映画『ホテル・ムンバイ』

かつてその町はボンベイと呼ばれていました。50年以上も前の記憶は、今も鮮明です。私は仕事の合間に少しでも時間ができると、躊躇なく旅に出ました。仏教美術、特にガンダーラの仏像に魅せられ、インドへと向ったのです。

”バックパッカー”という洒落た言葉がまだ一般には存在しない頃、文字通り、リュックサック一つで憧れの大地を歩き回りました。

いま、映画「ホテル・ムンバイ」が上映中です。ボンベイは現在、ムンバイに名前を変えました。

2008年11月、ムンバイを代表する「タージマハル・パレス・ホテル」がイスラムの過激派によって占領されました。これは駅や高級ホテルなど、人の多く集まるところを狙った同時多発テロでした。テロリストたちは3日にわたってホテルに篭城しましたが、この映画はその間の模様を、あたかもドキュメンタリーのようなタッチできめ細かく描いています。

宿泊客は多岐にわたりました。生まれたばかりの赤ん坊を抱えた米国人夫妻やロシア人の実業家、画面はそれぞれの人間模様や心の葛藤を丁寧に追いかけます。

理不尽な殺戮が続く中、何とか無事に脱出できたケースもありました。しかし、ホテル内には一時、500人以上が取り残されたのです。逃げ遅れた宿泊者を冷静・沈着に誘導し、その命を守ったのがホテルの従業員、つまり料理長やウェイター、そして電話交換手らスタッフでした。

彼らの献身的な努力で多くの人質は無事脱出、生還することができました。しかし、このホテルだけでも30人以上の命が失われ、そのうちのおよそ半数はホテルの従業員だったのです。

このように甚大な被害を受けたホテルでしたが、事件から僅か1ヶ月後には営業を一部再開されました。それは、テロには決して屈しないという経営者や従業員の決意、そして客からの強い応援があったからです。

この映画の監督は脚本・編集も担当したオーストラリアのアンソニー・マラス。インドとアメリカも加わる3か国の共同制作でした。テロへの怒り、人質への共感、そしてホテルの従業員への賛辞。

心ゆさぶられる2時間は、またたく間に過ぎました。

50年以上前のボンベイ。当時「タージマハル・パレス・ホテル」に泊まることなど考えられなかった私は「せめて見るだけでも」と、1階のラウンジに腰を下ろしました。そして、英国式の本格的な紅茶を注文し、ゆっくりと港を見ながら飲みました。私にとって、それは最高の贅沢だったのです。

機会があれば、もう一度「タージマハル・パレスホテル」を訪れたい。そして、開業以来110年を超える名門ホテルの苦悩と栄光の歴史に心からの敬意を表しながら、鮮明に記憶に残る紅茶の味を、もい一度味わいたいと思うのです。

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