四月は、ひとり、発つ日

新入社員らしき若い人が目につきます。
女性はグレイのスーツに白いブラウス、男性は濃紺やチャコールグレイのスーツ。昨日まではラフなサンダルを履いていたお嬢さんも、今日はおとなしいパンプス。
染めていた髪の毛もすっかりもとの黒い髪に戻して、晴れて正社員として登場しました。電車の中で見かけた何人かの新入社員らしき人は、全身で緊張していました。
そんな新人さんのソワソワも初々しく、陰ながら、”頑張ってね”と心の中で応援させて頂きました。
私は好きな言葉はたくさんありますが、中でも私が大切にしているのが、月並みではありますが,「ありがとう」と「どうぞ」という言葉です。
仕事柄、旅にでることが多いのですが、はじめての土地であっても「ありがとう」あるいは「どうぞ」というたったひと言がきっかけで、暖かい人と人の絆が生まれます。
それは国内だけには限りません。世界中のどこであっても「サンキュー」「プリーズ」「メルシー」「シルブ、プレ」と声にするだけで、人は笑顔になり、その場に優しい空気がふんわりと生まれます。そうしたときには、こんな優しい言葉をもっているありがたさに、感謝の気持ちが私の胸に溢れます。
どんな時代でも、顔と顔を見つめて会話を交わすという、生のコミュニケーションを大切にしたいものです。
生のコミュニケーションは、私たちを切磋琢磨してくれます。心優しく暮らすためにも、温かなコミュニケーションが不可欠です。
「ありがとう」「どうぞ」・・・という言葉を、意識して日に何度も声にしてほしいと思います。声にすると言葉が相手だけでなく、自分自身をも優しく包んでくれるのを感じるはずです.

人生に、銀座に乾杯!

先日私が出演しております文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」に素敵なゲストをお迎えいたしました。(日曜10時30分から11時まで)
銀座「BAR5517」の80歳で現役のチーフバーテンダーの稲田春夫さんです。

「シェイカーは五感で振る」と仰います。
ただの技術ではなく、絵画や演劇など芸術に触れて感性を磨く。それをシェイクに生かす。
世界各国を歩き、後輩を育て、半世紀以上、シェイカーを振り続けている稲田さんに「良いバーテンダーの条件は?」と伺うと 基本に忠実であること・整理整頓・掃除。これが全ての基本。と伺いました。
ご著書「銀座バーテンダーからの贈り物」を拝見していると「12ヶ月のカクテル」が載っていました。

銀座バーテンダーからの贈り物
銀座バーテンダーからの贈り物稲田 春夫

 

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3月は”さくらさくら”シャンパンをベースにさくらのリキュール。花びらがグラスに揺らいでいます・・・ああ・・・飲みたい。収録後さっそく「BAR5517」に。

静かに、静かに・・グラスに注いでくださいます。
東京の下町で生まれ、川崎で育った私にとって、銀座は憧れの街でした。16歳で女優になっても、銀座にはちょっと気後れするような響きがありました。銀座は大人の街。私にとって特別な街なのです。
その私に銀座の門を開けてくださったのは、画家の岩田専太郎先生でした。絵のモデルを頼まれたことがきっかけで、岩田先生は私を娘のように可愛がってくださったのですが、私が二十歳になったとき、岩田先生が誘ってくださったのです。「銀座に行こう」と。
そして、連れて行ってくださったのが当時、文化人が集まることで知られた銀座のバー。「この子に合うものをつくってやって」と黒服のバーテンダーに。あのときのカクテルはなんだったのか、残念なことに覚えていません。記憶に刻まれているのは、雑誌などに登場する文化人たちが、葉巻をくゆらせ、くつろいだ表情でなごやかに談笑する大人の空間に自分がいる不思議さを思いながら、ほんのりアルコールが加えられた、ちょっぴり甘いカクテルを、時間をかけてゆっくりと味わっていたということだけ。
そしてカクテルを飲み終えた私に先生は「ぼくはもうしばらく飲んでいくけど、君はもう帰りなさい」と車を呼んでくれたのでした。お話の中で、シンデレラは夜の12時までの魔法ですが、二十歳の私には、それよりずっと短い、夜9時までの銀座の夢気分だったのでした。
カクテルの味わいと同時に、大人の洗練と気遣い、銀座の優しさと豊かさを、二十歳になったばかりの私に岩田先生は、教えようとしてくださったのでしょう。以来、銀座は憧れの街から、私の大好きな街にと変わりました。
私がひとりの時間を過ごすために、訪れるのが、銀座六丁目にある上田和男さんのバー「テンダー」。 仕事を続けながら、育ててきた四人の子どもたちが、ようやく私の手を離れつつある時期。55歳の誕生日の夕方、家族との待ち合わせの前に「テンダー」によりたくなりました。
子どもたちが、まさに巣立っていくうれしさと寂しさが、私の胸の中で交錯していたのでしょう。これから私はどう生きようか、そんな思いがときおり、ふっと、胸をかすめたりもしていました。
あのとき、上田さんが私のためにつくってくださったカクテル。それは今でも忘れることができません。なにもいわずに、上田さんは見事にシェイクしたカクテルを私の前にすーっとさしだしてくれたのでした。透明感のある淡いピンクの色、口に含むと、ほどよく辛口で、ほのかなスイカの香りとともに、甘く、優しい味わいが広がって・・・。
“大人のスイート”とでも表現したくなるような味がしました。思わず「これはなんというカクテルですか」と尋ねると、上田さんはふっと笑みをたたえて「これは今、マダム・浜と名づけました」とおっしゃってくださったのです。
ウオッカ、グランマニエ、ライムジュース、ウォターメロンリキュール、グレナデンシロップをシェイクした、カクテルに、あの日どれほど慰められ、勇気づけられたことでしょう。

大丈夫、そのままで。
そんなふうに、背中をそっと支えてもらった気がしました。そして、そんな粋な、素敵さが似合う銀座の魅力、その懐の深さ、温かさを、改めて感じました。
そう、春はカクテルが似合います。

ラジオ深夜便―若狭から美山茅葺の里へ

たくさんの旅をしながらいつも思うのです。
旅は未来であり、過去であり、そして今であり・・・日常の生活時間とは全く違う時間と空間の中に飛び込むと、私という旅人は、現実の私から旅立ったもう一人の自分として旅しているのに気づきます。
旅する先が、何百年もの歴史のあとをひいた町で、しかも過去の歴史が現在も色濃く漂う場所に立つと、私はタイムマシーンにのってやってきたトラベラーという感じになります。
日本海・福井県若狭湾・小浜の町に出会ったのは20年以上前のことです。
今夜は若狭から、京都府美山町までの旅のお話です。
2月下旬友人3人と私・・・冬の日本海から小雪舞う茅葺の里美山町へ。冬の日本海は、美味の宝庫です。ありとあらゆる魚たちが寒流に身をおどらせ、その肉は海の滋養を存分にたくわえて、漁師の網の中に落ちるのです。
20数年前、始めて小浜の冬の市場は、凍てつくような寒さとは別の熱気が充満していました。前夜、宿で飲んだ濱小町という地酒との出逢いに気をよくした私。
濱小町、これを私の酒=自酒にしようなどと一人ぎめし、いつもより少し飲みすぎて{といってもお銚子2本くらい}ぐっすり寝込んでいました。
なのに、夜明け前。ガバッと飛び起き「なんとしても、市場に行こう」食いしん坊の私はまだ暗い朝の町を駆け出しました。
霧笛が俺を呼んでいる、どころじゃなく、塩焼きの匂いが私を呼んでいるのです。
セリ場のかたわらには、何本ものドラム缶に火がたかれ、商いを終えた漁師や仲買人たちが、暖をとり、コップ酒をチビチビやっては、ドラム缶の下のほうから、いい匂いの魚を取り出しては食べていました。
私も仲買のおじさんに頼んでエビやブリ、カマスなど買ってもらい、ドラム缶の中の焼きアミに乗っけてもらいましたっけ。とれたてのエビは、みるみる紅潮し、殻はてらてらと輝いてうまそうな匂いをあげています。
これが若狭との始めての出会いでした。
小浜・めのう細工の工房を訪ねるのが目的だったのですが・・・。小浜は寺と海産物の町です。
昔から中国の高僧の渡来が多く、今日、国宝級の古寺が132寺、別名海のある奈良ともいわれています。老杉木立に溶け込むように立つ、明通寺・本堂{国宝}と三重塔共に鎌倉時代の建築様式。
若狭最古の鎌倉建築として知られる 妙楽寺 僧・行基が若狭を巡礼した際に彫った「千手観音立像」{重文}等など・・・古寺・名刹が数多くあります。
そして
港町として栄えた頃の遊郭跡が千本格子や紅殻格子でしのぶことができます。それがきっかけで若狭通いがはじまりました。
福井県大飯郡大飯町三森に、私の家があります。この家もまた、取り壊される寸前に出くわし、譲っていただいたものです。別の場所にあったのですが、借りた土地が、私の理想の立地・・・”日本のふるさと”とよべる場所だったのです。
背後に竹林、前に田んぼと佐分利川。だから、家の方をこちらの土地によいしょ、よいしょと運んでもらいました。そうしたら、私が夢に描いた、”日本の農家”が出現したというわけです。
若狭・三森の家、ここで、まず、米を作ろう、そう決心しました。米作りは地元のベテランに手とり足取り教えていただきました。田植えは手作業で、苗を植え、雑草とり、カマでの収穫。田植え行事、収穫には大勢仲間が集まってくれました。
「自然に生かされている・・・」と実感し10年続けました。私のお米の先生・松井栄治さんと奥さん、よし子さんのお陰です。土と水と苗、それを支配する天候。見守る人間。こういう営みの繰り返しで人類は生き延びてきたことを思うと、神聖な気持ちになります。
福井県敦賀から小浜線に乗り若狭本郷へは何度も何度も通いました。ときには京都から山陰本線で綾部に降り立ち、松井さんの車に乗せていただき我が家へ。
今回の旅は日本海・若狭湾には白波が立ち、風が頬を打ち付けます。冷え切った体を我が家で温め、それから夕暮れとき、京都府南丹市美山{旧美山町}の北地区へ。この集落は今や”日本一美しい村””茅葺の郷”として、人口113人の村に年間70万人の人々が訪れるようになったそうです。「てんごり」・・助け合い・・精神もしっかりあり、つい長逗留したくなる村です。京都市内から車で1時間半、日本でも多く茅葺民家が残る村です。
「この風景が・この暮らしが出来上がるのに30年かかりました」・・・と友人の元助役、小馬勝美さんは語られます。地域の景観保全や、ボランティアガイド、田舎体験なども実施され京阪神を中心として春、秋の行楽シーズンは大勢の方が訪れます。
2月末はホッコリと雪に包まれ眠ったように静かな美山でしたが、もう春の訪れがそこかしこに。菜の花が芽吹き、蕗のとうもそっと顔をのぞかせているとか。
雪解け水が勢いよく滝から流れ、春の息吹が感じられると小馬さんは仰います。
今夜は欲張りすぎて、美山を充分にご紹介できませんでしたので、次回、田植えの頃か夏にでもご紹介いたしますね。
旅の足は敦賀から小浜線で小浜まで、その先が若狭本郷、そのまま行くと西舞鶴。
舞鶴線に乗って綾部へ。
そのまま山陰本線で京都へ。
美山へは園部駅から南丹市営バスで約1時間。
京都駅からJRバスで周山バス停まで。同バス停より南丹市営バスで計約2時間半。

三浦三崎に春をもとめて

先日、文化放送「浜 美枝のいつかあなたと」(日曜10時30分から11時まで)の収録で三浦半島・三浦市に行ってまいりました。
三浦半島には、伝統的な食材ですとか、地域に調和した農業・漁業が今も息づいています。三浦・・・といえば「三浦大根」!私は自称”三浦大根を守る会”会長。会員は私ひとりですが・・・。
中太りで、昔ながらの白首。大きいのは長さ60cmほど、ずっしりとした重量感もあります。
味は当然ながら、最高。柔らかくて甘みがあり、煮物にすると、味がよくしみて美味しいのです。
我が家では家族みんな「三浦大根」が大好きで、毎年、季節になると生産者の方から直接送っていただいて、おでんのタネにしたり、フロフキ大根にしたりしています。
しかし、「三浦大根」は太らせるのに時間がかかり、しかも重い(太いと7キロくらい)というので、最近では東京などで見かけることがほとんどなくなりました。いまや、幻の大根・・・といっていいほど。
作り手も次第にへっているそうです。
大正14年に三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と正式に命名されて以来、三浦特産の冬大根として長年にわたって名声を維持してきました。
しかし、昭和54年の10月に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦大根が大きな被害を受け、これをきっかけに、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座に取ってかわるようになりました。
今回は生産者の木村陽子さんにお会いしに伺いました。
文化放送の寺島尚正アナウンサーが畑から抜いた大根は7キロもあり、びっくり。
木村さんとは20年来の親友。
日本全国を旅する中で、その土地ならではの野菜に出会うことが、しばしばあります。木村さんの畑には春の風が爽やかに抜け、帰りにキャベツ・ブロッコリーなど頂いてしまいました。
寺島さんは早速帰宅し、家族にキャベツの千切り・塩もみ、芯は餃子の中身・・と料理したそうです。えらい!


そして、もう一ヶ所。向かった先は南下浦町・毘沙門。

三浦半島のほぼ南の端の場所、海からの風が心地よく吹きぬけます。
三崎港から歩いてすぐの、お魚屋さん「まるいち」へ。三代目松本英(すぐる})ん、二代目の奥さん美知世さんが迎えてくださいました。
三崎といえば「まぐろ」が名物ですが、地ものの魚の種類の豊富なこと。春先におすすめの魚はカマス、さより、メバルやメトイカも出始めます。
軒先には干物もあります。
モロアジの干物、ヒコイワシの目刺し、イカの干物。干物は手で開いて天日干し。天気が良ければ一日で完成するそうです。
三崎は、歴史的には、鎌倉時代から水軍の根城として発展したと聞きます。その後江戸時代に入り、大きな漁港に発展し、日本で初めてセリが行われた町としても知られています。
遠洋漁業のマグロですが、三浦半島の先端、という地の利があり、東京・神奈川などで消費されるマグロの水揚げが盛んになったようです。
世界各地で取れた本マグロなどが、三崎港に水揚げされ「三崎マグロ」と呼ばれます。”食べてみたいですね・・・”と、二人。
となりの食堂でオススメは「まるいち丼」マグロとひらめの刺身をのせた丼。魚の煮付け、あら汁、漬物がつき、1000円。刺身定食、1700円。マグロ、かんぱち、メトイカ、ひらめ、さより・・・こちらも、ご飯、魚の煮付け、、あら汁、漬物がセットになった店一番の人気メニューを頂きました。
春をもとめて・・・三浦三崎へ。
放送は明日3月16日、文化放送10時30分から11時まで。
ぜひ、お聴きください。

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沖縄観光

今日の私は少し「ノリ」が違います。なぜか、と申しますと先週末大好きな沖縄に行き、沖縄のお惣菜を端から端まで、食べちゃったんです。と、言っても真面目な仕事でうかがったのですが。
一年に2、3回は旅する沖縄なのに毎回ウキウキしてしまう私です。
さあ~何食べようと、考える間もなく、テーブルはいっぱいになります。ああ、帰ってきた、そんな感じがする沖縄。なぜ懐かしいのかしらと、自分でも不思議に思うんです。通い続けて36年近くになります。決っして飽きることのない深い魅力は、この地から、この海から、この風から、沖縄の人々がみずから生み出しただろうエネルギィーが伝わってくるからです。
今回の講演の演題は「沖縄に魅せられて」です。
沖縄への観光客の7割がリピーターです。これからのシニア世代、いえ、成熟した大人の方々へ、どのような旅をご提案できるか・・・。そんなお話をさせて頂きました。

私が沖縄を初めてお訪ねしたのは、1972年の沖縄返還前。まだパスポートが必要な時代でした。あれから36年以上も時が過ぎました。
沖縄の町並みもすっかり変わり、沖縄は今や、飛行機で羽田から、ひと飛びでアッという間に訪ねることができる、多くの人にとって、とても身近な場所になりました。
しかし、先日、口に出すのも悲しくなってしまう、米兵による事件が起こりました。なんということでしょう。ああ、沖縄は今も基地の島なのだと、改めて感じさせられました。
以前にも、同じような悲惨な事件が起きて、もう二度とこうした事件を起こしてはいけないと、沖縄のみならず、全国の皆様が胸を痛め、憤慨し、多くの人が声をあげ、アクションを起こしたのに、また今、悲惨な出来事が、起こってしまったとは。
唇をかみしめるだけでなく、二度と、こうした悲劇が起きないように、何とかしていかなくてはならないと、強く思います。
沖縄にあこがれ、多くの若者のみならず、リタイアした団塊の人々が、気軽にこちらに旅をする時代になった今。輝く空、美しい海だけではなく、沖縄には、かつての戦争、そして基地の今があるということを、そうした旅人にも、ちゃんと知ってほしいと感じるのは、私だけでしょうか。
私は、沖縄で忘れられない多くの人に出会いました。そのひとりが、与那嶺貞さんという女性です。
ご存知の方も多いと思いますが、貞さんは、琉球王府の美の象徴であり、民族の誇りでもある花織を、見事に、復元した女性です。
私と沖縄との出会いのきっかけは、民芸でした。
民芸の創始者・柳宗悦先生の著書に、中学時代に私は出会い、先生がその著書の中で琉球文化と工芸品の素晴らしさについて情熱的に書いておられるのを読み、中学生のときから、いつか沖縄に行って、そこで使っている道具を見てみたいと恋い焦がれていたのです。
そして沖縄の民芸を訪ね歩く中、私は、貞さんと出会う幸運に恵まれました。
以来、ことあるごとに、沖縄に伺うたびに、貞さんの工房を訪ねさせていただいたのでした。親しくなるにつれ、貞さんの人生が、多くの沖縄の女性と同様、過酷なものであったことが少しずつわかってきました。
第二次世界大戦で貞さんは夫をなくし、ご自分は戦火の中を三人の子どもを抱えて逃げまわられたのだそうです。そして終戦後、女手ひとつで三人の子どもを必死で育てあげました。その子育ても終わった55歳のときに、貞さんは古い花織のちゃんちゃんこに出会ったといいます。
花織は、琉球王府の御用布でした。本当に美しい織物です。けれども、工程の複雑で、仕上げるためには技術のみならず、時間も手間もかかるために、伝統が途絶えてしまったのでした。
かつて学校で織物を学んだ貞さんは、花織の美しさに魅せられたのと同時に、琉球の美と文化を後世に残さなくてはと決意なさったのでしょう。やがて幾多の苦労を経て、ついに花織の復元をなしとげられました。
今も、ふとした折に、私はそんな貞さんの口癖を思い出すことがあります。
「女の人生はザリガナ。だからザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグ」
ザリガナとはもつれた糸。
ザリガナ サバチ ヌヌナスル イナグは、もつれた糸をほぐして布にする女性のことだそうです。根気よく糸をほぐすためには、辛抱も優しさも必要です。そして、ほぐすという行為には、「この糸でまた織物を織る」という、未来へ続く意思と希望も秘められています。
貞さんは、人間国宝となり、2003年の1月に94歳でその生涯を終えられました。でも貞さんの教えは私の胸の中に今も深く深く刻まれています。そして、沖縄、いえ琉球には、こうした魂があることを、私は、沖縄を訪ね来る人、ひとりひとりに知ってほしいと今も、思っています。
さて、では本題に入ってみたいと思います。団塊世代のリタイアの時期を迎え、この数年、観光あるいは移住など、何とかして、団塊の世代をその地に招き、地方を活性化したいという動きが全国で始まっています。
ちなみに、昭和22年から24年生まれを「団塊の世代」といいますが、この3年間に生まれた彼らの人口は、なんと800万人強なんですね。 本当に多いんです。どのくらい多いかといいますと、最近3年間の出生数はその半分以下、わずか約350万人。優に倍以上。それが団塊の世代なんですね。
その団塊の世代が、そろそろ定年で企業を去り、一線から離れるわけです。団塊の世代は、それまでの日本のシニアとはまったく違うシニアになるだろうと予想されています。というのも、団塊の世代は、日本の高度経済成長を支える消費のリーダーだったからなんですね。
ファッションも、趣味の世界も、車やライフスタイルも、新しい風を常に求めてきたのが、この世代なんです。古いモノに代わる新しいモノをどんどん取り入れ、ファッションや流行を先導してきたんですね。だから年齢が上がっても、従来のシニア枠にはとどまりたくないと考える人が多く、女性だけでなく男性も消費に積極的なんですね。
しかも1000万人近くいるわけですから、シニアマーケットは、これからがらりと変化するのではないかと、いわれています。当然、旅行マーケットも、今までとは違うものになっていくでしょう。団塊の世代が、ニュー・シニアマーケットを形成するわけです。
では、団塊の世代は、どんな旅を求めているのでしょう。
JTBのある調査によると、団塊世代の定年退職の記念旅行の費用は、1人当たり平均で29万6000円だそうです。
もっとも多かったのは、1人当たり「31万~50万円」。
次が「21万~30万円」。
3位が「6万~10万円」。
そして、「16万~20万円」、「11万~15万円」、「51万~100万円」と続いたそうです。
一方、希望する旅行期間で最も多かったのは「1週間~10日」。
2位「2~3泊」、3位「4~5泊」。
案外、短いと感じるかもしれませんが、実は「2週間~3週間」が6%近く、1カ月以上も5%弱、あわせて2週間以上を希望する人が合わせて11%を越していました。つまり、ゆっくりじっくり時間をかけて旅をしたいという人が10組中、1組以上、いるというわけです。
これは、これまでになかったことではないでしょうか。この調査では、退職記念だけでなく、それに限らない、60歳以降の旅行の調査もしていて、そこでもおもしろい結果がでています。
「多少高くても添乗員付きのゆったり周遊型のパッケージ旅行」を希望するのは、女性約51%、男性約39%。
忙しい駆け足旅行ではなく、じっくり時間をかけて、楽しみたいという人が増えてきたんですね。そして、男女差に着目しますと、男性は自由度の高い、添乗員に行動を管理されない旅を望んでいるようにも感じられます。
それを裏付けるように、「自分で手配し自分で動く」、「マイカーやレンタカーで動き回る」ということを希望する人は、やはり女性よりも男性のほうが多いという結果もでています。
そうした団塊の世代にとって、沖縄はどんな魅力を持つ場所なのでしょうか。観光スポットをめぐりたいという人たちは、これからも、これまで通り、多くいらっしゃるのではないかと思います。
沖縄の文化は魅力的ですし、沖縄の歴史は日本に住む者として、必ず知っておかなくてはならないものですから。ひと通り、沖縄をぐるり回ってみて、沖縄の文化に触れ、沖縄のこれまでを知り、優雅にホテルに滞在し、美しい自然も堪能する、そして帰りにはお買い物も楽しんで……。女性の場合は特に、その希望が強いかもしれませんね。
家では日々家事に追われていますし、リタイアしたご主人がいると食事も3度3度、用意しなくてはならないかもしれません。そうした家事から解放され、上げ膳据え膳で、美味しい豪華な食事をいただくというのも、旅の醍醐味であるからです。しかし、こうした従来の旅のあり方だけでなく、これからは、もっと違う旅を求める人が増えてくるのではないでしょうか。
私にはそう思えてならないんですね。
私の知り合いに、ダイビングが大好きな夫婦がいるんです。夫は50歳、妻は48歳。実は数年前に結婚したばかり。お子さんはいません。
団塊の世代よりちょっと若いのですが、彼らは、休みのたびに、各地の海にもぐりにいくんです。今年のお正月は沖縄で過ごしたと、先日、メールをくれました。そして彼らの夢は、リタイアしたら、ダイビングスポットのあるところに、ゆっくり旅すること。旅するというより、ロングステイしたいというのが本音のようです。
私は、これから、こういう旅を求める人が増えてくるのではないかと、思っています。モーレツサラリーマンとして働いてきた団塊世代の男性にとっては、定年は生活が激変するターニングポイントなんですね。
彼らは豊かさを追い求めてきた世代ですけれども、同時にそれゆえに、モノで心が豊かになるとは限らないということも、肌で知っている世代なんです。ですから、リタイアをして、求めるものは、モノの豊かさだけではないはず。
お金を払って豪華三昧の旅をするというよりは、現地の生活に溶け込んで、そこで何かしらを学ぶというような、旅の満足感を、これから重視していくのではないでしょうか。
私は、これまで40年近く、職業が旅人だといっていいほど、日本全国、そして海外もお尋ねしてきました。そうした経験を元に考えて見ますと、とはいっても、ロングステイするためには、いろいろな条件があると思うんですね。
第1に、国内主要空港から直行便が飛んでいるなど、アクセスがよいということが必要な条件だと思われます。
第2に、病院などの医療・福祉施設が整っていることも求められています。特に、シニア世代にとって、いざというとき、病院は大丈夫かというのは大きな関心事なんですね。
第3には、長期滞在に適した宿泊施設があるということです。そしてもちろん、観光やアクティビティにも優れていること。さらに、長期滞在となれば、地元に知り合いも作りたいという希望もあるでしょう。
これをすべて、沖縄は満たしているといえるのではないかと思うんです。そういう意味で、沖縄には、これからもっともっと多くの人が訪れるのではないかと、私は思います。
でも、そのために、やらなくてはならないことがあるとも、思います。そういいますと、新たに箱物をつくろうとか、自然に手を加えようとか考えがちなのですが、そうではなく、沖縄の人たち自身の意識変革がまず、必要なのではないかと思うんですね。
地方に旅すると、私はいつも戸惑うことがあります。「こんな田舎で、何にもなくて」。そういって、今の状態を卑下する人が結構多いんです。
東京みたいに便利ではない。
東京みたいにビルがない。
東京みたいにコンビニがない。
そういうんです。でも、それはマイナス要素なのでしょうか。
いいえ、そうとは限らない。考えようによってはプラス要素にもなりうるものなんですね。考えても見てください。すべての町が、ミニ東京みたいになってしまったら、こんなつまらないことはありません。
東京は東京だからいいのであって、沖縄には沖縄のよさがあるから魅力的なんです。ですから、沖縄で旅人を迎える人たちには、まず第一に、旅人よりも、この場所の魅力に敏感であってほしいんですね。
たとえば沖縄には琉球王朝の文化があります。かつて、中国との間に深い関係を築いてきた沖縄は、手厚いもてなしの心を持ち、陶器、ガラスなどの道具類、織物、そして歓待の宴で披露する歌舞音曲を発展させました。そうした文化を愛し、それを伝えるにはどうしたらいいかということを、さらに考えていただきたいと思います。
私の場合、そうした文化をさりげなく教えてくれる友人がありがたいことに、沖縄にいるんです。彼女たちとは、沖縄ベンチャークラブ主催の講師に招かれたのがご縁でおつきあいがはじまり、早十八年もの歳月が流れました。
今では彼女たちも、沖縄ベンチャークラブのOGとなりました。ちなみにベンチャークラブはボランティア団体・国際ソロプチミストに認証された、十八歳から四十歳までの働く女性のボランティアグループです。
サンシンの音色が響くお店に集まり、おしゃべりや音楽を楽しみながら、沖縄独特のチャンプルーやイリチィー(炒り煮)をほうばり、泡盛をちょっといただいたりします。
また、旧暦3月3日、沖縄の女たちは重箱に一杯ご馳走を詰め、浜に下りて海で身を清め遊ぶという風習があるということを、教えてくれたのも、彼女たちでした。
その日、彼女たちはお重箱に、それはそれは美しい料理をつめ、沖縄の紅型の着物を着て、沖縄の海のすぐ傍らの浜で、とても楽しい時間を過ごさせてくださったのです。
日ごろ、働き者で、時間に追われている彼女たちが童女のようなホッとした顔に戻り、笑いながら、歌いながら、踊りながら、ご馳走を食べる……そのとき、市場などで働いている、やはりいかにも働き者といった、元気いっぱいのお母さんたちの顔まで思い出されて、これが、長い歴史の中で、沖縄の女性たちの楽しみのひとつであったのだなぁと、しみじみ感じることができました。
さて、こうした沖縄の文化を、私は多くの人に知ってほしいのですが、では誰にも知らせればいいかというと、なかなかそうとはいいきれないんですね。特に団塊の世代以降の人たちは、それまでの人よりも、考えようによっては、ずっとわがままです。
たとえばダイビング、たとえば音楽、たとえば料理など、自分の興味あることがはっきりしていますから、いわゆるお仕着せの旅では満足してくれないでしょう。また、インターネットを仕事でもプライベートでも使いこなしている世代ですから、これまでのようなちらしや旅行会社の窓口での案内で、旅のありようを決めるという人は少しずつ減っていくと思われます。
私の30代の長男長女は、旅行でもショッピングでも、自在にインターネットを駆使して、同じものなら少しでも安いものを探します。私の目から見ますと、ほとんど達人といってもいいほど、インターネットを使いこなしています。
また、現在でも、私でも、インターネットである程度、現地の情報も集めることができますし、今後はもっと使いやすくなると思われますので、これからは飛行機、ホテル、現地での行動など全てを自分で設定する旅人がどんどん増えていくのではないでしょうか。
しかも、彼らの目はかなりシビアであるのではないでしょうか。高価なホテル、ゴージャスなホテルを好む人は、そちらを選び、長く沖縄に滞在したいという人は、リーズナブルな宿を選ぶのではないでしょうか。
私自身も、沖縄は第二の故郷といっていいほど、大好きな場所なので、いつになるかわかりませんが、将来はゆっくりこちらにロングステイしてみたいとも思っております。でも、では、どこに滞在するか、と考えると、ちょっと困ってしまうんですね。豪華なホテルでは、安全で安心ですが、コストもかなりかかってしまいます。
沖縄のにおいを肌で味わうというのに最適ともいえません。長く滞在するなら、私は、沖縄のにおいのする宿で、人との交流もあり、しかもプライバシーが守られる宿であってほしいと、思うのです。こうした宿がこれからは求められていくのではないでしょうか。そして、滞在スタイルはというと、団塊の世代も含め、シニアにとって究極の楽しみというのは、ゆったりと過ごすことではないかと思います。
実は、先日、私はプライベートでイギリスに行ってきました。
イギリスの南端の、あるお宅に伺い、ゆっくりしてきたのですが、そのとき、そのご夫婦が散歩に誘ってくださったんです。南端とはいえ、冬のイギリスです。結構、寒いんです。でも、そちらのご夫婦と私の三人で、その村のいちばんきれいな場所を三時間あまりもかけて歩きました。
ご夫妻は、私とほとんど同じ年代です。それが三時間。あたりを見回しながら、ときおりおしゃべりしながら、ゆっくりゆっくり歩いたんです。本当にきれいな風景が広がっていたので、まったく疲れなかったんですね。
そして、散歩を終えて帰ってきたとき、心身ともにすごく満足感があったんです。そのとき、私は、これからはこういう旅が求められるのではないかとハッとしました。自分を見つめるような旅です。
美しい風景の中で、たとえば沖縄の美しい海を見ながら、かぜを感じながら、夫婦で、あるいは友人と、あるいはひとりで。歩いたり、話したり、自分のことを考えたり。
そして、もうひとつ、思ったことがあります。
3時間の間、私を楽しませてくれたイギリスの美しい風景は、手付かずの自然ではなかったこと。山も、木々も、丘も、すべてが美しかったのですが、実は、自然そのままではなく、それを生かすように整えられていたんです。人の手が入ることで、より自然な美しさが際立っていたんですね。これは、観光を目的とする人たちにとって、とても重要なことではないかと思います。
沖縄の自然は魅力があります。
その魅力を際立たせるために、人の手が入っていると感じさせないように、人の手を加えていく。それは今現在のためだけではなく、長く未来にわたって、その自然を保護するためにも必要なことだと、私は思います。
最近の沖縄では、ホテルの建築ラッシュですよね。その前は、マンションの建築ラッシュでした。
それで地域経済が潤うという面もあるでしょうし、それだけ多くの観光客や滞在者が沖縄にはやってくるということなのでしょう。
でも、町のあちらこちらで建設途中のビルが立っているのを見ると、私はふとかつての日本列島大改造やバブルの時代を思い出したりして、ちょっと心配になってしまいます。まさか、そんなおろかなことを、沖縄で繰り返すわけがないと思いつつも、開発には慎重になってほしいと思ってしまうのです。
あの時代、美しい日本の田舎の風景が音をたてて壊され、失われていきました。失われたものは二度と元には戻りません。箱根の我が家は、そのときに出会った古民家が無残に壊されてしまうのが、忍びなく、思わず、買い取ってしまい、そこで考えに考えた末に、古民家の柱や梁を使って、建てた家なんですね。
沖縄の伝統的な家や風景までが、高度経済成長期の本土と同じような道を辿らないでほしいと、私は祈るような気持ちです。シーサーが守る、平家の沖縄の伝統的な家。さわやかに風が通り抜け、木が沢山使われている家。そして、ご近所も家族みたいな、おつきあい。
そういう沖縄の文化を失わないでいただきたいんですね。開発に当たっては、そうしたことに対しても知恵を絞り、バランスよく進めていってほしいんです。
ちなみに、私がロングステイしたいのも、そうした沖縄伝統の家です。ただし、旅人ですから、プライバシーもちゃんと守りたいし、ひとりでいる静かな時間もしっかりと確保したいんですね。
そして、美しく保護された海を見ながら、自然を生かすように整えられた道を、朝夕ゆっくりと散歩したりもしてみたい。そういうスポットなどが整えられれば、沖縄はこれから、もっともっと魅力的な場所になるのではないでしょうか。
もちろん、私のような人ばかりではないでしょう。鍵ひとつかけられれば出かけられる、マンションやロングステイ用のホテルなどを好む人もいるでしょう。でも、そうした人にとっても、沖縄伝統の文化や風景は魅力であることは間違いありません。
美しい海、そしてもてなしの温かな心を持つ人々、開放感があり、青い空に絵のように美しく映える沖縄の風景……こうしたものを大切にして、さらに磨きをかけていってほしいのです。そうすれば、なおのこと、シニア世代、いえ、成熟した大人の男女にとって、ゆっくり流れる時間を味わうにふさわしい場所として、愛される場所になるのではないでしょうか。

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NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・白川郷」

今夜ご紹介するのは、もう皆さんご存知の世界遺産〝白川郷〟です。
白川郷は岐阜県と富山県境にあり、正式には岐阜県大野郡白川村人口1900人の集落です。
私と合掌造りの家は、切っても切れない関係にあります。
合掌のカタチにひかれて、生活のスタートラインにたった、といっても過言ではありません。家の骨格というべき柱と梁は、何か私の心の中の骨格でもあるのです。
自然と共存して生きることの、とてもシンボリックなカタチ。もう何十年にもなるでしょう。この集落に通い、さらに日本中を旅し、自分が求める暮らしのあり方や、心の置き場所を探す旅を続けてきました。
白川郷は冬なら2、3メートルの豪雪に埋もれる雪の里です。
私は何度も旅をしました。雪の中へ足を入れながら、神聖な気持ちになったものでした。雪を深々とかぶった集落は神々しく、余所者(よそもの)は雪の上に足跡を残すのさえ、ためらわれたものでした。
現在、世界遺産に登録されてからは、集落の様子は随分変わりましたが、でも冬、雪深い白川郷は静寂そのものです。
私はいつも名古屋から高山本線に乗り、飛騨古川を経て白川郷へと通いましたが、道すがら、その道筋自体に私の心をふるわせるものがありました。列車が進むほどに山が迫り、やがて渓谷が深く列車の行く手をさえぎる。かと思えば山間に可愛らしい集落を見せてくれたり。いっときも見逃せない自然絵巻が広がります。
思えば35年ほど前から、このルートの向こうに私が求めるものがあると直感し、何度も何度も足を運びました。最初はひとり旅、結婚後は家族と、あるとき乳飲み子をおんぶして。さらにもうひとり生まれると、上の子はしっかり私の手を握りしめてついてきました。私が進む先に、私の求めるものがあると信じていたから通えたのかもしれません。
それが、白川郷でした。
厳しい豪雪の中に建つ合掌造りの家は、静謐な祈りのカタチです。そこに佇むと、私はいつも自分の原点に帰ってくるような気がします。
かつて中学の図書館で見た、民藝運動の提唱者の柳宗悦先生の本に書かれていたフレーズの「ものを作る人に美しいものを作らせ、ものを使う人に美しいものを選ばせ、この世に美の国をつくろう」という一説が私の胸に宿りました。
白川郷のあるお宅で、大きな柱をさすっていますと、故池田三四郎先生がおっしゃった言葉が浮かびました。「民藝で一番ガラが大きいのが家だ」と。
池田三四郎先生は伝統的な木工技術を生かして広め、用の美の精神を基盤とした「松本民芸家具」の製作を開始した方です。
やがて、旅を続けるうちに、自分の家を作る段になりました。
その頃、各地で後継者がいないからとか、維持できなくて家を手離さざるを得ないという方々がたくさん出るという事態がおきていました。築百五十年もの家がついに壊されるという日、私はその村を通りかかっていたのです。チェーンソーが今にも太い柱を切り裂こうとする寸前、キーンと鋭い音がして、私にはそれが悲鳴のように聞こえました。
その音はまさに民家が号泣しているかのようでした。
昭和四十年代のことです。こうして日本は過去を葬り、高度成長社会に移行していったわけです。このとき、「待って!」と叫んで、譲っていただいた、いくつかの民家の端々が、今、箱根の家で堂々と余生を生きています。
白川郷や五箇山に美しい姿をとどめる民家は八世紀からの遺産だそうです。日本の歴史に翻弄されることなく、ずっと身を隠しながら、何世紀も生きてきたものだけが持つ神々しいまでの家々です。集落の中に江戸時代から変わらない道があり、屋敷の間を村道が縫い、昔の姿をとどめていますが、そこには現代の人々が暮らしているのです。
旅をする時・・・そこが世界遺産ならなおさらのこと、人々は静かにその村を訪れましょう。
1935年(昭和10年)ドイツの建築学者ブルーノ・タウト(1880~1938)が白川郷を訪れました。合掌造りを「極めて論理的、合理的で、日本には珍しい庶民の建築」と高く評価しました。「日本美の再発見」によって広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになったのです。
白川郷にお邪魔すると、我が家の親戚に会ったような安堵感を覚えます。
きっと今頃の白川郷は一面銀世界でしょう。
私の住む箱根は例年より雪が多いようです。雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして、不便な面もあるのですが、雪の中の箱根はなかなかきれいです。
雪の匂いに樹木の匂いがまじって、なんだかとてもゆったりした気分になりますし、雪があたりを覆うと、ふんわりと音を吸収してくれるせいでしょうか、いつもより一層、静寂が深くなるような気がします。
寒い季節に雪のあるところを旅すると、普段見えないものが見えてきます。そして、箱根の我が家に帰り、あちこちの柱に報告をします。「あなたたちのお仲間も立派に生きていましたよ」・・・と。
2007年7月現在 世界遺産に登録されているところは
文化遺産  660
自然遺産  166
複合遺産   25    合計851
人類にとって大切な大切な遺産。 みんなで美しく守っていきたいですね。
旅の足は 東西南北4本の道がありますが、通行止めの場合もありますので必ず確認してからにしてください。マイカーなどの乗り入れ規制もあります。
道路状況などのお問い合わせは
白川村役場
05769・6・1311
白川郷・合掌造りなどの問い合わせは
白川村観光案内所
05769・6・1013
現在は積雪一メートル位ですが、周辺は除雪してあります。ホームページでいろいろ検索できます。
建築に興味のある方は「合掌造りの構造」に詳しく載っております。
今夜は茅葺の里、白川郷をお届けいたしました。

雪景色の箱根

この冬は例年より雪の多い季節でした。
雪が降ると、山に登る道がチェーン規制になったりして不便も感じますが、雪の箱根はなかなか素敵です。
小田原からバスに乗り、宮下を過ぎるころには空気も匂いも一変します。
夜空は、時には「冬の月」であったり、樹木の枝に降りつもる雪であったり、「星が」煌々と輝いていたり・・・、まさに「星冴ゆる」夜、静寂な里に暮らす喜びを感じます。
冬ごもりした箱根は静謐そのものです。
でも、早朝の赤富士が見られてた時など”春はもうすぐ”・・・と思います。
春を待ち望んでいる花々との出逢いが楽しみです。

浜美枝のいつかあなたと – 野村万作さん

私の出演している 「文化放送・浜美枝のいつかあなたと」日曜10時30分~11時に先日、和泉流狂言師で人間国宝の野村万作さんをお客さまにお迎えいたしました。
野村万作さんは、1931年、六世の野村万蔵さんの次男として東京にお生まれになりました。
三才のとき「靭猿」の子役で初舞台。以来、これまでに、三番叟、釣狐、花子(はなご)など流儀にあるほとんどの作品を上演されてきました。
当代の人気狂言師、野村萬斎さんのお父様でもいらっしゃいます。大変興味深く、示唆にとんだお話でしたので当日伺ったお話を。
そして、1月17日には宝生能楽堂で「野村狂言座・歌争」を拝見いたしました。
春ののどかな風景を背景に、とぼけた味わいのある作品を見事に演じられ、野村万作さんの鍛錬され尽くした芸を堪能いたしました。
狂言の稽古は、親から子へ・・代々受け継がれてゆくもので、万作さんは子供の頃、お祖父さま(先代萬斎)から稽古を受けられたそうです。狂言の稽古は親子の間柄だと、どうしても厳しくなってしまい、お父様の稽古は厳しく、お祖父さまは優しい記憶があるそうです。今は孫の裕基君(小学生)の稽古もつけるそうです。
万作さんは今も年間200回ほどの舞台を勤められ、健康法はまさに舞台の本番とそれにそなえての稽古が健康の源かもしれません。
野村家では、1950年代から、さまざまな海外公演を行ってきました。フランス・イタリア・ソ連・ギリシャ・ドイツ・中国・・・1963年にはシアトルでアメリカ人に狂言を教えたとのこと。狂言には型があるが、「父の舞台は自在だった。そこに自由を感じた。共演して、酒盛りのシーンを演じる。父親は、飲むふりをしているのに、顔が赤くなって、酒のにおいがするようだった」古典なのだが、自在に演じていらしたそうです。
野村万作さんは、いまから10年ほど前・・・60代の半ばの頃、稽古場に飾ってあった表彰状や記念品をすべてしまったそうです。
それは過去の栄光にすがるのではなく、つねにゼロからはじめるという決意。
「父、六世万蔵も「肩書き」や「権威」を嫌い、つねに庶民の立場で狂言を演じた。決して偉くならない人だった」・・・と。
その姿を思い出し、自分もゼロから狂言に取り組みたいと・・・。
このお話に、万作さんの本質が見えました。
人間国宝、まさに国の宝でありながら、「偉く」ならずに、狂言の道を研鑽する・・・。
厳しく、そして優しい人柄を感じさせてくださる野村万作さんでした。

NHKラジオ深夜便-「大人の旅ガイド・日本のふるさとを歩く~遠野」(1月24日放送)

今回ご紹介するのは、木も草も石ころも「民話」の主人公に見えてくる岩手県・遠野です。
盛岡、花巻・・・仕事で岩手県に行くと、つい足を延ばしたくなるのが“遠野”です。いろりのそばで聞きたい民話。その民話の世界がそこここに感じられる田園地帯。そこに生きる人と暮らしとの出逢い・・・・懐かしさがこみあげてくるのです。
降るとも舞うともつかない小雪が遠野の里をけむらせる一月、小正月。
春、桜の頃の遠野でおいしい山菜をいただいたことがありました。山からの風がまだ冷たかったのを覚えています。夏、目が洗われるような緑のタバコ畑、たんぼの稲の波。カッパ淵におそるおそる素足を入れてみましたっけ。
でも、冬の遠野は特別。初めて冬の遠野を旅したのは、長女がまだ幼かった頃。
遠野に住む神々と、そこに暮らす人々がさまざまな儀式の中で向き合う正月。ここで暮らす人々がしばし仕事の手をやすめ、一年の労苦をねぎらい、また一年の意気を確かめ合い、神々に祈る小正月。
いつかは訪ねたいと、ずーと思っていました。訪ねたいと思った季節に、好きな所へ旅するのは本当に楽しいことです。
「寒いわ・・・」などと仰らないで。ひっそりと、しかし、ぬくもりいっぱいの遠野に自分自身の昔が重なるような気がするのです。
私が遠野を知ったのは、もちろん「遠野物語」。明治43年、柳田国男先生によって著わされたこの本は、素人ながらも民藝のカタチと心にひかれ、人の暮らしの手ざわりを求めつづける私の、大切な一冊でした。
野づらにも、川にも、山にも、石にも木株にも神様がいて、その神々がときに天狗だったり、雪女だったり、馬だったり、猿だったりしながら人々と出くわし、戒めたり、突き放したり、抱きしめながら、遠野の人々の暮らしに深く深く根ざしているのを、ひとつひとつの民話が語っているのです。
私も、そして多くの人々も生涯、生まれた土地で一生を過ごすことなんてなかなかできませんよね。遠野の方々も、進学、就職でここを離れていくでしょう。
それにしても遠野は不思議な吸引力で郷土の子らをだきつづけるのです。そんな遠野の磁力に、旅人は引き寄せられるのです。
お作立てといって遠野の小正月。お訪ねしたのは小水内家。旧暦正月15日から20日の小正月。ミズの木に栗や粟、マユ玉、豆、餅などを飾ります。農家の広い座敷にきれいな花をいっぱいつけた木が枝を広げて、それはそれは美しいのです。
そして、「お田植え」小雪が舞い、足元から冷えがズンズンと全身に伝わるような寒さの中。一家で前庭へ出て、松の小枝を稲に見立て雪の庭に整然と植えていきます。真っ白な広っぱに濃い緑の苗・・・・、一年で一番寒いこのときに、一年の豊作を祈るのです。
一心に手を合わせて祈るさまは感動的です。
『花巻より十余里の路上に町場三か所あり、その他はただ青き山と原野なり、人煙の希少なること北海道石狩平野よりもはなはだし。{中略}馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。{中略}猿が石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。{中略}附馬牛の谷へ越ゆれば早池峰の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとく、また片かなのへの字に似たり』
「遠野物語」の序文に、柳田国男先生が馬で遠野郷へ入って、ひとまわりした折の遠野の風景が書かれています。今なら、観光は馬ではなくサイクリングかウオーキングですね。
車で走り抜けてしまっては路傍の石や草むらや川に住む民話の主たちと出会えないかもしれません。
さて、遠野は岩手県の中央を南北に貫く北上山系の真ん中、標高1917メートル、山系のうち最高峰、早池峰山のふもとに広がる盆地です。遠野の昔々、そこにはアイヌが住んでいて、アイヌ語でトオヌップ=湖のある丘原といわれていたことが地名のおこりと言われています。
早池峰神社、駒形神社『昔あるところにサ、長者の家サあったどもな。そこの親父が一人娘に馬の子っこ買ってきたんだって。』・・・・ではじまるオシラサマ。馬を大切にする遠野らしい民話ですが駒形神社も馬産の神さまをまつる由緒ある神社です。
『昔あるところに、川サあったどもな。川のほとりの草っこかじりながら、馬の体サごだァごだァと洗ったり、昼食って、休んだどもな。』カッパ淵のはじまり。
民話の語り部  阿部ヨンコさんに聞いた民話。
「民話はね、母親が教えてくれたの。小学一、二年生の冬の間。囲炉裏のまわりで夜ね。三年や四年でなくて、一、二年生の冬の間だけなの。三年になると雑巾縫ったり本も自由に読めるからね。雑誌もテレビもないからね、母親の昔話は楽しみだった」・・・と語ってくださったヨンコおばあちゃん。
ヨンコおばあちゃんがそうであるように、母から子へ、民話は語り継がれて今日まで生きてきたのですね。夕暮れの遠野の野づらに立つとシンシンと底冷えする寒気が足から全身をはいめぐります。
遠野に来ると、この寒さの底で生きてきた人たちの民話を求めた気持ちが少し、わかります。
「銀河鉄道」の夢をのせて走る電車。メルヘンの世界をほうふつとさせます。
遠野は大人のドリームランド。夕暮れから夜へと移ろう頃、枯野を電車が通り抜けます。小正月の頃、冬は上りも下りも乗客などなく、灯りのついた車窓だけが快活で、あえぐように走る電車はせっせせっせと夜の闇へと向かいます。
冬の遠野。
人々に会う、岩手の冬の自然にふれる。あの初めての遠野の冬からもう何回冬が廻ってきたのでしょうか。私にとってもそうであったように、きっとあなたにとっても心象の風景に出会う旅になるでしょう。
旅の足・・・東北新幹線新花巻下車。遠野へは釜石線快速で45分。車で約1時間。宮沢賢治記念館へは新花巻駅から車で3分。詳しくは、遠野市観光協会のHPをご覧になると、「遠野ふるさと村」や「とおの昔話村」など昔の住宅を移築保存している施設などの情報がたくさんございます。
遠野から花巻へ  イーハトヴを巡る旅もお勧めです。

「旅は数珠球・・・壷と椿の花」

旅は自己発見である、とはよく言いますが、私にとって、旅こそ自己形成の場ではないかと今でも思えるのです。
学問も、才能も、家柄も、財産も、何もなくて、ただころがりこんできた時の運のようなものにおされて芸能界に入って、右も左も自分が立つ場所さえわからず、さあここですよ、右むいて左むいて、笑って泣いて、さあこの台詞・・・となにやら人形みたいに動かされて、16歳の私は、ただ渦の中に落とされた小石のようなものでした。
めまぐるしいスケジュールの中で、必死で何か杭があるならつかまりたい。なにか小さな木の葉でもいい、つかまっていないと押し流されそうな怖さだけは確実にあったように思えるのです。
この不安の思春期の中で何につかまられるか、何をつかむかで、その後のある程度の方向は定まってくるものではないでしょうか。
私にとって、それはひとつの”壷”だったのです。
いまになって、あれは私の人生の道標であったと思えるのです。
デビューして2年目くらいの冬のこと。
社会派のカメラマン、土門拳先生に雑誌の表誌を撮っていただけるという幸運に恵まれました。場所は京都・苔寺。その日は光がだめだというので、お休み。
「ついて来るかい?」
「これから本物というものを見せてあげよう」
16、7の小娘には何が本物なのかわかろうはずもありません。
ついていった先が、祇園石段下、四条通りに面した美術商「近藤」でした。
お香の匂いがかすかに漂ってひんやりしているけれど、どこか暖かな店。その店に入った途端、ひとつの”壷”の前で、私は動けなくなってしまったのです。誰の作品で、何焼きで、何年頃のなどということは何も分かりません。
ただその”壷”のありように胸打たれてしまったのです。
そこにある壷は、それを見ている私そのもののような気がしたのです。
身動きもならず、ただうずくまるだけの自分。
それでいてその内側に爆発しそうな力を秘めて、体でそれを表すすべもなく、うずくまるしかないという形の心をそこに見たのです。
身じろぎもせず、その壷を見入っている私に、近藤さんが教えてくださいました。
「この壷の名は”蹲”(うずくまる)。
古い信楽で、作者不詳」・・・と。
その壷にはどうしても寒椿を活けたかった。
何日かたつと、突然ポトリと花が落ちるあの姿、と”蹲”の無欲な姿。
結局、当時頂いていた東宝からのお給料を一年分前借して私のそばにやってきたのです。
夢のようなある冬の出来事でした。
今朝、庭に咲く椿を活けてみました。
あれから、かれこれ半世紀がたちます。
旅は数珠球・・・小さな旅から大きな旅まで、私を豊かにしてくれます。