁師や仲買人たちが、暖をとり、コップ酒をチビチビやっては、ドラム缶の下のほうから、いい匂いの魚を取り出しては食べていました。
私も仲買のおじさんに頼んでエビやブリ、カマスなど買ってもらい、ドラム缶の中の焼きアミに乗っけてもらいましたっけ。とれたてのエビは、みるみる紅潮し、殻はてらてらと輝いてうまそうな匂いをあげています。
これが若狭との始めての出会いでした。
小浜・めのう細工の工房を訪ねるのが目的だったのですが・・・。小浜は寺と海産物の町です。
昔から中国の高僧の渡来が多く、今日、国宝級の古寺が132寺、別名海のある奈良ともいわれています。老杉木立に溶け込むように立つ、明通寺・本堂{国宝}と三重塔共に鎌倉時代の建築様式。
若狭最古の鎌倉建築として知られる 妙楽寺 僧・行基が若狭を巡礼した際に彫った「千手観音立像」{重文}等など・・・古寺・名刹が数多くあります。
そして
港町として栄えた頃の遊郭跡が千本格子や紅殻格子でしのぶことができます。それがきっかけで若狭通いがはじまりました。
福井県大飯郡大飯町三森に、私の家があります。この家もまた、取り壊される寸前に出くわし、譲っていただいたものです。別の場所にあったのですが、借りた土地が、私の理想の立地・・・”日本のふるさと”とよべる場所だったのです。
背後に竹林、前に田んぼと佐分利川。だから、家の方をこちらの土地によいしょ、よいしょと運んでもらいました。そうしたら、私が夢に描いた、”日本の農家”が出現したというわけです。
若狭・三森の家、ここで、まず、米を作ろう、そう決心しました。米作りは地元のベテランに手とり足取り教えていただきました。田植えは手作業で、苗を植え、雑草とり、カマでの収穫。田植え行事、収穫には大勢仲間が集まってくれました。
「自然に生かされている・・・」と実感し10年続けました。私のお米の先生・松井栄治さんと奥さん、よし子さんのお陰です。土と水と苗、それを支配する天候。見守る人間。こういう営みの繰り返しで人類は生き延びてきたことを思うと、神聖な気持ちになります。
福井県敦賀から小浜線に乗り若狭本郷へは何度も何度も通いました。ときには京都から山陰本線で綾部に降り立ち、松井さんの車に乗せていただき我が家へ。
今回の旅は日本海・若狭湾には白波が立ち、風が頬を打ち付けます。冷え切った体を我が家で温め、それから夕暮れとき、京都府南丹市美山{旧美山町}の北地区へ。この集落は今や”日本一美しい村””茅葺の郷”として、人口113人の村に年間70万人の人々が訪れるようになったそうです。「てんごり」・・助け合い・・精神もしっかりあり、つい長逗留したくなる村です。京都市内から車で1時間半、日本でも多く茅葺民家が残る村です。
「この風景が・この暮らしが出来上がるのに30年かかりました」・・・と友人の元助役、小馬勝美さんは語られます。地域の景観保全や、ボランティアガイド、田舎体験なども実施され京阪神を中心として春、秋の行楽シーズンは大勢の方が訪れます。
2月末はホッコリと雪に包まれ眠ったように静かな美山でしたが、もう春の訪れがそこかしこに。菜の花が芽吹き、蕗のとうもそっと顔をのぞかせているとか。
雪解け水が勢いよく滝から流れ、春の息吹が感じられると小馬さんは仰います。
今夜は欲張りすぎて、美山を充分にご紹介できませんでしたので、次回、田植えの頃か夏にでもご紹介いたしますね。
旅の足は敦賀から小浜線で小浜まで、その先が若狭本郷、そのまま行くと西舞鶴。
舞鶴線に乗って綾部へ。
そのまま山陰本線で京都へ。
美山へは園部駅から南丹市営バスで約1時間。
京都駅からJRバスで周山バス停まで。同バス停より南丹市営バスで計約2時間半。

NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・白川郷」

今夜ご紹介するのは、もう皆さんご存知の世界遺産〝白川郷〟です。
白川郷は岐阜県と富山県境にあり、正式には岐阜県大野郡白川村人口1900人の集落です。
私と合掌造りの家は、切っても切れない関係にあります。
合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインにたった、といっても過言ではありません。家の骨格というべき柱と梁は、何か私の心の中の骨格でもあるのです。
自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。もう何十年にもなるでしょう。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。
白川郷は冬なら2、3メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。
私は何度も旅をしました。雪の中へ足を入れながら、神聖な気持ちになったものでした。雪を深々とかぶった集落は神々しく、余所者(よそもの)は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
現在、世界遺産に登録されてからは、集落の様子は随分変わりましたが、でも冬、雪深い白川郷は静寂そのものです。
私はいつも名古屋から高山本線に乗り、飛騨古川を経て白川郷へと通いましたが、道すがら、その道筋自体に私の心をふるわせるものがありました。列車が進むほどに山が迫り、やがて渓谷が深く列車の行く手をさえぎる。かと思えば山間に可愛らしい集落を見せてくれたり。いっときも見逃せない自然絵巻が広がります。
思えば35年ほど前から、このルートの向こうに私が求めるものがあると直感し、何度も何度も足を運びました。最初はひとり旅、結婚後は家族と、あるとき乳飲み子をおんぶして。さらにもうひとり生まれると、上の子はしっかり私の手を握りしめてついてきました。私が進む先に、私の求めるものがあると信じていたから通えたのかもしれません。
それが、白川郷でした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は、静謐な祈りのカタチです。そこに佇むと、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。
かつて中学の図書館で見た、民藝運動の提唱者の柳宗悦先生の本に書かれていたフレーズの「ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国をつくろう」という一説が私の胸に宿りました。
白川郷のあるお宅で、大きな柱をさすっていますと、故池田三四郎先生がおっしゃった言葉が浮かびました。「民藝で一番ガラが大きいのが家だ」と。
池田三四郎先生は伝統的な木工技術を生かして広め、用の美の精神を基盤とした「松本民芸家具」の製作を開始した方です。
やがて、旅を続けるうちに、自分の家を作る段になりました。
その頃、各地で後継者がいないからとか、維持できなくて家を手離さざるを得ないという方々がたくさん出るという事態がおきていました。築百五十年もの家がついに壊されるという日、私はその村を通りかかっていたのです。チェーンソーが今にも太い柱を切り裂こうとする寸前、キーンと鋭い音がして、私にはそれが悲鳴のように聞こえました。
その音はまさに民家が号泣しているかのようでした。
昭和四十年代のことです。こうして日本は過去を葬り、高度成長社会に移行していったわけです。このとき、「待って!」と叫んで、譲っていただいた、いくつかの民家の端々が、今、箱根の家で堂々と余生を生きています。
白川郷や五箇山に美しい姿をとどめる民家は八世紀からの遺産だそうです。日本の歴史に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
旅をする時・・・そこが世界遺産ならなおさらのこと、人々は静かにその村を訪れましょう。
1935年(昭和10年)ドイツの建築学者ブルーノ・タウト(1880~1938)が白川郷を訪れました。合掌造りを「極めて論理的、合理的で、日本には珍しい庶民の建築」と高く評価しました。「日本美の再発見」によって広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになったのです。
白川郷にお邪魔すると、我が家の親戚に会ったような安堵感を覚えます。
きっと今頃の白川郷は一面銀世界でしょう。
私の住む箱根は例年より雪が多いようです。雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして、不便な面もあるのですが、雪の中の箱根はなかなかきれいです。
雪の匂いに樹木の匂いがまじって、なんだかとてもゆったりした気分になりますし、雪があたりを覆うと、ふんわりと音を吸収してくれるせいでしょうか、いつもより一層、静寂が深くなるような気がします。
寒い季節に雪のあるところを旅すると、普段見えないものが見えてきます。そして、箱根の我が家に帰り、あちこちの柱に報告をします。「あなたたちのお仲間も立派に生きていましたよ」・・・と。
2007年7月現在 世界遺産に登録されているところは
文化遺産  660
自然遺産  166
複合遺産   25    合計851
人類にとって大切な大切な遺産。 みんなで美しく守っていきたいですね。
旅の足は 東西南北4本の道がありますが、通行止めの場合もありますので必ず確認してからにしてください。マイカーなどの乗り入れ規制もあります。
道路状況などのお問い合わせは
白川村役場
05769・6・1311
白川郷・合掌造りなどの問い合わせは
白川村観光案内所
05769・6・1013
現在は積雪一メートル位ですが、周辺は除雪してあります。ホームページでいろいろ検索できます。
建築に興味のある方は「合掌造りの構造」に詳しく載っております。
今夜は茅葺の里、白川郷をお届けいたしました。

NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く~遠野」(1月24日放送)

今回ご紹介するのは、木も草も石ころも「民話」の主人公に見えてくる岩手県・遠野です。
盛岡、花巻・・・仕事で岩手県に行くと、つい足を延ばしたくなるのが“遠野”です。いろりのそばで聞きたい民話。その民話の世界がそこここに感じられる田園地帯。そこに生きる人と暮らしとの出逢い・・・・懐かしさがこみあげてくるのです。
降るとも舞うともつかない小雪が遠野の里をけむらせる一月、小正月。
春、桜の頃の遠野でおいしい山菜をいただいたことがありました。山からの風がまだ冷たかったのを覚えています。夏、目が洗われるような緑のタバコ畑、たんぼの稲の波。カッパ淵におそるおそる素足を入れてみましたっけ。
でも、冬の遠野は特別。初めて冬の遠野を旅したのは、長女がまだ幼かった頃。
遠野に住む神々と、そこに暮らす人々がさまざまな儀式の中で向き合う正月。ここで暮らす人々がしばし仕事の手をやすめ、一年の労苦をねぎらい、また一年の意気を確かめ合い、神々に祈る小正月。
いつかは訪ねたいと、ずーと思っていました。訪ねたいと思った季節に、好きな所へ旅するのは本当に楽しいことです。
「寒いわ・・・」などと仰らないで。ひっそりと、しかし、ぬくもりいっぱいの遠野に自分自身の昔が重なるような気がするのです。
私が遠野を知ったのは、もちろん「遠野物語」。明治43年、柳田国男先生によって著わされたこの本は、素人ながらも民藝のカタチと心にひかれ、人の暮らしの手ざわりを求めつづける私の、大切な一冊でした。
野づらにも、川にも、山にも、石にも木株にも神様がいて、その神々がときに天狗だったり、雪女だったり、馬だったり、猿だったりしながら人々と出くわし、戒めたり、突き放したり、抱きしめながら、遠野の人々の暮らしに深く深く根ざしているのを、ひとつひとつの民話が語っているのです。
私も、そして多くの人々も生涯、生まれた土地で一生を過ごすことなんてなかなかできませんよね。遠野の方々も、進学、就職でここを離れていくでしょう。
それにしても遠野は不思議な吸引力で郷土の子らをだきつづけるのです。そんな遠野の磁力に、旅人は引き寄せられるのです。
お作立てといって遠野の小正月。お訪ねしたのは小水内家。旧暦正月15日から20日の小正月。ミズの木に栗や粟、マユ玉、豆、餅などを飾ります。農家の広い座敷にきれいな花をいっぱいつけた木が枝を広げて、それはそれは美しいのです。
そして、「お田植え」小雪が舞い、足元から冷えがズンズンと全身に伝わるような寒さの中。一家で前庭へ出て、松の小枝を稲に見立て雪の庭に整然と植えていきます。真っ白な広っぱに濃い緑の苗・・・・、一年で一番寒いこのときに、一年の豊作を祈るのです。
一心に手を合わせて祈るさまは感動的です。
『花巻より十余里の路上に町場三か所あり、その他はただ青き山と原野なり、人煙の希少なること北海道石狩平野よりもはなはだし。{中略}馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。{中略}猿が石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。{中略}附馬牛の谷へ越ゆれば早池峰の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとく、また片かなのへの字に似たり』
「遠野物語」の序文に、柳田国男先生が馬で遠野郷へ入って、ひとまわりした折の遠野の風景が書かれています。今なら、観光は馬ではなくサイクリングかウオーキングですね。
車で走り抜けてしまっては路傍の石や草むらや川に住む民話の主たちと出会えないかもしれません。
さて、遠野は岩手県の中央を南北に貫く北上山系の真ん中、標高1917メートル、山系のうち最高峰、早池峰山のふもとに広がる盆地です。遠野の昔々、そこにはアイヌが住んでいて、アイヌ語でトオヌップ=湖のある丘原といわれていたことが地名のおこりと言われています。
早池峰神社、駒形神社『昔あるところにサ、長者の家サあったどもな。そこの親父が一人娘に馬の子っこ買ってきたんだって。』・・・・ではじまるオシラサマ。馬を大切にする遠野らしい民話ですが駒形神社も馬産の神さまをまつる由緒ある神社です。
『昔あるところに、川サあったどもな。川のほとりの草っこかじりながら、馬の体サごだァごだァと洗ったり、昼食って、休んだどもな。』カッパ淵のはじまり。
民話の語り部  阿部ヨンコさんに聞いた民話。
「民話はね、母親が教えてくれたの。小学一、二年生の冬の間。囲炉裏のまわりで夜ね。三年や四年でなくて、一、二年生の冬の間だけなの。三年になると雑巾縫ったり本も自由に読めるからね。雑誌もテレビもないからね、母親の昔話は楽しみだった」・・・と語ってくださったヨンコおばあちゃん。
ヨンコおばあちゃんがそうであるように、母から子へ、民話は語り継がれて今日まで生きてきたのですね。夕暮れの遠野の野づらに立つとシンシンと底冷えする寒気が足から全身をはいめぐります。
遠野に来ると、この寒さの底で生きてきた人たちの民話を求めた気持ちが少し、わかります。
「銀河鉄道」の夢をのせて走る電車。メルヘンの世界をほうふつとさせます。
遠野は大人のドリームランド。夕暮れから夜へと移ろう頃、枯野を電車が通り抜けます。小正月の頃、冬は上りも下りも乗客などなく、灯りのついた車窓だけが快活で、あえぐように走る電車はせっせせっせと夜の闇へと向かいます。
冬の遠野。
人々に会う、岩手の冬の自然にふれる。あの初めての遠野の冬からもう何回冬が廻ってきたのでしょうか。私にとってもそうであったように、きっとあなたにとっても心象の風景に出会う旅になるでしょう。
旅の足・・・東北新幹線新花巻下車。遠野へは釜石線快速で45分。車で約1時間。宮沢賢治記念館へは新花巻駅から車で3分。詳しくは、遠野市観光協会のHPをご覧になると、「遠野ふるさと村」や「とおの昔話村」など昔の住宅を移築保存している施設などの情報がたくさんございます。
遠野から花巻へ  イーハトヴを巡る旅もお勧めです。

NHKラジオ深夜便-「青森県津軽平野」

今回ご紹介するのは青森県津軽平野です。
今夜あたりの津軽は雪がしんしんと降っているのでしょうか。
私は先週、津軽を旅してまいりました。青森の冬の風物詩といえば、ストーブ列車なのですが、今回は残念ながら、その時間がとれず青森空港に降り立ちました。
友人の西津軽の酪農家、安原栄蔵さんのご案内で津軽平野、浪岡町、黒石、弘前・・と回りました。安原さんとの出会いは「あ、これが本当のアイスクリーム!」と思わず一口、口にした途端、もうぞっこん惚れ込んでしまいました。
安原さんは、青森県では珍しいジャージー牛を導入。自家産の新鮮な牛乳を使ったアイスクリームを作っています。まず向かった先は、一度は訪れたかった津軽の画家「常田健」のアトリエでした。浪岡町でりんご園を営農しながら、生涯農民の暮らしを描き続けてきた常田さん。銀座の画廊で目にした「絵とその画家」展での作品に出合ったとき、感動を覚えました。
胸がキュンどころか、涙があふれんばかりの感動に包まれたのでした。生涯、中央画壇に躍り出るどころか、自分の絵すら売る事もせず、公開することも稀だったそうです。NHKテレビのドキュメンタリーで拝見した常田さんの日常生活は、穏やかなものでした。バッハやムスログスキーのCDを聴きながら絵筆を持つ手を休めず、ひたすら故郷、津軽の人々を描きつづけました。
常田さんは、明治43年生まれ。89歳で亡くなるまで、アトリエで過ごされたそうです。
「土に生き土と暮らし」「「紅いりんごと白い雪ノ下で、ただ絵を描いていれば幸せだった・・・」という常田健。
旧制弘前中学校卒業後、上京して川端画学校やプロレタリア美術家同盟研究所で学び、郷里に戻り、多くの反戦画を描いたことで弾圧も受け、その後は農民が一心に労働する姿を描いてきました。その一点一点に、私は涙せずにはいられませんでした。
1939年の「母子(おやこ)」と題する作品を今回もアトリエで拝見いたしました。頬杖する手は節くれだっています。疲
労困憊する母のそばの赤ちゃんはもるまると太っています。不幸と希望がそこにあるような気がしました。
「土地を守る」という作品は、農民が警官の楯に手をついてふんばって土地を守っている姿が描かれています。常田さんの作品は、反戦や戦いを描くのではなく、淡々と人間を描いているのです。しかしその淡々とした中に、言いようのない人間の苦しみと、さらにそれに屈しないたくましさも描かれているのです。
平凡社から出版されている「土から生まれた」の中の常田健さんの詩を読ませていただきます。
「満足」
冬、春、夏、秋
何回くりかえしてもいい季節だ。
ただくりかえしていてくれれば
それで満足だ。
ただこのくりかえしだけしかないように願う。
「木」
てっとりばやいところ
りんごの木を見るがいい。
音楽などを
かれこれ言うには
及ばないのだ。
木の構造は
生命そのものだ。
そのうねり。
そのわん曲。
その枝。
そのひと枝にまさるものは
ほかにあろうか。
これにまさる音楽もまたないのだ。
底冷えする蔵のアトリエは、お孫さんがストーブを炊き暖めてくださっていました。直前まで飲んでいたであろうカップ、ベッドの横に掛かっていたズボン、ジャケット。壊れかけた土蔵でひたすら絵筆を握り続ける常田がそこに佇んでいるような錯覚が生まれてくる。
制作途中のキャンバス。2000年4月26日突然帰らぬ人となった常田健さんが、そこに笑みをたたえ、背中を丸めストーブに手をあて思索している姿さえ見えてくるのです。ダイナミックな構図に、タッチに、主題に、深くて感動的な思いを味わい、少し戸惑い、作品に歳月があり、その時代に生きてきた人たちの多くの悲しみや痛み、そして喜びや愛も伝わってきたのです。
土蔵の扉を閉めると青森県の信仰の山として有名な岩木山が寒風の青空の中、くっきりとそびえておりました。
「常田健 土蔵のアトリエ美術館」は月に3、4日開館しております。
お問い合わせは  電話―0172-62-2442
交通
町内を縦断する形で国道7号とJR奥羽本線がほぼ並行しています。
鉄道
奥羽本線  大釈迦駅駅~浪岡駅下車
バス
青森市営バス  弘南バスが出ています。
そして、こちらも以前から訪れたかった商店街・・・黒石市の「こみせ」
こみせの町並みが続く「中町こみせ通り」全国同じような町並みの中で、ごく普通の小さな町が普通の暮らしを守り、人々の暮らしを支えています。幅1、6メートルほどの屋根つきの歩道が美しく、立ち並ぶ屋敷も立派で、国の重要文化財に指定されています。
「こみせ」とは、木製のアーケードのことだそうです。江戸時代の情緒を残し、市民に親しまれております。毎年8月には、日本三大流し踊り「黒石よされ」が三千人の踊り手による「流し踊り」も壮観とか。黒石は温泉郷で、山間に五か所の温泉があります。
次回はゆっくり秘湯に浸かってのんびりしたいものです。黒石町までは弘南鉄道弘前駅から30分。
お問い合わせは 黒石観光協会  0172-52-3488
そして、最後に一度は食べてみたかった「津軽そば」を食べに弘前市内に向かいました。江戸時代に生まれた伝統あるそばの特徴は、大豆をすりつぶした大豆粉を使い練った生地を熟成させてから打ち、出汁は昆布と焼き干しでとった
津軽の素朴な汁。今はあまり食べられなくなったとか。弘前・三忠食堂で前もって予約すればたべられます。小ぶりのどんぶりなので、私はおにぎりと一緒に注文いたしました。
料金は480円  電話  0172-32-0831
弘前市和徳(わっとく町)164
人と出会い心を賜(たぶる)そんな人情豊かな冬の津軽平野を旅してまいりました。

ラジオ深夜便-「石川県能登半島」

ご紹介するのは石川県能登半島の輪島です。6月に能登の付け根の橋立、福浦の港町をご紹介いたしましたが、今回は突端の輪島です。
旅をしていて思うのですが、寒い季節に寒い土地へ行くのも旅のコツ。美味しいもの、人情・・・温かさがひときわ嬉しい旅になります。そこに、伝統工芸の世界があればもっと嬉しくなります。
日本は広く、日本は豊か。私たちが住むこの国は、素晴らしい技と知恵の宝庫です。
“日本の日本的なるもの”に気づいて以来、私はこの小さな島国日本に限りない愛着を持っております。
今回の「能登半島地震」は、大きな被害をもたらしましたが、本当に皆さま頑張って復興されています。あの、本町商店街・輪島朝市のおばちゃんたちも元気・元気!魚や干物、野菜や漬物などおばちゃんや、おばあちゃんが声高く売りさばいています。静かな輪島もここだけは、いつも活気いっぱい。手づくりの漬物や干物の何と美味しいことか。今はカニの季節ですね。
11月6日~3月20まで解禁となるズワイガニや甘エビ、殻つき牡蠣など、贅沢な海の幸をはじめ、奥能登の伝統調味料「いしる」やふぐ、鯖、とびうお、はまちなどの粕漬けも美味。
疲れたら、朝市通りにある自家焙煎コーヒーで冷えた体もここでホッとひと息。趣のある珈琲屋さんがあります。
私が能登、輪島を最初におとずれたのは・・・もう20年ほど前になるでしょうか。旅は最良の師や友を私に与えてくれます。今は亡き 漆芸家 角偉三郎さんに出会い、とても女の片手では持ち余る大きさの「合鹿椀」に出会い、木のぬくもり、漆の肌そのものの質感が手にふれ、カタチの強さがしっかりと手につたわったのです。
漆の原点である椀。
何に使われた合鹿椀か。そう両手の中にすっぽりと納まる大きさです。飯盛りだけではなく、なんにでも使われたとのこと。合鹿とは地名で、昔は柳田の漆器と呼ばれていたそうです。大正期に後継者が途絶えましたが、その椀を見事に復元し、独自の世界を築いたのが角偉三郎さんです。父は下地職人、母は蒔絵の仕事の家に生まれ、輪島を代表する工芸家でした。
輪島塗の繊細にして流麗(りゅうれい)な椀の対極にある、土臭くて無骨な合鹿椀。寒村の生み出した椀に出会い、そこから輪島の旅がはじまったのです。
輪島はまさに海の文化の拠点。
北前船や遠い大陸から客人が持ち寄ったものを積み上げて歴史が作られてきました。輪島の人はつねに海辺にたって向こうをみていた気がします。
「海からの文化は、又、海から出ていく文化でもありますね」・・と語っていらした角さん。
そんな輪島にはたくさんの魅力がつまっています。おすすめは、輪島塗の「工房めぐり」です。お問い合わせは輪島観光センターまで。「工房めぐりガイド」のマップがあります。ここに載っている工房は輪島塗の奥の深さを知って頂こうと専用の看板をかかげている有志の職人さんの工房です。マップを入手してから必ず電話連絡し、都合をうかがってから訪ねてください。
木地、塗り、上塗り、蒔絵、・・・輪島塗の工程を学んだら、“ギャラリーわいち”へ。朝市がたつ本町通リの商店街と重蔵神社の間にある「わいち商店街」にあります。「うるしはともだち」をキャッチフレーズに木地師さん、塗師(ぬし)さん、蒔絵やさん9名が集まり、伝統の美を伝えながらも従来の枠にとらわれない自由な発表の場として情報発信と交流の場となっています。と同時に、普段使い出来る素敵な器を買い求めることが出来ます。
ちなみに私はスプーンでカレーライスを食べることも出来てしまう、傷のつきづらい器を買ってまいりました。私の友人の桐本泰一さんも、ギャラリーわいちの仲間です。新しい輪島の魅力を教えてくださった若い友人でもあります。
ご紹介いただいたのは、能登の玄そばを石臼でひいた昔ながらの手打ちそばをいただける「輪島・やぶ本店」。
宿は「民宿深三(ふかさん)」宿のオーナーは深見大さん、瑞穂さんご夫妻。
定年後に民宿をはじめたお父様から受け継ぎ、2000年にお二人の思いのつまった民宿にリニューアル。能登ヒバや杉をふんだんに使った柿渋下地の拭き漆の床が気持ちよく素足で歩きたいほどです。数代前までは呉服屋さんだったということで、蔵に眠っていた箪笥、古布、着物が見事に甦り宿に彩りを添えています。冬の寒さでも温かさを充分に感じるのは、暖房だけではなく、漆の温もりと、何よりオーナーご夫妻のおもてなしです。食事は全てお二人で調理を担当されると伺い嬉しくなりました。
美しい輪島塗の器とテーブル・・・地の新鮮な魚や山菜、そして美味しいお米、朝、夕飯共に大満足でした。他にも素敵な宿、民宿がございます。
交通アクセスは
羽田~能登を1時間で。
東京から上越新幹線「とき」で越後湯沢乗換え、ホクホク線「はくたか号」利用
大阪から特急「サンダーバード号」で和倉温泉へ。そこからはバスで輪島へ。
金沢からは能登有料道路にて輪島まで。
おすすめは輪島市コミュニティバス「のらんけバス」各ルートがあります。
輪島、和倉特急バスも1日4往復、和倉温泉始発のJR特急も便利です。
輪島~金沢直通バスもあります。
最後に、今回の災害で大きな被害をうけた輪島市門前町。
震災で法堂や仏殿など建物が傾いたり壁が崩れる被害を受けた曹洞宗の総持寺祖院では、雲水と僧侶の方々が復興義援金を募るため托鉢をし今後は県内各地のほか富山市など県外でも予定しているそうです。
復興に頑張っている輪島を是非訪ねてください。
それも大きな支援になります。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く」

今回ご紹介するのは愛媛県内子町・石畳地域です。
まず最初に内子町について少しお話しさせて頂きます。
明治の家並みの美しさ、白壁・なまこ壁の町並みは皆さんご存知のことと思いますが、内子町は愛媛県の西南部に位置し、東西15、5km、南北14、5km、に位置しており、68%を山林が占める農山村です。
松山市からは約40キロ
松山から内子まではJR予讃(よさん)内子線で25分
車なら松山インターから高速松山自動車道で約25分
平成17年1月1日に、旧内子町、旧五十崎町、旧小田町の3町が、合併し、新内子町が誕生しました。
町の目指すべき姿として、「エコロジータウン・うちこ」をまちずくりのキャッチフレーズに揚げています。
町中を小田川、中山川、麗川が流れ、農家と農地が散在し、標高200~300米の山腹や丘陵地には、かつては葉タバコから現在現在は果樹、施設園芸など、谷間に美しい自然と農村の景観が形成されております。
町内に目を向ければ「町並み保存地域」にみられるように家々は、見事な鏝絵(こてえ)が残り、漆喰芸術の数々が見られます。
江戸から明治期には養蚕業、木蝋、大正期は生糸で栄えてた町。今でも当時の繁栄がしのばれます。
私は早朝、町並みを歩いたことがございますが、人々が声をかけ合い清清しい空気がそこには流れておりました。
そして、なんといっても内子といえば「内子座」・・・。
地方に残る貴重な芝居小屋。文楽や歌舞伎も演じられる小屋です。昨年は、十八代目中村勘三郎の襲名歌舞伎公演も行われました。なにも開催されていない時には内部を見学できます。
私は舞台下の奈落を見学させて頂き、築90年、木造建築の2階建てのこの小屋をよく改修復元したと感心させられました。地元の方々の熱き思いが伝わってきました。
もともと、この小屋は農閑期に農民が歌舞伎や文楽などを楽しんだ小屋です。こうした背景には地域の人々の伝統文化の保存、継承、農村が持つ信仰の熱さ、念仏講や秋祭り、神社での神楽、子供相撲、炭焼きの復活など、地域の個性的な景観が人々の手で守られております。
「町並み」から「村並み」へをキャッチフレーズにして、”今”・・・という時代にマッチした町づくりが行われております。
さて、今回ご紹介する”石畳地域”は町の中心部から約12km、「小田川」の支流「麗川」源流域に位置する、農林業を主体とした人口380人の小さな地域です。
過疎、高齢化が進むなかで、「このままでは集落が消えてしまう」、「石畳に誇りに思える地域をつくりたい」と昭和62年、農家の若者や町職員12名の有志(現在25名の会員)が「石畳を思う会」を発足させました。
未来を担う子供たちに何を残すべきか・・・未来への投資のために汗をかこう!
そして、
地域の歴史を伝える水車小屋を自費で復元。
水車公園の整備
地域を流れる麗川の蛍の保護。
樹齢350年といわれる「東のしだれ桜」地元の石工職人によって美しい石垣が築かれ、毎年4月には、集落の人々が桜の下の民家で「桜まつり」を開催し多くの人で賑わいます。
そして、地域の名所は「弓削神社の屋根付橋」 杉皮で葺かれた屋根はそれはそれは美しいです。
橋脚も昔ながらの工法で改修され、「結い」の精神が残る集落。従来の「行政におんぶにだっこ」的な考えから自立し
た集落づくりに頑張っておられます。
「地域の文化を大切にしよう」
「自分たちでできることは自分たちの手でやっていこう」
そして、内子町全体では”グリーンツーリズム”に力をいれています。町内には宿が13軒あります。私も泊まったことがございます。
「ゆっくり農村体験をしてほしい」・・・とどこの農泊の方々も仰います。

石畳地域には町営民宿「石畳の宿」があります。明治中期の農家を移築復元し、懐かしい雰囲気が漂う宿泊施設。地域の農家主婦が地場の素材を使い手料理でもてなしてくださいます。
こちらは、JR内子駅より車で30分。
定員は12名。
囲炉裏を囲みながら田舎料理、旬の野菜の煮物や山菜のてんぷら、囲炉裏で焼く川魚・・・など山里でのんびりと、地元の人たちの温かなもてなしを・・・心あたたまりますよね。
そうそう、内子には幻の名酒といわれる地元の棚田米使用の純米大吟醸生酒もございます。
肌寒くなった秋、紅葉を見がてら旅がしたくなりました。

ラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く」

今回ご紹介するのは、福島県舘岩村(たていわむら)です。
この村は2006年3月に合併し現在は南会津町 旧舘岩地域となっております。人口2200名。
「ヘルシーランドたていわ」ほんとうの自然と、いろり端の暖かさを残した、素朴でやすらぎのある村をめざし高山植物の宝庫であり、田代山湿原や湯ノ岐川、西根川、鱒沢渓谷の季節の移ろいの美しさは素晴らしいです。
舘岩村は、福島県の西南端の栃木県境に位置し、四方を1.500m級の山々に囲まれ、面積の95%が豊かな森林に覆われた、まさに「山紫水明」の美しい山村です。会津若松から車で、おおよそ2時間。現在は「会津鬼怒川線」が開通しているので東京からは電車・バスで4時間の地点となりました。
冬季は気温が低く雪に閉ざされますが、様々状況を克服するために行政・住民が一体となって、美しい山々、いわなが住む清らかな川、そしてひなびた湯の花・木賊温泉といった豊かな自然を大事にしながら、スキー場もあり若者にも魅力ある雇用の場も確保しています。
交通手段は
電車の場合・・・浅草から東武鉄道鬼怒川温泉を経由して会津高原尾瀬口下車。そこから会津バスで40分。舘岩村下車
車の場合・・・東京から宇都宮・・東北自動車道で西那須野・塩原ICから400号で上三依。そこから121・352号線を経て舘岩村へ。
新幹線の場合・・・東北新幹線郡山。磐越西線で1時間、会津鉄道で会津若松・会津田島経由、会津高原尾瀬口下車。会津バスに乗り換え舘岩村へ。会津高原からのバスの車窓から見える風景は素晴しいです。
村は、4つの地区に大きく分かれますが、どこも自然と調和のある村づくりを目指しています。
① 上郷地区は、スキー場を中心としたヨーロピアンスタイルのホテル、ペンションなどリゾート地環境が形成されています。
② 湯の花地区は温泉地で田代山も近いため自然を生かした滞在型。木賊温泉の共同浴場・露天風呂は700年前からあるとされ、地域住民の井戸端会議の場でもあり観光客・釣り客のふれあいの場になっています。(ちなみに、私はまだ入っておりません。次回はぜひ!)
③ 下郷地区は公共施設が集まっていますが、貴重な「曲家」が数多く残って いる前沢曲家集落もこの地区にあり、景観にあった保存がされています。
曲家とはエル字型の平面をもつ民家で、かつては農耕馬とともに生活をしていました。
囲炉裏のある、うわえん・したえんにある「ユルリッパタ:囲炉裏辺」では家人ないし客の座る場所が決まっていました。
③宮里地区は「さいたま市立舘岩 少年自然の家」があり都市との交流も盛んです。貴重な露天風呂もあり、地域は、2,059mの帝釈山を最高峰とし緑の山と清流に恵まれ、新緑・紅葉と四季折々の景観が美しいです。
伝統文化の保存にも住民の皆さまは積極的に取り組んでおられます。”湯の花神楽”いつ頃から始まったかは定かではありませんが、「舘岩 民俗芸能保存会」によって継承されています。
17歳の私はヨーロッパに一人旅に出たのですが、その農地の広大さに感動し、食料の自給できる国は滅びないと聞いたのも、この旅のときでした。
イタリアもフランスもドイツも、都市からほんのちょっと離れただけで、農村の風景は変わります。地平線まで真緑の麦が青々と揺れて広がって、まるで麦の海原のように見えたこと。忘れられません。
地方は高齢化、過疎化も進んでいますが、舘岩の方々の「村への想い」には頭が下がります。
今は亡き東京大学名誉教授でいらした木村尚三郎先生は、あるシンポジウムで次のようにおっしゃいました。
「その土地ごとに、暮らしの在り方や知恵があります。全世界どこでも共通する技術、文明を追求する時代から、その土地にしかない生きき方、そこに安心の根拠を生み出す時代に、今、全世界が大きな転換期を迎えています。技術文明の時代から、土地ごとの地方文化の時代です。土の匂いのするものが再び大事となり、ふるさと志向が生まれています・・・・」
この言葉を聞いたときに、私は身体が震えるような感動を覚えました。
「土の匂いのするものを大切にする」
「その土地に生きることを自分の中心に据える」人が少しづつ増えていったら日本は変わる・・・・そう信じております。
舘岩の赤かぶの栽培の歴史は古く、この種類のかぶは舘岩村でしか赤く育たないとか・・・。 伝統的な食べ方として、かぶ飯・かぶ練りなど数多く伝承されています。
集落内の水路や水場は今でもお野菜や洗濯物の洗い場として女性達の交流の場として使われています。
昔、木地師たちが、山仕事を始める前に山の神へ供え、作業の安全を祈願して食べていた「ばんでい餅」も美味。味は、うるち米のあっさりとした食感でじゅうねん味噌の香ばしさが食欲を誘います。
紅葉の季節、露天風呂にでも入り村の方々とおしゃべり・・・なんていいですね。