追悼 ジャン=リュック・ゴダール監督

ゴダールさんの訃報に接して、また私の青春が遠のいていきました。『勝手にしやがれ』は1960年公開のフランス映画界にヌーベルバーグ(新たな波)を起こし、革命児でもあり続けたジャン=リュック・ゴダールさんが9月13日、スイスの自宅で死去されました。91歳。

私の青春史は、1960年代の映画史とダブります。特に60年代の幕明けともなったフランスの二人の監督作品は、時代の幕明けにふさわしい衝撃でした。

少年院を逃げ出した少年が海に行きつき、そこで身動きもならず立ち尽くしてしまうラストシーン。「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー)。くわえ煙草で街行く女のスカートをまくり、自転車をかっぱらって、あげくの果てはパリの裏通りで死んでいく青年。「最低だッ」とつぶやいて自分で自分のまぶたを閉じて死んでいく破滅男をとった「勝手にしやがれ」(ゴダール)のラストシーン。青年の反抗精神とペシミズムが、せつないほど胸に迫り、スクリーンを見据える私にも新しい自己主張を持った映画の時代=私たちの時代を予感するに充分な手応えを残したものでした。

ヌーベルバーグ(新たな波)は、きれいごとの青春とは違う生々しい肉声を持った青春を私につきつけたのです。”私たちの映画”をみせつけてくれたゴダールさんに逢ったのは、カンヌの映画祭でした。

いまは亡き川喜多長政さんにお願いして紹介していただいたのです。私、そのときあまりのカンヌのまぶしさにサングラスをしていました。川喜多さんに紹介していただいたとき、サングラスをとらずにゴダールさんと握手して、後で川喜多さんに注意されたのを思い出します。「人に出逢ったときは、サングラスをはずすんですよ」それ以来、私はあまりサングラスをしなくなったのです。そのときのゴダールさんは、まさに映画祭中の人気を独り占めしていました。

本屋の配達人、テレビ局のカメラマン、演出助手、ダム工事の土方、撮影所下働きなど下積みの生活を経てきた青年の、したたかな輝きが満ちていました。「女と男のいる舗道」「小さな兵隊」など、次々に話題作を作っていました。

当時はアンナ・カリーナとまずくなりはじめた頃だったと聞きました。案の定、「軽蔑」や「恋人のいる時間」などにアンナ・カリーナは出演拒否しています。”映画監督の中で一番モテない男”というウワサをそのとき耳にしました。そうかな……

1966年、ゴダールさんが来日したときは、映画仲間とゴダールさんを囲んで映画論を隅っこで聞いていました。よく理解はできませんでしたが、何をみんなは夢中で議論していたのでしょうか。

青春のある一日は、まるで遠い映像です。夢中で燃えて過ごした日々は一体どこへいってしまったのでしょう。1966年、日本は高度成長の真っ只中。繁栄の時代に入ったにもかかわらず、日本映画界は早くも低迷期に入ろうとしていました。アメリカでもその頃、ハリウッドの映画産業界が、次々と他の産業に身売りしていた時代でした。

ゴダールさんとの出逢いに象徴される私の映画青春史……サングラスごしの出逢いのように、いままたセピア色の記憶になりつつあるのです。

  ジャン=リュック・ゴダール監督  ご冥福をお祈りいたします。

花は野にあるように

私は野歩き、山歩きが好きでよく歩きます。早朝に咲く花は早朝に、夕暮れの花は夕暮れに見てこそ美しいと思います。とくに早朝の花、湖……小路に秋の風を感じるこの季節、私は美しい女(ひと)のことを想い浮かべます。

2010年に97歳で惜しまれながらこの世を去った華道家。長寿社会に生きて行く”道しるべ”。かつて「花のように生きれば、ひとりも美しい」という本を出されました。

玄関に一歩足を踏み入れると、はっと息をのむような静寂が、私を迎えてくれました。そこに花はなく、ただ、花の気配だけが漂っています。窓辺に置かれた常滑の壷が待っているのは、むくげ?芙蓉?それとも、楓の一枝でしょうか……。

神奈川県逗子海岸。耳を澄ませば遠くに波の音が聞こえる木造二階建て、昭和10年代の建造物。長いこと憧れ続けていた、茶花の先生。楠目ちづさんをお訪ねしたのは、もう25年ほど前のことです。

透明なまなざし、柔らかな笑顔。銀色に輝くおぐし、そして和服をさり気なく上品に着こなされたその楚々としたたたずまい…。美を深め、美を極められるその方ご自身が、まさに日本の美そのものでした。

楠目さんは大正2年北九州のお生まれ。愛情深く趣味豊かなご両親のもとで、美の滋養を存分に取り入れて幼女期と少女期を過ごされました。やがて父上が亡くなり、少女のころより病弱だった先生とお母さまは戦争の折、空襲で危険な東京から命からがら逗子へと移られました。

そして、戦時中よりさらに厳しかったあの戦後が始まります。逗子へと転居された頃、先生のご病気はすでに、死を覚悟せざるを得ないほど進んでいたのです。結核でした。動けない身体で、窓から見える空の色、雲の形、松の枝、鳥の声…。それだけが相手の毎日、ふと出会った一冊の本が、思いがけず先生を死に向かう日々から生への意欲へとかき立てます。

「生け花作家で茶の湯にも造詣の深い、西川一草先生の作品集でした。柳に牡丹、小さな蝉籠の隠元豆に、むくげの向掛け……それは美しく、目も心も奪われました。やがて病魔も、私の花思いほどには強くなれずに、その後徐々に快方に向かいました」と微笑まれました。

お茶を点てる席というものは、なぜかいつも俗世とは一線を画した小宇宙。炉には静かにお湯が煮え、仄かにたなびく湯気に風の気配を知り、ふと、生けられた花に目が止まります。吾亦紅(われもこう)に女郎花(おみなえし)茶室にふっと秋がまいおりたような景色です。

茶席に花を飾る。その演出を考えたのは千利休といわれます。茶花の姿は、わずか二時間余の存在です。先生から伺う花にまつわるお話のひとつひとつが、改めて日本の文化の素晴らしさ。

たとえば、”花所望”それは茶の湯の席で客人に花を生けてもらうという、ゆかしい遊びといいます。茶席を終えて辞去するとき、客は花を懐紙にとって置いて帰ります。それが惜別の美、謙虚の美、そして花供養…。ひとつの行為にいくつもの無言の意味が含まれています。先生のおそばに向き合っているとその美意識はどこからくるのかしら…と思いました。「花は野にあるように」という、利休のことばが支えていらしたのかしら。

「結婚もしない、子どももいない、つつましく暮しているは。でも私は自由でした。人生それぞれ だからこそおもしろいのね」と。八十二歳という年齢を迎えられても、お元気に花修行の手を休めることのないお姿に、「美の本質をつかむこと」について語ってくださったことが忘れられません。

美の本質をつかむことは、実は『生きる本質をつかむこと』であったのだと、この年齢になり少しだけ分かったように思います。部屋の窓辺に秋の花を飾り楠目ちづさんを想いました。

『ザ・ニュースペーパー』

たくさんの中高年の男女が、笑いを求めて週末の東京・大手町に集まってきました。皆さんの顔は、「さあ、おもいっきり笑うぞ!」という決意?に満ち溢れていました。

それもそのはず、いつまでたっても先の見えないコロナの行方や、ウクライナ情勢の泥沼化。それに、止まらない物価高や政治と宗教の絡みまで加われば、世の中は明るくなるはずもありません。そんな空気をぶち壊そうと、マジメでトボケて、冴えた男たちが今年もやってきました。

「ザ・ニュースペーパー」、62才から35才までのメンバー9人からなるグループは、政治・経済・社会、そして国際問題も視野に入れてエライ人たちをバッサ・バッサと切りまくるのです。忖度とは全く無縁の舞台空間が、そこにはありました。つまり彼らは市民の感覚に味方する、社会風刺コント集団なのですね。

舞台に登場する人物は、岸田首相・菅前首相・安倍元首相・麻生元首相。そして、公明党の山口代表や共産党の志位委員長らも加わり、アメリカのバイデン大統領やトランプ前大統領、さらにロシアのプーチン大統領まで顔を出すという”豪華絢爛”たるものでした。

9人の役者がそれぞれを演じる内外の政治家の姿、それは声帯模写ではなく、絶妙な形態模写であり、選び抜かれたセリフなのです。その快刀乱麻ぶりに600人近い観客は、溜飲を下げ続けるのですね。

こうした”スッキリ感”はテレビでは決して見られず、新聞の紙面でも読むことは難しく、この舞台の独占物なのかもしれません。劇団「ザ・ニュースペーパー」は、今から33年前に産声を上げました。その後、各地で活動を続けながら、2013年に大手町での定期公演がスタートしました。今回の公演は10回連続公演となったのです。

ニュースの切り口と役者の表現力だけで勝負する舞台劇、それは登場人物をただ切り捨てて終わり、ではありません。今回の公演の最後には、安倍元首相への追悼の言葉が静かに映し出されました。

そして、この劇団を30年以上にわたって引っ張ってきたリーダーの渡部又兵衛さん(72歳)が9月7日、長い闘病生活を経て逝去されました。今回の公演のわずか10日前のことでした。

そのことを当然知っていた会場の観客は、最後の舞台挨拶でメンバーはどのようなコメントを口にするのか?と小声で囁き合っていました。しかし、団員の皆さんはリーダーの死に一言も触れることなく、ライトが絞られました。

冷たいのでは決してない、「リーダーの遺志を継ぎ、前を向いて歩いて行こう!」という意思を固めた、文字通りプロとしての振る舞いに徹したのでしょう。来年の大手町公演は10月末ということです。

11回目となる「ザ・ニュースペーパー~演じる新聞、観る新聞~」  
来年も参ります。

公式ホームページ
http://www.t-np.jp/

映画「オルガの翼」

15歳の体操選手・オルガは鉄棒の練習にひたすら汗を流します。ウクライナ代表として欧州選手権に出場し、勝利を得るために。映画「オルガの翼」は、体操に青春をかけながら、それが許されないアスリートの心の襞を、細やかに描き出します。

2013年、ウクライナは大混乱に陥っていました。当時の大統領の汚職と圧政は頂点に達し、”マイダン革命”と呼ばれた市民運動が火を噴いたのです。その中でオルガの母親はジャーナリストとして、政権批判の記事を書き続けます。

そして、母親が運転する車が何者かに襲われ、一緒に乗っていたオルガも怪我をしました。娘の身を守るため、母親はオルガを亡き夫の故郷・スイスに出国させます。”一人ぽっちの避難民”でした。

言葉も文化も大きく異なるスイスでの新しい生活。オルガはそこで練習を再開します。孤独の中でスタートしたオルガは懸命な努力を重ねますが、母親やウクライナの厳しい現状を「SNS」によって知ることになります。

そして、心は大きく揺らぐのです。生まれ故郷の苦悩や自身の将来を案じながらの日々。「政治とスポーツは別だから!」、国際試合で顔を合わせたかつてのコーチの言葉を、はっきりと拒絶するオルガでした。混乱や不合理の真っただ中にいる若き当事者にとって、政治とスポーツが切り離せないことを知ってしまったのです。単なる”スポーツ根性もの”と一線を画す奥行きが、スクリーンに溢れ出ていました。

この映画を現実感あるものにしているのは、スマホによる会話や映像でした。”マイダン革命”の生々しいシーンは、デモの参加者が実際にスマホで撮影したもので、際立った迫真力を見せています。

更に、主人公のオルガを始め多くの選手たちは、体操の得意な俳優が演じたのではなく、全欧選手権などに出場した本物の選手たちが選ばれたのです。オルガを演じたアナスタシア・ブジャシキナもその一人でした。リアリティーある映像は、ドキュメンタリー映画を思わせるものでした。

この映画はフランスのエリ・グラップ監督、28歳によって作られました。制作はウクライナの混乱、ロシアによるクリミア半島の併合などが進む中で続けられ、昨年完成しました。まるで、今年2月のウクライナ侵攻を予感させるような内容となっています。監督がこの映画の企画を立て始めたのは、まだ20歳を過ぎたばかりの頃でした。近づく戦火の足音を感じながら、地続きのヨーロッパで若い感性は研ぎ澄まされていったのでしょうか。

監督は”マイダン革命”で見た多くの人々の連帯感に心打たれたと語っています。そして、体操選手の役はプロの俳優にはオファーしたくなかったとも告白しています。

先行きの見えないウクライナの情勢ですが、この映画の最後のシーンは見る人を勇気づけるものでした。主人公・オルガの瞳は遥か先を見つめ輝いていました。次の世代、そして次の時代への確かな引継ぎを、既に始めているのです。

ウクライナの厳しく複雑な歴史を断片的にしか知りませんでしたが、この映画を見たことで、きっかけが掴めたようです。

素晴らしい選手たちと監督に、感謝と声援をお送りします。

映画公式サイト

映画公式サイト
http://www.pan-dora.co.jp/olganotsubasa/#main

自然と人のダイアローグ

この絵の前でどれほどの時間佇んでいたことでしょう。他の方の邪魔にならないように……フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)人生でもう出逢えないと、諦めにちかい気持でおりました。うねるような麦畑。農民が一人もくもくと鎌を振るって刈り入れをしています。夏の炎天下。初来日となりました。「刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)」1889年。

私は中学卒業後、バスの車掌になりました。川崎の工場街を走る路線を担当。バスの中は働く人たちの汗と油のにおいがし、連帯感のようなものを感じ「労働の喜びとつらさ」も体で感じました。そして、女優という未知の世界へと飛び込み、不安と緊張に押しつぶされそうになり、”もう、やめようこの仕事”と思い、ひとり旅にでました。

18歳の秋です。わずかなお金しか持たず、でもイタリア・イギリス・そしてオランダへ。ゴッホのことは中学の授業で知ったくらいでした。(ひまわりの画家)としての認識くらいでしたが、でも、”何だか”気になる画家でした。60年ほど前、アムステルダムのまだ古い「ゴッホ美術館」に朝一番で出かけました。

ギシギシと軋む木の階段を上ると、天窓から朝の光を浴び「馬鈴薯を食べる人々」の絵が目に入ってきました。テーブルの上にふかしたジャガイモを一家で囲み、ランプの灯りがほのぼのと暖かく、労働を終えた家族の一枚の絵の前でクギ付けになりました。「あの、ひまわりのゴッホがこのような絵を描いていたの!」と驚き、それ以来沢山の本を読み、ゴッホの人生をしりました。その一枚の絵に出逢えたことで、女優を続けていく勇気をもらえました。

南仏アルルで芸術家村の夢に破れたゴッホは、入退院を繰り返した後、サン・レミの精神療養所に移り、そこで母や妹のために描いた習作をもとに描かれたのが本作品です。多くの人は「死」のイメージを見たといいます。そして、ゴッホは「この死のなかには何ら悲哀はなく(中略)明るい光のなかで行われている」と記し、その翌年の夏、自ら命を絶ちました。

展覧会が開催されている「国立西洋美術館」は、2016年に世界文化遺産に登録され、同館は前庭を創建当時(1959年)のル・コルビュジェの構想に近づける工事が行われました。すっきりとした広場にロダンの彫刻。今回リニューアルオープン記念としての展覧会です。

本展は同館と、今年開館100周年を迎えるドイツ・エッセンのホォルクヴァン美術館とのコラボレーション企画です。ドイツには何度か訪ねているのに、チャンスを逃し、もう諦めていたところに朗報でした。「会える!ゴッホの刈り入れに」と感動しました。「馬鈴薯を食べるひとびと」に”生きる勇気と、労働の喜び”を。そして、今回は”人生はままならない”ことを教えられました。芸術って素晴らしいですね。

私は雲を見つめるのがとても好きです。この絵も。ゲルハルト・リヒター「雲」1970年

産業や科学など急速な近代化が進んだ19世紀から20世紀。芸術家たちはどのように自然と向き合っていたのでしょうか。素晴らしい作品の数々。今回の展覧会は一部を除いてほとんどが撮影可でした。

クロード・モネ、アンリ・マティス、フェルディナント・ホドラー、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、カミーユ・ピサロ、ギュスターヴ・クールベ、オディロン・ルドン、エドヴァルド・ムンクそして

フィンセント・ファン・ゴッホなど等。

最後に病室の窓から眺めた「ばら」の風景の絵をしっかり瞼におさめ会場を後にしました。18歳で出会った一枚の絵に勇気を与えてもらい、70代終わりに、炎天下の麦畑と農民の姿に見入り、人生を見つめることのできた展覧会でした。

自然と人のダイアローグ展
https://nature2022.jp/

美しい村 原村

先週末、日帰りで長野県八ヶ岳の麓にある「原村」に行ってまいりました。小田原に住む友人夫妻とご一緒に。

ご主人の運転で御殿場経由、中央道に乗りおよそ2時間半のドライブでした。鉄道の場合は、新宿駅から特急あずさ号で富士見駅か萱の駅下車。私は普段は電車や列車、バスでの移動がほとんどですから、車窓から見る風景はまた新鮮です。

今回の目的は、毎年開催されている原村での「イングリッシュサマーフェアin原村」が見たくて行きました。このフェアに鎌倉でアンティークショップ”フローラル”を営んでいる娘も参加しているのでのぞいてみました。

マーマレードなどジャムが美味しいイングリッシュキッチンさんは英国ダルメインで2016年から7年連続金賞受賞。そして自家製紅茶とコーディアルはスティルルームさん。お菓子は鎌倉山で素敵なカフェをしているハウスポタリーさん。と、今回もまるでイギリスを旅している気分にしてくれる素敵なフェアです。お庭ではティーセミナーが開催されていました。皆さん楽しそう…やはり人が集い語り合うってとても大切ですね。

原村はなだらかな傾斜地に広がる美しい高原の村です。北アルプス、南アルプス、天気がよければ富士山も見渡せる360度のパノラマが広がっています。農村風景、そして都会からの移住した方々の家やペンションが林の中に建ち、和と洋がほどよくミックスし、看板も最小限にし、ヨーロッパの田舎の風景です。放牧した牛が気持よさそうにのんびりしています。林道を爽やかな風が抜け、澄んだ空気が心地よい村です。

原村の人口は7、642人。
面積は43.26㎢。

村の歴史は400年余り前の新田開発から始まったそうです。当時は高冷地で水も不足していたことから先人は大変苦労して稲作をしていたそうです。反面高原特有の冷涼な気候を利用して高原野菜や花き類もさかんです。瑞々しく甘みのある野菜が育ち、私も完熟トマトや茄子などカゴいっぱい買いました。

そして前回来た時に購入して美味しかった無添加のブルーベリーがたっぷり入ったジャムや果物。友人は蜂蜜や、やはり野菜・果物をカゴいつぱいに。お昼は原村の洋風の素敵な建物で庭には花いっぱいの蕎麦やさんで美味しいお蕎麦をいただきました。ほんとうに美しい村です。

猛暑の続いた今年の夏も、季節は晩夏から秋へと移ります。鳳仙花や草花、麦畑の白い花……高原の風と花を皆さまにお届けいたします。

横須賀美術館『運慶』

皆さまは、このコロナ禍をどのようにお過ごしでしょうか。はじめの頃は”1年くらい我慢をすればいいのかしら”と思った方が多いのではないでしょうか。私もそうでした。まさか、このように長引くとは…。自粛もあり始めは緊張もしておりましたが、「でも、最大限、気をつけて”日常生活”はなるべく変わらずに続けることが大事」と私は思いました。

ですから、早朝の1時間半の山歩き。東京でのラジオ収録。そして、映画・美術館の鑑賞。どこも、最大限の注意をはらい、換気、消毒など対応している状況を見て安心して見に行っております。なぜならば、閉じこもってしまい、精神的に疲弊することのほうが良くないと思ったからです。

どんなに気をつけていても、”もしも”はあるかも知れません。でも、私のような高齢者!になると一番の心配は筋肉の衰えです。骨折はとてもコワイです。そして、外の空気に触れないと好奇心も衰えます。友人たちとの会食はしばらくは我慢して…でも、その分手紙の交換、ラインでの”飲み会”、メールでのやりとり、と新たな楽しみも生まれました。ですからこのブログでも、映画や展覧会のご報告もしております。

先日、久しぶりに娘と鎌倉で合流し、彼女の車で「横須賀美術館」に行ってまいりました。普段は仕事の関係もあり別々が多いのですが、たまたま「私も見たいと思っていたの」と娘。一緒に出かけました。

何度か横須賀美術館は行きたいと思いながら、チャンスがなく今回初めて車で行きました。我が家からバスで1時間で小田原に着き、東海道で、と”小さな旅”気分。横須賀美術館は観音崎公園内にある美術館。目の前には東京湾。後ろは観音崎の自然の森という環境の中でアートが楽しめます。別館では週刊新潮の表誌絵で知られる谷内六郎作品も見られます。

十二神将像や宗元寺瓦など横須賀ゆかりの文化財の里帰りが実現!とありました。12世紀末から13世紀初頭にかけて活躍した仏師・運慶。奈良での造仏はよく知られていますが、鎌倉時代に関東での仏教彫刻を私はあまり知りません。

入り口を入ると運慶作「不動明王立像」「毘沙門天立像」(1189年 国指定重要文化財)が迎えてくれます。2メートル以上あるでしょうか。運慶らしい力強さと繊細な彫り。

会場を進むと鎌倉時代の「観音菩薩立像」も素晴らしいですし、三浦半島の歴史と文化をあまり知らない私は三浦一族の造仏を見ながら、運慶が鎌倉幕府という新政権と密接に結びつき、東国での活躍の場を得たことを知りました。もちろん”運慶工房”の作品が中心ですが、運慶のエネルギーには圧倒されます。

じゅうぶん堪能した後には楽しみにしていた、隣接しているリストランテアクアパッツァの日高良美シェフが料理長をつとめる「横須賀アクアマーレ」でランチをいただきました。美術館開館と共にオープンしたレストラン。お勧めです。ランチセットが手ごろな値段でいただけます。しかもとっても美味しいのです。東京湾を一望できるガラス張りの店内。私は地元食材を使ったサラダ&パスタをいただきました。外では風を感じながらビールを飲んでいる中年の方々。コロナ禍でもこうした楽しみ方は素敵だと思います。

そうそう…私の小さな旅のお供の本選びも楽しみのひとつです。列車の中で読む文庫本。今回は『少しぐらいの嘘は大目に 向田邦子の言葉 (碓井広義 編)』帯には”女はあんまり謝っちゃダメよ”

大好きな女(ひと)です。
最後に向田邦子さんのエッセイから

帰り道は旅のお釣である。
残り少なくなった小銭をポケットの底で未練がましく鳴らすように、
「ああ、終わってしまったなあ」軽い疲れとむなしさ、わずらわしい
日常へともどってゆくうっとうしさ。
それでいて、住み慣れたぬるま湯へまた浸かってゆくほっとした感じがある。

「小さな旅」より

横須賀美術館公式サイト
https://www.yokosuka-moa.jp/archive/exhibition/2022/20220706-696.html

東北へのまなざし

東京駅のステーションギャラリーで「東北へのまなざし」展が9月25日まで開催されています。ドイツ人の建築家ブールーノ・タウト(1880~1938)。民藝運動を展開した柳宗悦、ペリアン、今和次郎など、東北と縁が深い人たちの”想い”を知る展覧会です。

1930年代以降はモダンとクラッシック、都会と地方がゆれ動いた時期とも言われています。東北には豊かな文化があり、そこに生きる人びとの生活に魅せられた人たち。1933年に来日したタウトもそのひとりです。

私がブルーノ・タウトの名前を知ったのは「桂離宮」の本でした。その文章により”日本再発見”をしたのです。タウトは「キレイ」という言葉をよく使ったそうですが、桂離宮や伊勢神宮の美、そして農村文化にも魅かれたそうです。

雪国の秋田には何度か訪れ祭りや風景、人びとの暮らしに深く共感し、柳宗悦、バーナード・リーチたちとも交流を深めていきます。地方の工房や農民や漁師の間に残っている優れた技術と形を保存、蒐集し後世に残そうとしました。

しかし、タウトの考える”美”と柳宗悦たちの考えには多少の違いがあり、結局、両者はお互いに好意を抱きつつも、それぞれの道を歩むことになったのです。

私は今回の展覧会で見たかった、知りたかったことの一つはタウトと柳の書簡でした。タウトが日本文化に寄せた鋭い観察と愛情、そして「日本の心」を知りたかったのです。

タウトが日本を去るときのパーティーでは柳が英語でスピーチをし感謝を述べたそうです。タウトは日本を後にし、アンカラの国立芸術大学建築家主任教授として赴任しますが、イスタンブールで急逝します。享年59。

展覧会では死後に日本の友人に託された日記、アルバムや原稿など遺品が展示され東北への足跡をたどることができます。タウトがデザインした「椅子」や「パウダーケース」も見ることができます。

一方、柳宗悦は20回以上東北を訪ね「驚くべき富有の地」と語り、蓑・刺子・陶芸などを蒐集し、染織家の芹沢桂介や棟方志功の作品、東北の玩具(こけしを中心)など素晴らしいコレクションです。こうして先人たちが私の水先案内人になってくれて私の「東北への旅」が始まります。

私は東北への憧れがありました。  

朝きよらかな鳥海の 雄姿を仰ぎ伸びゆくところ
豊かな大地に先人の たゆまぬ努力を受けつぎ励む

町民歌にある通りの町。本庄市の南に隣接し、三方を鳥海山麓由利原の高原に囲まれ、中央部に楕円形の美田を抱える。その美田を囲むように集落が点在しています。(2005年3月22日に由利郡西目町は本庄市合併により「由利本庄市西目町」になる)

日本が高度成長をとげ、列島の風景が大きく変わり、高速道路が走り集落の様子も変化を遂げていきました。 秋田のどこかで、しんしんと降りすむ雪のように糸を布に刺す女(ひと)がいる。いつかお会いしたいと思いながらすでに十年の歳月が流れていました。40年ほど前のことです。雪の季節になると、いつも必ず、その本でみた刺子が窓の外の雪の降りしきるさまと重なるのです。

私は、長いこと夢みていました。刺子をさすその人の手元を飽かずにみつめていたいと。石塚トクエさん(当時81歳)、刺し子の名人にお会いしたら、その手を見せていただこうと思いました。

うかがった日の秋田は、小春日和の冬でした。田を囲む集落に建つ家々は、すっかり冬ごもりに入っていました。刺子の名人は、暖かな家庭の和の中に、まあるく座って手を動かしています。ぽかぽかと暖かいおばあちゃんの部屋にはきちんと整頓されたお針箱がありました。

昔々から、農家の娘たちはせっせと縫い物をしつけられました。手先の器用な娘は、いい嫁さんになる資格を持っていることになります。昼は田畑で働き、夜は刺子を刺したり、縫い物をしたりで働き通し。私の母もそうでした。

野良着、手甲、脚絆…六年生のとき、麻の葉を刺して甲をもらった少女は、針と糸が人生を織り成していく道具とは気づきませんでした。一家中の野良着の始末が、当時はたちで嫁いだ石塚さんの手にかかっていました。ランプの下で、せっせせっせと針を運びました。

戦争中もそうでした。戦後の暮らしも、針と糸で支えてきました。 自由を得た私たち。でもいま、心の片隅でしきりと針と糸のある暮らしも恋しいのです。手を動かしているのが分からないうちに、布の上に糸が走ります。

「肩懲りしませんか?」と私。
”肩こりなど、したことがない”と。

なるほど、どこにも力む感じがしません。

”手にも、目にも、むりをさせないことがいいんだと思います。手は自然に動くし、目もジーッとこらしてみつめるのではなく、流れを追う感じ。そのかわり、少し暗くなったら、もう仕事はやめます。”

”浜さん、子どもは叱ってもダメ。ほめてほめて、育てた方が、いいなぁ”

”息子、嫁、孫、孫の嫁、ひ孫……そのみんなが宝物。宝物のために、刺し子してるんす”と。

子育て真っ只中にあった私。石塚さんのように肩ひじはらず生きていきたいと心底思いました。石塚家に別れを告げて、夕暮れの田の道を行くとき、雨が雪に変わっていました。夕暮れに舞う雪が、刺し子に見えます。果てしない空を一針一針、踏みしめるように生きるしかないことを、石塚さんの刺し子が教えてくれたように思いました。  

ブルーノ・タウトも柳宗悦も見た「東北の風景。」先へ先へと急ぐ私たち。伝統と近代。私たち日本人は”按排(あんばい)をどの国の人よりも大切にしていると思うのです。

東京ステーションギャラリー
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202207_tohoku.html

沖縄の美

東京駒場の日本民藝館で「復帰50年記念 沖縄の美」展が8月21日(日)まで開催されています。

琉球王国として独自の文化を形成してきた沖縄。このブログにも何度か沖縄の工藝については書いてまいりました。今回の展覧会では館蔵する紅型や織物、陶器など、特に沖縄離島の織物など、八重山上布や宮古島の紺絣、久米島の鮮やかな黄色地の絹織物など、勿論私の好きな花織など島々の織物を一堂に見られます。

柳宗悦が初めて沖縄を訪問したのは1938年。以来、4回にわたり工芸調査や蒐集を重ね「沖縄の美」を紹介してきました。そして「美の宝庫」であることを世に紹介してきました。

私自身、この民芸館には何十回訪れたことでしょうか。何度見ても感動する「てぃさあじ」。漢字で書くと「手」。女性が兄弟や想い人のために、旅の安全や健康を祈りながら心を込めて作り贈った布です。いろいろありますが、日本民藝館に所蔵されているてぃさあじは芭蕉布が多く、命をかけて漁に出る男達に贈った手拭いのような布。華やかさのなかに温もりがあり、女心がよく現れています。大好きな織物です。

民芸館の正面の階段を上り、シックな長椅子に腰掛、私はしばし、「なぜ、こんなにも日本の手仕事が好きなのかしら?」と思いました。

昭和18年11月。私は東京・亀戸で段ボール工場を営む父と母のもとに生まれました。父は九州八代の出身、母は三重県伊勢の出身です。父は出征し、空襲の続く下町で母ひとりで奮闘することが、どんなに大変だったか、想像にかたくありません。乳呑み児の私を背中に背負い、小さかった兄の手をひきながら、工場を見回り、女工さんたちと働くという日々でした。

いよいよ戦火がはげしくなり、下町の人々がどんどん疎開を始め、私たち母娘もとにかく疎開することに決めたのです。女工さんたちにも早く帰るよう言い残し、母は二人の幼子の手をひいて親戚のいる神奈川へ疎開しました。あの東京大空襲の前夜のことでした。工場の留守を守った女工さんたちは、工場もろともその夜、亡くなりました。たった一日の違いが、女工さんと私たち家族の運命をこうもひきさいたのでした。

東京の空が赤く燃えるのを、母は身をもがれるような思いでみつめたと後に語っていました。私たち家族は女工さんにいのちを分けていただいたのでした。戦後、父は復員してきましたが、戦後の混乱のさなか、なかなか立ち直れず、母が仕立て仕事をしながら私たちを育ててくれました。

手先の器用な母は、仕立て仕事の腕もよく、大変忙しくしていましたから家事の多くを5~6歳の私にやらせました。お米のとぎ方、かまどの火のこと、おかずの心配…貧乏のつらさにうちのめされそうになると、母は私に聞かせたものです。「あの女工さんたちの尊いいのちとひきかえに得たいのち、それがあなたのいのちなのよ。大切にしなければ……」貧乏のつらさにうちのめされそうになると母は、私にこの言葉を聞かせ、そうして自分にムチ打って生きてきたのでしょう。

甘えたい思いも強くありました。でも、口には出すべきではないという私なりの意地がありました。子どもらしくない子どもだったのです。私はしっかりした、よく手伝えるお姉さん。しっかりお手伝いしなければいけない…。あれはたしか6歳だったと思います。

七・五・三を前にして母は、赤いキモノを私に着せたくて、それこそ夜なべして赤いキモノを仕立ててくれました。ところが私は、そのキモノが好きになれませんでした。なぜなら、女の子は赤、ときめつけ、私の意志でなく母の意志のもと勝手につくられてしまったそのキモノは、私を無視しているというふうに受け止めてしまったのです。

私は母に着せられた赤いキモノ姿で外へ飛び出し、ペンキ塗りたてと書いた青い塀の前へ、ペタンと全身ではりついたのです。今思い出しても、なんて可愛くない子だと呆れてしまいます。なんとも勝気な六歳の私が、遠景の平野にぽつんと立って頑張っている図が浮かびます。  

民芸館の椅子に座りながら幼かった頃の私に出会います。 沖縄の女性には特別な霊力があるといわれます。「オナリ神」信仰があり、女性は家族や恋人への無事を祈り思いを込めて織った「てぃさあじ」はまさに沖縄の美であり、温もりであり、手仕事ならではの美しさです。心豊かな午後のひとときでした。

日本民藝館
https://mingeikan.or.jp/exhibition/special/?lang=ja

映画「エルヴィス」

遥か昔の思い出を、つい最近の出来事と思い込んでいた。暫くぶりに、そんな体験をしました。『エルヴィス』。引き寄せられるように、日比谷の映画館に足を運びました。  

エルヴィス・プレスリーに歓声をあげて興奮したわけではありませんが、彼こそがアメリカなのだ!あの国の若者の象徴なのだ!と納得していた時代が、私にもありました。1960年代でした。それから半世紀以上、私の”エルヴィス像”はその頃のまま、ほとんど変わりませんでした。  

エルヴィスはアメリカ南部のミシシッピ州で生まれました。日本の年号で言えば、昭和10年でした。今以上に人種差別の激しい時代、そして地域でありました。しかし、エルヴィスには、それを包み込もうとする音楽的感性や、精神的な柔軟さが備わっていたようです。

10歳の頃から地元の”のど自慢大会”に出演したり20才を前にレコードデビューも果たしました。下半身を振り絶叫する。黒人文化を思わせるようなエルヴィスの仕草と存在そのものが、当時のアメリカ南部の保守層には許せないことだったのです。「逮捕する!」と警察に脅されたエルヴィスが、こうした社会の空気や圧力にどのように抵抗していったのか。この作品には、その様子がドラマチックに再現されています。  

エルヴィスを演じたのはオースティン・バトラー、31才。彼は出演が決まってから2年間、家族や友人との接触を断ち、役作りに専念したそうです。その大変な決意がスクリーンでは、見事に花を咲かせました。

そして共演は、アカデミー主演男優賞を2年連続で受賞したトム・ハンクス。エルヴィスのマネージャーの役を演じました。しかし、この役は共演というよりも、もう一人の主役という意味合いが強かったです。エルヴィスという素材を大切にしながら、いかにビジネスとして成功させるのか。エルヴィスとの衝突を覚悟して、プロの役割を貫きました。  

この映画の監督は、『華麗なるギャッツビー』のバズ・ラーマンでした。綿密に計算されたドラマ仕立てとドキュメンタリーの匂いが同居していて、不思議な魅力に溢れた世界が広がっていました。  

この作品の最後は、エルヴィスが歌い上げる『アンチェインド・メロディー』のコンサート・シーンが流れます。アンチェインドとは、鎖につながれていない!自由に羽ばたく!という意味が込められているようです。人生の最後まで求め続けたエルヴィスの理想を、ラーマン監督は何としてでも強く訴えかけたかったのでしょう。

多少むくみの目立つエルヴィスの表情が、心震えるほど迫ってきました。  

客席は中高年の方々で、ほぼ満員でした。しかし、20代の若者たちの姿も目につきました。自分たちが生まれる前の大スターの生き方や時代精神を、今の彼らはどう受け止めたのでしょうか。   エルヴィスが僅か42才で亡くなってから、もう45年が経ちました。8月16日の命日が間もなくやってきます。

映画公式サイト
https://wwws.warnerbros.co.jp/elvis-movie/