3月3日はラジオ収録のため東京に出かけ、その帰りに楽しみにしていたのが、根津美術館の特別展「虎やのひなまつり」展でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため2月29日から3月16日まで全館休館となりました。
8年ほど前に観に行きすっかり魅せられてしまい楽しみにしていたのですが、仕方がありません。和菓子の老舗、虎屋十四代店主・黒川光景が長女のために揃えた雛人形と雛道具。明治中ごろの作品で気品高い面差しの”おひなさま”です。
私にとっての、永遠に解決されることのないコンプレックス。それは、おひなさまを持っていないこと、といったら人は笑うでしょうか。
春は一年のなかで一番希望に燃えて、特別好きな季節のはずなのに、三月三日、桃の節句のその日だけはいまでも、胸に小さな痛みを感じる日なのです。
昭和18年、あの戦争の真っ只中に生まれたせいもあり、子どもの頃の私の家におひなさまはありませんでした。終戦後も、日々を生き抜くことで精いっぱいの両親は、ひとり娘の私のために雛人形を買ってやるなど望むべくもなかったのでした。
あの頃は、学校のお友だちの家々でもひな祭りの日に立派なお人形を飾っている家庭のほうがむしろ珍しい時代でしたが、それでもその日になると、「私の家には雛人形がない」ということが、私の胸にたまらない寂しさをさそったのです。
それは、お友達の家にはあるのに私の家にはない、といった他人と比較して貧しさに対するコンプレックスではなく、いまから思えばもっと心の根っこの方で渇望していた、根源的ともいえる寂しさだったような気がします。
少女の心というものは、自分が直接手に触れたり垣間見たりしたことのないことでも、本で読んだりしたことのなかにとても魅力的なものがあれば、それに対してはてしない憧れや夢想を広げます。
私がどんなに逆立ちしても手に入れることのできないもの、それはひなまつりの日の五段飾りの雛飾りに象徴される、古い「旧家」のイメージでした。
三月三日が近づくと、お母さんが押入れの奥にしまっておいた箱のなかからお内裏さまやおひなさまを出しているイメージ。白いやわらかな紙に包まれた三人官女や五人囃子の人形たちが、一年にたった一度赤い毛氈を敷いたひな壇に飾られる日・・・。
私の目の裏で像を結ぶそんな映像こそ、少女の頃から憧れてやまない、伝統と由緒ある「旧家」のイメージなのでした。
身ひとつで地方からそれぞれ都会に出てきて必死で生き抜いた両親。根なし草の家庭に生まれた私は、自分が決して味わうことのできない旧家の伝統やしきたりに、つきない憧れを抱いていたのでした。
「私はおひなさまを持っていない・・・」という渇望感、そのコンプレックスは、大人になってそれなりの収入を得るようになっても、決して解決するものではありませんでした。
考えてみれば、社会に出て多少収入を得るようになってからというもの、ずっと古い民具や道具ばかり買い集め続けているという私の性癖も、「おひなさまがない」という、少女の頃の飢餓感にその根があるのかもしれません。
子ども時代の私の家にはおばあちゃんの使っていた針さしとか、おじいちゃんの匂いのついている火鉢といったものは何もありませんでした。ルーツというものを持たない私たちの暮らしはどこか心もとなく、私の胸のなかにはいつも音もなくすきま風が吹き続けていたような気がします。
でも、この年齢になって少しづつ私の心は満たされてきました。
1971年生まれの有識御所人形師 伊東建一氏の立雛に出逢いました。江戸時代から続くお父さま十二世・伊東久重さんからその伝統はしっかり次世代の建一氏に受け継がれています。
私の”おひなさま”を飾った部屋で孫たちと一緒にちらし寿司を作りいただきました。心が軽くなってきました。年のせいでしょうか・・・孤独の明るい面を、ゆったりと自覚できるようになりました。
「おひなさま」に想う浜さんの心が伝わってきました。
同じ年代の一人として、それぞれの想いがありますね。
根津美術館は残念でしたね。
我が家のお雛様も段ボールひとつになりました。義妹が作ってくれた紙雛、小さなお雛様今年も飾り、終う事が出来ました。
飾る事が出来たお雛様に手紙を書くようになって10年以上経ちました。今年も飾れました。と。
諸問題が終息して、本当の春が來ることを心から願っています。
郁代
坪井郁代さま
飾りおわって”おひなさまにお手紙を”なんと素敵なことでしょう。
それぞれにとっての想いがございますね。
特別な日に”子どもの頃を思い出す”って好きです。
愛おしくなりますもの自分が。
お便りありがとうございました。
おっしゃるように早く本格的な春を迎えたいですね。
浜美枝