「徹子の部屋の花しごと」

今回のラジオのゲストは花を活けた回数1万回以上。テレビ朝日『「徹子の部屋」の花しごと」』をお書きになられたフラワーアーティストの石橋恵三子さんです。

石橋さんは1940年、東京・文京区のお生まれ。日本のテレビ黎明期から、様々な番組作りを支えてこられました。テレビや映画で使用される花や食べ物を指す業界用語「消えもの」を日本で始めて担当し、放送開始から42年を迎えた名物番組「徹子の部屋」では、その日のゲストに合わせて初回からずっと花を活け続けていらっしゃいます。

テレビをご覧になった方々も、ゲストのお話はもちろん、中央に飾られている花に目がいきますよね。事前に調べておいたゲストのイメージメモをもとに、アレンジを組み立てていくのだそうです。

その日のお花の状態を見ながら、そしてご自身の直感を信じながら、アレンジしていくとのこと。まさに番組や黒柳さんの伴走者でもあります。番組で飾った花は毎回アルバムに保存し、活けた花の名前も全て専用ノートに毎日記録しているとか。

ラジオではゲストとの”石橋ミラクル”と呼ばれる奇跡を呼ぶお話もうかがいました。事前にゲストが誰かを調べて、その人の最近の出演作や近況からイメージを膨らませて飾る花をきめるのだそうです。

時には季節はずれの花(たとえば桜など)もそろえます。特に想い出深いのは高倉健さん。とおっしゃいます。高倉さんの好きな花が「都忘れ」であると聞き、収録に間に合うように頑張って房総まで調達しに行き、生けたそうです。

せっかくなので花束にして収録後に差し上げたら、その都忘れの花束から1本抜いて「ありがとう」と石橋さんに差し出してくださったとのこと。「なんて粋で素敵な振る舞いでしょう!」とおっしゃいます。

結婚や出産、女性がそれらを仕事と両立させていくにはどれほどのご苦労があったことか。一番の理解者はご主人。輝きながら仕事をする石橋さんを精神的に支えてこられたのですね。

『私にとって花とは何か。あらためて考えてみると、それはやはり「人生そのもの」。花がきっかけで人と出会い、仕事になり、その仕事が私の生活を支え、何にもかえがたい生きがいをもたらしてくれました。花があって生かされた私。死ぬまで花に囲まれていたいと思っています。』と目を輝かせて語る石橋さんはまるで少女のような美しさと、仕事をする女性として凛とした姿。眩しいほどでした。

私も「徹子の部屋」には何度か出演させていただきましたが、白と赤の花がいつもバリエーションを変え徹子さんと私の間、真ん中に生けてくださいます。

そして、収録の日は素敵な花束を頂戴いたしました。テレビスタジオとはまた違い濃いローズ色のダリアとユリなどシックな大人の色の花束でした。

素敵なお話をうかがえました。
ラジオをぜひお聴きください。そしてご本を手にとってください。

放送日は10月14日(日)、10時半~11時
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」

川と遊ぼう。土手の草花

夜明けどき、深い穏やかな眠りのなかにいた私は、家の遠く近くでする小鳥のさえずりに目を覚まします。”あのいそがしげな鳴き声は、ほととぎすかしら?そう、ほととぎすは「時鳥」と書いて夏の到来を告げる鳥。古来詩歌のなかでも、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が四季の代表的な詠題とされていますね。

お布団を抜け出して縁側の雨戸を開けると、まだ眠気からさめきらない私の顔にさっと一陣の潮風が吹いて、全身に気持ちのいい目覚めを促してくれます。

ここは、福井県若狭の地。私が25年ほど前に古い茅葺の農家を移築して、私自身へのプレゼントとして設けた「故郷の家」です。

朝の冷気を家じゅうにとりこんでやるために、開け放った硝子戸。目の前には、田植えを済ませたばかりで水を満々とたたえた田んぼが、シンとして広がっています。水田の水面はまるで巨大な鏡のように、しだいに明けてくる空を、周辺の山々を、そして木々の木立の姿を、くっきりとその鏡面に映し出すのです。

私はパジャマのままで縁側に座って、いつまでも、時を忘れてその美しさに見入ります。

水田水  なみなみと日の 上りたり     石原 船月

私の桃源郷のような故郷の家です。

東京下町の小さなダンボール加工工場を営む両親のもとに生まれた私。あの東京大空襲ですべてを焼け出され、命からがら逃げ出し住んだ場所が多摩川のほとりにある武蔵小杉でした。

4軒長屋の水道もない家。かまどでごはんを炊き、バケツに水を汲みゴシゴシ洗濯板でこすりながらの洗濯。子供心につらくもあり、楽しい日々でした。近所のおばちゃんたちには「みえこちゃんえらいね、きょうもお手伝い」と褒められ、おかずのおすそ分け。下町の風情の残る人情豊かな思い出・・・。

「故郷がほしい」・・・それが若狭の家です。現在は私の近畿大学での教え子たちが、田植えや、野菜作りに大阪の大学から、また社会人になったOBたちも集い、彼らの「故郷」になっています。若い日々、そうした体験をすることの素晴らしさを私自身が一番知っているからです。

水泳を覚えたのは武蔵小杉に暮していた子ども時代。多摩川でこちらから泳いで東京にタッチし戻る。子供達にとって”川と遊ぶ”は日常でした。武蔵小杉は現在は高層マンションが建ち並び、大都市に様変わりしたそうです。

そこで見つけた素敵な本。

川と遊ぼう。多摩川ノート 土手の草花」(北野書店)。

著者は映画「釣りバカ日誌」にレギュラー出演するなど個性派俳優として幅広く活躍している俳優の中本賢さんです。1956年浅草生まれ。主な著書に「多摩川自然あそびガサガサ」「ガサガサ探検隊」など多摩川近郊に移り住んで多摩川の土手や川原で見られる95種の草花は、どれも個性的。素敵なガイドブックです。

この30年間で、多摩川も大きく変化したそうです。私の子供時代の綺麗な多摩川、汚染された多摩川、また美しい流れになり戻ってきた多摩川。

河川敷で小石の投げっこや、石拾いをし、ポケットにいれてその温もりをたのしんだり・・・の子ども時代。

河川敷の中でも、礫(れき)川原といわれる砂利や小石が広がる川原が、全国的に減っているのだそうです。多摩川流域の小学生と一緒にフィールドワークも行っている中本さん。

四季おりおりの動植物をご紹介している本です。「身近な場所で野生の植物を観察する楽しみは、名前を知ることだけではありません。どのような環境で、どのような生活をしているかを感じることがオモシロイ。自分が暮す街がどのような場所なのか、地域の人々がどのように暮しをしているのか・・・草花はありのままを伝えてくれます」とおっしゃる中本さん。

「ワタクシ、道草がやめられません。」素敵なお話をラジオでお聴きいたしました。そして、収録後、帰りぎわに「浜さん~、子ども時代を過ごした武蔵小杉の多摩川べりにもたくさんの草花が咲いていますよ!ご案内するから遊びに来てください!」とおっしゃってくださいました。夏になったら70年ぶりに多摩川に行ってみたい!と思いました。

そのときには中本さんにご案内していただこ~と、思いました。懐かしい多摩川。懐かしい子ども時代。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜 10時半~11時
7月1日放送

鎌倉には青木さんがいる

老舗人力車、昭和から平成を駆け抜ける!
鎌倉に人力車の風景をつくった男、青木登。
と書かれた本に出会いました。

かねがね青木さんのお話は聞いておりました。
”すごい素敵な人が車夫として還暦を迎えても現役なのよ!それが、古希を迎えられたとのこと。

編集者の古谷聡さんとともに書籍化されたご本が出版されたので拝読し、どうしても乗せていただき、その人生哲学を伺いたいと、文化放送のラジオ「浜美枝のいつかあなたと」でご一緒している寺島尚正アナウンサーと共にスタジオを飛び出して”いざ鎌倉へ”。

青木さんは鎌倉の観光人力車のパイオニアです。駅前で待ち合わせ、さっそく乗せていただき、まだ人通りの少ない小町通りから静かで、緑豊かな住宅街を抜け、鶴岡八幡宮、そして西へと初夏の風を抜け人力車は奔ります。

あちこちで街の人から声をかけられる青木さん。藍染の半纏、茄子紺の股引、真っ白なはだし足袋。短く刈り込まれた頭髪、細くねじった豆絞りがきりりとしめられ、その風貌はまさに『職人』。人力車もピカピカに磨かれています。黒い車体と赤い座席の鮮やかさがなんともレトロですが、気品にみちています。

青木さんは、1948年、茨城県生まれ。
中学卒業後、ブリジストン横浜工場や他で勤務後、旅好きの青木さんが飛騨高山の観光人力車に魅せられ、独立。その後1984年、鎌倉で観光人力車の事業を始め、長年に渡り、鎌倉の商業、観光の振興に貢献されてきました。でもご苦労もあったようです。

大手の人力車業者のフランチャイズ店の参入など。でも「鎌倉にきていただいたからには、良い、思い出を持って帰っていただきたい」といっさいの客引きはしないこと、名所旧跡に関する豊富な知識と細い裏道まで精通した観光案内は、長年かけて培われたその技術はだれにも真似ができません。開業以来の無事故無違反。走りはどこまでも滑らかです。

開業した頃からずっと、「70歳まで人力車を引き続けるんだ」と公言していたそうですが、今は『生涯現役』を目指しているそうです。陰でどれほどの体力維持のためのご努力をなさっていることでしょう。『鎌倉の品格を大切にすること』これだけは絶対に曲げることはできません。と笑顔で語られる青木さんの顔が眩しく感じました。

本に書かれている営業のご案内
30分コース・・・・・2名様で3,000円
60分コース・・・・・2名様で10、000円

★事前予約制 電話 090-3137-6384
★通常運行時(ご予約がない時)は市内で客待ちをしております。
お気軽にお声かけください。(料金は予約と変わりません)
★7月下旬~8月下旬は夏季出張につき、草津温泉にて営業。

奥様が女将をしている「茶房有風亭」も落ち着いた和の空間が楽しめます。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
放送6月10日(日曜日)
10時半~11時

樹木医 和田博幸さん

今年は全国的に桜の開花が早かったですね。
みなさん、おひとりお一人に桜についての”想い”があるのではないでしょうか。

私もず~と昔、岐阜と富山の県境に400年もの樹齢を誇る老桜樹がダム建設のために水没してしまう・・・ということになり、数人の男たちの桜へのひたむきな想いによって移植され、今もなお季節がめぐるたびに美しい花を咲かせてくれる桜を何度も見に行きました。

『桜守(さくらもり)』という小説を読んでのことでした。自ら土になって木の存亡に生命(いのち)を燃やすひと。私にそういう男たちの存在を教えて下さった・・・作家、水上勉さん。

初版は昭和43年。御母衣(みほろ)の桜を初めて見たのは移植して何年も経っていましたから、もうしっかり根づいている印象でした。

“あ、これが、あの桜・・・”と、小説世界とだぶらせて思い入れもひとしおでした。老樹とは思えないほど花が初々しかったのが印象的でした。あれから何度も何度も御母衣の荘川桜を見に旅にでました。

そう、40年近く前のことです。ある時、仕事で水上先生と対談をさせて頂く機会に恵まれ「桜守」の話になりました。小説の中には、木と人間の様相が重なったり、木で人を語ったり木の中に人の真実をみたりで、大変興味深く拝読しました。と申し上げ、なぜ私たち日本人はこのように桜に惹かれるのでしょうか、と伺いました。

「散る」とは「咲く」こと。
桜の生命の長さに私たちはひきつけられるのです。・・・とおっしゃられました。

そうですね、散るはかなさではなく、散ってまた咲くということに憧れるのですね。人間の生命のほうがはかないかもしれませんね。桜は日本の国花ですね。と申し上げたら、先生はこうお話になられました。

「そうです。国学者の第一人者であった本居宣長さんが、『敷島の大和ごころにたとうれば、朝日に匂う山桜』とうたいました。そこからきていると思います。万葉の歌人たちはみんな桜を愛し、西行も含めてこの世の諸行無常をいう人たちも、無情のひとつのヒロインとしての桜を愛でた人が多いのですね。」

「桜というのはせっかちな日本人の気質にも合っています。360日辛抱して、六日ほど咲いて、見に行ったら雨で、二~三日おくれたらもうあかんしな。一生に一度めぐり会えるかどうか。素晴らしい桜とはそういうものだと思いますよ。」と。

お花見が終わると、どうしても私たちは桜のことを忘れてしまいがちです。咲き終わった後の桜の木の手入れはどうされているのか・・・。とても興味がありました。そこで出会ったのが、樹木医の和田博幸さんです。

和田さんは、山梨県北杜市の山高神代桜を復活させたことでも有名です。ぜひお話を伺いたくラジオのゲストとしてお越しいただきました。貴重なお話でした。

和田さんは、1961年、群馬県のお生まれ。東京農業大学卒業。最初は草むしりのアルバイトがきっかけだったそうです。「草むしりはとても奥深い」とおっしゃいます。「丁寧に作業を続けていくうちに、山野草が咲き誇る美しい庭が出来上がる。」そんな仕事ぶりが目にとまり、桜の名所づくりを行う財団法人の研究員を経て、たちまち桜に魅了されていきました。

2015年には、和田さんが手がけた神奈川県座間市の緑道(りょくどう)の桜再生プロジェクト「相模が丘 仲良し小道さくら百華の道」が完成しました。他にも数々の桜のお医者さんとして、全国をめぐっておられます。

私も人生一度は行きたいと思っている鹿児島県・屋久島の屋久杉などのお話。樹齢1000年を越す木が全国にありますが、長生きする木とそうでない木のお話などなど時間を忘れて伺ってしまいました。

みなさん、ご記憶ございます?
2010年に鎌倉の鶴岡八幡宮のオオイチョウが倒れてしまいましたが、倒れた後に根元から新しい芽が出てきた、と報道されましたよね。その生命力に私は感動致しました。

今日もまた、桜の再生請負い、日本全国を飛び回る和田さん。

「手を差伸べれば桜は応えてくれる」とおっしゃいます。
お花見で桜が終わっても、散った後にも想いをはせたいですね。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
5月13日 放送
10時半~11時

100歳まで動ける体になる「筋リハ」その2

先週に続き、今週も『筋リハ』です。先日スタジオに久野譜也(くのしんや)先生をお迎えし、直接お話とスクワットなどの仕方も指導していただきました。大変参考になるお話でした。

久野先生は筑波大学 大学院教授で1962年生まれ。スポーツ医学の分野において、中高年の筋力運動をはじめ、筋肉が減少して脂肪が増えるサルコペニア肥満、健康政策などを研究されておられます。全国の自治体や健康保険組合に、健康増進プログラムなどを提供しています。

年齢を重ねても、いつまでも元気でありたいですよね!私たちは加齢により筋肉の衰えから、疲れやすくなったり、太りやすくなったりするそうです。それはどのような仕組みなのか。専門分野の先生にお話を伺い、衰えさせないためにはどうしたらよいか?など貴重なアドバイスをいただきました。

ご著書を読んで頂くのがより分かりやすいと思いますが、まず『3つの柱』があります。

★筋肉運動(筋リハ)
★有酸素運動(ウオーキングなど)
★バランスのとれた食事

筋肉が脂肪に変わってしまうこともあるそうですよ~! 筋リハとウォーキングをセットにして行うといいようです。ウオーキングは1日8000歩の目標が適切だそうです。

でも、そんなに毎日歩けるかしら・・・と思わずつぶやいてしまった私に、心強いお言葉をいただきました。

今の科学では『歩きだめ』が可能!とのこと。ウィンドウショッピングでも、ちょっとした散歩でも家の中での家事など、トータルの歩数。今日少なければ明日・・・つまり1週間で5万歩が目安だそうです。

20分以上歩かないと脂肪が燃焼しないという神話は、今の科学で完全に否定されているのだそうです。1日に何回に分けても大丈夫だそうです。

筋肉を動かせば”認知症を防ぐ働き”も期待できるそうです。

運動で体を動かすと、筋肉組織からイリシンが分泌され、このイリシンが血液を通して脳に入ると、脳内で「BDNF(脳由来神経栄養因子)」という物質の分泌を促すのだそうです。

認知症はなんとか避けたいですよね!誰でも。頭を使って室内で「脳トレドリル」よりも普段から”頭”も”体”も両方ともしっかり動かすことが大事・・・だそうですよ。

でも、3日坊主にならずに運動をつづけるにはどうしたらよいか、も伺いました。

是非番組をお聴きください。
そして久野先生の分かりやすい本をご覧ください。

文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
4月1日(日曜日 )放送
10時30分~11時

『手を洗いすぎてはいけない』

超清潔志向が人類を滅ぼす。

なぜ、きちんと手洗い、うがいをしているのに、風邪をひいてばかりなのか?

と帯に書かれています。

インパクトのあるタイトルですよね。この本を書かれたのは、東京医科歯科大学の名誉教授の藤田紘一郎さんで、ご専門は、寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学です。著書も多く、「こころの免疫学」、「アレルギーの9割は腸で直る!」などがあります。

この本を手にして読み始めると、まさに”目からウロコ”。

現在インフルエンザが猛威を振るい日本全国に広まっておりますし、去年4月には季節外れのインフルエンザが流行しました。私ももちろん予防接種は受けており、お蔭さまで今までかかったことはありません。

先生の本を拝読していると『日本人の体が、感染症にかかりやすいように変わってきているのです。』とあります。

そして「ウイルスは微生物のなかでもっとも原始的な生物で、空気中では増殖できません。彼らが生きていくためには、宿主が必要です。空気中ではただ漂っているだけのウイルスも、いったん人の体内に入り込むと、宿主の細胞にとりついて自分自身のコピーをどんどん増やしていくことで仲間を増やします。そのとき、ウイルスの猛襲を抑え、撃退するのは、個人の体の強さです。その抵抗力が弱くなっていると、ウイルスは自らのコピーをどんどん増やしてしまい、それがつらい症状となってあらわれるのです。」と書かれています。

「手を洗いすぎる人ほど、風邪を引きやすいのです。」

自分の体が、感染症に抵抗できる力をどれほど持っているのか・・・・。先生はその一つが”ノロウイルス”への感染だとおっしゃいます。

感染によって胃腸炎を発症してしまうようならば、大人も子どもも病気に抵抗力、すなわち『免疫力』がかなり弱くなっている、とおっしゃいます。免疫力というのは、人の体内に備わっていて、病気を予防し、治す力・・・といわれますよね。

ではどのようにしたら『免疫力』を高めることができるのか。やはり直接お話を伺い教えて頂きたく「浜美枝のいつかあなたと」の番組にご出演いただきました。

スタジオでお話しを伺うと、なるほど!・・・と納得の連続でしたし、本を読むうちに『人も自然の生き物』であることに気づかされます。

先生が『手を洗いすぎてはいけない』とおっしゃる背景には、身の回りにいる雑多な微生物の存在を認めることが大事なのですね。

日本人は清潔好きです。ただ過剰に敏感になりすぎ「手洗いとうがいこそが大事」とばかり、日に何回も石鹸でゴシゴシしすぎ免疫力を低下させ、子ども達に”泥んこ遊び”をさせなかったり、家の中を神経質なほど清潔にしすぎたり、空気中を舞う土壌菌を自然と吸い込み”腸内フローラが育まれることをもう少し知ることも大切ですね。

先生から腸内環境を整える食材も教えていただきました。よく言われる発酵食品、食物繊維・・・などラジオをお聴きください。

ほんとうに、”目からウロコ”でした。

それから、私はいつも不思議だな~と思うことに「マスク」があります。世界を旅していてこれほど街を歩くときマスクを使用しているのは(中国など環境汚染がある場合は別ですが)日本人だけではないでしょうか。

先生に伺うとマスクをしても、インフルエンザや風邪の予防にはあまりならないとか。手洗いは汚れた場合を除いて、軽くこすりながら、流水で10秒間流すだけで充分とのこと。

超清潔志向が日本人の体力の低下を招いているのかもしれません。「キタナイ」「キモチワルイ」「フケツ」といって大人たちが虫や微生物を殺す姿を子ども達はみています。

もちろん、病気をもつ子どもや大人は別ですが。

今回、先生のお話しを伺い、本を拝読し、『免疫力』の大切さをあらためて考えました。

文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
日曜日10時半~11時
放送日 2月25日

50周年の岩波ホール

創立50周年おめでとうございます。

神田神保町の岩波ホールが2月9日に50周年を迎えられます。ミニシアターの草分けで、映画文化を私が学んだのは岩波ホールでした。

世界の埋もれた名作を次々に上映し、欧米だけでなく、世界各地のアフリカ、中央アジアなど私が見始めた頃は全く知らない国々の映画にも出会えました。

シネコンで観てももちろんいいのですが、私のような時代の映画育ちには、やはり岩波ホールのようなミニシアターがしっくりきます。でもこのようなシアターが苦境にあり、閉館が相次いでいるのも事実です。

スマートフォンやタブレットで見る習慣が若者達に広がる中で、映画はやはり”スクリーン”で。そこには高い志があったからこそ「いい映画」を私たちに提供してくださるのです。

今日で終わってしまいますが文豪モーパッサンの名作「女の一生」ももちろん観ました。19世紀のフランスを舞台にした若い娘が妻へ、母へ、そして・・・この女の一生を気鋭ステファヌ・ブリゼ監督が新たな作品にと仕上げ、自然の素晴らしさ、時代考証が入念なので衣装も背景すべて、役者の芝居もまるで今この時代に存在しているように心が揺さぶられました。

岩波ホールでは映画監督の羽田澄子さんのドキュメンタリーも上映され続けています。「エキプ・ドシネマ」(フランス語で、映画の仲間の意味)という運動が1974年に起きます。

世界の埋もれた名作を発掘して上映するこの運動の中心として活躍したのが総支配人・高野悦子さん(2013年死去)でした。後を継いだのは岩波律子・支配人です。

どんな思いで継がれたのか、やはり直接お話を伺いたくてラジオのゲストにお迎えしました。

岩波律子さんは、岩波書店と岩波ホールの社長だった父・雄二郎さんの長女として、東京に生まれました。1975年、学習院大学大学院・仏文科修士課程を修了し、翌年フランスに留学。フランス語で日本文化を学ばれたそうです。1979年、岩波ホールに入社し、外国部、宣伝部、編集部を経て、1990年に支配人に就任。翻訳書に「カメラの旅人 ある映画人の思索と回想」があります。

神保町の交差点からすぐのところに岩波ホールはあります。私はいつも地下鉄で行きます。とても便利でそのまま上がればホールのある建物に入れます。

支配人として大切にしていることは、他の映画館の映画の予告編を入れないこと(これは見る側には有難いです、作品に集中できるから)。

映画の初日にはご挨拶をし、感想を言われるととても嬉しいそうです。客席の8割くらいは女性です。時には「ご飯はどこで食べたらいい?」など質問を受けることも。皆さんと交流したいと思います。そして『世界の映画を上映する窓口であったらいいな、と思います』と語ってくださいました。これからも「いい映画を見せてください」

明日2月3日からは「花咲くころ」が始まります。
ぜひ岩波ホールのホームページをご覧ください。
https://www.iwanami-hall.com

混乱のさなかにあった1992年のジョージアの首都トビリシを舞台に14歳の少女2人の成長を描く映画です。もちろん私も観にまいります。

放送は2月4日
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜10時半~11時

又吉直樹さん

先週に続き又吉直樹さんについてです。
今週ラジオ収録に又吉さんをお迎えいたしました。
放送はお正月7日なのですが、今年最後の収録でした。スタジオにお越しになられてまず、”お洒落!”と思いました。カーキ色のセーターにオレンジがかったシャツ、そしてお馴染みのヘアースタイル。やはりシャイな方ですね。かなりプライベートなことも伺いましたが、誠実に丁寧にお答えくださいました。
又吉さんは1980年、大阪府寝屋川市生まれ。
高校卒業後、芸人を目指してNSC(吉本総合芸能学院)東京校に入学。2003年、綾部祐二さんとともにお笑いコンビ「ピース」を結成し、2010年、キングオブコントで準優勝。芸人としての活動と並行し、エッセイや俳句などの文筆活動も行い、2015年、『火花』で第153回芥川龍之介賞を受賞なさったことは皆様よくご存知のことと思います。
これまでの著書に、『第2図書係補佐』、『東京百景』などがあり、最新作が小説第2段の『劇場』です。
まず最初に映画「火花」を観ての私の感想。そして原作者として、観た映画の感想などを伺い、私は『火花』も『劇場』も芸人に対する愛はもちろん、一人の人間を大切にする温かさ、優しいまなざしはどこからくるのか・・・ぜひ伺ってみたかったのです。
『劇場』は演劇の世界の物語ですが、主人公の僕(永田)と女優を目指して上京してきた沙希の物語です。
切なくなるほどの、ある意味純愛(なんて言葉ではいいつくせませんが)小説。しかし、この永田が複雑な男。言葉を選びながらお話くださる又吉さんの世界はぜひ実際に読んでみて、また彼の言葉でお聴きください。
もう一つぜひお話を伺いたかったことは、以前、テレビで又吉さんの仕事部屋を拝見したのですが、机やスタンド、壁に立てかけてあった一枚の絵。
大変美的感覚のある方だと思い、その辺もお話を伺いました。日々暮らしの中で、意識していることなど・・・お笑いの仕事を終えるとまず仕事部屋に向かうそうです。
「美しいと感じることが好きです」とおっしゃいます。中学の頃から太宰治や芥川龍之介などを読みふけっていたとのこと。美意識はそうしたところからも生まれたのでしょうか。
芸人としての活動と小説家としての活動を両立させていることなども伺いました。
スタジオを後にされる時、しっかり相手の目を見てご挨拶くださる又吉直樹さんはとてもチャーミングですし、セクシー(大人の男の)と感じました。
『劇場』は新潮社から発売。
放送は文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
来年1月7日
日曜10時半~11時


「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」

大変興味深い本に出会い、いっきに読みました。
作者はノンフィクション作家・森功さんです。
私自身は高倉健さんとは生前一本だけ共演させていただきました。それも40年ほど前のこと。ただ鮮明に覚えております。映画の内容というより「高倉健」という方の人間性を垣間見たときです。
それは、映画のクランクイン初日のことでした。
(東映映画『捨て身ののならず者』)
そう・・・初日はロケから始まりました。東京駅の近くの旅館で仕度をし、6畳ほどの部屋で出番を待っておりました。すると『失礼します。高倉健です』と廊下で声が致しました。慌てて障子をあけると廊下に正座をなさり、あの大スターの健さんがいらっしゃるではありませんか!私も廊下に頭をつけ「こちらこそ宜しくお願いいたします」と申し上げました。もう胸はドキドキ・・・共演させていただけるだけで光栄なのに大先輩のご挨拶に恐縮し、仕事はスタートいたしました。
もちろん撮影はスムーズに進行し無事に終了いたしました。仕事の間、健さんはスタッフへの気配り、共演者への気配り・・・私は当時東宝に所属しており、東宝の空気は東映とはまた違い、でも、戸惑うことなく仕事ができたのも、そうした健さんの周囲への細やかな気配りがあったからなのだと思います。
今回の森さんのご本”七つの顔を隠し続けた男“とありますが、森さんはさすがノンフィクション作家です。日本人に最も愛された俳優の”光りと影”を見事に描かれています。
影の部分・暴力団「住吉会」の幹部たちとの交流も健さんらしい「人の道・仁義のありかた」などよく取材なさっておられます。
森さんは、健さんの母校の後輩です。(北九州市の福岡県立東築(とうちく)高校。健さんは1949年、貿易商を目指して明治大学商学部に入学しましたが、あまり真面目な大学生ではなかったようです。むしろ”やんちゃな学生”だったようです)
社会人になっても時には度を超えるほど酒と喧嘩の日々。あるきっかけで俳優となり、後に結婚する江利チエミさんのファンになり”追っかけ”をして結婚します。
このご本を読んでいるとお二人が相思相愛であったことが窺われますが、幸せと不幸が交互に訪れるような日々。チエミさんと離婚後、亡くなってからも月命日には周りに気づかれないように墓参を続けていらしたようです。
謎が多く、きっと報道などで皆さんもご記憶があると思いますが、亡くなる前に養女となった女性の存在。彼女は健さんの最期を看取ります。親族も知らなかった彼女の存在。そして遺産。謎が残ります。
やはり、直接お話を伺いたく、ラジオのゲストにお迎えいたしました。
最後に森さんは「高倉健は本名の小田剛一(たけいち)としてではなくやはり”高倉健”を演じ切り亡くなったのでしょう、それが彼の美学です」とおっしゃられました。
私は本を通して”役者の孤独・業”を感じました。
そして森さんがおっしゃる”男の美学”を感じました。
ぜひ、森さんのお話をお聴きください。
そして本をお読みください。
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」
放送は12月24日
日曜10時半~11時

灯台

皆さまは「灯台」にどのようなイメージをおもちですか?
旅先で出会う「灯台」にはロマンチックなイメージ、また海の安全を守る灯台、いろいろですね。
そこで「灯台女子」を名乗る灯台大好きな女性の本に出会いました。灯台を愛してやまない女子が日本には大勢いらっしゃるのですね!
灯台はそそる」(光文社新書)をお書きになった不動まゆうさん。1977年のお生まれ。フリーペーパー「灯台どうだい」の編集発行人で、国立音楽大学を卒業し、楽器の資料館で学芸員を務める一方で、減少の一途をたどる灯台の魅力や文化的価値をメディアで訴え、100年後の海にも美しい灯台とレンズを残すことを目指し活動されています。
仕事の休みを利用し、日本列島はもちろん、フランスやイギリスにも出かけてその姿を写真に残されています。日本にも、灯台を守る「灯台守(とうだいもり)」がいらっしゃいましたよね。映画にもなりましたね。というわけで不動さんのご本を拝読すると灯台は今絶滅の危機にあることがわかります。
この10年で沿岸灯台の新設はわずか2基だそうです。GPSの台頭、省エネの流れ、この10年で30基の沿岸灯台が廃止、撤去されたそうです。合理的なことだけではなく、人々の心の灯りをともす灯台。残してほしいです。
私が一番好きな灯台はご本にもでていますが、石川県能登半島にある旧福浦灯台。現在は使われてはおらず、県指定の史跡になっているそうです。
福浦の港はこじんまりした漁港です。30年ほど前、かつて海洋ジャーナリストの小林則子さんの「リブ号」に乗り込み、北前船の航跡を追うという試みに参加しました。この福浦という港は、北前船全盛の頃に隆盛をきわめ、漁師を迎える女郎さんも大勢いたということです。漁港を見下ろす小高い丘に木造の灯台、建物は洋風建築の郵便局などが建ち風情ある漁港です。
さぁ~ここからなのです、私の好きな物語は。灯台の近くに、腰巻地蔵という可愛らしいお地蔵さんが立っています。漁師と女郎さんたちの間に恋愛が生まれてもおかしくありません。 船が出るという日、女は男を帰したくないという一心で、この小高い丘へ登り、自分の緋色の腰巻を力いっぱい海に向かって振りかざしたのでした。
海の神様も女の腰巻をみてジッとしていられず、荒れ狂うとのいわれがあるのです。海が荒れれば船は出られず、女はまた、好きな男とひ夜をすごせるというわけです。丘の上に立つお地蔵さんは、この地で腰巻をふった女たちの供養地蔵です。松林の中、ただ海からの風が吹きあげ、松林が風をはらんでうなりをあげるような冬の日。灯台は静かに佇んでいました。初めての福浦の灯台をみてから何度も訪ねました。時には女友達たちと一緒のこともありました。「私たちは、彼女たちのように男にすがって腰巻を振るような可愛げのある女はひとりもいないわね~」などと笑ったこともありました。灯台には”ドラマ”があります。
“今日も一人で海に立つ小さな守り人・・・・”その姿を見ると愛さずにはいられないという灯台女子。
その灯火を絶やすことがありませんように・・・と祈ります。
ラジオのゲストにお招きし貴重なお話を伺いました。
放送日11月19日
文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」日曜10時半~11時