浅川巧の功績をたどる

民芸運動の創始者である柳宗悦に朝鮮の器や道具類の美しさを紹介し、「用の美」への目を開かせたのは、浅川巧(1891~1931)だといわれる。私が巧を知ったのは12年前のことだった。
朝鮮総督府の技師であった巧は、緑化運動に成果を上げるかたわら、朝鮮民族文化の美を見いだし、朝鮮陶磁器の研究家である兄・伯教(のりたか・1884~1964)と共に朝鮮半島の何百もの窯跡を調査した。そして「朝鮮陶磁名考」といった本を著し、日本に紹介した。さらに、朝鮮工芸品の保存の必要性を感じた兄弟と柳らは、私財を投じて収集を重ね、24年に現在のソウルの地に300点を超える工芸品が展示・保存された美術館を開設した。
巧と同様、朝鮮の白磁に強くひかれている私は、その後、韓国の友人の助けを借りて、彼の足跡をたどり始めた。
巧がそうであったように、韓国の暮らしを体験してみたいと、友人の家の一室を借りて2年間通ったこともある。オンドルの部屋で眠り、下町の銭湯に通い、市場では韓国のお母さんたちに混じって買い物をした。そして巧が見たであろう山や川を目に焼きつけ、風のにおいを感じた。偶然にも、友人の家が、巧が眠る忘憂里(マンウリ)の丘からすぐだったため、しばしば巧のお墓参りもさせていただいた。
ひとつ思ったことがある。それは朝鮮の美は民族の歴史と無縁ではないということ。何度も戦いにさらされてきた朝鮮の人々は、そのたびに辛く激しい感情を味わっただろう。その激しさが昇華して心の中に現れる静けさ。それが李朝の家具や白の清廉の美につながったのではないか。
李朝白磁のつぼがかたどられた巧の墓の傍らに「韓国の山と民芸を愛して、韓国の人の心の中に暮らして生きた日本人。ここ韓国の土となる」とハングル文字で刻まれている。民族の美はその民族固有のものであるが、国境を越え、その美を味わい、敬愛することはできるのだ。美というものは、変わることなき、人類の共通言語だと感じる。
(朝日新聞4月11日掲載)

「浅川巧の功績をたどる」への1件のフィードバック

  1. 浜美枝様。
    浅川巧のふるさと山梨より、初めてメールしております。
    私どもは甲府市在住ですが、長男が巧の生家の有る北杜市の中学校に通学しております。
    山梨では唯一の公立中高一貫校の進学校ですが、特色の有るゆたかな教育方針を持ち、その中でも演劇活動は特に力を入れております。昨年の文化祭で太平洋戦争下の沖縄、ガマという防空壕の中で空襲をうけ、戦争の犠牲になった若者の姿を演劇にし、見事に演じきりました。
    その演劇をご覧になった浅川巧をしのぶ会の方々の依頼で、先月6月に、種をまく人 浅川巧 という題で「白磁の人」という著書をもとに演劇を作成、上演しました。
    巧が愛した陶磁器、朝鮮の自然、文化にふれ、柳宗悦との出会い、友情も描かれ、とても感動的な作品となりました。
    私どもの長男は柳宗悦を演じたので、目黒にある日本民藝館をたずねてみました。
    もともと器や、着物などがすきだったので、素晴らしいコレクションの数々に目を見張りました。
    たまたま縁があってであった浅川巧の世界。浜美枝さんの記事にも出会えました。箱根の ‘やまぼうし‘も知ることが出来ました。いつかお邪魔させていただきます。
    さまざまな文化を知ろうとするときには、そこに素敵な尊い出会いがあるものだな、と、感じております。
    ちなみに 北杜市立中学生徒による 演劇 種をまく人浅川巧 は
    話題を呼び7月13日に巧の生家北杜市高根町の浅川巧資料館ホールにて再演されることとなりました。
    親子ともども、学業だけではなく、人間の心の本質や、豊かな人生 などということも考えながら与えられた環境に感謝する毎日です。突然のお便りで失礼致しました。
    山梨県甲府市堀内沙知子

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