『週刊朝日の休刊に想う』

街道への誘い(いざない)

先月末、100年を越す歴史に休止符が打たれました。

私が民藝に魅せられ、日本文化の源流を知りたいと各地を歩き回るきっかけとなったのが「週刊朝日」でした。その誌面で作家の司馬遼太郎さんが1971年から連載を始めた”街道をゆく”は、四半世紀も続いた”大紀行文学”です。日本各地の風土や人々の暮らしぶりを訪ね歩き、司馬さんは、この国の来し方、行く末を見定めようと”行脚”したのですね。

私は”街道をゆく”に背中を押されるように飛騨路を巡りました。「飛騨古川の町並には、みごとなほど、気品と古格がある。観光化されていないだけに、取りつくろわぬ容儀や表情、あるいは人格をさえ感じさせる」と司馬さんは表現しました。

そんな空間に身を置き、同じ空気を吸ってみたい。私の”街道の旅”は、そうして始まりました。飛騨・古川を繰り返し訪れるうちに多くの方々と知り合うことができ、そのお付き合いは今も続いています。私の人生で、そうした出会いや繋がりが広がったのも、”街道をゆく”のおかげでした。それは偶然であり、必然でもあった導きなのでしょう。

この作品には、”挿絵”(さしえ)が不可欠でした。洋画家の須田剋太(こくた)画伯は連載のスタートから挿絵を描き続けました。司馬さんは、20歳近くも年長の画伯を慕っていたのかもしれません。私は文章と挿絵に引き寄せられて各地に足を運んだことも多かったのですが、近江の朽木(くつき)街道は素晴らしいものでした。一面の紅葉が天と地を燃やし尽くしているかのように、しかも、鄙びた風情も醸し出す街道は忘れられません。司馬さんの旅に同行した須田画伯の挿絵と重ね合わせて、まさにお二人の”共同表現”だったことを実感しました。

その画伯とは、京都の骨董店「近藤」でたまたまお目にかかることができました。画伯の作られた陶板”旅”は、今も箱根の我が家で静かな力強い光を放っており、”私自身の旅”を見守っています。

司馬さんとの20年にわたる歴史を積み重ねて、画伯は84歳で亡くなりました。それから更に6年間、司馬さんの精力的な取材・執筆活動は天寿を全うするまでくりかえされました。

そして、その最後の時期の大半を挿絵で支えたのが、安野(あんの)光雅さんでした。山陰の小京都ともいわれる島根県の津和野で生まれ育った安野先生は、永年にわたり教育者として学校で指導した後、水彩画の世界で活躍されました。後になって先生は、私が司会を務めたラジオやテレビの番組に、解説で何度もご出演いただき、山々や盆地、そして自然の営みの素晴らしさを楽しげに語ってくださいました。

いま振り返ってみれば、”街道をゆく”は、司馬さんがこよなく愛した”原風景”だったのでしょう。

「週刊朝日」の創刊は1922年、その翌年に大阪で生まれた司馬さんは、いわば”同世代の仲間”でもあったのですね。司馬さんは47歳で連載をスタートし、25年間も歩み続けました。私は若い頃から「週刊朝日」そして”街道をゆく”の愛読者でしたが、1979年1月には表誌に登場させていただきました。まだ若き日?の私、司馬さんの連載が始まって8年後のことでした。

撮影/篠山紀信
朝日新聞出版に無断で転載することを禁じる(承諾番号23-1281)

「週刊朝日」を軸にした司馬さんや須田画伯、安野先生、そして各地の”街道の友人”たちが忘れられません。その頃の文章や絵、そして会話が途切れることなく目の前に現れ、耳に響きわたるのです。

とても懐かしく、やはり寂しい、「週刊朝日」とのお別れの晩春でした。

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