幻の料亭・日本橋『百川(ももかわ)』

「食の伝道師」、「発酵博士」など1994年から日経新聞の夕刊に連載されているコラム「食あれば楽あり」のファンである私。小泉武夫先生はなにしろエネルギッシュです。お生まれは私と一緒の1943年。現在は東京農業大学名誉教授、鹿児島大学、琉球大学などの客員教授も勤めておられ食に関わる様々な活動を展開されていらっしゃいます。
これまでの著書に『不味い!』、『発酵は錬金術である』、『猟師の肉は腐らない』、『醤油・味噌・酢はすごい』などがあります。
これほど貪欲に「食」を追及し続ける原点はすでに子供時代からあったようです。「猟師の肉は腐らない」の冒頭に幼いころに食べた「身欠ニシン味噌」の思い出が綴られています。とにかく活発な子供で、いっときもじっとしていられないほど動き回り、ちょっと目を離すと何をしでかすかわからない子供だったようです。障子紙は破る、茶碗や皿は壊す、辺りに落ちているものは何でも拾って口に入れるなど、生傷も絶えたことがなかったようです。
その子供の難問を解決したのが祖母で、悪戯っ子も朝、昼、晩の三度の食事の時には別人のようにおとなしくなり、ただ一心不乱に食べているのを見逃しませんでした。『この孫は食べさせておけばおとなしい。それじゃ、いい手がある』と胴体を二本つないだ帯で縛り付け、その先を柱に結びつけ、帯の長さの範囲だけで動けるようにして、左手に味噌を、右手に身欠ニシンを持たせたそうです。ご機嫌の彼は静かに味噌をつけながらニシンを食べ続けていたそうな・・・。
そうか!発酵食品の素晴らしさを見つけた原点はここにあり・・・なのですね。味覚に対する感覚は幼いころの体験、納得です。
本題にはいりますね。
お話の舞台は、江戸時代の後半、日本橋でにぎわった料理茶屋「百川」です。「百川」は古典落語の演目でもお馴染みですが、確かな史料が少なく、謎が多いと言われています。六代目の三遊亭園生さんの「百川」がよく知られていますが、私は聴いてはおりませんし、柳家小三治師匠のも残念ながら聴いておりません。「百川」を舞台に、奉公人の百兵衛と魚河岸の若い衆がお互いに勘違いして騒動を巻き起こす噺。
場所は今でいうと日本橋三越の向かい側、コレド日本橋と商業ゾーンのYUITOの間を入ったところで、「浮世小路」という文字は今も地図に残っています。「百川」には、「江戸大衆芸能の水先案内人の大田南畝、戯作者の山東京伝、兵学者の佐久間像山、測量家の伊藤忠敬」など、そうそうたる顔ぶれが句会、大酒大食の会なども開催されていたようです。
私が一番興味があったことは、江戸時代のあの界隈のこと。そして、日本の歴史を動かす大事件。1853年6月のペリー来航です。開国して最初の会談の時に、江戸幕府がアメリカ側をもてなす宴の料理を「百川」が請け負ったということ。そのときの献立は?なんでも日米合計500人分。今でこそ「和食」は世界に認められていますが、当時はどうだったのでしょうか?その「百川」が明治に移って、忽然と姿を消します。謎です。
この度、小泉武夫先生は『幻の料亭・日本橋「百川」黒船を響した江戸料理』(新潮社)お書きになりました。まぁ~、よくここまでお調べになられた・・・と感心しきりの私。さすが食いしん坊のセンセイ・・・克明に料理などが記されております。
詳しく伺いたくてラジオのゲストにお招きいたしました。
最後には私たちの日常の暮らしで身体によい食事などもうかがいました。もちろん発酵食品なのですが、先生は毎日「豆腐の味噌汁に細かく刻んだ納豆・油揚げを入れて」召し上がるそうです。
2週にわたり放送いたします。
文化放送「浜美枝のいつかあなたと」
日曜10時半~11時
2月26日
3月5日 放送


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