成人の日によせて・・・ “どんぐりに乾杯”

我が家の子ども達はとうに巣立っていきました。
次女が成人の日を迎えた時の写真が仕事部屋に飾ってあります。
そう、あれはその頃の話です。
森を歩くことは人生を歩むことに似ていると、その日もしみじみ思ったことでした。軽井沢の野鳥の森で馬場さんという森の先生にお会いしました。野鳥の名前や習性や木々のはなし・・・。うかがいながら歩く森は、生き生きと生きる森。なかでもドングリの話は、本当に感動的でした。
ドングリの実って、ほら、先がつんととんがって、まあるく台座にのっかっていますね。あの形にはワケがあるのだそうです。
馬場さんのお話によると、こうです。
「ドングリが地面におちるときが種の旅立ちです。どうおちるかで、種の生存、繁栄が約束されます。もしドングリがただまんまるというのでは、溝やくぼみにはまって枯れてしまう。まんまるではないことで、ドングリは遠くへころがっていけるのです。親木の下にいたのでは、葉が繁ってくると成長できません。できるだけ遠くへ飛んでいくことで、ドングリはぐんぐん成長できるのです」
すごい話だと思いませんか。
“親は永遠に思い続ける”
子育てには、3つの段階があるのではないでしょうか。
おなかに命を宿してから、小学校に入るくらいまでは、親にとって子どもは守ってあげなければならない存在です。そして、小学校2~3年生から17~18歳までは親子が共に育っていく時期。子どもは反抗期などを経験しながら自分自身を発見していく時期であり、親はそうした子どもと正面からぶつかり合うことが求められるのではないでしょうか。それから、20~22・3歳までは、子どもが自立して大人になるのを、親は陰ながら見守る時期だと思うのです。
これら「肉体・精神そのすべてを守る→共に育つ→精神的に見守る」という3段階を通して、親は子どもを社会に送り出すことを、私は4人の子育てを通して学びました。そうはいっても、子育ては1本の道ではありませんから、悩んだり苦しんだり、ときには立ち止まったりしました。
子育てを通して、自分の至らなさも見えました。子どもが自立して親の元を離れていくのが、寂しいという人がいますが、私の場合はむしろ安堵感のほうがはるかに大きかった感じがします。そう思えるのは、子どもが巣立っても、母親としての役目は完全に終わるわけではないと思っているからかもしれません。
永遠に親は親であり、子どもの幸せを願い続けるものなのでしょう。
“成人の日”
親は、遠くから「がんばって」と祈るだけでいいのではないでしょうか。それ以上の親の介入は、子どもにとって障壁になりかねないものではないでしょうか。 ”ドングリの世界のように”