原発と若狭 水上勉の一滴

日本経済新聞 3月5日の「時流 地流」に「原発と若狭 水上勉の一滴」
という記事があり、その中で水上作品の挿絵や本の装丁を手がけた地元在住の画家・渡辺淳(すなお)さん(80)の企画展が開かれていることが書かれていました。
京都に行くたびに時刻表を見ては湖西線へ飛び乗り、若狭に通い始めたのはもう24、5年前のことです。
それは不思議なご縁からの始まりでした。
三月のある日、信州野尻湖湖畔は、夭折の画家・野田英夫の記念碑建立の
式典で賑わっていました。
そろそろ春の兆しもみえようという頃なのに、一夜にして白銀の冬へ逆
戻り。信じられないほどの美しい雪の舞い方で、降りしきる雪が地に舞い
下りる寸前、氷片となって枝々に付着し、木という木が季節のフィナーレを祝う飾りをつけたかのような輝きをみせていた夜でした。
今は亡き松永伍一先生、「ハラスのいた日々」で読み知っていた(?)中野孝治先生、そして水上勉先生・・・居並ぶ先生たちと同席させていただくことに恐縮しましたが、その話題のあまりに興味深く、尽きない面白さに、しんみりしたり笑いころげたり、心に深く感じること大で、ついつい夜更けまで座に加えていただきました。
美しい若狭に原発ができたこと、水上先生の故郷に「若州一滴文庫」が設立されていること・・・等などお話を伺い「行ってみたい」・・・と即座に思いました。
当時私は800年も続いた集落がダム建設のために水中深く沈む。そのために村を捨てざるを得ないおばあさまと最後の日を共にしたことなどを思い出していました。
人間はなぜ人間の力で抗いえない巨大な文明を持ってしまったのだろう。
一滴文庫へ向かう前にまず、原発へ立ち寄ります。中へ入ることはできませんからゲートまで。あたりの、あまりにも美しい海とのどかな漁村の風景に息をのんでしまいました。
それから私の若狭通いがはじまります。
そんな時に出逢ったのが渡辺淳さんです。
結局、その若狭の地に古民家を移築し、田んぼをお借りして、専業農家の方にお手伝いをお願いしてのお米作りもいたしました。様々なことを経験し、感じ、考えてきました。
都会で働いている時とはまったく別の時計を持ちたくて、若狭という田舎に家を持つことにしたのです。
渡辺淳さんは郵便配達をしながら、炭焼きをしながら絵を描き続けてこられました。若狭の自然を友として暮らしながらいつも素晴らしい絵を描いていらっしゃる渡辺淳さんは、川の魚や虫や、木や草の一本一本と親しく語り合うことのできる人です。現在は子供たちに優しく絵の指導もなさっておられます。
縁側に座り淳さんとのおしゃべりの時間は至福のひとときです。
私たちは今回の福島第一原発の事故に大きなショックをうけました。
新聞記事には「先を急ぐように文明の開発に明け暮れる現代。今こそ足元を見つめ直さなければならない」と語られておられます。そして、杉野記者に別れ際、こんな言葉をかけられたそうです。
『この谷の この土を喰(く)い この風に吹かれて 生きたい』・・・と。
久しぶりに淳先生とおしゃべりをいたしました。
「まだまだ雪の残る若狭、早く蕗の薹の顔がみたいですね」と。
東日本大震災の復興計画が一日も早く前へ進むことを祈っております。