追憶の旅 倉敷

十代の頃から旅を続け、訪ね歩いた町々はいったいいくつぐらいになるでしょう。一人旅で、帰りの汽車賃を心配しての旅もありました。おなかに子どもを宿しての旅。再び子を妊って、一人は手を引いての旅もありました。リュックを背負い二人になった子を連れての旅。やがて三人、四人めの子たちを引き連れての夜行列車やマイクロバスでの旅。なぜ、大変な思いをして旅に出るの?と。私自身、なぜと問われて明確に自分の気持ちを言い表せないのですが、言ってしまえばキザですが、どんな旅の空にも素晴らしい出逢いがあるから・・・なのです。
倉敷の町へ最初に訪れたのは十代の終わりの頃だったでしょうか。
倉敷・・・そこが大層美しい町であるという人伝えの話だけが私のガイドブックだったのです。急行も止まらない小さな町だった倉敷になぜ大原美術館があるのだろう。なぜこの町にたくさんの倉屋敷が建ち並ぶのだろう。この町のある秩序、この町で出逢った一枚の絵は二十代に入ろうとしていた私を今日まで生かしてくれた力だったと思います。そして、恐らくこれからも私の中の”美しさとは何か”を決定しつづけるでしょう。
倉敷をお訪ねする回数が増えるにつれ、私は気になりはじめたことがありました。倉敷の町の掘割の、ちょうど町の扇の要のような位置に素晴らしい趣のある旅館が建っていることに気がついたのです。
その名は「旅館くらしき」意を決して泊めていただいたのは、泊まってみたいと思ってから、十五年も後といえば、あきれられますよね。でも、待ったかいがありました。日本の美を体現しているような静謐な美しさをたたえている旅館でした。私が通されたのは、すがすがしく清められた和の空間でした。太い梁と壁に囲まれた部屋には、障子越しの光りがやわらかく差しこみ、床の間には力強くたおやかな花が生けてありました。


この旅館を取り仕切っていらしたのは、畠山繁子さん。五年前に旅立たれました。繁子さんのことを、いまは亡き司馬遼太郎さんは「旅館くらしきの女将は行を耐えるように倉敷を守っている」とお書きになっています。きれいに櫛のはいった白髪をひとつにまとめられ、白の半襟は、まぶしいほどの白さでした。倉敷の由緒ある仕出し料理の店の娘として育ちご結婚されて間もなく「砂糖蔵を守るためにも”旅館くらしき”をはじめてくれないか」と大原美術館当主の大原総一郎氏にたのまれます。
“繁子さんにお逢いしたい”・・・。そんな思いで旅に出ました。 玄関に佇むとそのお姿が現れます。あなたのいらっしゃらない宿には泊まることはできませんでした。お隣りのカフェであの時と同じようにコーヒーをご一緒にのみながら、たくさんの貴重なお話をうかがったことなどを思い出しておりました。遠い未来を視野に入れ、ものを見つめ、考え、育ててきた繁子さんの心のありようを、すこしでも頂戴したいと思っています。
この頃、このように「追憶の旅」がしたくなります。
放っておけば、美しいものもやがて死に絶えてしまいます。つねにその時代時代の人たちが、風を通し、磨きつづけないと、美は存続し得ないものだと私は思います。
大原美術館では、時を忘れたようにエルグレコの「受胎告知」のほか数々の作品に見入りました。そして隣接している工芸館では民藝の世界に浸れました。


柳の新芽が掘割に美しく映え、川をめぐる白壁の家や倉に初夏の陽が照りかえし、倉敷は変わらない美しさをたたえていました。


倉敷から出雲に行き、出雲大社に参拝し「追憶の旅」はおわりました。

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